俺の寝起きは最悪だった。
"苦しみ"に堪える薬の効果が切れた朝は、本当に辛くて胃が痛むからだ。
この薬は食後に飲まなければ胃を傷付けてしまうらしくて、胃の弱っている俺が今、胃を傷付けてしまうとすぐにまた穴が空くと厳しく医者に教えられた。
だから必ず食後に飲まなければならないのだが、俺は食事も喉を通らないほど苦しんでいた。
朝早くに起きると床を這い、何かに掴まってから立ち上がってふらふらと居間に下りた後、薬を飲むために無理矢理にお菓子や軽い食べ物を口に入れて胃に押し込む。
そしてやっとの思いで食べて皿を片づけた後、すぐに薬箱の中から病院から処方された薬を取り出むのだ。
そんな朝を迎えてやっと感情のない一日を送ることができるのだが、俺は薬を飲んだ後、昨日の薬箱とは少し違う事に気が付いた。
薬が1つ、減っていたんだ。
先程自分が飲んだから当たり前だけど、自分の飲んだ一回分の薬と、もう一回分の薬が消えていたんだ。
……いや、たぶん見間違えかもしれない。
だってこの家でこの薬を使う人は俺しかいない。
使うような人なんて、俺以外の人間で考えようがないじゃないか。
「あれ、澤村くん。起きてたの?」
その時、俺の後から声が聞こえた。
俺は慌て、薬箱を前にして固まってしまう。
恐る恐る後を振り向いてみると、やっぱり藤林がそこに立っていた。
俺が精神安定剤を使っている事を、一番知られてはいけない藤林が立っていたのだ。
「あ…うん……それでちょっと、疲れてるから何か薬でも飲もうと思って……」
「そうなんだ……やっぱり澤村くんは疲れてるんだよね……
でもそれももう少しで終わりだね。やっとアースに帰る方法が見つかったかもしれないんだから」
そう言って藤林はにこやかに笑った。
昨日の暗い様子が嘘だと感じられるように笑っていた。
その時、まだ薬が効いていないのか俺の胸が痛み出す。
俺達がアースに帰っても全く寂しくないと意味を孕んだような笑顔を見せられ、俺は少しショックを受けて胸を痛ませているんだ。
でも俺は少し不思議に思っていた。
藤林の笑顔って……こんな風に"中身の詰まっていないものだっけ?"と……。
「でも私達が早く起きすぎて、お父さんもお母さんもまだ起きてないね」
「そうだな……」
「お腹空いたでしょう?私、朝ごはん作るね」
そう言って藤林はキッチンへと歩いて行った。
俺は「手伝うよ」と言ったのだけど、「だめ、疲れてるんだから」と言われてしまい、大人しく食卓に座る。
キッチンで朝ごはんを作っている藤林を不思議に感じて見ていると、やっぱり昨日までの藤林と少し違って見えた。
だって昨日は暗い様子でずっと思い詰めていたみたいだったのに、その次の今日でこんなにニコニコしているなんて、不思議に思わないはずないだろう?
それに俺にはわかるんだ。
好きになるほど藤林を知っているから、俺には藤林の少しの違いも見分けられるんだ。
だから俺は、今日の藤林が変に思えて仕方がなかった。
今日の藤林の笑顔が、作られた偽物のようにしか見えなかった。
朝ごはんができ、二人で食事をとっている間も、俺は疑問に思っていた。
藤林は昨日、すごく落ち込んで悩んでいるみたいだったのに、中身のないものだが今日は明るくなっている。
それなら昨日はどうして落ち込んでいたのだろうと……。
「藤林」
「なに?」
「昨日から気になっていたんだけど、昨日は何かあったの?
ずっと悩んでるみたいだったけど……」
「え……」
藤林の空虚な笑顔が少し壊れる。
俺がこんな質問をしたから動揺しているのだろうか?
「な…悩んではないよ……。
俊太郎が帰ってくるかもしれないから、少し緊張しちゃっただけだよ……」
「……そうだよね。俊太郎とやっと会えるんだから」
それは嘘のように聞こえたけど、俊太郎の事が好き故に緊張してしまったんだと思うと、俺は不思議と飲み込めてしまった。
藤林は俺と俊太郎を重ねてしまっているだけで、藤林が好意を寄せているのは飽くまで俊太郎なんだと俺は思い込んでいるのだ。
最近はその考えが頭や心を縛りつけている。
薬の効果で痛みを抑えているから平気でいられるが、飲んでいなかったら、今も再びちくりと胸が痛んでいるところだろう。
だから俺は、薬の効果に感謝して、明るく軽やかに笑って藤林に言った。
「じゃあ、早く朝ごはんを食べて日ノ出公園へ行こう。
公園の空に出口がないか確めるんだ」
すると藤林も少しして、
「そうだね。馬場くんも起こして早く公園に行こうね」
とにこやかに言った。
再び例の笑顔を浮かべながら。
俺にはまた、観覧車の時みたいに俺達の間に硬い石壁が立っているように見えた。
端から見れば俺達は仲睦まじいカップルのように見えるかもしれないけど、そんな事は全くもってない。
それは幻想で俺の儚い夢で、現実はこんなにも空虚で偽物のような笑顔で笑い合う、ただの女とその同居人だ。
俺だけはその女に恋しているが、全くの偽物で泡沫《うたかた》の夢なのだ。
俺達はそうして、無言で演技の笑いを浮かべながら食事をとり、その後から独りでに起きてきた馬場が支度を終えるのを待ってから、一緒に日ノ出公園に向かった。
俺達がイアルスに落ちてきた時に寝ていた、展望台があって野原のように広い公園だ。
その公園に着くと、馬場は荷物を地面に置いて公園を見渡しながら言った。
「澤村。ここらへんだったよなぁ、俺たちが落ちてきた場所は」
「うん。出口があるとすればここの空だ」
空を仰いでみると、空はもこもこした白い雲で覆い尽くされていた。
雨雲は見られないし、陽の光もまだ雲の隙間から見えるから雨は降りそうじゃないけど、雲がない場所は水平線の近くにしか見られない。
晴れもしないければ、雨が降りもしない中途半端な天気だ。
「このロケット花火を飛ばして穴を見つけるんだよね?」
「そうだよ。見つけたら穴の大きさを計るんだ」
「よし、じゃあ早速飛ばしてみようぜ!」
馬場は荷物の中からロケット花火を取り出す。
そしてそれを地面に刺すと、昨日買って持ってきていたライターで導火線に火を付け始めた。
火は滞りなく導火線に付き、バチバチと火花が散り始める。
「これで澤村くんの推理が正しいかわかるね…」
「うん…」
そして火が火薬に移ると、ロケット花火は勢いよく空に向かっていき、甲高い音を出しながら真っ直ぐに飛んで行った。
俺達はそれを目で追い、一斉に空を見上げる。
しかし、爆発音は聞こえてこなかった。
花火が飛んでいく音も途中で止み、ロケット花火は姿をいきなり消した。
そう、不思議な事にロケット花火は爆発音を出さずにいきなりどこかに消えたのだ。
それは間違いなく、この空にアースへの帰り道があるという事の証明だ。
ロケット花火が途中で消えてしまったように、俺達や俊太郎もこうして異界へと消えていったのだ。
「………あった」
「……あった」
「あそこだ……」
「あそこだな……」
藤林は無表情で見ていたけど、馬場は呆然とその穴を眺めていた。
きっと今まで実感が沸かなくて、俺の推論を信じられていなかったのだろう。
しかし馬場は唐突にふっと声を漏らした。
「……やった」
「うん」
「やったよ澤村、俺たちは見つけたんだ!
出口をやっと見つけられたんだ!これで帰れるぞ!」
「うん、よかったな馬場」
俺は喜ぶ馬場を笑って祝ってやってやった。
藤林も黙っているけど、馬場を祝うように笑っている。
変なもんだな。
俺も藤林も祝われる立場のはずなのに、まるで調査の部外者みたいに祝うなんて。
あ……また胃が痛んでる……。
ちゃんと薬を飲んだのに、それでもこれほど苦しいなんてな……薬がなかったら一体どれくらい苦しんでいたんだろう……。
そう思うと俺は少し恐ろしく感じた。
持っている薬はそれほど多くは持っていない。
薬を飲み切って切らしてしまったら、やっぱりかなり苦しむだろうな。
きっと、藤林との別れに堪えきれないぐらいに。
「じゃあ馬場、穴の大きさを計るぞ。
真上に飛ばして爆発音が聞こえる範囲を探そう」
「了解!」
そうして俺たちは、ライターと一緒に一杯に買ってきたロケット花火を空へ飛ばし始めた。
冬の朝から連続でロケット花火の甲高い音が鳴り響く。
でもやっぱり近所迷惑になると思うので、早めに調査を終わらせよう。
誰かが怒鳴り込んできたら、「すいません、先を急ぐ調査をしているんです」と言えばきっとわかってくれる、というのは甘い考えかもしれないし……。
それにしても、本当なら花火はもっと楽しいはずなんだけどな。
季節外れかもしれないけど、それでも何故か気分が高揚して楽しいものだったと思うんだけど。
それなのに花火は面白くも、そしてつまらなくも思わなかった。
感情的なものがなく、どうとも思っていないのだ。
そういう風に感じるものは、薬を使ってから多くなってきた。
薬を使っているからだと思うんだけれども、薬を使うとやる気や煩わしさと言った感情がもう断片ぐらいしか残らないんだ。
余裕ができた昨日だって、面白くもないゲームを無意味にやり続けていた。
やめるようにと言われて、何の躊躇いもなくゲームの電源を切ったくらいだ。
セーブもしていなかったのに。
いや……それはやっぱり薬の所為ではないのかもしれない……。
それも藤林との別れが原因で、藤林と別れるのだと考えると楽しさが消え、悲しくなってくるからかもしれない。
なぜなら薬を使って感情を抑えている今、唯一心に感じるものが、藤林と幸せになりたいという欲求だからだ。
藤林と離れ離れになりたくない。
それだけは薬で弱めていても、既に諦めた願いでも、俺は切に願っている。
それほど藤林が好きだったんだ、と自分でもしみじみ思う。
失恋したと同然の状態なのに、まだ諦めきれずに心のどこかで藤林を想っていたんだ。
俺は諦めの悪い自分を責め、またその感情も押し殺してロケットを飛ばした。
藤林を想ってはいけない、と自分を責めるように花火を飛ばしていた。
穴の広さや高さなどの座標を一通り計り終えると、俺たちは藤林宅に帰った。
昼食のうどんは既に出来ており、食卓に着くと頂きますを言ってすぐに箸を持ってずるずると食べ始めた。
馬場はいつもより少し真面目な表情でずるずる食い、俺たちもまた真面目な表情でずるずる食べる。
藤林のお母さんも一緒に食べていたのだが、お母さんも惚れ惚れさせるぐらいずるずる言わせていた。
「穴の大きさは二メートルくらいか」
「うん」
馬場はサイドメニューの漬物をパクパク食べる。
「それよりも問題は高さだろう。
十メートルを飛ぶなんて、簡単な事じゃない。
三階か四階建てのビルくらいの高さがあるんだぞ」
「そうだな……でも、計画は練ってあるんだろ、澤村?」
俺は無表情で頷く。
「まずは、ジャンプ台を作るんだ。
鉄棒で駆け上がりする時に使う補助台みたいな物だよ。
それを穴の下に配置しておいて、俺たちは公園の前の真っ直ぐな道路で車に引っ張ってもらって加速する。
百キロに到達した所で車から手を離してジャンプ台からジャンプするんだ」
「車を使うの?
でも、お母さんは許してくれるかな?」
藤林の言葉で、俺達の視線は藤林のお母さんの美奈子さんに注がれる。
突然話を降られて驚くかもしれないと思ったが、美奈子さんは動揺もせずに「そうねぇ……」とその件の事を考えていた。
黙って真剣に、どう判断すべきかを考えている。
この計画に危険があることはわかっている。
計画を実行したら、何が起きるかわからない。
でもあの穴に入る方法はこれが一番手っ取り早い。
誰かが全力で自転車を漕いでも速さが足りそうにないし、バイクを買おうとしても、免許を取る必要がある。
だからやっぱりこの方法が一番いい。
何としてでも許可をもらいたい。
「美奈子さん、お願いします。
計画は早朝に実行しますし、使う道路はパイロンを置いて、少しの間だけ通行止めにしますから、何とかお願いします」
「………」
美奈子さんは俺がそう言ってもまだ、じっくりと考えている。
無理もないか……大人の美奈子さんが許可するという事は責任を受け持つという事だし、俺たちが危険な計画を実行する事を許可するという事だ。
本当ならすぐに断われても仕方がない事だけど、目的が目的だから考えているのだろう。
「二人は……どうしても元の世界に帰らなければならないのですか?
この世界に来てからずっと図書館に行って頑張っていたけど、決意は硬いのですか?」
「はい……」
馬場は少し考え、やはり自分の決心が硬いと思い、真剣な表情で答えた。
俺も、元の世界で藤林の為にすべき事がある。
ゆっくり頷いて答える。
「それならば仕方ないですね。
元の世界に帰さないと家族の方も心配するでしょうし、私が車を運転しましょう」
「本当ですか?!」
馬場は満面の笑顔で喜ぶ。
俺もほっとして、静かに口元を持ち上げた。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
「いえいえ、でも安全だけは大事にしてください」
「はい!」
馬場は喜びのせいか、何度も頭を下げていた。
今までの努力が報われるという喜びと、聡美にやっと会えるという喜びが重なり、本当に嬉しかったのだろう。
俺はそんな馬場と藤林に、微笑みを浮かべて言った。
「よし、それならジャンプ台創作の材料を今から買いに行くか」
「うん!」
そう言って俺たちは、再び家を出ていった。
バイトで稼いで五十嵐の車いすを購入した残金を、材料や道具に使い、俺達の手でジャンプ台を作っていった。
冬休みは残り一週間と少しだ。
一週間の内に仕上げて、次の早朝にはアースに帰れるようにしたい。
取るもの手につかなくなった故に学校の冬休みの宿題を全くしていないという理由もあるけど……やっぱり藤林と早く別れなければならないと思うからだ。
早く藤林に俊太郎と会わせてやりたいという理由もある。
だから、毎日フルに時間を使って急いでジャンプ台を作ろう。
まずは設計図を作って作業を三人で分担する。
家の庭で作り始め、完成したら公園に運んでいくという計画にしたので、ジャンプ台は組み立て式だ。
最後の組み立てだけ公園で済ませ、その後にアースに帰るのだ。
しかし俺達はこのジャンプ台でちゃんと空に向かってジャンプし、10mの高さにある次元の穴を通る事ができるのだろうか……。
間違いがないように計算してみたが、本当に上手く穴を通る事ができるのだろうか……。
それに次元の穴は超自然的なもので、過去にこの穴を通った者が居ても元の世界に戻った者は両世界にもいない。
つまり二度あの穴を通った者はいないという事だ。
少なくとも、半年調査を続けてきた俺達の知る内では。
誰もした事がない無茶な挑戦。
そう考えると俺は不安になって恐ろしく思えた。
ジャンプ台を作る手が止まるのである。
でも今までこの為に調査を続けてきたんだし、藤林の幸せの為だ。
今更挑戦を止める訳にもいかず、俺達は忙しく手を動かした。
その一週間後。
計画通りにジャンプ台は完成した。
創作途中で馬場が張り切りすぎて、作った物を壊してしまった事もあったけど何とか冬休みギリギリに完成させる事ができた。
ジャンプ台が完成して、後は時が満ちるのを待つだけになった俺たちは、この世界で最後という事になる宴を藤林家で開いた。
最後なんだからと言って、藤林のお母さんは盛大に料理を振る舞ってくれ、メニューは高級な牛肉を使ったすき焼きだ。
豆腐や白滝などもぐつぐつ煮えていて、牛肉を卵に絡めて口に入れると、肉の甘さと卵の味が広がってガッツポーズをするくらいに美味しかった。
すき焼きを食べ終わった後、冗談で馬場がまた、例のビンゴをやろうと言い出したけど、俺がビンゴにも冗談でも乗り気じゃない表情をすると「なんだよ、つまんねぇな」と言ってあっさり身を引いた。
でも、この世界での最後の宴は楽しいものだった。
薬を使って感情を抑えていてもそれは感じる事ができた。
このまま楽しく生きていければいいのにな、と。
そして……馬場の話は風呂に入った後だった。
俺が誰もいなくなって暗くなった居間に忍ぶようにして下り、棚の中の薬箱を開けて精神安定剤の残りを確認している時だった。
もう、明日の分がない。
薬は俺以外の誰かが勝手に使っているようで、思っていたより早くなくなってしまった。
あと少し、一錠だけでも残っていれば耐えきれたというのに、薬箱の中を探しても探しても目当ての薬は見付からなかった。
そうして愕然として薬箱を抱えていると、背後で声がした。
「やっぱりその薬で辛さを抑えてたんだな」
「ば、馬場……!」
後を振り向くと、以前藤林がそうしたように真剣な顔をした馬場がいた。
しまった……てっきり馬場は風呂に入っていると思っていたのに……。
「澤村。やっぱり胃潰瘍の原因って、藤林との別れなんだよな?」
「……」
「お前が藤林の事とか調査の事を話す時の表情を見て、俺の思い込みかと思ってたけど、やっぱりそうだったんだな。
辛さをその薬で抑えてただけだったんだな」
「……」
馬場は酷いことをしたと詫びるような表情で話した。
きっと、馬場は俺が悩んでいる事に早く気付けなかった事だけ悪く思っているのではない。
俺の藤林への想いが叶ってしまうと、アースでの俺達としての聡美と俊太郎も恋人同士になると予想して言い出せなかった……だから馬場は本当に申し訳ないような表情をしているのだろう。
「……気にしなくていいよ。
俺はもう、失恋したようなもんなんだからさ」
「どういう事だ?」
「藤林は、俺に俊太郎の面影を重ねているだけなんだよ。
藤林の本当に好きな人は俺じゃなくて、俊太郎なんだよ。
この前、遊園地に行った時にわかったんだ。
藤林の心は俺にはない。俊太郎なんだ。
少なくとも俺はそう思ってる」
「……そうか」
馬場は俯いて話を聞いていたが、聞き終わると安堵とも悲哀とも取れないような複雑な表情をした。
何かを思い詰めるように黙りながら。
俺はこの事を話している間、胸がずきずきと痛んできていた。
話している内に段々と痛みの強さを増していき、張り裂けそうになるくらいにまで痛みが強くなっている。
それはきっと、今まで痛めつけられた胸の叫びだ。
今まで本当はこれほど痛み、苦しんでいたのだろう。
でも、どうしてこんなに痛んでいるだろう…
薬の効果が切れたのかな…
「せめて、告白しないか?」
やがて馬場はぼそり呟くように言った。
俺は真顔で答える。
心の叫びを語るように。
「告白して何になる? この世界に未練を残さないようにとでも言うのか?」
「……」
「それなら必要はない……もう済ませたんだ。
俺はもうこの恋を諦めるって決めたんだ。
諦めきれなくても、アースに帰ればきっと忘れられると思って堪えてる。
それに馬場……もうこの話をするのは遅いよ」
馬場は思い詰めた表情のまま、じっと黙って聞いていた。
俺は馬鹿な事をしてしまった。
俺が早く言い出さば、澤村はこれほどまでに苦しまなくても済んだかもしれないのに、と馬場は思っているのだろう。
でも馬場、仕様がない事だったんだよ。
本物の恋心ってのはこんなに強いものなんだからさ。
お前だって言ってただろう?
俺も本気で桑林が好きなんだってさ。
「馬場、もう寝よう。あんまり夜が遅くなると、明日が辛くなるからさ」
「……あぁ」
俺たちは暗い居間を出て、足取り重くギシギシと音を鳴らして階段を上った。
部屋に布団を敷いて、灯りをパチンと消す。
もう馬場と一言も話さず、すぐに布団の中に潜った。
そうだ……さっき馬場に言ったように、もう事は遅いんだ。
俺たちは早朝にはアースに帰るし、帰ったらもう二度と藤林には会わないだろう。
そう、遅いんだ、何かをするには。
無事に元の世界に帰れるかということと、薬がなくても苦しみに堪えられるかということ。
今はそれだけが心配だった。
藤林に気持ちを伝えることは、全く考えてはいなかった。
しかし、床についたものはいいものの、その夜はほとんど眠れなかった。
毛布を纏ったまま、ずっと眠れずに起きていた。
別に俺は寝付きが悪いなんて事や、冬の空気が寒いなんて事はない。
ただ目を閉じても眠れなかっただけだ。
何かの不可解な塊が頭の中で騒いでいて全く眠れなかっただけだ。
それでも俺は眠ろうと粘り、まるで熱帯夜と苦闘するように毛布を被って何時間か寝ていると、やっと眠りに入る事ができた。
しかしそれも浅い眠りだったようで、俺は夢を見る。
その夢はとても印象が強くて不思議なもので、俺は夢から覚めたこの後から何年も忘れる事はできなかった。
夢は普通、覚めた後はすぐに忘れやすい傾向があるみたいなのだが、俺ははっきりと思い出せるほど覚えてしまったのだ。
それは真っ暗な場所で誰かと話をする夢だ。
真っ暗だからその誰かの顔は見えなくて、そいつはずっと黙っている。
夢の中での俺も気が病んでいて、とにかくブルーで黙っている。
その俺はこう尋ねる。
「ねぇ、君の生きる場所はどこ?」
どうして俺は唐突にそんな質問をしたのかはわからない。
俺の気が病んでいたからかもしれないし、そういう夢だからかもしれない。
でも相手は答えなかった。
なにやら口を動かしたように見えるけど、何を言っているか全く聞き取れない。
唇の動きを読めればそれは読み取る事ができたかもしれないが、俺は読唇する力も気力もない。
俺は語りを始める。
「俺の生きる場所は、多分ここじゃない。
元々いた場所がその場所だったんだと思う……」
誰かも口を動かしているが、俺は静かに話し続ける。
「俺はこの場所で生きていたかった。
藤林と一緒に生きていたかった。
藤林を想っていたかった。
でも、藤林は━━」
『それを望んでいない』
その部分だけ、その誰かと口の動きが、声が合った気がした。
いや声は聞こえていないのだけれど、彼の心がそう叫んでいるのを聞いた気がしたのである。
「帰りたくないけど……帰ろう。
藤林がそう望むから。藤林は俺じゃなくて、俊太郎を望むから……」
呟くように、ぽろぽろと溢すように語り終えると、俺は目が覚めた。
目覚まし時計も鳴っていないのに、ふと目が覚めた。
かなり短い夢だった。
普通なら睡眠時間が少しだけなら、夢なんて見れないのに……
しばらく真っ暗な世界を彷徨った後から夢を見始めるのに……さっきはまるで夢を見る為に寝たような感覚だった。
そう、眠りに落ちるというより夢に落ちるというように……。
部屋はまだ闇に落ちていた。
電気は完全に消しているので、閉められているカーテンから漏れている月明かりだけが部屋を照らしている。
頭はまだ妙に冴えていて、でもほとんど寝ていないので目が痛むような眠たさと、そしてやっぱり、胸の痛みがあった。
この痛みには、薬もないから今日一日……いや、その先もずっと苦しめられるだろう。
いつになったら苦しみが消えて楽になれるのかな……。
まぁ、それをも背負うと俺は決めたのだけれど。
俺は布団を出て電気をつけ、まだ眠っている馬場の背中を一瞥して階段を下りて行った。
昨日の今日だし、今日は馬場と上手く話せる自信がない。
藤林とも、最後だと言うのに話せる自信がない。
今日は薬がないんだから、きっと藤林の顔を見ただけで泣いてしまう。
だからできるだけ藤林と顔を合わせないように朝食を早めに済ませるんだ。
そしてすぐにアースに帰る支度を済ませるんだ。
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俺……つまり馬場 琢磨はいつも通りに起床して朝食を食べていた。
いつも通りに、って言ってもまだ窓の外は真っ暗で、太陽が昇ってくる時間まであと一、二時間もあるぐらい早い朝食だ。
ただ、食べる動きだけって事だ。
急ぐ様子も落ち込む様子もなく、いつも通りに食べ物を口に放り込む。
いつもの朝と変わらないように。
支度をして、重たい荷物をみんなでワンボックスカーに載せるとすぐに公園に出発した。
車は荷物と藤林夫妻が乗ると一杯になってしまったので、俺達はジャンプに使う自転車で公園に向かう。
一台は先のバイト代の残り全てを使って買った格安の自転車で、一台は古くなって使わなくなった藤林家の自転車だ。
この二台の自転車で一人ずつジャンプしてアースに帰る。
そして俺は桑林に好きだと告白するんだ。
しかし……澤村は本当に藤林を諦めるのだろうか……。
横で自転車を漕いでいる澤村に目を移すと、やっぱり澤村は死にそうで虚ろな顔をしている。
澤村の苦しみを抑える薬はもう残っていないらしいし、きっと今が一番辛い時だろう。
藤林と別れるこの時が。
俺が今、アースに帰る事で一番心配になっているのはそれだ。
本当にアースに帰れるかどうかの心配よりも、俺は澤村が正しい決断をしているのか心配で心配で仕方がなかった。
でも俺にはどうする事もできない。
昨日寝る前に、俺は澤村に説得しようとしたけど、澤村は藤林を諦めていると言って聞かなかった。
後の藤林をちらと見てみれば、藤林の表情にも"生気がなくて絶望しているような顔をしている"のにさ。
こんな状況、澤村の友達としてどうにかしてやりたいが、お前が動き出さない限り俺はどうする事もできないんだ。
それに……"俺だって桑林を俊太郎に取られたくない…俺だって桑林が好きなんだ"……。
だから、澤村が藤林への想いを見せるまで、冷たいかもしれないけど俺は待つ事にした。
アースへ帰るまでに澤村を見ている事にしたのだ。
そうして二人の様子を見ていると、すぐに日ノ出公園に着いた。
車が公園前に停まっていて、藤林夫妻が車の荷台からジャンプ台のパーツを降ろしている。
夜の公園には、当たり前だけど誰もいなかった。
道路も静まり帰っていて、車一台通ることはなかった。
でも時間はあまりない。
安全の為だけど、道路を勝手に封鎖するから人目につくと、かなり面倒くさい事になる。
だから俺はすぐに藤林夫妻に加わり、ジャンプ台のパーツやパイロンなどを車から降ろしてジャンプ台を組み立て始めた。
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胸が痛かった。
ジャンプ台を組み立てている間もずっと胸が痛くて、なんというか、胴体は切らずに心臓だけを切られて痛むようにズキズキ痛んでいる。
痛すぎて何だか笑いが溢れるくらいだ。
その痛みは俺の作業を遅れさせていたけど、それでも俺は手を動かし、馬場と藤林にそれがバレないように振る舞い、何とか痛みに堪えながらジャンプ台を完成させた。
でも木製のジャンプ台はやはり少し見てくれが悪かった。
自転車が滑走する部分は滑らかにして補強も注意深く作ったけど、その他の木材にはヤスリを掛けていなくてなんだか角々していた。
安全の為にジャンプ台の先に敷いたマットはもっと薄汚れていて見栄え悪い。
「まぁ見栄えは悪いけど、それはバイト代の残りで作ったから仕方ないかな……。
でも頑丈で支えもしっかりしてるし、大丈夫だろう」
「うん……」
「よし。じゃあ道路を封鎖して帰るか、澤村」
「あぁ……」
俺は何とか笑顔を作って答えようとしたけど、全く笑えずに馬場に答えた。
明らかに不自然だ。
これが俺の精一杯だから仕方ないが、やっとの事でアースに帰れるって言うのに、こんな表情をしていたら不自然過ぎるだろう?
きっともう、馬場は感づいている。
昨日の件もあるし、気付かない訳はないだろう。
「あの、澤村くん……?」
「……なに?」
藤林は俺の背中に向かって呼んだ。
藤林の顔を見たらきっと泣く。
俺は背中を向けたまま、できるだけ平静を孕んだ声で答えた。
「私、気分悪いからここに居て、いいかな……」
今日初めて聞いた藤林の声は、本当に気分が悪そうだった。
抑揚なんてものは感じられなかった。
しかしなぜそんなに気分が悪いかは、今の俺にはわからない。
ただの体調不良だろうと、簡単に片付けてしまう。
「うん……」
俺はまた、背中を向けたまま答える。
藤林の表情が見たいと思っても、泣いてしまうという恐怖で見ることができない。
しかし……結局この日、俺はまともに藤林の顔を見ずに去っていくんだな……。
顔ぐらい見てから去りたかったけど……それも無理だな、叶わぬ願いなんだな……。
藤林が離れていく寂しげな足音を聞いた後、俺たちは公園を出た。
公園前の道に交わる道の真ん中にパイロンを二個ずつおいて、滑走路となる道路を封鎖した。
元々この道路はあまり通らない道だし、早朝だから安心して計画を実行できるだろう。
でもこの道路は住宅街を通っている道だし、できるだけ早く終わらせたい。
なのですぐに俺たちは滑走路の一番端に移動した。
車、自転車よし、ジャンプ台もよし、道路も封鎖し、全ての準備が整った。
後は俺たちがジャンプしてアースに帰るだけだ。
「じゃあ……帰るか、澤村……」
馬場はジャンプ台までの滑走路を眺め、ため息をつくとゆっくりそう言った。
「あぁ……」
俺も、ゆっくりと馬場に答えた。
そんな俺を、車の側の和俊さん達がじっと見つめている。
本当に帰るんだね、本当にこれでいいんだね、と。
俺は藤林の両親にまで俺の想いが知られているのだろうかと気になったが、今となってはもうどうでもいい事だ。
ただ藤林家には本当にお世話になっているので大きな感謝を感じている。
きっと俺達はアースに帰っても、一生の間藤林家への恩を忘れる事はないだろう。
そう思いながら自転車を車の横に止め、サドルを跨いで俺は自転車に乗ろうとした。
しかしその時からだった。
俺は馬場に返事をした後、自転車を引いて移動しようとしたのだが、俺の体はぴくりとも動かなくなってしまった。
脳は信号を送っているというのに、体が全く言うことを聞かなくなってしまったんだ。
どうしたんだろう……。
どうしたんだろう俺の体は……。
ほら、さっさと自転車に跨って俺たちの世界に帰るんだろう?
俊太郎を藤林に会わせてやるんだろう?
なのにどうして動かないんだよ……。
どうして俺の言うことが聞けないんだよ……!
ちゃんと動いてくれよ、俺!
俺の言うことを聞いてくれよ、俺!
馬場は俺を察したのか、何も言わずに黙っていた。
ただ俺の顔を見たまま、じっと立っていた。
俺の頬に涙が伝う。
ぽろぽろと溢れてきて、顎から落ちて次々に地面へと落ちていく。
それでも俺は拭うこともせず、俯いたまま黙って涙をぼろぼろ溢した。
馬場も美奈子さん達も俺の近くで見ているというのに、俺は構わず泣き続けていた。
もう、俺の気持ちを隠せない。
泣かないと決めたのに…気持ちを抑えようとしてたのに……。
なんで堪えきれなかったんだよ…馬鹿野郎……。
一人ならまだしも、人の前だとすぐに悟られちゃうだろうが……。
やがて、馬場がゆっくりと口を開いた。
「隠すなよ澤村……そんなに強い気持ち、隠せるはずないんだから、隠すなよ……」
俺は声も出さずに泣き続ける。
「好きなんだろう? 大好きなんだろう? 藤林の事がさ」
気持ちを隠せなくなった俺は、こくりと正直に頷いた。
拭いきれないけど、両手で涙を拭う。
すると馬場は、悲哀を孕んだ笑顔を浮かべて、俺の両肩を叩いた。
俺の顔を覗き込んで、ゆっくりと言い諭す。
「じゃあ、ちゃんと藤林に言え。藤林が俊太郎を想っているかどうかなんてまだわからないんだ。
お前の思い込みかもしれないんだ。
だからちゃんと藤林に気持ちを伝えろ。
まずは、藤林の両親に伝えろ」
「あぁ……」
馬場は持った俺の肩を両親の方に向ける。
俯いた顔を上げて和俊さん達を見てみると、和俊さん達は俺を見守るように見つめていた。
俺は涙を流したまま、本当の気持ちを、魂の叫びを伝えた。
「僕は…藤林 美郷さんの事が、大好きです……。世界の誰よりも…俺たちの居た世界の誰よりも、藤林 美郷さんを愛しています……」
「はい……」
「どんなものよりも…自分よりも…両方の世界を天秤にかけても、藤林 美郷さんを守りたいくらいたい、愛しています……」
「はい……」
和俊さんは微笑みながら、涙ぐみながら、俺の話を聞いていた。
美奈子さんはと言うと、話が終わってから泣きながら俺を抱き締めてくれた。
今まで辛かったね、よく頑張ったね、と。
そして和俊さんは俺の肩をぽんぽんと叩きながら言ってくれた。
その気持ちを美郷にも伝えなさい、と。
帰るかどうかを決めるのはそれからにしなさい、と。
馬場もそう言ってくれたので、俺は藤林に想いを伝える事にした。
気と流れの所為かもしれないけど、ずっと自分自身を勝手に縛り付けてきた思い込みが解け、藤林への想いが叶うかもしれないと思えてきたのだ。
藤林に振られても、藤林は俊太郎が好きなんだという思い込みが当たっていたとしても、その悲しみを請け負う。
だから俺はこの世界にもう少し残る事にし、藤林に伝えようと思ったのだった。
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澤村はまだ溢れ出てくる涙を拭い、美奈子さん達と俺に礼を言って離れた。
まだ気持ちは落ち着いていなかったようだけど、どうやら決心は固まったようだ。
「馬場、ありがとう。
当たって砕けるかもしれないけど、伝えるよ。」
「砕けるかなぁ〜。まぁ、それはそれで良いかもね〜」
「何だよそれ、砕けて欲しいみたいに言うなよな。」
「わかってるよ。
でも、何だかお前は砕けないような気がしてさ。」
澤村はへぇ〜、と顔を少し綻ばせながら言った。
久しぶり澤村の笑う顔を見れて俺はつられて笑い、二人して笑い合う。
「……これで最後かもな、お前と話すのも」
「そうだな……馬場は帰るもんな……」
そうだ……澤村はイアルスに留まるかわからなくても、俺はアースに帰る。
そうすると澤村と話すのはこれで最後になってしまうかもしれないんだ。
……なぁ、澤村。
俺たち、何だかんだ言って親友だよな。
桑林とずっと一緒にいるお前を妬んだりもした時もあったけれど、長い間思い出を作ってきた仲だ。
アースでもイアルスでも、思い出を共にしてきた親友だよな。
心の中で尋ねてみたつもりだったけど、俺は澤村が微笑んでいる様子を、ああと答えているように感じた。
ああ、俺たちは親友だ、と。
「向こうの世界に……あの穴に手紙を飛ばしてお前に手紙を出すよ。」
「ああ。俺も返事を穴から落とす。」
「うん、元気でな。」
「うん。」
そう言って俺達は握手をすると、澤村は車に乗り込んだ。
俺も自転車に跨り、車の窓のサッシに掴まる。
少し緊張しているけど、俺には少しの迷いもなかった。
みんなで真剣に調査し、その努力を俺が背負ってる。
恐がって止める訳にはいかないし、失敗する訳にもいかなかったんだ。
それに、俺には計画が成功する自身があったんだ。
根拠はない。
ただ何となく、何となく成功する気がしたんだ。
だから恐さはなく、計画に命を掛ける事に躊躇う事もなかった。
「じゃあ馬場……行くぞ」
「あぁ……」
コクリと頷くと車は動き出し、段々とスピードを上げていった。
それに従って、俺の自転車もスピードを上げていく。
「ぐ……くぅ……!」
は、速い……! 当たり前だけど、自転車でこんなスピード出した事がない……!
アースで学校に遅れそうになり、切羽詰まって全力で立ち漕ぎした時もこんなスピードを出した事がなかった……!
バランスを取るのがいつもより難しくて両手でハンドルを掴まっていたいけど、車のサッシに掴まる右手を離すと加速できない……!
左手だけでハンドルを握らなければいけない!
でもバランスを崩しちゃダメだ!
倒れてしまったら俺は死んでしまうかもしれないし、アースに帰れない……! みんなの努力が報われないんだ!
公園は真っ直ぐ近付いてくる。
俺も歯を食い縛ってバランスを取る。
大丈夫だ、安定している!
「今だ馬場、行けぇ!」
そして澤村の大声が聞こえてきた時、俺は右手を車から離して両手でハンドルを持った。
猛スピードで公園に飛び込み、100kmの速さでジャンプ台に乗った。
「うおおぉー!」
そして俺はすごい勢いで空を飛び、穴に向かって真っ直ぐ飛んで行った。
穴を通り、俺はイアルスから姿を消したのだった。
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俺と両親は車を公園の前に止め、しばらく馬場が去っていったその空を眺めていた。
日の出が近いのか東の方が明るくなってきていて、沈黙が広がっている。
止めている車のテールランプがチカチカと光り、沈黙の中雀やカラスの鳴き声が小さく聞こえた。
じっと空を見つめていた俺は、やがて唐突に口を開いた。
「やった……」
俺の隣の和俊さんは微笑んでいる。
「やった……帰れたんだな…馬場……」
和俊さんの隣の美奈子さんは涙ぐんでいる。
「良かった……本当に…本当に……」
俺の瞳からも涙が溢れそうになった。
口には出さなかったが、実は馬場の事を心配していたんだ。
馬場が転倒して、大怪我を負ったり死んでしまったりしたらどうしよう、と。
俺は100kmでも自転車を安定させて安全にジャンプできる方法を編み出せなかった。
あったとしても、俺達の予算では難しい事だった。
だから馬場が転倒しないか心配で心配で仕方がなかったんだ。
だから俺は無事に計画が成功して歓喜溢れた。
良かったな、馬場……と涙を溢しそうになっていた。
そうして空を見つめていると、隣の和俊さんが優しく俺に諭す。
「さあ、今度は君の番だ。美郷に想いを伝えなさい。
美郷は公園にいるんだろう?
もう君が去ったと思っているだろうから、早く行ってあげなさい」
「はい……ありがとうございます」
俺は涙の粒を指で拭い、和俊さん達に頭を下げてから公園を走り出した。
明るさを取り戻し始めた空の下を全力で駆ける。
藤林が居る場所は、きっとあの場所だ。
この公園の一番奥のあの展望台だ、なんとなくそんな気がする。
あの場所なら一人になれるし、藤林と初めて会った場所だから。
藤林は俺がアースに帰っていないことを知って、なんて言うだろうか。
どうしてアースに帰ってないの?だろうか。
どうして俊太郎を連れてこないの?だろうか。
……あぁもう、どうして俺はこんなにマイナス思考なんだろうか。
今は展望台に走るんだろう?
どんなに無理だとわかっていても、この大きな感情を藤林に伝えるんだろう?
そうと決めたのに、何でこんなこと考えているんだ。
俺は伝えると決めたんだ!
藤林に好きだと告白すると決めたんだ!
「はぁ…はぁ…着いた…」
膝に手をつき、体を傾けながら息をする。
そうして息を整えていると、誰かの泣き声が聞こえてきた。
きっと、藤林の声だ。
どうして泣いているのかわからないけど、これは藤林の声だ。
俺は息を荒らしたまま、展望台の階段をかけ上って屋上へ出る。
どうしようもない気持ちになって歯を食い縛って階段を上ると、汚いコンクリートに泣き崩れている藤林を見た。
地面に座り込んでいて、展望台の塀に手をついている。
自分の好きな人が何故だか泣いている。
そう思うとまたどうしようもない気持ちが広がって俺は声を掛けずにはいられなくなった。
「藤林!」
「…え……」
泣いていた藤林は目を丸くして俺の方を振り向いた。
当たり前だ。帰ったと思っていた俺がここにいるんだから。
「澤村、くん……?」
「あぁ、澤村だよ……」
藤林はまだ信じられない顔をしている。
その顔を見て、また俺は弱気になってしまう。
例のネガティブな考えが頭で渦巻き始めたのだ。
しかし、次の言葉に俺はもっと弱気にさせられてしまった。
「どうしてここにいるの……?」
「え……」
藤林は純粋にそう思ったのかもしれない。
そんなつもりで訊いたのではないのかもしれない。
でも俺は……藤林に会ってからどんどんマイナス思考になっていった俺には、どうして元の世界に行っていないの、どうして俊太郎を連れてこないの、と言っていると連想させる言葉だった。
そして涙が流れてくる。
急にまた悲しくなって、堪えきれずに涙が溢れてきた。
「ごめん、俺……帰れなかった……。
あの計画がダメだった訳じゃなくて、ちゃんと馬場は帰っていったんだけど……俺は、残っちゃったんだ……」
藤林はスッと立ち上がって俺の方に早足で歩いてくる。
俺はそれでも、涙を溢しながらなんとか伝えようとする。
さっきの出来事と自分の本当の気持ちを。
「どうして残ったのかって言うと、俺……俺…藤林の事が……!」
そして「好きだからだ」と言おうとすると、藤林が俺を抱き締めてきた。
歩いてきた勢いのまま俺に倒れかかってきて、藤林もまた泣きながら強く抱き締めてきたのだ。
俺は最初、何が起こったのかわからなかった。
藤林に抱きつかれて頭が麻痺してしまったみたいだった。
「私もなの……私も澤村くんの事が好きなの…大好きなの……」
しかし、この言葉でわかった。
この言葉で藤林の言いたい事がわかり、俺のマイナスの思考を全て消し飛ばしてくれた。
藤林は俺の事が好きなんだ。
俊太郎の面影を重ねていただけじゃなくて、俺の事が好きだったんだ。
俺はそう認識する。
「俊太郎は確かに私の幼なじみで…昔からたくさんの思い出を作ってきた大切な人だけど……。
でも…私が好きなのは澤村くんだった……。
私に優しくしてくれて、私を助けてくれて…側にいるだけでドキドキした……」
「藤林……」
藤林は俊太郎じゃなくて、俺が好きなんだ。
俊太郎じゃなくて、俺なんだ。
そう何度も脳内でリフレインし、全ての胸の黒い気持ちが拭き取られて甘い気持ちが広がった。
その途端、藤林に抱き締められている俺は、また涙が流れ始めてくる。
この大きな気持ちのやり場を、俺は見つけたんだ。
俺は、藤林の事を好きでいていいんだ。
藤林を抱いて、いいんだ。
そう思い、俺はぎゅっと藤林を抱き返した。
藤林への気持ちを込めて、強く抱き締めた。
「藤林…好きだ…大好きだ…愛してる……」
「うん…今まで気持ちを伝えられなくて、ごめんね……」
「愛してる…愛してるんだ、藤林……」
「うん…好きって言えなくて、ごめんね…ごめんね……」
「愛してる…ずっと一緒にいよう……」
「うん…私も、澤村くんの事を…愛してるよ……」
そうして俺たちは、泣き疲れるまで抱き合っていた。
今まで我慢して募らせてきた想いを互いにぶつけ、気が済むまで抱き合っていた。
もう藤林を失う心配はない。
そう思うと、本当に俺は苦しみから解放された。
あれほど俺の胸を痛みつけていた苦しみからやっと、やっと解放されたのだ。
そして、解放された後は大きな幸せだった。
こんな幸せを得られるのなら、あの苦しみも価値があったものと感じるほどの、大きな大きな幸せだ。
あの時、本当に帰らなくて良かったと思う。
馬場と藤林のお父さん、お母さんに止められて、本当に良かったと思う。
あの時に帰っていたら、この幸せを俺は逃していたんだ。
それできっと、アースで一生後悔し続ける事になっていたんだ。
だから俺は本当に、馬場と藤林の両親に感謝している。
止めてくれて、ありがとう、と。
この幸せをありがとう、と。
そうして俺たちは、今まで我慢して募らせていた想いを互いにぶつけ、気が済むまで抱き合った後、展望台の古いコンクリートのベンチに座って、日の出を待っていた。
俺が藤林の肩を抱き寄せ、藤林は頭を俺の肩に乗せて寄り添いながら日の出を待つ。
西の空はまだ藍ぐらい深い色だけど、太陽はそろそろ上ってくるようで、東の空はすっかり水色になっている。
そのグラデーションのある空だけでも綺麗なんだけど、太陽が見えたらもっと綺麗なんだろうなあ。
町の景色と日の出が一遍に見えるんだし、日ノ出公園って言うくらいだしなあ。
それに、藤林と一緒に見るんだ。
最高に綺麗な日の出に違いない。
「澤村くん……寒くない?」
「大丈夫……藤林とこうしてるから、温かいよ。」
「そうなんだ……」
藤林は恥ずかしそうに、嬉しそうに言う。
俺はそれが可愛くて、頭もこつん、と藤林の頭にくっつけた。
もう、何だかどうしようもないくらい藤林に夢中で、この手を離すなんて事は全く考えられなくなっていた。
さっき何度も何度も好きと言ったのに、再び好きだと言いたくなるほどに。
「あっ、上ってきたよ……!」
「ホントだ……!」
最初は、水平先にくっついた赤い点のようなものだった。
太陽はまだ輝くほど出ていなくて、真っ直ぐと見ることができる。
それがゆっくりとだけど、半円を描いた赤い太陽になってくる。
空も更に明るくなってきて、東の水色がどんどん広がっていく。
「図書館の書庫の、あの本の著者もこんな風に恋人と日の出を見たのかな……」
「そうかもしれない……。
もしかしてこの公園を建てたのも、その人だったりして……」
「そうなのかな…? それなら、恋人と日の出を見る為に作られた公園みたいだね……」
そうだねと言って、二人して笑い合う。
俺も藤林も本当に幸せそうに笑っていて、ドラマのワンシーンみたいに寄り添いあっている。
気付くと太陽は先程よりも大きく弧を描くくらい出てきていて、段々と輝き出していた。
日影と日向の違いがはっきりして幻想的な光景ができていて、町の眺望と日の出とその光に包まれて、俺たちはまるで綺麗な空間に居るみたいだった。
これが日ノ出公園の作り出す日の出だった。
そして半分以上太陽が上がって、もう真っ直ぐに見られなくなった頃、俺は呟くように言った。
「藤林……」
藤林は俺を見る。
俺も藤林を見て、藤林をじっと見つめる。
こうして藤林と寄り添っているから、すぐにとろけるような目をしている藤林の顔が目に入ってきた。
俺もそんな甘く優しい瞳で藤林を見つめる。
そして俺達は、まるで磁石同士が引かれ合うように、自然の力で引かれるようにキスをした。
互いを感じるように目を閉じ、顔を傾け、口を少し開けて唇を交える。
緊張はなかった。
俺はこれが初めてのキスだったけど、藤林を感じ取ろうとするとその緊張も忘れて夢中になったからだ。
ただ心臓は大きく高鳴っていた。
ドッ…ドッ…と、胸に手を当てなくてもそれがわかるほど鼓動を打っている。
藤林の肩に回している腕を伝わって藤林の鼓動も伝わり、俺も藤林も心臓がばくばくと跳ね回っているとわかった。
唇を離すと、俺は恥ずかしくて藤林を直視できなくて、藤林の肩に頭をのせた。
そしてぎゅっと抱き締める。
離さないように、この幸せを離さないようにとしっかり藤林を抱き締める。
心臓を動かして疲れてしまった体を慰めるように、別れてしまう悲しみに堪えた胸を癒すように。
……そうだ、もう藤林と離れなくてもいいんだ。
ずっと藤林の側にいていいんだ……。
そう思うとまた俺は安心する事ができ、嬉しさを噛み締められた。
本当に良かった、と胸を撫で下ろす。
「澤村くん……」
藤林が俺の名前を呼んだので、なに?って訊くと、藤林に口を塞がれてしまった。
今度は藤林の方からキスをしてきたのだ。
そして俺達は再び目を閉じて、互いを感じ合う。
そうだ、俺たちはこうやって想い合って生きていく。
自分の生まれた世界とは違う、藤林がいるこの世界で生きていくんだ。
もう決して離す事はない。
ずっと互いに想い合って生きていこう。
その意志を示すように、俺達は体を抱き合って唇を這わせていた。
長い間互いを感じていた。
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太陽がすっかり上がって赤さがなくなった頃、俺達は展望台を後にした。
手を繋いで公園の入り口に戻ると、既にジャンプ台やパイロンは片づけられていて、俺達が来る前の元通りになっていた。
俺が展望台に行っている内に和俊さん達が片付けてくれたのだろう。
片付けられた公園を見るまで気付かなかったけど、また俺は美奈子さん達の世話になってしまった。
本当に申し訳なくなり、居た堪れない気持ちになる。
お礼を言いたくなり、公園を探してみると、美奈子さん達は車の前で俺たちを待っていた。
それを見て、俺達は駆け足で美奈子さん達の元へ行く。
「……すいません、美奈子さん、和俊さん。
片付けを任せてしまって……」
「いえいえ。あれくらい、へっちゃらです」
そう言って、笑って力こぶを作る振りをする美奈子さん。
あっ、やっぱり親子なんだな。
今ちょっと、藤林に似てた。
微笑ましく思って笑って応えるけど、俺は申し訳なさそうに俯いた。
「…俺は、いつも迷惑かけてばかりですね。
また、家にしばらく泊まる事になりそうなんです……」
「澤村くん……」
藤林は俺の顔を、心配そうに窺ってくる。
俺はしばらく顔を上げられなかった。
和俊さん、美奈子さんに世話になって迷惑をかけて申し訳なくて……。
そしてさらにこの先も世話になろうとしている。
藤林も奪っていこうとしている。
だから俺には、二人に会わせる顔がなくなってしまったんだ。
「いきなり見たことも聞いたこともない世界に来させられたんですから、助けを求めるのは当たり前です。
仕様がない事だったんです」
「でも、俺……申し訳なくて、恩返しがしたくて……」
そう言うと、和俊さんが口を開いた。
「もう恩は返してもらったよ。
大きいものを、喜ばしいものをね」
「え……」
しかし、俺は恩返しした覚えはなかった。
藤林家に覚えがあるのは、いつもお世話になって迷惑をかけた事しかなかった。
「思いつかないかい?」
「は、はい……」
少し慌てて応えると、お父さんは笑って言った。
「…美郷の、幸せだよ」
「え……」
俺は驚いて目を丸くした。
藤林も、目を丸くしている。
「私たち親というのは、子供の幸せが一番嬉しいものなんだよ。
子供を叱ったり、いい学校に進学させたりするのは、子供の幸せの為なんだよ。
それを君は、私達にくれた。
そんな大きなものを私達にくれたんだ。
さっき君と歩いてきた美郷の顔を見てわかる」
「お、お父さん……」
横を見ると、藤林は照れていた。
そりゃそうだ。嬉しいけど、こんなに面と向かって言われると恥ずかしい。
「澤村くん。君がそれでもまだ申し訳ないと思うなら、美郷をもっと幸せにしてやってくれ」
「え……」
「美郷が望むように、いろんなところに行って、いろんなことをしてほしい。
いいかい、澤村くん?」
「……はい。ありがとうございます。ありがとうございます……」
俺は、和俊さんの言葉に感動して、再び泣きそうになりながら深く礼をした。
いい家族だ。
家族の全員が献身的で、互いを思いやって暮らしている。
藤林が幼い頃、どんな風に育てられたか想像できるよ。
愛情とか思いやりとか、温かいものを込めて育てられたんだ。そう感じる。
そうして藤林も、そういうところを受け継いで、こんないい人に育ったんだ。
感動的だよ、俺が好きになるはずだ。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい……」
俺達は自分の乗ってきた自転車に股がる。
二時間ほどだったけど、長い時を過ごしたように思えるこの日ノ出公園を一瞥し、藤林の家に帰ろうとペダルを漕ぎ出した。
しかしその時だった。
車で帰ろうとしている和俊さんが、窓から顔を出しながら大きな声で言った。
「あっ、澤村くん!」
「は、はい……なんですか?」
「美郷の事はちゃんと名前で呼んでくれ。
僕達の事もお義父さん、お義母さんと呼ぶんだ。
もうそういう関係なのだからいいよね? じゃあまた後で!」
「えっ、ちょっと和俊さん?!」
そうして和俊さんは有無を言わさず車で帰っていった。
俺は唖然としながらその去っていく車のテールランプを見つめる。
問答無用ですか…強制的ですか、和俊さん……。
きっと別れ際というタイミングを狙ってわざと要求してきたに違いない。
でもそんな簡単に言わせていいのだろうか。
「お前に父と呼ばれる筋合いはない」という、有名で少し陳腐な言葉もあるのに、こんなに気軽に呼ばせるなんて変じゃないだろうか。
まぁ…それほど認めてもらえているという事でもあるから光栄だけど……。
「い、行こうか…藤林……」
「う、うん……」
和俊さんの所為で変な緊張を感じながら自転車を走らせる。
すっかり明るくなった空の下を二人っきりで無言のまま走り始めた。
う……下の名前で呼ぶんだったよな……。
くそう、言われなくてもちゃんと美郷って呼ぶつもりだったのに……。
和俊さん達には感謝してるけど、これはちょっと恨めしいよ……。
とりあえずちゃんと美郷って言おう。
さっきは自分から好きだって言えなかったし……。
「ねぇ…美郷……」
「な…なに……?」
「あ…えっと……」
しまった……呼ぶ事に必死で何の話をするかまでは考えてなかった……!
何の話題を振ろうかとしばらく考えてみたけど、結局俺が考えついたのは、話題でも何でもない言葉だった。
「呼んでみただけ……」
「そ、そう……」
「うん……」
うわわ! 恥ずかしい! 話は考えてなかったし名前で呼ぶのがこんなに恥ずかしいなんて!
「ねぇ俊助くん」
俺が顔を赤くしていると、隣の藤林は不意に俺の名前を呼んだ。
いつもの名字ではなく、下の名前だ。
「な、なに……?」
「呼んでみただけ」
少し照れながらも、そう楽しそうに笑う藤林。
俺はその不意を突いた藤林の攻撃に、ドキンッと胸を掴まれてしまった。
先程と近いくらいに鼓動が激しくなり、頬が紅潮する。
「な、なんだよ…真似すんなよ……」
「あはは」
藤林も赤くなっているけど、藤林はそれよりも赤くなっている俺をからかうように笑った。
本当は楽しくて嬉しいのだけれど、俺は怒った振りをする。
「わ、笑ってないで早く帰ろうよ……」
「あはは、そうだね」
それから俺達は話しながら帰った。
冬休みが始まってからほとんどなかったけど、以前のように藤林と話しながらの帰宅。
先程までは、もうきっとこんな事できないと思っていた事を普通にしている。
今でも少し信じられない。この瞬間が戻ってくるなんて。
俺はアースに帰って藤林を諦めるんだと決めていたのになぁ。
薄い水色の空は、俺と馬場がこの世界に来た時のように晴れていた。
先程まで沈んでいた太陽も燦々と光り、俺達の町を照らしている。
まるで、イアルスでの生活が新しく始まるみたいだ。
前は図書館で調査したり藤林との別れに悲しんだりしていたけど、今度はイアルスで平凡で穏やかな毎日を送れるんだ。
さぁ家に帰ろう。
楽しい毎日が待ってる。
そんな新鮮な気持ちで、俺は藤林の家に帰っていったのだった。
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美郷と家に帰って部屋に戻ると、俺は机の前の座布団に座った。
ため息を吐いて、ゆっくり体を休ませる。
「……またしばらく、この部屋の世話になりそうだな」
部屋は出発前に掃除したので綺麗に片づけられている。
調査をして荒らした机の上も、今は跡形もなく片付いている。
それにしても、出発前は馬場もこの部屋にいたんだな……。
あいつは本当に騒がしかったから、なんだか今はこの部屋が広く思えるよ。
そう思っていると、躊躇いがちなノックが聞こえてきた。
どうぞー、と応えて部屋に招き入れる。
ノックの主は、やっぱり美郷だった。
結構聞き慣れてんだ、美郷のノックは。
「馬場くん、帰っちゃったね」
「うん……」
美郷は、俺の隣の座布団に座りながら言う。
思っている事は俺と一緒みたいだ。
あんなヤツでもいなくなると寂しい、そう寂しさを感じているんだろう。
「でもあいつはきっと、向こうでもよくやってるよ。
だって、あいつだもんな」
「そうだね……」
美郷は、寂しそうにしながら、俺の肩に頭をのせた。
俺もまた、頭を美郷の頭とくっつける。
「……あいつと、お義父さんお義母さんが俺を止めてくれたんだよ、アースに帰るのをさ」
「そうなんだ……」
「準備も整って自転車に跨って帰ろうって時に、俺の体が全然動かなくなってさ……
それで馬場が言ったんだ。
思いを隠すなよって、そんな大きな思いは隠しきれないんだからって」
「へぇ……」
「俺、美郷が好きな気持ちを隠してたんだ。
胃潰瘍で入院した時にこっそり処方してもらった精神安定剤を飲んで……」
言いにくい事だけど、美郷に言わなきゃいけない。
美郷とはやっぱり秘密なく付き合いたいし、これは大事な事なんだし……
「……知ってたよ」
「本当に?」
「うん…私もその薬、勝手に飲んで俊助くんを好きな気持ちを隠しちゃってたから……」
「……やっぱりそうなんだ」
実は薄々気付いていた。
美郷が薬を飲んで好きな気持ちを抑えているんじゃないかって。
その好きの気持ちの方向は、俺じゃなくて俊太郎だって思い込んでたけど、たぶんそうなんじゃないかって……。
「ごめんね俊助くん…勝手に薬を飲んで……」
「いいよ。これでおあいこだし。
それに、俺と同じくらい辛かったんだよね」
「うん……」
俺は美郷の肩に腕を回して抱き締めた。
日ノ出公園の展望台で抱き締めたようにぎゅっと……
でも、今度は場所が違う。
公園と違って風が吹く音や鳥が泣く声が聞こえてこない、二人っきりの静かな場所だ。
あの時はあの時でロマンチックだったけど、今は今で違う種類のロマンチックだ。
胸をドキドキさせて頭を麻痺させるようなロマンチック……
「俊助くん……」
「なに……?」
「…冬休みの宿題、やった?」
時が止まった。
完全に思考が停止し、俺は石のように固まった。
頭を麻痺させるようなどと、どうたらこうたらと思っていたけど、本当に頭が麻痺してしまったみたいで美郷の言った事がすぐには理解できなかった。
そして5秒が経った後、俺はやっと麻痺が解けて口を開いた。
「や…やってねぇぇえー!」
俺は頭を抱えて背中から派手に倒れた。
あまりの驚きに、ボクシングのチャンピオンに殴られたように床に倒れ込まされた。
うぅ…そうだった…すっかり忘れてた……俺はまだ、宿題の少しもやってないじゃないか……。
なんてこった…さっき、明日は美郷とどこかへ遊びに行こうと既に計画を練っていたのに…
まさか悉く打ち砕かれるとは…
「あはは、自業自得だね」
俺が頭を抱えている様子を見て、美郷はお腹を抑えて笑っている。
うぅ…美郷のやつ…
言うならさっきじゃなくて、後でもよかったじゃないか…
せっかくまた、もう一回キスできるかな、とか思ったのに…
「だ、だって…俺は本当にこの世界から出ていくつもりだったし…
それに、美郷の事で一杯一杯で宿題なんかできなかったんだから…」
そう言うと、美郷は笑いながら顔を赤くした。
あれ、笑いすぎて顔が赤くなったのかな。
それとも…違う何かで赤くなったのかな。
「それなら、仕様がないかもね。
私もたぶん、冬休みの始めに終わらせてなかったら、まだ残ってたと思うし…」
「へぇ……あっ、ていうことは、美郷はもう宿題終わったのか…
いいなあ……」
「まぁまぁ、頑張ろうよ。
私が手伝ってあげるから」
それを聞くと、俺はやる気が出てきた気がした。
美郷と一緒に宿題をできるという、たったその事だけで。
でも素直に喜ぶのは何だか恥ずかしくて、俺は「わ、わかったよ…やるよ…」と、わざと苦笑いを作って机に宿題を並べた。
対して美郷は、嬉しそうに無邪気に笑いながら、「まずはこれね」と作業を仕向けてくる。
そうして俺たちは、一緒に宿題を始めた。
俺が問題を解いていき、わからない問題があったら美郷に訊く。
男としては情けないけど、でも俺はそれが楽しかった。
美郷が傍にいることが、本当に嬉しかった。
だから俺は何時間も宿題を続けられた。
「辛くない?そろそろやめようか?」と美郷に気づかうと、「私は辛くないけど、俊助くんが辛いなら…」と美郷も気づかってくれた事が嬉しくて、俺たちはまた次の日も宿題をぶっ続けで進めていた。
もう、離せそうにないな……。
こんな可愛くて綺麗な存在……。
俺はこの綺麗な存在と…美郷と生きていこう……。
だって、これが自分の生きる場所だから……。
美郷の傍が、自分の生きる場所だから……。
聡美……。
俺の生きる場所は見つけられた訳だけれど、偉そうに言っていた聡美は見つけられた?
もう会うこともなくなっちゃったけど、聡美は無事に見つける事ができた?
聡美の、お前の生きる場所を━━。
THANK YOU FOR READING!!
THE END-