翌日。
俺は昼に目が覚めた。
遅い起床だから、天井は太陽の光の白っぽさを帯ておらず、はっきりと目に映っている。
周りを見渡してみると、隣で寝ている馬場の姿は、もうなかった。
図書館にでも行ったのだろうか?
布団に寝ながら目覚まし時計を取って見ると、針は12を指している。
今まで生きてきて一番遅い起床だ。
自分の過ちだった。
昨日、俺が目覚まし時計をセットせずに寝たのだ。
馬鹿だな俺は、と吐き捨てるように呟き、俺は体を起こす。
でも、俺は布団からは出なかった。
体を起こして膝に布団をかけてままで、布団から出らずに惚けていた。
何だか、心が空っぽなんだ。
何か大きくて大事なもので埋まっていたのだけど、それがなくなって心はぽっかり穴が空いてしまっているんだ。
その大事なものはきっと、いや絶対に、藤林の事だろう。
心のほとんどを占めていた藤林への想いが、叶わないとわかってぽっかり空いてしまっているのだろう。
だから俺は、長い間そうして惚けていた。
布団を出て、遅い朝ごはんを食べる気にはならなかった。
胸が……痛い……。
きっとまた、胃潰瘍になってるんだ……。
ダメだ。また倒れたら、きっと藤林が心配するし調査が進まなくなる。
もう泣くどころか、悲しんでも許されない。
ニコニコと笑っていなくてはいけないんだ……
そう思って、俺はやっと布団から出た。
酷い立ちくらみに襲われたが、俺は胸の痛みを引きずって部屋から出た。
そして俺は、退院する時に処方してもらった、あの薬を使う事にしたのだった。
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「馬場くん。澤村くんを置いてきてよかったの……?」
藤林は声を潜めて訊いた。
俺も同じく、声を潜めて答える。
「いいんだよ。あいつは最近疲れてるみたいだから、今はそっとしといた方がいいんだよ」
「そうだね。そうだよね……」
馬場がカウンターの方を見てみると、地味な眼鏡をかけた、体格の良いお婆さんがこちらをジロリと見ていた。
俺たちはすぐに黙って本に目線を移す。
恐れを成して、本で顔を隠した
今日のこの時間はヤバい……
あのお婆さんは本当に恐いんだ……
実は以前、俺が不注意で、ホントに不注意で騒いでしまった時があるんだ。
その時に、あのお婆さんは注意しようと俺に歩いてきて、肩を叩いて馬場を振り向かせたんだ。
そこまでは良かった。
そこまでは普通の事だったんだけど、そのお婆さんはいきなり俺の頬に拳を叩き付けたのだ。
あの時繰り出されたパンチは、本当にいいストレートパンチだった。
拳の風を切る音が聞こえるぐらい、完成されたパンチだった。
そのパンチで俺の足は床を離れ、2mほど飛ばされてから床に派手に落とされたのだった。
俺達はもちろん呆然、周りの人も呆然としてその様子を見ていた。
図書館に相応しい……いや、どこの図書館よりも静かな空気が流れていた。
その沈黙の中、お婆さんは「図書館では静かにするように」と一言注意して、また颯爽とカウンターに戻っていったのだった。
だからこのお婆さんがカウンターに立つ時間帯は、本当に危険だった。
神経を切らして静かにしていなければならなかった。
俺達は本で顔を隠す。
でも……何だかやっぱり、澤村に悪い事をしているみたいだ……。
澤村を置いてこの図書館に来るってことは、藤林と二人っきりになるって事だもんな。
藤林は澤村の好きな人だから、その藤林と二人っきりなんて…澤村は快く思わないに決まってる。
そうしたら、澤村がまた余計な神経を擦り減らしてしまうかもしれない。
澤村が倒れた理由は…藤林との別れが原因だって言うのに……。
「あっ、澤村くんだ……」
「……えっ、ホントに?」
そう言われて藤林が見る方を見ると、確かに澤村が図書館の玄関を開けて中に入ってきていた。
馬場達の居場所を探しているのか辺りを見回している。
やがて澤村は馬場達に気付いたのか、にやりと不気味な笑みを浮かべて歩いてきた。
あれ…なんで澤村があんな風に笑っているんだ…?
「やぁ馬場。よくも俺を置きざりにしてくれたな」
「い、いや……俺は澤村の事を心配してだな……」
「問答無用。今度お前のバッグに牛乳流し込んでやる」
「えぇー?! ……ってそうじゃなくて、お前この時間帯は……」
「あ……」
澤村が気付いて後を見てみると、やっぱりカウンターのお婆さんがこちらを睨んでいた。
荒ぶる負のオーラ、つまり怒りのオーラが沸々と滲み出ている。
「お、俺…資料探してくる……」
「お、おう……」
澤村は慌てて荷物を置いて、逃げるように本棚の方へ歩いて行った。
俺も無論、すぐに本に目を移し、調査を再開させる。
しかし藤林は、ボクサー婆さん(今、命名)を恐れる様子はなく、俺に小さな声で尋ねてきた。
「ねぇ馬場くん……澤村くんの様子、変じゃなかった?」
「え……いや……そ、そうかな……」
瞬間、俺は殺気を感じる。
殺気の塊が近付いてくるのを感じる……!
「なんか……雰囲気は明るかったけど、どこか不自然で暗かったような……」
「そ、そうかもしれないけど…でも藤林、今は静かにしてないと……!」
俺は再び、宙を舞った。
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俺達の調査は、行き詰まっていた。
もう既にこの図書館を探し尽くし、市外の大きな図書館も探し尽くし、今は一度読んだ本をもう一度探して読んでいる。
それでも、イアルスの事に関しての情報が一向に手に入らず、もう三ヶ月以上探しているのに同じような説明の本しか見付からないのだ。
正直言うと、俺はもう帰る術を見付けられないかもしれないと諦めかけていた。
みんなも、一度読んだ本を再び読んでいても見付からないだろうとわかっているはずだ。
それでも読んでいるのは、諦めたくないという気持ちがあるからだ。
藤林を好きになってしまっている俺だって、このまま帰る方法が見付からなければいいのにとは思わない。
藤林への恋心は忘れていないのだけど、俺はもう叶わない恋と諦めていた。
むしろ、藤林には俊太郎と再会して幸せになってほしい、俺が好きになった人だから幸せになってほしい、と思っていたのだ。
それに……帰る方法が見つからず調査を断念せざるをえなくなっても……
藤林が俺を好いているのではなく俊太郎の影と重ねているだけなのなら、俺は藤林と付き合う気はなかった。
俊太郎の代わりだなんて……俺はごめんだった。
つまり俺は、理想の高い恋を望んでいたのだ。
贅沢を言っているかもしれないけど、でもその点だけは妥協したくなくて、遊びのような交際はしたくなかったのだ。
だから俺は、できれば冬休み以内に元の世界に帰り、藤林の事はすっぱり忘れたいと思っていた。
……そう、思っていた。
「あの…あなた達は、いつも何の本を探しているのですか?」
「え……?」
そうして俺が昨日読んだ本の隣から、三冊を抜き出して机に戻ろうとすると、大学生と思われる女の人が話しかけてきた。
眼鏡をかけて目立たない服装と髪型をしていて、いかにも図書館従業員という格好が特徴的のこの人は、知らず知らず覚えてしまっていた顔だ。
でも何度も図書館に来て見た事があるというだけで、全く話したことがない人。
その人が一体俺に何のようだろうか?
というか、いいのだろうか?図書館の従業員が話しかけて……
「いや…実は、異界について詳しく調べたいんですけど、どの本も漠然とした説明しかされていなくて行き詰まっているんです」
「異界、ですか……難しいですね。
存在するのかもわからない謎のものですから……」
「そうですよね……」
そんな風に言われて、俺は何だか自信を無くしてしまった。
やっぱりこの世界から脱け出す事は不可能なのだろうか……
「でも、もしかしたら図書館の書庫に求めている本があるかもしれません」
「書庫、ですか……?」
「この図書館は、開館した時からの本を沢山書庫に保存しています。
そこなら求めている情報も見付かるかもしれませんよ?」
「本当ですか……?」
俺はそう聞いて喜んだけれど、別にその書庫に求めた情報があるという訳ではない。
でも俺は今、藁にもすがりたい時であった。
今抜き取った、以前に読んだ事の本よりも少しでも可能性があるならそちらにすがりたい。
「探させてください。どうしてもその情報が必要なんです」
「いいですよ。特別ですけど、その積りで声をかけたのですから」
「本当ですか?あ、ありがとうございます…!」
俺は少し声を明るくして礼を言うと、従業員さんは「じゃあ行きますね」と俺にその書庫に案内してくれた。
従業員さんは俺を連れて、カウンターの奥にある従業員スペースの中の階段を下りていった。
この図書館に地下なんてあったのか、と意外に思ったけどまだ驚きは終わらなかった。
地下は図書館の従業員でもあまり出入りしないようで、掃除されていないようで埃っぽかった。
通気孔もなく一本の道が続いているだけなので、湿気が多くて空気も荒んでいた。
でもそれはまだいい。
埃を吸うと声が変わったりしてしまうけど、でも俺は別の事の方が気になっている。
なぜならこういう場所って……いやまだ見た訳じゃないけど……
「あの……実はここ……」
「えっ……?」
「出ます、からね……」
俺の額から冷や汗が流れる。
出るってやっぱり……
「……霊じゃ、ないですよね…?」
「ち、違います……ネズミです、ネズミが出るんです……!」
な、なんだネズミかぁ……
いやまて、ネズミが出るってことは……やっぱりゴキ○リも出るのだろうか……
言わなくてももうわかるだろうが、ネズミは平気だが俺はゴ○ブリが大の苦手だ。
情けない事に、見るだけでも身の毛がよだつのだ。
だから俺はあまりそんな場所に居たくなくなってしまった。
ゴキブ○の出る場所なんて居たくはない。
まぁ……それでも俺は行くし、ネズミが嫌いなのに俺を案内してくれているこの人の事も考えなければ、やっぱり嫌だなんて言えないよな……
「はい、ここです」
そんな事を思っている内に俺達はドアに行き着いた。
古びたドアを開けて電気を付けると、木製の本棚が所狭しと並んでいた。
人一人通れるか通れないかの隙間で並べられていて、1つ本棚を倒せば、本を溢しながらドミノのように倒れていきそうな狭さだ。
電気は付いているのだが薄暗くて、壁や天井気味が悪い。
う……この書庫……出るのはネズミや○キブリだけではないような気がしてきた……
「ここならきっと、探している情報が見付かると思います。鍵は渡しておきますから、探し終えたら電気を消して戻ってきてください。
それでは……」
「えっ……?!一人にするんですか?!」
俺はてっきり、従業員が監視している中で俺が本を探すのかと思っていた。
だって従業員でも何でもない人を、昔から大切に残されてきた場所に一人っきりで居させる訳にはいかないはずだ。
俺はそんな事しないけど、本を破ったり盗んだりするかもしれない。
だから俺は慌てて(決して一人が恐い訳ではない)従業員さんを止めようとしたけど、従業員さんは鍵を渡して逃げるようにドアを閉めて行ってしまった。
途端、書庫は酷く静かになり、全くの沈黙が広がる。
何だかもう、すぐにでも戻りたくなってきてしまったのだが、俺は藤林の為と思って薄暗くて静かな中で求めている本を探し始めた。
気味が悪くて恐ろしくて、ゴキが出そうで恐ろしくてあまり集中できなかったが、俺は一人書庫での調査を始めた。
でもこの書庫は、通常の棚みたいにいつでも閲覧できる訳じゃない。
ここを閲覧できるのは今日だけかもしれない。
だからとりあえず、軽くでも目を通して全部の異界についての本を読んでおこう。
重要なところだけ読み、後は飛ばすように読んでいれば閉館までには探し終えるはずだ。
そうして俺は本を端から端まで読み始めた。
書庫の本は本当に古く、天金の本もあれば糸で止められた本もあった。
普通の図書館の棚では見付からない本が沢山あった。
しかし、求めている情報はなかなか見付からない。
これだけ本を探してみたのに、まだほとんど役に立ちそうな情報は見つかっていなかった。
でも俺は探し続ける。
早く藤林と俊太郎を会わせてやりたくて、藤林を幸せにしてやりたくて、俺は本を探し続けた。
しかしそうして懸命に探して、昼から夜まで探していると、何度か視界の端に何か素早いものがよぎる事があった。
黒光りしている、考えただけで身の毛がよだつような生き物だ。
うわぁ……また出やがった……
……この書庫から出る為にも、早く見つけなきゃな。
あまり考えないようにしていたからわからないけど、一体何度見ただろうか……
もう見るのも嫌だよ、あんなもの……
そう思って、一冊の本を棚から抜く。
またこの本も糸でとめられた古い本だった。
いつものように、この本で最後になればいいのになという願望を抱き、その埃っぽい本を開いて読んでいく。
「……これは…」
この本がビンゴだった。
この本が、この世界の謎を明かし、元の世界に戻る方法のヒントをくれた本だった。
この図書館を探し尽くし、県外の大きな図書館を探しても見つからなかった本が、この書庫にあったのだ。
しかし、この本を見つけた時、俺の胸の痛みはまた振り返してきた。
朝に感じた痛みよりも、ズキズキと確実に強く痛んでいる。
藤林を諦める事を選んだのだけど、やはり心のどこかに諦め切れていない自分がいたのだ。
今更俺は何を躊躇っているんだ…
藤林との別れは覚悟してきたはず…だから馬場逹にこの本の事を教える事に躊躇う事はないだろう……?
薬も使ってるんだ…効力が弱いとはいえ、もう少し持ってくれ……!
俺は散らかした場所を片付けて、この本を持って書庫を出る。
痛む胃を抑えて、フラフラと書庫を出た。
馬場逹にこの本を隠したりせず、潔く藤林を諦める事を選んだのだった。
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「馬場、目的の本を見つけた」
さきほどの従業員に机に持って行く事の許可をもらって馬場逹の机に向かうと、俺は本を机に置きながら言った。
図書館なのに、俺は声を潜めずに。
「本当かよ、澤村!」
「馬場、静かにしろ。また殴られるぞ?」
自分も声を潜めなかったのにね。
カウンターはあのお婆さんじゃなかったけど。
「し、静かにするよ……だから、その本を早く見せてくれ」
これがその本だよ、と指さす。
「随分古いな…どこで見つけてきたんだ?」
「この図書館の書庫だよ」
「へぇ、よく入れたなそんなところ……どれどれ?」
そう言って、早速その本を読み始める。
まったく、恋する男は本当に盲目だ。
以前は進んで本を読むことなんて全くなかったのに。
「ねぇ…本当に手がかりが見つかったの?」
疑っているのか、藤林は浮かない表情で訊いてきた。
反対に、俺はにこりと笑って答える。
「うん。帰る方法も憶測がついたんだ。それが正しかったら俊太郎をこの世界に帰せるんだぞ、藤林」
俺の言葉を聞くと、藤林は取って付けた様な作り笑いを浮かべるだけで、後はまた浮かない顔をして黙って座っていた。
どうしてだろうか。
俊太郎に会いたかったけど、いざ会える事になって緊張してしまっているのだろうか。
「澤村、すごいよ、こんな本を見つけてくるなんてさ。この本の著者も俺達と同じような事になってたみたいじゃん」
「まぁね、苦労したよ。ネズミの声とカサカサって音に堪えながら探したんだぞ?」
「そうなのか?よくわからないけど、よくやった、澤村」
馬場は柄に似合わず俺を褒める。
でも俺は素直に喜ばずに、もっと褒めろ、お前は俺にもっと感謝すべきだ、と茶化して言ってやった。
でも実際は本当にそうだ。
俊太郎とかの理由もあるけど、俺はお前の為にも一人の女を諦めようとしているんだぞ。
この前、俺をこの図書館の屋上で泣き叫ばした言葉、まだ忘れてないからな。恋患いの馬場め。
そんな事は知らず、馬場は黙々と本を読み始めた。
藤林も浮かない表情のまま、横から本を読んでいく。
本を読み終え、既にイアルスとアースの秘密に予想がついている俺は、なんだか藤林が聡美に見え、馬場と聡美が一緒に本を読んでいるように見えた。
恨めしい事かもしれないけど、馬場が望む幸せな光景が見えた気がした。
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1907年 5月26日。
私は崖から海に落ちました。
馬が混乱して暴れ狂い、馬車が崖から落ちてしまったのです。
私は馬車が崖に向かっているとわかると、すぐに馬車から飛び降りたのですが遅かったです。
地面に倒れて少し地面を転がりましたが、勢いは止まらずに私はすぐに海に落ちていってしまいました。
崖の端を掴もうと手を伸ばしましたが、それも虚しく空を掴み、真っ逆さまに海に落ちて行きました。
しかしこの時、不思議な事が起こったのです。
落ちる速さが段々と遅くなり、時間が遅延したように感ぜられたのです。
視界が歪み、見える空や海がぐにゃぐにゃに曲がって見えたです。
幻覚を見たのだろうと思われるでしょうが、幻覚ではありません。走馬灯でもありません。
時間がゆっくりになって遅延するのを感じた、私のこの体が根拠です。
そして気付いたら、"この世界"で倒れていたのでした。
私がその時まで生きてきた世界とは別の、"この世界"の大地に。
そう、私は自分の住む家も生まれ育った故郷もない……慣れ親しんだ友人もいない、見たことも聞いたこともない世界に落ちてしまったのです。
それどころか、私はこの世界の知識を全く持っていなかったし、私のいた世界の通貨もこの世界では使えませんでした。
幸いにも、宿屋の奥さんに助けられて餓死することを避けられましたが、私は私の生きた場所を無くしてしまったのです。
私は哀しみ、絶望しましたが、私を助けてくれた奥さんに深い恩を感じ、その恩を返そうと宿屋で働き始めました。
私はこの世界での生活を始めたのでした。
1911年 12月4日。
私はこの世界が、私の居た世界と平衡の関係があることに気付きました。
私がこの世界に落ちてくる前に山田という人が居たそうですが、私が落ちてくる日から急に居なくなって失踪してしまったそうなのです。
その山田という人は私と性格が正反対だったのですが、どこか雰囲気が似ていたそうなのです。
おそらく山田がこの平衡世界での私となる人間でしょう。
そして私がこの世界に移った事によって、山田も私の居た世界に移ったのでしょう。
山田の件を聞いた時はあまり深くまで考えなかったのですが、今日、この世界の風景や人物などから気付き、この世界は平衡世界ということに気付きました。
そして平衡世界での私の分身が山田ということに気付いたのでした。
私は、「この世界が平衡した世界」という事から元の世界に帰る方法を考え出したのですが、私はこの世界の娘と恋に落ちてしまいました。
風呂屋の番台に座っている娘です。
私がにこりと笑いかけると、娘もまたにこりと笑いかえしてくれるのです。
私はそんな可愛らしい娘を嫁にもらって今、幸せに暮らしています。
ですから、元の世界に帰る気などなくなってしまい、この世界に居座る事にしました。
これから私は家庭を作ってこの娘と暮らし、この平衡世界で幸せに暮らしていきます。
ただ、私が前の世界にいたという証を残したいと思い、私、山野 宗一郎はこの本を綴る事にしたのでした。
もし、未来に私のようにこの世界に迷い込む者が居たならば、その者の助けになれれば本望です。
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「この世界は、俺達の居た世界と平衡した世界だって……?」
場所を談話室に移し、みんなが本を読み終えてから馬場は言った。
調査をしている時よりも眉間にしわを寄せて、真面目な表情をしている。
「そうなんだ。この世界はただの異界じゃなくて、平衡した世界だったんだ」
イアルスはアースの平衡世界。
それがわかっただけでも今回は大きな収穫だけど、この本にはもっと注目すべき事があるはずだ。
「でも馬場、もっと気になる事があるだろう?」
「あぁ……この『山田がこの平衡世界での私となる人間でしょう』ってところだろう?」
「そうだよ……それで、この平衡世界での俺の分身だった人が……」
「……俊太郎、なんだね」
藤林はやっぱりね、と頷くような顔で言った。
そしてさらに続ける。
「それで、澤村くん達の世界での私の分身が……」
「うん、聡美みたいだよ……」
藤林に続いて、俺もやっぱりそうかと納得する。
以前、聡美に似てないと言っていた馬場も少しは思うところあったのか、納得……いや、何だか浮かない顔をしていた。
絶望というか、恐れていた事が起こってしまったような表情だ。
どうしてそんな表情をしているのだろうか。
俺は少し考えてみたけど見当も付かず、今は全く気付かなかった。
「でもそれなら馬場の分身は誰なんだろうな」
「俺の分身か……誰だろうな……?」
「……キングコング?」
「何でキングコングなんだよ!どう考えても違うだろ!
『俺がこんなに騒がしいやつなんだから、俺と平衡する分身はかなり静かなやつだろ!』」
……あっ、自分で言って自分で落ち込んでる。
自虐だ、自虐ネタだ…
「まぁ……それはいいとして、肝心の脱出方法がまだわかってないぞ。
筆者は方法がわかってたみたいだけど、この本には書かなかったみたいだ」
馬場は机に突っ伏した体を起こして言う。
そんな馬場に、俺は得意気に答えた。
「ところがだ、馬場。俺は脱出方法の見当が付いた」
「なに?!」
馬場は目を丸くして俺を見る。
藤林もハッとして俺を見た。
「この本には、ちゃんとヒントになるものが書いてあるじゃないか」
俺は本を取ってその文を探し、指を指す。
「『私はこの世界が平衡した世界、という事から元の世界に帰る方法を考え出したのですが━━』ってとこだよ」
「そこからどうやって方法を見つけるんだよ」
俺は得意気に、馬場を鼻で笑ってから言った。
「俺達は落ちてこの世界に来た。だからこの平衡世界を出るなら逆に飛べばいいのんだよ」
「飛ぶ?どうやってだよ。それに俊太郎や山田は自ら飛んでこの世界を出たって言うのか?」
「違うよ。この世界では地震よりも竜巻の方が頻繁に起きるから、俊太郎達はそれに巻き込まれたんだよ」
「そうか…!俊太郎と山田はあの日ノ出公園で竜巻に巻き込まれて飛んだんだ。日ノ出公園の空が平衡世界の出入口になっているんだ」
俺は満足気に笑う。
「そうだよ。この世界を出るにはその出入口を通るしかない。
だから明日は日の出公園に行って、ロケット花火でも空に飛ばして試してみよう。それで出入口を見つけたら本格的に計画を立てるんだ。」
「本格的に、か……うぉぉ……やっと計画が進んできた…!アースに帰る日も近いぜぇ!」
馬場は拳を握り締めて歓喜の声を上げた。
閉館間際の無人の談話室にその声が響く。
談話室や無人と言ってもさすがに騒がしかったけど、今回ばかりは無理もないだろう。
やっと……やっと目的のものが見つかったんだ。
毎日何時間と費やして調査してきた甲斐があったんだ。
思えば学校の授業が終わってもすぐに図書館に行って調べたし、五十嵐が入院してからしていなかったけど、冬休みは日中ずっと図書館で調査していた。
これだけ努力してきたたのだから、達成感と喜びで少しばかり騒がしくしてしまっても仕様がないだろう。
「じゃあ馬場、藤林。
今日は帰ろうか。そろそろ閉館時間だしさ」
「あぁ。もう図書館での用は済んだしな」
そうして俺たちは帰る支度を始める。
書庫の本以外の本は談話室に来る前に片付けて来たけど、この書庫の本は返さないといけない。
またあの不気味な地下に行くのは気が引けたけど、あの従業員さんの恩を仇で返す訳にはいかない。
「じゃあ俺、この本返してくるよ」
「うん、じゃあ待ってる」
「ま、待って!」
書庫の本を持ってきてから、何故かずっと黙っていた藤林がやっと口を開いた。
情報が見つかって嬉しいはずなのに、浮かない顔をしている。
「私も……一緒に返しに行っていい、かな……?」
「えっ……いいけど」
特に断る理由もなかったので、俺たちは馬場を待たせて書庫に向かい始めた。
遊園地の時みたいにまた、藤林に合わせてゆっくり歩く。
藤林は歩いている間もまた黙っていて、やっぱり浮かない顔をしていた。
どうしたのだろう……俊太郎に会うのが嬉しくないのだろうか……?
「澤村くん……澤村くんは、この世界を離れたいの?離れたくないの?」
「え……」
「この世界を離れる事になって、澤村くんは何とも思わないの……?」
藤林はいつにもなく真剣な表情をして、唐突にその質問した。
悲しそうな顔をしていて、よく見ると目に涙が滲んでいる。
俺はその質問に尻込みした。
その表情で訊かれた質問だからというのもあるけど、心の中心を……心臓をガシリと掴まれたようだった。
俺はこの苦しみを薬をもって抑えているけど、それをも無効にするような質問だったんだ。
俺は、自分でも笑えているかどうかわからない笑いを浮かべ、藤林に表情を見られないように全く関係のないものの方向を眺めて言った。
「……良い、事じゃないの?藤林がやっと俊太郎に会えるようになるんだからさ…」
「……そうだね」
そう言うと藤林はまた黙ってしまい、それからその日はそれきり口を開く事はなくなってしまった。
家に帰っても藤林が居間に下りてくる事はなく、今日を終えるのだ。
俺たちは黙ったまま図書館の地下に下りていく。
真っ暗で空気の重い地下へと、黙って向かっていく。
あの、糸で止められた書庫の古い本の著者は、最後には恋に落ちた風呂屋の娘と幸せになった。
結婚も果たし、この平衡世界で幸せになったんだ。
俺はそれが羨ましかった。
時代は違えど、俺は藤林とそんな風にハッピーエンドを迎えたかった。
しかし、藤林と結ばれる見込みはないので、俺はもう藤林との別れを覚悟する。
イアルスを離れてアースで生きると、自分の生きる場所をアースにすると決めたのだ。
もう少しだ。この世界から帰るのはもう少しなんだ。
この世界から出ればこの苦しみからもきっと抜け出せるはず。
失恋の辛さを新しい恋で洗い流すんだ。
俺はもう、そこまで思っていた。
もうこの恋は失恋した、藤林は自分ではなく俊太郎が好きなんだと、藤林が悩んでいる理由も知らずに勝手に決めつけていたのだった。
to be continued-