「じゃあ…行ってくるね?」
「うん。楽しんできて。」
俺と馬場は玄関の前に立って藤林一家を見送っていた。
口だけで笑い、手をひらひら振って、内心、羨ましく思っている心を隠して送っていた。
一緒に行きたいけど、やるべき事があって行けないという心を。
そして藤林一家は、申し訳なさそうな顔をしながら玄関のドアを閉める。
藤林一家のお父さん、お母さん、そして更に藤林 美郷は、四泊五日の旅行へ出発していった。
どうしてこんな展開になったんだっけ?
あぁ、強運の持ち主の藤林が、福引で一等賞の旅行券を当てたからだったか…
冬休みに入って一週間ぐらいが経った頃だったかな。
「すごいよ澤村くん!
私、福引の一等賞の旅行券、当てちゃったよ!」
「え…マジで?!」
藤林は買い物から帰ってきて、買い物袋を置くなり言ったんだ。
あの時の藤林は、顔をぱぁーっと輝かせて笑っていて、四枚の旅行券を見せてきたなぁ。
「なんか、藤林ってすごいラッキーだよね。
この前のビンゴもすごい勝ち方してたし。」
「いやでも、あの時は澤村くんが勝ってくれた方が、私はラッキーだったんだけどなぁ。
あ…も、もちろん澤村くんが、ビンゴを無効にしてくれるって言ってくれたから、ね…?」
俺はそう言われて少し照れてしまう。
反対に馬場は不満そうな顔をしてたけど。
「それでその旅行券って、期限はいつまでなの?」
馬場が雰囲気をぶち壊そうと口を挟んだ。
藤林は旅行券を見ながら答える。
「えっと…今月末までだよ。」
「「今月末?!」」
俺たちは揃って声を上げた。
あぁ…なんてこった…
もう既に楽しい観光、眺めの良い露天風呂、風呂上がりの卓球…と言った楽しい旅行に想像を膨らませていたけど、
それがもう、針を刺されたみたいに綺麗に萎んでったよ…
「ど、どうしたの?もしかして、旅行行けないの?」
そう訊いてくる藤林に、俺は落胆の表情で説明する。
「藤林はもう止めたけど、俺たちだけはまだバイト続ける事にしたろ?
調査しないといけないんだけど、ずっと居候してるから、少しでもバイトして金を返そうとしてさ。
そのバイトがもう、今月末までずっと入っちゃってるんだ。」
「ほ、本当に…?」
藤林も途端に表情を変える。
藤林は旅行に行けるのに、まるで自分の事のように顔を曇らせる。
「ど、どうしても行けないの?」
「無理そうだね…休みをもらおうと思っても、雇い主が厳しいからさ…」
馬場がそう言うと、藤林は俯いて黙ってしまった。
自分たちよりもむしろ、藤林の方が落ち込んでいる。
「澤村くんと、馬場くんと一緒に旅行行きたかったなぁ…」
「そ、そんなに落ち込むなって。
ほら、俺たちは行けないけど藤林は行けるんだからさ…」
「…うん。」
そうして今に至って、俺たちは二人で留守番をしているのだった。
最近、進んでいなかった異界の脱出方法の調査を、バイトの時間まで進めているのだけど、なんだか二人だけの家はとても静かに感ぜられる。
騒がしい馬場も、調査をしていると静かになるから、家はまるで図書館のような空間になっていた。
しかし俺は、こんな空気に身が痺れてきていた。
一人の時はこんな沈黙は慣れているのだけど、いつも騒がしい馬場がいるのに静かな空気を吸う、という事が、何故か心が落ち着かないんだ。
きっと馬場はうるさくて面倒くさくて、馬場だけに馬鹿な奴だという印象が強いからだろう。
馬場にはニヒルが似合わないからだろう。
だから俺は、馬場に気になっていた、ある質問をしてみる事にした。
俺は本を置いて、馬場に尋ねる。
「…馬場。どうして馬場は元の世界に帰りたいんだ?」
いきなりの質問に、馬場は何故か少し慌てて答えた。
「な、何言ってんだよ…
俺達は、この世界の人間じゃないから元の世界に帰る。それだけの事じゃんか…」
「いやいや…お前のその真面目振りはおかしい。
何かそれだけじゃない理由があるんじゃないのか?」
馬場は「うっ…」と短く唸る。
どうやら図星のようだ。
「えっと…それって答えなきゃダメ…?」
「ダメ。答えろ。」
「なぜ強制…」
馬場は本を広げたまま、黙って言うか言うまいかを悩んでいる。
ふぅん…なんか、理由が馬場の秘密に繋がっているみたいだ…
馬場の秘密って言ったら、どうせエロ本の隠し場所とかそんなもんだろうけど、それでも少しは興味はある。
どうにかして吐かせてやりたい。
「さ、澤村だってそんな理由があるんじゃないのか?
澤村から言えよ。そしたら、俺も言うからさぁ…」
「俺は言ったじゃん。
俊太郎をこの世界に戻したいからだって。」
「…本当に、それだけ?」
「ん〜、そうだな…
家族とか聡美とか、友達には会いたいかな。
自分は大丈夫、楽しく暮らしてますって事を教えて、安心させてやりたい。」
馬場は珍しく真剣に聞いている。
俺は話を続けた。
「でも、俺はこの世界の方が好きかもしれないなぁ。
この家にずっと居たくて、暮らすのがなんか、楽しいんだ。
藤林と、葛城と五十嵐と…それとお前とさ、思い出作っていくのが楽しいんだ。」
馬場が珍しく真剣な顔をするから、俺は思わず本音を語ってしまっていた。
藤林と葛城と五十嵐と、まではいい。
馬場まで入れて一緒に思い出を作りたいなんて、普段は絶対に言わない。
うわ、やっぱり言わなきゃよかった。
言った後になってすごい恥ずかしくなってきた…!
「…わかったよ。俺も話すよ、元の世界に帰りたい理由。」
そんな俺のマジトークを聞いて決めたのか、馬場は少し笑って言った。
しかし、馬場は急に真剣な顔をすると本を置き、真っ直ぐ俺を向いて次の言葉を言い放った。
「俺、桑林 聡美が好きだから、帰りたいんだ。」
「…えっ?」
俺は馬場が冗談を言っている、そう思った。
でも馬場は、ここ最近で記憶がないくらい真面目な顔をしていた。
馬場の言っている事は本当だったんだ。
「マ、マジで…?」
「マ…マジだ…」
「本気で好きな訳…?」
「本気だ…大好きだ…」
その時、俺の心の中では、正体不明の不快なものが渦巻いていた。
藤林と俊太郎の事を考えた時と同じ感情が渦巻いたんだ。
訳がわからない。
どうして今、こんな気持ちになったのか。
どうして藤林と俊太郎の事を考えた時も、こんな気持ちになるのか。
わからないけど、俺は笑って話を続けようとして、その気持ちを心の奥に押し込む。
「い、意外だな…お前が聡美を好きになるなんてさ…」
「うん…澤村に話しかけたのも、実は最初は、桑林と仲が良い澤村ってどんなやつなんだろう、って思ったからなんだ。
でも話したらお前、結構面白い奴で、連むと楽しかったんだ。」
「…ふぅん、そう。(T△T)」
「こらぁそこ!嫌な顔をすんじゃねぇ!
本音で話し合うんじゃなかったのかよ!」
嫌だな…俺は馬場とこれ以上連みたくない、というのは表面上だけの気持ちで、本当は少し、嬉しかった。
ただ馬場…俺は普段、お前には突っ込んだり、罵ったりしかしていない。
それなのに楽しいなんて、お前はマゾヒストだったんだな…
「でも…澤村、お前が桑林の事を好きなんだと思ってて、桑林とお前が両想いなんだと思ってて、ずっと言い出せなかった。
お前が羨ましくて妬んだりした。
だからさっき、本当はこの世界に居たいって言ってくれて、嬉しかったんだ。
桑林を想ってていいんだ、って安心したんだ。」
「ば、馬鹿言うな。
俺が聡美…いや、桑林を好きな訳ないだろ。」
とは言うものの、俺はずっと胸の不快感を抑えている。
でも、俺は不快感の他に、今は違和感を心に感じていたりもした。
不快感の正体は多分、馬場が聡美を好きと言った事が原因なんだろうけど、
でも藤林の事も好きと言われているような気がするという、今まで一番おかしな感情を感じたんだ。
「…頑張れよ。俺もその為に頑張るから。」
「うん。」
でも俺は、今はそう言うしかなかった。
俺の頭が混乱していて、あまり気持ちが込もってなかったけど、そう言うしかなかったんだ。
そこで馬場との会話は終わり、再び黙って調査を再開したけど、俺は調査に集中できず、ずっと気持ちの整理をしていた。
何故か俺の頭は、藤林と桑林で混同していて、二人の笑った顔が頭に浮かんで離れなかったんだ。
それだけでなく、俺の頭の中でその二人の顔が重なって見えたんだ。
そこで俺は初めて気付いた。
この二人は似ている、と。
性格は真逆だけど、内面に秘めた優しさや、雰囲気などのが似ていると。
でも、藤林家のみんなが旅行に行っている五日間で気付く事は、まだまだあったのだ。
その気付く事は、俺の人生を大きく変えてしまうほどに大事なものだったのだ。
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「はぁ……」
藤林が旅行に行ってから三日目。
俺は退屈していた。
いや、退屈というより鬱屈だろうか。
とにかく藤林とその両親がいなくなって、俺は日々を空虚に感じていた。
テレビを見て気を紛らわそうとしても、ゲームをして紛らわそうとしても、藤林の事を考えてしまって集中できない。
冬休みの宿題なんて真っ平だ。
更に聡美の事も考えてしまい、俺の頭は参ってしまって今、ベランダに立って近所を眺めている。
「はぁ……」
多分、聡美がいなくても大丈夫だったのは、聡美に似ている藤林がいてくれたからだろう。
昨日一日考えて、いつものように笑っていて、女の子っぽい藤林の方が好きだと自分の気持ちに気付いたのだけど、聡美も好きだったんだ。ずっと前から。
乱暴でお節介なのが珠に傷だが、そんな聡美にも藤林と同じ、人を思いやる心があって、俺はそこに惹かれていた。
聡美とのいい思い出だって一杯ある。
藤林との思い出だって増えてきているけど、その思い出は忘れられない大事なものだろう。
でも俺は、藤林に恋患いなのだ。
それでもう、元の世界に帰りたくなくて、帰るべきなのか、帰らないべきなのか、悩んでいるのである。
「はぁ……」
俺はまた溜め息をついた。
藤林に気持ちを伝えるべきなのか、気持ちを押し殺して調査を続けるべきなのか。
「なぁに悩んでんだ?」
「馬場…」
馬場は俺に気付き、窓を開けてベランダに入ってきた。
ふざけている様子でもなく、真面目な様子でもない、その間の表情だ。
「悩んでんだろ?
それとも俺といるのが退屈なのか?」
「退屈って言いたいけど、悩んでんだよ。」
俺は眺めたまま言う。
馬場は「退屈と言いたいけどって、なんだよ…」と言いながら、同じように隣に立って眺める。
「…馬場、よく聞け。」
「うん。」
「俺、聡美が好きだった。」
「はっ?!」
突然の告白に、馬場は愕然の表情で俺を見た。
「大丈夫。今は聡美に似た別の人が好きだからさ。」
「え……あ…あぁ…そうか。」
ほっと胸を撫で下ろす馬場。
「そ、それで桑林に似た好きな人って…?」
「大体想像つかない?」
「ん〜、つかない…」
「藤林…なんだよ。」
「藤林?!」
馬場は驚いて大声で叫んだ。
それは多分わざとじゃないだろうけど、誰かに聞かれたかもしれないし、やっぱりこいつには話さない方がよかったかもしれない。
「藤林と桑林ってどこが似てんだよ!」
「そりゃあ、人を思いやるところ?」
「それはそうかもしれないけど、普段の性格が真逆じゃん!」
俺は聡美の内面までよく知ってんだよ、と思ったが、それは黙っておいて、適当にそうだなと返しておいた。
それより俺は、これからどうするかを一番に悩んでいて、それを馬場に相談したかったのだけれど、さすがに言いにくく、俺は結局黙って空を眺めていた。
そこが一番重要な点だと言うのに。
「いやぁでも、ふ〜ん…藤林が好きなのかぁ。
予想通りって言ったら予想通りだけどな〜
まさか今も、藤林がいなくて寂しがってんのかぁ?」
「まぁ、そんなところかな。」
「う〜ん、恋患い、いいねぇ。
明後日も先だぞ?藤林が帰ってくるのは。」
馬場は俺の気も知らずにニヤニヤと茶化してくる。
俺もわざとらしく笑い、たまに馬場を向いて笑ってみるも、俺は気分が乗らず、やはりベランダの向こう側を眺めていた。
「まぁ、今日は調査しないでもいいから、ゆっくり休めよ。
俺は愛しの桑林の為にも、調査するけどな。」
馬場はそう言って、笑いながらベランダを出ていく。
俺は愛想笑いを浮かべるけども、鬱屈した気分は全く晴れず、俺は馬場が去った後も、バイトで家を出る時間まで、ずっとそうやって眺めていた。
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俺達は居間のこたつでテレビを見ていた。
テレビでは若者に人気のバラエティー番組をやっていて、馬場はそれを見てゲラゲラ笑っていた。
そのバラエティー番組は確かに面白くて、俺も好きでたまに見るのだけど、今はテレビなんかに集中できなかった。
なぜなら今日は藤林が帰ってくる日だからだ。
藤林を好きで良いのか悪いのかという事を悩んでいたが、今日の朝になると、俺はどうしても藤林が帰ってきたら何て話そうか、何をしようか、とばかり考えてしまうのだ。
藤林を想う事は、多分…許されないと言うのに。
「…澤村さぁ。藤林が好きだって気付いたの、いつ?」
「いつって…藤林が旅行に行ってからかな…」
「やっぱそうか。藤林が好きって気付いて、それで帰ってきたらなんて話そうかとか考えてんのか。」
「…まさかお前に理解されるとはな。」
図星だ。今はそれで胸がドキドキしている。
藤林に会える。
そう思うだけで俺は動悸が激しくなって喉が渇いて、そしてテーブルに突っ伏したくなる。
この五日間の間で、俺は藤林がいないとダメだとわかった。
その五日間、藤林に会っていない分だけ、俺はすっかり藤林に恋焦がれてしまっていたんだ。
「言っておくけど、俺もお前と同じくらい桑林が好きなんだからな。
軽い気持ちじゃないって事、知っておいてほしい。」
「…うん。まぁ、俺もこの五日間で気付いたけど、桑林はいい女だよ。頑張れよ馬場。」
「へ…やっぱりなんかお前らしくねぇな。」
そう言って馬場は、テレビ番組やコントによるものとは違う笑顔を浮かべた。
思えばこの五日間、藤林と聡美への気持ちに気付いただけじゃなく、馬場との友情ってものも深まったような気がする。
そんな事は別に望んだ訳じゃ、ないけどね。
その時だった。
玄関の方で鍵が開き、ドアが開かれる音がした。
藤林の両親の話し声も聞こえてくる。
俺は思わずガタッと立ち上がって、そのまま立ちすくんだ。
帰ってきたと、喜んで立ち上がったけど、どう接すればいいのかわからなくて立ちすくむ、と言った風だ。
馬場はそんな俺を面白そうに見ると、立ち上がって俺の背中を乱暴に玄関へと押し出した。
俺は押されるままに玄関に向かう。
「おかえりなさい。楽しかったですか、旅行は。」
「えぇ、楽しかったわ。久しぶりに温泉に入れて━。」
馬場は藤林の両親と話し始める。
両親の後にいる藤林は、旅行から帰ってきたって言うのに何故か笑顔はなく、何だか俺をちらちらと照れた様子で見ていた。
俺の胸は、ドキドキと鼓動を打っている。
「あ…えっと……」
俺はどうにかして声をかけようとするが、緊張で言葉が出ない。
なんて声をかければいいんだ。
普段のように、何か言う事があるはず…
そうだ、家に帰ってきたんだからおかえりと言えばいいじゃないか。
なんで思いつかなかったんだ。
早く藤林におかえりと言おう。
「お…おかえり。」
「ただいま…」
そして二人して、また黙る。
また話す事がなくなって、二人とも照れたまま黙り込んでしまった。
うぅ…なんでこんなに話せないんだ。
普段のように話せばいいんだ、普段のように…
そう緊張していると、俺は馬場と美奈子さんと和俊さんまでもが、俺達をニヤニヤ見ている事に気づいた。
くそ…両親はともかく、馬場のニヤニヤ笑う顔が腹立たしい。
「え、えっと…荷物持とうか?重いだろ?」
俺は恥ずかしくて、早くこの場を離れようとしてこう言った。
う、うん、と不器用な手つきで荷物を渡す藤林。
そして俺達は、馬場逹の視線を背中に受けながら、そそくさと居間に歩いて行った。
二人して真っ赤な顔をしながら。
…葛城。水族館で五十嵐と話せなかった訳を、俺はやっと実感したみたいだよ。
顔から火が出そうなくらいの緊張と恥ずかしさだ。
そんな藤林家の迎えも済み、少し落ち着いてから、俺達は夕ごはんを作った。
藤林達が夕食を食べてきていないという事で、俺達は急いで食事の準備をした。
「私達がやるから」と言う、疲れているはずの藤林と美奈子さんに気を使ったのだ。
でもその間、俺はずっと緊張していて、料理はある程度かじっていてまあまあ慣れているはずなのに、下手をすれば包丁で手を切ってしまいそうな手つきだった。
そんな手つきで俺達は、定番のカレーライスを作った。
緊張で手つきが不器用だったけど、ご飯は既に炊いてあったし、馬場が手伝ってくれたから何とか無事に済んだみたいだ。
「はい、できたよ〜」
そう言って、馬場はカレーを持っていく。
俺はやはり、その後からカレーを持っていった。
なんだか女々しい事をしているようで、更に恥ずかしい…
「美味しそうだよ澤村くん。
澤村くんと、馬場くんって料理上手いんだね。」
藤林がニコニコ笑って言う。
「いや、親の手伝いをたまにしてただけだから、そんなに上手いって訳じゃないよ。
俺が作ったカレーだって、自信ないし。」
「ふぅん…えっと、食べていい…?」
「うん…」
藤林は、スプーンでカレーをすくってゆっくりと口へ運んだ。
何だか緊張して俺はまじまじとその様子を見てしまう。
「うん…美味しいよ。
やっぱり澤村くん、料理上手いよ。」
緊張しながらだけど、藤林は笑う。
普通は女の子が料理を振る舞うんだろうけど、俺は藤林とこんな風に何気ない話ができて幸せだった。
ずっとこんな時が流れればいいのにと思っていた。
そして気付くと、俺は藤林に釣られたのか、その思いの所為なのか、藤林を見つめてニッコリ笑っていた。
「おーい、お二人さん。二人だけの世界に入ってないで、周りの人の事も忘れないでねー。
そのカレーだって、澤村だけじゃなくて俺も作ったんだからねー。」
「わ…わかってるよ!
そ、それに二人だけの世界に入ってないよね、藤林…」
「う、うん…」
藤林は緊張の為かそれとも恥ずかしさの為か、俯きながら真っ赤に照れている。
くそぅ、馬場の野郎、余計な事を言いやがって…
俺もなんだか恥ずかしいし、藤林も照れちゃってるだろうが。
せっかく藤林との会話を楽しんでいたのに…
…そうだ。馬場がそう来るなら、俺も馬場が聡美と話している時に同じように━━。
「…そうだった。すっかり、忘れてた…」
俺はさっきまでの笑顔とは一変して、絶望したような表情になった。
生きる希望をなくしたような、そんな表情に。
「えっ?澤村くん、何を?」
「……いや、何でもない。何でもないんだ。」
「…うん、わかった。」
藤林は、心配そうな顔して俺を見ていたけど、そう言った俺を察して、深くは訊いてこなかった。
でも俺は、藤林や馬場逹がいるというのに愛想笑いなど全く浮かべず、ずっと一人深刻な表情をして座っていた。
俺は、阿呆だ。
大事な事をすっかり忘れて幸福を受け入れるなんて…
幸福を受け入れてデレデレ笑っているなんて…
くそ…馬鹿だ。俺は馬鹿だ。
幸福は恐ろしいと聞いた事があるけど、それでもこれは幸福の所為だけじゃない。
ほとんどが、俺が馬鹿という事の所為だ。
あの夢の中で聡美に叱られる訳だ。馬鹿すぎる。
『早く決めなさいよ!
あんたの生きていく場所を!』
決められるはずないだろ!
今のまま流されていくしかないだろ!
俺はこの世界にいたい…
この世界で生きて、藤林を抱き締めたいよ…!
でもそれはいけない事なんだよ!
俺の両親、元の世界の友達、そして馬場と藤林を裏切る事なんだよ!
どうしようもない…
このまま流されて行くしかない…
流されて、藤林と別れるしかない…
それで俊太郎を藤林に━━。
俺は居間にいながら、泣き出しそうになってしまった。
すんでのところで涙を止めて、目を擦る。
ダメだ…藤林との別れは、藤林が帰ってくる前から予想していた事なのに、実際に帰ってくると藤林が本当に恋しくなって、堪らないくらいに悲しくなってくる。
もうきっと、先程のように藤林と笑えるはずない。
幸福なんか感じられない。
藤林との未来なんてただの想像に終わり、実現なんかしない。
俺は生まれて初めてこの大きな悲しみを感じ、周りが見えなくなりそうだった。
周りを気にせず泣き出しそうだった。
それでも泣かなかったのは、まだどこかに希望を感じていたからかもしれない。
藤林と別れないで済むかもしれないと思っていたかもしれない。
その少しの希望も残っていなかったら、俺は床に這いつくばって、泣いていただろう。
そんな希望をもって俺は泣かずに済み、その夜はずっと浮かない顔して座っていた。
藤林が心配そうに見ている事も気付かずに座っていた。
to be continued-