『12月16日 黒髪 蒼』
「あなたとはずっとはいられない、7年経っても帰ってこなかったら私は死んでいる。私はあなたに会えて、今のこの一分一秒も無駄にせず、継承させるべき血と一生分の愛情を注いだ、私がいなくてもここでやっていける、もっと大人になったとき、出会うべくして出会う者が現れたとき、そのきれいな箱を開け、汚い箱は持っていきなさい、きっとそれはあなたにしか使うことができない」
長々と母親は幼き蒼にそう言った。その台詞は母親がいなくなる最後から二番目の台詞だった。
「愛してるわ******」
自分の本当の名前を囁いた。
以来、蒼は母親と会うことは無く、7年目の冬が来た。
「アエラ、ここからは平坦な道が続く、もうすぐ日が落ち込んで、あたりは闇の中だ」
「ええ、わかっています」
右肩を押さえ、静かに雪を踏みつける。
脱臼したせいか、身体のバランスがうまく取れず、足元が覚束ない。
「あの高さをその程度の怪我で済んだのが不思議です」
「まぁ、母さんが言うには、生まれつき常人から逸脱した頑丈さを持っているらしい、猪に突進されても無傷だったからな、親からもらった身体に感謝するさ」
「好きなのですね、母親のこと」
「唯一の肉親だからな、父親はオレと母さんを捨ててどっかに行っちまった」
うれしそうに蒼はそう言う。
「酷い父親ですね」
「全くだ、アエラの両親はどんな感じなんだ?」
「普通の社会人ですよ、共働きのどこにでもいるごくごく一般的な」
「そうなんだ、お前はずいぶん変わってるのにな」
「ええ、鳶が鷹を産む、とよく言われました……」
一瞬だけアエラの表情に陰が映りこんだ。
「やっぱり凄いやつなんだな!」
「あなたは人の秀でたところを妬んだりしないのですか?」
不思議そうに、アエラは蒼に聞いた。
「なんで妬まなきゃいけないんだ?」
「それは……私の周り人間がそうだったから……」
「つまらない、面白くない奴ばっかりなんだな、だからアエラは変なのか」
「つまらない……ですか……まったくそのとおりですね」
アエラはそう言ってすぐに口をつぐんだ。
「アエラにはともだちって言うのはいるのか?」
「友達ですか、友達はいないです、飛び級、あっという間に大学まで卒業してF&Fに就職して、上司より秀でているせいで調査部隊に配属されて、ヘリの事故が起きる前は機内で嫌味をたらたらと……」
アエラは自分の心中を吐露する。
「けど、その上司とかがいなかったら、今頃オレはアエラに出会うことは無かった、オレにとっては幸せなことだよ、人との出会いって」
「慰めてるのか、遠まわしに諦めと言ってるのか、わかないですよ?」
「どっちもだ、そろそろ村に着くころだ」
蒼はそういって左手で指さす。
「ここまで来れば、もう大丈夫ですよ、ロシア語は話せますし」
「いや、俺もここで一泊しないと帰れねえから」
「ご迷惑をおかけしました」
アエラは一瞥し先に歩き出した。
「ひょっとするとあんたが出会うべき者なのかもな……」
「え?なにか?」
「いやなんでもない、さっさと行って火の傍に行って温まりたい」
蒼は静かに笑い、アエラを追いかけた。
村に着くとアエラは通りすがった人に話を聞き、無線を持つ家に向かった。
蒼は村の入り口でアエラを眺めているが、しかめた表情だった。
「どうしました、そんなに目くじら立てて」
「肉の腐ったような匂いと血の匂いがする気がする」
「ああ、それならさっき牛の解体をしていたそうですよ臭いきっとごみ処理場の臭いですよ近くにあるのよ」
「そうだったか、ならいいんだけど、無線の家に行くか」
「ええ、そうですね」
そういって二人は無線のある家に向かった。
「話は聞いてる、そこの使いな、今日はオレの家で一泊してけ、部屋も余ってるしここにはオレしか住んでない気楽にしてくれ」
男がそう言うと、家の裏にまわって巻き割りを始めた。
椅子に座り無線の周波数を合わせる。
つながったのかアエラはぶつぶつと何かを言って、一分ほどで通話が閉じたようだ。
「救助は今日の深夜、ヘリで来るそうよ、それまで待機」
「よかったな、これで帰れるな」
「ええ、けど、この時代にアナログ無線って時代遅れね、電話回線も無い僻地に私はいるのね」
アエラは苦い笑いを浮かばせた。
「さて、オレは狩に出かけるよ、タダでここに泊めてもらうわけにはいかないからな」
「その肩で狩り?」
「腕一本使えなくて鹿の一頭くらい狩れるさ」
「……無茶しないの、救援に医療チームもいるから大丈夫よ」
「わかった、じゃあ少し外の空気を吸ってくる、これよろしく」
「ええ、わかったわ」
そう言って蒼はぼろぼろ箱を降ろし、木造の家の外へ出た。外は夕暮れ時で既に夕日の朱色の光が半分ほど山に隠れていた。
……やはり、変だな、ここ半年以上この集落には来ていないが雰囲気が重くなっている、村長も健在だし誰かが死んだようには思えない、何よりこの微妙に感じる腐敗し始めの血の臭い、動物の物ならすぐにどこかに捨てに行くだろう。なぜ?
「とりあえず、向かってみるか」
臭いを辿り、裏庭に向かう。先ほどの家主が薪割りをしている。
「どうしたんだ?」
拍子を突かれびくりと身体を硬直させる。声を辿るとさっきの男がいた。
「いや、無線無事に繋がりましたよ」
咄嗟にでた適当な言い訳を並べる。
「おお、それはよかったな、あのお嬢ちゃん帰れるのか」
「ああ、世話になった」
そういいつつ蒼は自分の嗅覚をたよりに腐敗臭の場所を探す。
……あの、小屋から腐敗臭がするな。
「物置がどうかしたのか?」
「ああ、いや山猫みたいな声がしてな、ちょっと見てきてもいいか?」
「ああ、構わないがチェーンソーとか草刈機とか色々あるから周りには気をつけろよ」
「おう、ありがとう」
そう言って、蒼は家の離れの物置小屋の扉を開ける。
……間違いないな、この臭い、血だな。
奥に進み、小屋の内部を見渡す、見渡す限り何も不穏なところはなく、農機具がずらりと雑多に並べられている。
……何もない、臭いはどこから?
木造の小屋をくまなく探すが何も見当たらない。かなりの時間を浪費した。ため息をつきうなだれた。
「あ……」
土に滲む赤色、壁の隙間から滴っている。
慌てて小屋を出ると、先ほどの男が斧を片手にのんびりと薪を割っている。
物静かに生唾を飲み小屋の裏手に回る。
……これか
そこにあったのはF&Fと描かれた制服、血まみれの死体片腕にはハンドガンが握られていた。
蒼はナイフでF&Fの部分を切り取り、ハンドガンを拾いポケットに収める。
「あ〜あ、だから周りには気をつけろって言ったろ?」
「聞いていたさ、でどうする? オレはこいつらとは無関係、明日にはいるべき所で一人、静かに暮らすぞ?」
「そうだな、お前をどうにかしろとは言われていない、だがあの女は殺す」
「そうか、わかった――」
すっかり日は落ち込み、あたりは暗くなっていた。
蒼は立ち上がり、男の顔に手を出す。
「おいおい、オレにそんな趣味はねえぞ?」
そう言って口から虫の触手のようなものが飛び出し蒼の手に絡みつく。
「わかってるさ、お前が人間かどうか確認したかっただけさ」
「オレは今、最高な気分だ、少し力を入れて殴っただけで人間の骨が小枝みたいに折れるパワー、あの女はどういう殺し方をしてやろうか楽しみだ、オレは人間じゃねえ、人間の頂点に立つ者だ!」
男の白目に血管が浮き出し気持ち悪い、人間の形をした化け物になる。
「楽しみか、すまないな」
バキリッ!!
小気味良い、割り箸でも折れるような音が二人の会話を裂いた。
男の頭は180度反対を向き、蒼はそっと腕を引く口から出ていた触手は蒼のアリアドネの手袋に守られているため傷ひとつ付けられていなかった。肩をぶつけその場を後にした。
「その楽しみは叶えられそうにない」
ばたりと地面に寝そべる男に一言添え、アエラの所に急いで向かった。
さほどの時間もかからず家の中に入る。
「どうしたの遅かったから心配したわよ?」
「ちょっとめんどくさいことなった」
蒼は切り取った制服の一部をアエラに投げる。
「これは、たしかこの制服の持ち主はパラシュートをもっていたはずですが……」
「離れの小屋で死んでいた、ここの家主に殺された、なんか知らんが口からミミズみたいな変なの出しながらオレは最強だ!! とか叫んでた」
アエラは気色を変える。
「それは寄生して増えるPN系の生物兵器だと思われます、気をつけてください奴らは口から寄生し脊髄、脳を侵し宿主を自由に動くことができ知能も人間並みにあります、寄生されたら異常な身体能力の向上が見られます、見た目は人間でも甘く見ないでください」
「さっき一人ぶっ殺してやった、脊椎バキバキににしときゃあそのうち死ぬだろ?」
「ええ、まぁ、そうですけど、どうやって、まさか素手って言うわけじゃあ?」
「素手だよ、相手も油断していたかららくだったよ、それよりどうする、このまま何事もなかったかのように平然を装うか?」
「そうですね、基本的に和平交渉が利く場合がありますから、例外を除いて」
「例外?」
「この手の生物兵器は必ずボスがいます、そのボスがもし我々を狙っている場合は……」
アエラの表情が悪化していく、蒼は思い出したようにポケットからハンドガンを取り出す。
「これ使えるか?」
「B23R、ええ、ですがあなたの装備は?」
「ナイフがある、それ系は使い方を知らないからな」
アエラは静かに頷いた。
「この家になにかないか探してきます」
家の奥に行ったアエラを片目に蒼はナイフを取り出しキッチンに向かった。
ナイフの刃を見つめる、崖に突き刺したりしていたのもあってかだいぶ切れ味が落ちていた。
キッチンの棚を漁り砥石を取り出しナイフの手入れを始める。砥石に桶に収まった水を吸わせ、刃も湿らせ砥石に当てる。
シュッ、シュッと一定のリズムに合わせ刃が研磨されていく。
「刃物も整備が面倒ですね」
アエラが後ろから嘲笑を漏らした。
水を吸ったナイフが静かに光を照り返し蒼の頬を濡らしている、外は月光が重なり合う雪のひとつひとつに照り返されより鮮明に周りを映している。
「慣れだよ」
一言それだけ言い返した、素っ気無い返事をしたのはナイフの調整に集中したかったのもあるが、周りの空気を感じる感覚を研ぎ澄まし、集中しているためだった。
刺さるような水が蒼の指先の感覚を失わせる。水で砥の粉を洗い流し、刃でそっと親指の爪を滑らせる、刃が爪に食い込む。
もう一度砥石にあてがい、さっとナイフを引く。水でよく洗い、水気をふき取る。
「よし、こんなもんだろ」
鞘に収め、静かにナイフを収める。
「ちゃんと手入れをするのですね」
「一応な、あんまり得意じゃないけど、そういえばアエラはなにかいいもの見つかった?」
振り向くとアエラの上半身ほどのライフルが握られていた。
「レミントンがありました、弾薬もそこそこ残っていますのでなんとか……」
「心配の必要はオレにありそうだな……」
自分自身をあざ笑い、ナイフを腰にある鞘に収めた。
「いえ、あの、これは蒼が使ったほうが……」
「オレは銃を使ったことが無いって言ったろ?」
次第にアエラの気色が悪くなる。
「じ、実は、実践投入される前にライフルの射撃訓練をしたことがあるのですが、反動で肩が抜けたことが……」
こいつ、かわいいな……じゃなくて、どうしたものか……
「アエラ、これは訓練じゃない、実戦だ、オレたちは殺されるかもしれないんだ」
いや、だめだ、これはフォローになってない、凹むぞ、これオレ言われたらちょっと凹むぞ。
蒼は暢気にそんなことを考えていた。一応、この村にはスノーモービルがあり、数少ない蒼の知っている乗り物があり、脱出するのは容易だろうと楽観視していた。
「それも、そうですよね……」
やめろぉ、オレが悪いみたいになってるじゃないか。
やや気まずい蒼は、ため息を押しこらえた。
「オレもアーチェリーでもあればなぁ」
「アーチェリーはやったことあるのですね」
「一応、狩人だからな、この今年の秋口に、崖から落として泣きそうになったけど」
苦笑を漏らした。
「蒼もミスとか失敗とするんですね」
「まぁ、あれだ、あの時は確かスズメバチに襲われてやばかったんだよな」
蒼の動きがぴたりと止まり、目を閉じる。
「たくさん来るぞ!!」
アエラは壁を背にして玄関を覗くように配置を組み、蒼はナイフを構え臨戦体勢に入る。
扉がわずかに開いた瞬間、蒼が扉の間にナイフを滑り込ませ扉越しの奴の心臓を貫く。
……嗚呼、これは人を刺す感触だ、間違いない。
頭ではわかっていた、だが奴らは人の身体を乗っ取り、人を化け物として動かす、そういうものだと。
一瞬手を緩めると、隙を突いたように手が向こう側に引っ張られる。
「殺しきれてない!!」
咄嗟にナイフから手を離し、手を引き抜く。しかし向こう側の奴らは数に物を言わせて扉を突き破り次々と波のように押し寄せる。
たしかに心臓を突いた、確実に刺さった……なぜだ!?
「身体がよお、がら空きなんだよ!」
蒼は胸部を蹴り飛ばされ柱に右肩を強打する、関節から気味悪い音が鼓膜を舐め回し、神経が不必要なくらい緊急サインを脳に送り、朦朧とする天と地の区別もよくわからない視界で自分を蹴り飛ばした奴を見つめる。
「生きてやがったのかよ……」
「あの程度じゃあ、死なねえよ」
先ほど殺した農夫は心臓に刺さったナイフを引き抜き、投げ捨てる、後ろではアエラがなんとか応戦しているが、顔にある切り傷から余裕は無いようだ。
死を感じた、殺される、蒼はしきりにその二つの単語が脳内を駆け巡り、眼は覚束なく、鬱々とした目の色に変わった。
身体の筋肉がさっきとは打って変わって、急に弛緩を始める。
アリアドネの糸で編まれた手袋が拳圧によって硬化し金属並みの硬度がそいつの頭をまるでビスケットを砕くように肉片に変える。
「ああああああああああああ!!」 次々に無茶苦茶な戦闘を敷いていく蒼の意識は既に死んでいた。
「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス!!」