陽はまだ低く、曙光は微か。そんな早朝の光だけが差し込む部屋は薄暗い。
その部屋に唯一置かれたベッドの上。
銀の長髪を持つ少女が、無造作に寝返りを打って悩ましげな声で呻いた。
「ぅん…っ」
フィンレイ・チェンバレンは、
毛布に隠れた肢体を
捩らせながら目を覚ました。
「…あ゛ー」
気怠げに半目を開けた彼女は、周囲の景色が見慣れないものである事を確かめて思い出す。
(…そうだ、昨夜はホテルに泊まったんだ。
なら今日は…朝礼も鍛錬も出なくていいのか…そうかそうかー…)
そう思うや否や、フィンレイは頭まで毛布をかぶって丸くなる。
彼女の顔は毛布の中で、だらしなく緩んでいた。
(アリアドネー魔法騎士団所属、フィンレイ・チェンバレン―――本日二度寝を決行いたします)
嗚呼、素晴らしきかな連休。
そう言わんばかりに、フィンレイはもぞもぞと動いて寝やすい姿勢を模索する。
(ふふ、申し訳ありません先輩、隊長。でも休暇だからイイですよね。
それもこれも、
総長と近衛に感謝―――)
「……ん?」
(―――近衛?)
再び微睡み始めたフィンレイの意識が、数日前の記憶を急速に回想した。
・
・
・
・
『折角の連休だった所を悪いわね、フィンレイ・チェンバレン。
急なことだけど、あなたに頼みたい仕事ができたの』
『……あなたの友人が、近々
魔法世界に戻るそうよ。
と言っても“師匠”に会いに来るだけだそうだから、ずっとという訳じゃないでしょうけれど』
『ただその師匠……あの男は、そう簡単に捜し出せるような大人しい性格をしていないのよ。
十年前に隠居してからとんと音沙汰がなくなって、そのくせあちこちをフラフラしてるいい加減な男だから。
二年前、弟子をとったって噂で巷を騒がせたことに驚いたくらいね』
『そんな訳だから、彼―――士郎君から連絡がきてね。
彼はメガロのゲートポートに降りて、アリアドネーで師匠の情報を集めてから魔法世界を回るそうよ。
そこで、あなたに白羽の矢が立ったというワケ』
『騎士、フィンレイ・チェンバレン。
メガロメセンブリアからここアリアドネーまで、近衛士郎を護送する任務を貴女に与えます』
『…フフ、そんなに堅苦しくなる必要はないわ。彼と会うのは三年ぶりでしょう?
休暇を潰した“お仕事”だもの、少しばかり羽目を外しても誰も咎めないわ』
『二人きりの旅よ。楽しんできなさいフィンレイ』
・
・
・
・
「………あ」
そして昨日、フィンレイは士郎と再会した。
彼に着いていたメガロメセンブリア元老院の尾行を撒き、更にハイジャック犯を撃退して、それから……。
(―――ふ、二人っきりで一泊ぅうう―――!?)
寝ぼけフィンレイ、ここでようやく意識が完全に覚醒する。
現状を把握した彼女の脳は、「好意を抱く男と旅の途中でお泊まりした」という昨日のあらすじをダイジェストしていた。
(おおおおっつけ!落ち着け!騙されるな!これは孔明の罠だ!!)
同じホテルにこそ泊まったが、過ごした部屋は別室だ。
一夜を共にしたという話もなく、どころか互いの部屋に入ることすら皆無。
甘さも色気もない、たいへん健全でよろしい………味気ないとも言える一夜であった。
そう考えると、フィンレイのテンションは平静を取り戻すのを通り越してマイナス領域まで下降する。
(…勇気を出して同室にしようとしたのに、あの馬鹿…!
私だって私なりに、いまいち元気の無いアイツを慰めてあげようと―――って誰に言い訳してるんだ私は……)
フィンレイが咄嗟に「ダブルのひと部屋で!」と口にするも、それに対し冷静に「シングルを二つで」と訂正する士郎。
ホテルの受付でチェックインをした時の一幕であった。
(あー…。でもそっか、あぁー…。
アイツと一緒に泊まっちゃったのかぁー……)
……にへらっ。
普段から凛とした表情を崩さないフィンレイが、だらしなく頬を緩ませた。
(………あれ?)
「んふふ」と顔を蕩けさせるフィンレイだったが、ふと真顔になって抱きしめていた枕から顔を離した。
―――こんな事をしている場合じゃない。
そう急き立てる自分がいると自覚した。
(せっかくアイツと二人きりなのに…私はいつまで、こうして一人で部屋に篭っているのだろう?)
程なくして、彼女はその理由に思い至る。
この微睡みは、滅多にできない贅沢だけれど―――少し、虚しかった。
虚しい。寂しい。だから、会いたい。
会いたい人が、確かにいた。
こうして惰眠を貪っている間にも、大事な人との大切な時間を無駄にしている。
(…ちょっと、勿体ないなあ)
おかしな話だ。少し前まで、フィンレイはこんな感情を知らなかった。
それは―――三年前から。三年ぶりだった。
初対面の
フィンレイのワガママに付き合ってくれたお人好しで。
危ない所を助けてくれた恩人で、強くて、格好良くて―――。
同時に、あまりに歪と知ってしまった。
“彼”の信念は、とても強いけれど、同じくらい脆くて歪んでいる。
なのに、その信念を守れるだけで、“彼”は満足してしまうのだ。
そこに“彼”自身の幸せは、一欠片も無いというのに。
“俺が死んで困る人なんて居やしないよ”
“死んでもいいなんて、言うなよぉ…っ!!馬鹿ぁ……!!”
「自分なんてどうなってもいい」。
彼が本心からそう言っていると知って涙した、かつてのフィンレイ・チェンバレン。
そして、そんな少女を見て顔を歪ませる、近衛士郎という少年がいた。
(…アイツは、私がアイツのために泣いたことで傷ついた)
フィンレイが涙した理由を、士郎は知らない。
ただ、自分が原因だと知っている。自分が泣かせたと思っている。
その認識は正しい。
一番、大事なことに気づかないままで。
だから、フィンレイ・チェンバレンは、三年前のあの日に決めていた。
(私は、二度と――――)
カチャッ…。
(!!?)
ハッとする。そっと、しかし確かにドアが開く音がした。
女性の一人部屋なのだ、施錠は勿論、防犯呪文すら掛けてあったドアが―――、である。
(な、何事だ!?なんでドアが…防犯呪文は!?いや鍵は!?
くそっ何が起きてる…!!)
距離と位置の関係でベッドからは窺えないが、室内に何者かが侵入した事は明白だ。
想定外の事態に狼狽するが、彼女も騎士。
努めて冷静さを保ちながら、侵入者を油断させるため寝たふりをして待ち構える。
(誰だか知らんが来るなら来い…!
立派な不法侵入だ、即座に氷漬けにしてやる…!)
小声で呪文を詠唱し、魔法を幾つか待機させておくフィンレイ。
そうとは知らず、トイレやバスルームを通り過ぎてベッドルームに直行して来る微かな足音。
その隠形の精度は凄まじく、この不審者は相当な手練ではないのか?とフィンレイの額に汗が滲んだ。
そして……不審者がベッドルームに入ってきた頃合を見て、彼女は薄目を開いてその全貌を確かめた。
その風貌は、フィンレイのよく知るもの。
具体的には赤毛の男。
近衛…もとい、衛宮士郎であった。
(―――近衛!?近衛ナンデ!?
まさか…夜這い!?そんなっ朝なのに!!)
違う、そうじゃない。
おお混乱したフィンレイ女史よ、事の問題はそこではないのだ…!
「…フィン、起きてるか?」
ベッドで横になるフィンレイに、静かに声を掛ける士郎。
この時、動揺して焦った彼女は、狸寝入りを決め込んでしまったことを猛烈に後悔することになる。
◇◇◇◇◇
これは、フィンレイが起きるよりも三十分ほど前のこと。
ベッドの上で目覚めた士郎が、見慣れぬ天井を見つめながら唐突に独りごちた。
「エヴァへのお土産は……紅茶かワインのどっちかかな」
どうしてこんな事を開口一番に呟くのか。
本人にも訳が分からなかったが、何故だかそのチョイスが好ましい気がしたのである。
現在、時刻は朝。
ハイジャック事件の後、士郎とフィンレイが乗る魔法飛空艦アルヴィトルは、連合西端の都市国家フォエニクスに寄港した。
それは捕縛された空賊達を引渡すためだったのだが、乗員乗客への事情聴取や事後処理により、アルヴィトルの出航は翌日まで延期されてしまう。
そのため、関係者はフォエニクス側の図らいで用意されたホテルに一泊する事となり、士郎とフィンレイもそこで一夜を過ごしたのだった。
「…エヴァの奴、まだ怒ってるかな。
いや、アレは怒ってるんじゃなくて拗ねてるパターンか……ダメだ。尚更どうしていいかわからん」
怒っている、拗ねている。
これらは似ているが、士郎に言わせればエヴァンジェリンのそれには明確な差があるらしい。
彼女が士郎を怒るのは、彼に明らかな非がある時。
彼女が拗ねた態度を取るのは、声に出して怒る程ではない程度の不満を士郎に抱いている時だ。
どちらにせよ士郎が悪い。
そして大体、彼がエヴァンジェリンに謝って頭を下げれば大抵の場は収まった。
例え、何が原因で怒らせているか、本人が理解していなくとも。
(叱られてる時ですらどうして怒ってるか分からない時もあるのに、拗ねた時は何も喋らないから完全にお手上げなんだよな…)
だが今回は違う。
エヴァンジェリンは士郎に対し、明確な忠告を与えている。
―――貴様は最初の願いを忘れているぞ、衛宮士郎。
―――決定的に、大事な何かを取り零しているだろうさ。
ベッドで上体を起こした士郎は、俯きがちに右手で顔を覆う。
「…………わからん」
言いたいことはハッキリ言うエヴァンジェリンが、抽象的な言い回しだけをして明確に口にしなかった言葉。
そこにはきっと―――今までにない、強いメッセージがある。
その、ハズだ。
「……もう六時か」
既に朝食の準備が済んでいる時間だった。
士郎は思考を持て余したまま、食堂へ向かうためにベッドから立ち上がった。
・
・
・
正面のドアをノックするも、部屋の主から応答はない。
続けてノックするものの、やはり反応はなかった。
「…まだ寝てるのか? 俺は別に一人で朝
飯食ってもいいんだが…」
士郎が訪ねたのはフィンレイの部屋だ。
彼自身は一人の食事に何ら問題はない、だがそれでフィンレイの機嫌を損ねるような事はしたくなかった。
しかしそれも、本人がまだ寝ている以上は仕方のない事だろう。
「しょうがない。行くか」
フゥと軽く息を吐いて、士郎は一人で食堂まで降りていく事にする。
ただ、その前に一応、ドアノブに手を伸ばしてガチャリと捻った。
“バチィッ!!”
「あばばばばっ!?」
―――炸裂する麻痺雷撃。
それはドアノブに仕込まれていた、防犯用のセキュリティ・トラップだ。
端的に言うと――――衛宮士郎、感電す。
…なおこの時、自室のすぐ外の出来事に気づかず、フィンレイは「スヤァ…」と熟睡していた。
・
・
・
…数分後、士郎は自力で麻痺呪文から回復した。
数分間、指一本動かせぬまま廊下でぶっ倒れた姿を誰にも目撃されなかった事は不幸中の幸いだが、それはそれとして。
「…ト、
麻痺呪文とか。フィンの奴なに考えてんだ…!」
魔法世界に来て一日足らずで色々と巻き込まれた事もあり、士郎は警戒レベルを引き上げている。
彼は今、旧世界…地球にいた時よりも強化した魔法障壁を常時展開していた。
だからこそ無事で済んでいる―――たとえ彼の赤毛が、天然パーマ気味のチリチリになっていようとも。
立ち上がる際に体をよろめかせていようとも、彼は無傷だ。ダメージなど無い。そういうことにしておけ。
しかし…これが魔法使いでもない、悪意のない第三者がドアを開けようとしたらどうなっていたか?
苦言を呈さずにはいられない。
決して、小さくない悲鳴をあげたにも関わらず、
士郎を助けに現れる人が誰もいなかった事実に、どこか物哀しくなった腹いせではない。
助けがあったらあったで、女性が一人泊まる部屋に入ろうとして撃退された間抜け扱いをされる所だったが。
「―――
同調、
開始…!」
そしてこの男、大人げなかった。
自然干渉系は壊滅的に苦手な士郎だが、得意な構造解析から派生する『開錠』の魔術ならば苦もなく扱える。
ものの数秒でガチャリという音がして、彼はフフフと不敵に笑う。
更なる罠を警戒しながらそっと部屋に入った所で―――。
はた、と。
入ってきたドアを閉めた所で急に冷静になる士郎!
(…ふ、普通に入ってしまった―――!?)
この状況を客観的に俯瞰しよう。
―――未成年の少女が一人で眠っている部屋に、不法侵入をはたらいた間男。
今の士郎は、そんな
不審者なのである…!
そして今さら外に出ようものなら、挙動不審な態度は隠せない。
そこを今度こそ誰かに目撃されれば一発アウトだ。
状況は予断を許さない―――そう、もはや不退転。気づけばピンチ。いつの間にやら背水の陣……!!
(……フィンを起こしてから、何食わぬ顔で部屋を出る。
そうさ最初からそのつもりだったんだ、俺は友達を起こしに部屋に入っただけ。
うん。疚しい事なんて何もないな。そう、何もないんだ……!!)
―――そういうことにしておけ!!よし!!
方針は定まった。
ならば後は何でもないように、フィンレイを起こすだけである。
士郎は―――それでも何となく、息を潜めて忍び足で部屋の奥に進むのだった。
…数十秒後に湧き上がる、己の欲に負けた事を後悔する羽目になると知らずに。
◇◇◇◇◇
―――こうして二人は出くわした。
士郎は無断で入ってきた気まずさを、フィンレイは狸寝入りしている事を隠しながら。
「…………。」
(……!?……!?)
無言の士郎、困惑のフィンレイ。
ジッと見つめてくる士郎の熱視線に対し、背を向け目を閉じているフィンレイはどうしたものかと狼狽えまくりである。
―――三年前を思い出していたのは、フィンレイだけではない。
眠る彼女を目にした士郎は、とある欲求に駆られていた。
…少しして、ベッドの傍に士郎が屈む。
膝を折って近づく彼の気配に、横たわるフィンレイの心臓が跳ねる。
そして……士郎は不意に、枕元に踊るフィンレイの銀髪をサラリと梳いた。
「……やっぱり触り心地いいなあ…、この髪」
(―――――――っ!!?)
フィンレイは、顔から火が出るかと思った。
悶絶する彼女だが、狸寝入りを装う以上は微動ぎすら許されない。
全力で悲鳴を押し殺し、体を必死に強張らせて無理やり硬直させ続けた。
(なんてこと言うんだこの馬鹿、恥ずかしい…!!…でも嬉しい…!!
よかった…毎日ちゃんと手入れしていて本当によかった……!!)
いま動くことを許されるなら、彼女は両手で顔を覆い、体をくの字に折って両足をバタつかせている事だろう。
「……フィン。お前、起きてるだろ」
「っっ!!?」
嘘がばれるや呆気なく、フィンレイの肩がびくりと跳ねた。
とはいえ、彼女の耳が真っ赤になっていれば士郎も気づくというものであった。
「………あー、その。もうホテルの朝食が出来てる時間だから、誘いに来たんだが。
部屋に来たらまだ寝てるみたいだったし、けど一応、声をかけようと思っただけなんだ、うん」
恥ずかしさから、頬をポリポリと掻きながらペラペラと弁解するこの野郎。
いや、自分のした事に対する羞恥やら罪悪感があるからこそ、口が早く動いているのかもしれないが。
―――恥ずかしいのは、彼よりも彼女の方。
当然だ。好いた男と旅の途中で一泊するという
思わぬ事態。
しかもそこで、その男が自分の部屋を訪ねて来て、自分の髪を弄んで悦んでいる。
―――羞恥以外の何がある。
そんな状態であると知らず、黙ってしまったフィンレイを心配して。
彼女の肩に、士郎が手で触れようものなら―――
「ひっ!?にょええええええ!!?」
許容量が限界を超えたフィンレイは、奇声をあげて士郎の手を振り払う。
そのまま逃亡を図るもそれは、彼女がベッドから転落する結果しか齎さなかった。
「―――あだっ」
そして、彼女の不幸はそこで終わらない。
「フィン!?おい大丈夫…」
「つつ…あたた」
士郎からすれば、フィンレイが勝手に暴れて落ちただけだが、それでも心配して声をかける。
痛めた肩と頭を押さえて起き上がったフィンレイは、彼の言葉が途中で中断した理由に気づかなかった。
「………?」
「…あー、えーと。その…」
フィンレイから視線を逸らし、意味のない言動を繰り返す士郎。
彼女は不思議そうにそれを眺めたが、妙に体が肌寒いことを感じてハッとする。
フィンレイは昨夜、服を脱いだまま毛布だけを掛けて就寝した。
ならば、毛布がはだけた今の彼女は―――
白い肌の眩しい、下着姿。
下は、高級で気合の入った白いレースのパンツ。
上は、騎士としての動きやすさを重視したグレーと黒のスポーツブラ。
……とりあえず。
下着と下着姿を見られたと理解したフィンレイは―――既に色々と限界だった事も合わせて―――とうとう、決壊した。
「う―――うわぁぁあああん!!見るな馬鹿ぁあ!!あっちいけーーー!!!」
涙声で叫びだし、彼女はベッドからマッハで毛布を引き摺り出して体を隠す。
顔を真っ赤にして目を潤ませた乙女の悲鳴が部屋中を―――ついでに、約一名の男の肩も―――震わせたのだった。
余談だが、この日は六月二十五日。
麻帆良祭が三日目に突入している頃であった。
<第四章-第58話 早すぎた再会>
数時間後、アルヴィトルは海を越え無事に目的地へ到着した。
即ち…現在地は武装中立国アリアドネー。その魔法飛空艇発着場である。
そこには、まだ少し腫れの残る頬を摩って「あー…」と呻く、衛宮士郎の姿があった。
「ふん。嫁入り前の乙女の柔肌を見ておきながら、その程度で済んだ事を後悔するがいい!!」
「言ってる事がおかしいぞお前―――すまん悪かった。俺が悪かったからそう睨むな」
赤面して「がるる…」と威嚇するフィンレイに平謝りしながら歩く士郎。
アルヴィトルから下船したばかりの二人に――彼らの様子を内心で不思議に思いながら――、一人の女騎士が近づいた。
「お初にお目にかかります、“千の
剣”。
かの〈フェアリーシフト〉の真相を暴いた貴君と、まさかこのような場でお会いできるとは」
「えーと、あなたは…」
「――せ、先輩!?」
士郎が知らない人物に話しかけられると、隣のフィンレイが素っ頓狂な声を出す。
彼女の知り合いかと思い、士郎はフィンレイに肩を寄せて囁いた。
(…先輩?)
(わ、私が新人だった頃の教育係で、今は直属の上司だっ)
彼女が「先輩」と呼んだ目前の女性は、二人の様子を見て面白そうに微笑んでいる。
水色の髪を肩に触れる程度まで伸ばした白い肌の女騎士は、夕焼け色の瞳で士郎を見つめて名を名乗った。
「テレサ・フィルソヴァ。しがない騎士です。
アルヴィトルと乗員乗客を守っていただき、誠に感謝致します」
魔法飛空艦アルヴィトルとヘルヴォル。
この姉妹艦の開発と運用は、アリアドネーとメセンブリーナ連合の肝入り事業である。
そのため今回、アルヴィトルがアリアドネーへ航行中にハイジャックされ、連合領空内で墜落でもしようものなら、二カ国の面子が潰れる事態になっていたという。
ただしテレサとしては、乗員乗客が無事だったことに対する安堵の方が大きいようだ。
「ハイジャックされた艦を奪還したのが貴君とフィンレイであると聞いた時は…はてさて。
うちの若いのが足を引っ張らなかったかと肝を冷やしておりましたが」
冗談交じりにそう言って、テレサは口の端を上げて微笑を深めた。
士郎が視線だけで覗うと、フィンレイは先輩の言葉が皮肉か冗談か分からず肩を縮こませて大人しくしている。
…だからだろうか。士郎はつい、いつもより強い口調でテレサに答えた。
「いえ、死傷者が出なかったのは彼女のお陰です。
俺一人ではそんな事は出来ませんでした。フィンレイはとても頼りになる騎士です」
その科白に、二人の女騎士は揃って目を丸くした。
フィンレイは、思いがけない言葉に士郎を見上げて。
テレサは、士郎がフィンレイをそこまで買っていることを意外に感じて。
「……“それ”は私や周囲が認める才能を持っていますが、そのためにあまり甘やかす事をしておりません。
一角の騎士となれるよう、厳しく育てているつもりです。ですから―――」
フィンレイを見てから士郎に視線を戻し、テレサは再び微笑んだ。
「貴君の賛辞、上司として嬉しく思います。本人にとってもその言葉が何よりでしょう」
厳しい先輩の口から出た予想外の台詞に、フィンレイは完全にしどろもどろだ。
それを見て士郎が思わず笑うと、テレサが右拳を口に当てて「コホン」と咳払いをした。
「御苦労だったな、フィンレイ・チェンバレン。報告は後で構わん、お前も共に行くがいい」
テレサの言葉に従い、フィンレイは士郎を騎士団庁舎に向けて案内した。
今回、士郎が魔法世界へ来るにあたってアポイントメントを取った人物。
その結果、迎えとしてフィンレイを派遣した張本人―――。
「近衛士郎殿とお前を、
総長が執務室でお待ちだ」
アリアドネー国家元首、セラスの執務室を目指して。
・
・
・
・
「………なんでさ」
執務室のドアを開けて士郎の目に飛び込んできたのは、総長セラス……の姿ではなかった。
ソファに大きく背を預けて座り、応接用テーブルの紅茶と茶菓子を口にして存分に寛いでいる大男。
逆立った金の頭髪に赤いバンダナを巻いた、褐色肌の筋骨隆々な―――この人物こそ。
「…おっ。よぉー来たかぁ士郎!
なんだおいちょっと見ねぇうちにデカくなったじゃねーか!!」
大男は「だっはは」と豪快に笑って士郎に近寄ると、バンバンと痛いほど彼の肩を叩いてくる。
当の士郎は、未だ現実に意識が追いつかず呆然としたままだ。
この男こそ、魔法世界を二分した〈
大分烈戦争〉を終わらせた救世の英雄の一人。
〈最強の傭兵剣士〉、〈千の刃の男〉―――ジャック・ラカンその人である。
士郎が魔法世界を訪れた、今回の目標のひとつ。
彼に魔法戦闘を教えた師、ジャック・ラカンを捜し出すこと…は、あまりに早過ぎる達成を迎えたのだった。
◇◇◇◇◇
「ちょっと見ないうちに…なんて言うけれど、それは長命なヘラス族特有の感覚よ。
ほんの数年で背が大きく伸びるくらい、
人間の子供なら常識の範疇。非常識なアナタと違ってね」
困惑する士郎を
他所に、ラカンに対し女性の声で皮肉が飛んだ。
声の主は、波打つ一対の大きな角を頭に持つ、浅黒い肌をした壮齢の美女。
白いレディーススーツに身を包んだ彼女こそ…この部屋の主。
武装中立国アリアドネーの国家元首―――セラスである。
アリアドネー国家元首。それはアリアドネー騎士団を統べる“
総長”であるということ。
往年のセラスは精鋭部隊〈
戦乙女旅団〉の
筆頭騎士を務め、あの〈
紅き翼〉とも
轡を並べて戦った女傑である。
彼女は重厚な木製の事務机に座ったまま、柔らかい笑顔を浮かべて士郎に視線を向けた。
「お久しぶりですセラスさん……その、何で師匠がここに」
「フフフ、強いて言うなら俺様の
第六感が働いたといった所か」
「それただの勘ですよね、いつもの。…はぁ。この人は本当に……はぁ」
セラスが士郎のために彼を呼び寄せた訳ではない。
どうやらラカンが勝手にアリアドネーを訪れた…というのが真相らしい。
士郎の溜息と同時、セラスもその顔を苦笑させた。
(な、なあ近衛。どうして“勘”などという言葉でお前も総長も納得しているんだ?)
(……覚えておけフィン、
師匠は理屈で説明できない存在なんだ。
あと常識の範疇に収まらない。いいな?それで納得しろ)
(わ、わかった)
戸惑うフィンレイは小声で士郎に問いかけるが、据わった目で言い聞かせてくる彼の迫力に首を縦に振るしかない。
そんな周囲の呆れっぷりを知ってか知らずか、ラカンは一人で「HAHAHA!!」とカラカラ笑っている。
「とにかく元気そうでよかったわ。それに……だいぶ印象が変わったわね。
無理をしているというか、張り詰めた弓のようだったあの頃が嘘みたいよ」
「はあ…」
セラスの言葉に、士郎は曖昧な返事しかできない。
かつての自分が―――ある吸血鬼を斃すためだけに修行の旅をしていた自分が、他人の目にどう映っていたかなど、彼自身には知る由もないのだから。
そんな彼の斜め後方に控えるフィンレイが、一瞬だけ悲しげに目を伏せた事も、彼の知る所ではない。
…そんな若者達を何も言わず見つめていたラカンは、ソファの背もたれから起き上がって口を開いた。
「で、何しに来たよ? 俺を捜してたそうじゃねーか。あー、アレか。借金の返済か」
「そんなのありませんよ!?」
「金なんて借りたのか」というフィンレイの冷たい視線が刺さり、士郎は慌てて否定する。
そしてそのフィンレイが、「仕方のない奴、次は私が工面してやろう。ふふふふ」などという、男に貢ぐダメ女の思考を巡らせていた事は彼女しか知らない。
―――ジャック・ラカンという人物は、豪快な性格に反してお金に細かい、汚い、ケチの揃った守銭奴だ。
「この人に借金なんてしてみろ、破滅する」。士郎は結構本気でそう思っていた。
そんな彼が、ラカンにお金を借りるハズがない―――。
「オイオイ、お前が旧世界に帰れるよう手配してやったのが誰か忘れたか?」
……手配をしたのはドネットで、ラカンは費用を出しただけだが。
しかしそう言われれば、士郎も遅れて思い出す。
二年前―――士郎が魔法世界から地球へ帰る際に手配されたゲート渡航
切符は、ラカンが代金を立て替えていたという事を。
『チケット代金の利子は付けねえ。士郎―――いつか必ず返しに来い』
「………あ」
―――借りてた。マズイ。
その結論が出るまで一秒もかからなかった。
「わかりました払います、今すぐ返します。幾らですか――…」
「五千ドラクマ♪」
「高い!!?」
士郎の悲鳴が執務室に響き渡る。何故かサウンドエフェクトが付いていた。
同じ頃、麻帆良で真祖の吸血鬼が、従者の声を聞いた気がして後ろを振り向いた。
「馬鹿言えオメー、五万で魔法世界一周できる額だぞ?
空間を越えて新旧両世界を旅行する代金をその十分の一にしてやろうって俺の優しさのどこに不満が…」
「旅行じゃないっ!?」
士郎の悲鳴が執務室に木霊する。しばらくエコーで響いていた。
そのころ麻帆良で白烏の剣士が、幼馴染みの声を聞いた気がして後ろを振り向いた。
………いずれにせよ、チケット一枚に五千ドラクマは高過ぎる。
何故なら魔法世界と地球を繋ぐゲートは、手続きが面倒なだけで費用はそれほど高額ではないからだ。
つまりラカンの要求はぼったくりに等しい。
すると士郎の脳裏に、走馬灯のように修行時代の出来事が次々と浮かんでは消え始めた。
最初の弟子入り。入門料を支払う。
授業料。継続的に支払う。
修行の旅で発生する諸経費は師匠が建て替えるが、のちに弟子が返済する。
酒代、店代、女代。
ジャック・ラカンは入り用があると必ず士郎に金を稼がせ、代金を支払わせたのだ。
払えなければラカンへのツケとなり、そして士郎は必死にお金を稼ぐ。
魔獣退治の傭兵稼業や賞金稼ぎのみならず、商人に出資しての投資信託にも手を出した過去。
走馬灯はこの時、ほぼ全てが金策の記憶であった。
これは余談だが、魔法世界で士郎の名が知られるようになったのは、主にこの修行時代の
活躍が原因であった。
「…………。」
士郎は険しい表情のままドスンと音をたて、ラカン正面のソファに座り込む。
正面に飛ぶ視線には、明らかな敵意が乗せられていた。
「………。」
ラカンはソファの背もたれから体を浮かせると、己に刺さる視線を受け止めて前のめりに身構える。
それを確かめ、士郎は重苦しく…しかしハッキリと口にした。
「師匠。アンタとは一度、キッチリ話をつけなきゃいけないと思っていた」
「ほう―――勝てるか、この俺に?」
“ズッ…!!”
「くっ、なんだこのピリピリした緊張感は…。
まるで“気”と魔力がぶつかり合って激流になっているかのよう…!」
「…フィンレイ、今のこの二人にそこまで真面目に付き合わなくていいわ」
今、チケット代金の値切り交渉という、熾烈な戦いが火ぶたを切って落とされる……!!
―――激しい勝負は、士郎がラカンに対し五千三百ドラクマを支払うことで決着した。
「増えたっ!?」
「こっ近衛ーーー!!」
衛宮士郎は崩れ落ちる。
値切り交渉したのに増える額面。目前で起きた「理解を超える出来事」に、吐血して床に倒れ伏すしかない。
一部始終を見ていたセラスは、士郎と彼に駆け寄るフィンレイを呆然と見ながら戦慄する。
「な、なんてこと…話術とか交渉術とか、そんなチャチなものじゃあ断じてない…!
もっと恐ろしいものの片鱗を目の当たりにしたわ…!!」
「近衛、しっかりしろ近衛!傷は浅…浅いのかこれは!?」
「ご、五千三百ドラクマ…およそ八十五万円……な」
「―――なんでさ(ガクッ)」
「こっ、近衛ぇぇえええ!!」
フィンレイの膝の上で、哀れ士郎の意識は落ちた。
まるで水を吸ったワカメのように、借金が増えていく悪夢に魘されながら……。
「〜♪」
執務室の混乱を尻目に、鼻歌を口ずさむラカンは再びソファに背を預けるのだった。
・
・
・
「んで。何しに来たんだっけお前?」
「自分で話を逸らしておきながらこの人……!」
十五分後、何とか立ち直った士郎によって話はようやく本題に入った。
「まさか本気で、チケットの代金を支払うために来たと思ってる訳じゃないでしょう」
「へっ…」
その台詞に、ラカンは犬歯を覗かせるほど口角を釣り上げた。
「お前はメンドクセー奴だからな。また大層な厄介事を
背負ってきたか?」
修行時代、士郎はラカンの所為で苦労したと思っているが、それはラカンも同じだ。
弟子が首を突っ込んだ厄介事の尻拭いや後始末に、師はいったい何度奔走した事か。
そんなラカンの思いも知らず、士郎は淡々と今回の目的を口にした。
「師匠。あなたが持っている〈
完全なる世界〉の情報が欲しい。
新旧両世界の過去、現在を問わない。何でもいい…あなたが知る全てを教えて欲しい」
セラスの眼が険しくなり、フィンレイも困惑して士郎を見る。
そして……正面に座るラカンの双眸が、一瞬だけ。
常人では計り知れない、深い色を映し出す。
士郎はそれに阻まれて、ラカンの心情の一切を窺うことができなかった。
◇◇◇◇◇
「五百万だ。そんだけありゃあ考えてやってもいい」
それが、士郎の要求に対するラカンの第一声だった。
「ご…!?」
あまりの金額にフィンレイが息を呑む。
五百万ドラクマ。それがラカンの出した、士郎の要求に応える条件だった。
セラスも嘆息して背もたれに体重を預けたが、フィンレイとは異なり微かな安堵がある。
〈
紅き翼〉メンバーが持つ〈
完全なる世界〉の情報は、軽々しく広めていいものではない。
ラカンの出した異常な条件は、彼がその貴重な情報を明かす気が無いという意思の表れだと、セラスは確信したのだ。
(…やっぱりか)
唯一、士郎だけが無言でラカンを見つめている。
彼は内心、ラカンの言葉に納得していたのだ。
ジャック・ラカンは「自分の為にしか戦わない主義」だと公言し、決してタダでは動かない。
ことあるごとに対価として金銭を要求する人物だった。
―――それを知っている士郎はほくそ笑む。
予想外だったのは五百万という金額の高さだけ。
この事態そのものは―――彼にとって最初から織り込み済みだ…!
「わかりました。払いましょう、五百万ドラクマ」
『―――は?』
士郎以外、すべての声が揃う。
ラカンだけではない、セラスとフィンレイも間の抜けた声を出した。
だが、士郎の目は本気だ。彼は本気で―――
「五百万払うと言ってるんです。取り敢えず小切手でいいですか?」
「………えーと、あの、マジで?」
あのラカンですら、ポカンと開けた大口が塞がらない。
まさか士郎がそんな大金を支払えるなど、露ほども思っていなかったのだ。
だが事実だ。
この衛宮士郎には、五百万ドラクマを即払いできる資産がある……!!
―――話は、士郎の修行時代に遡る。
当時、もはやラカンの財布代わりと成り果てていた士郎。
あるとき彼は、授業料を支払うためにお金を積み立てていた弟子の預金口座から勝手にお金を引き出して使うクズ…もとい、師匠に困り果てていた。
そんな士郎が、この悩みを相談した人物がいる。
その人物は、現在も魔法世界における彼の資産を管理している……ドルネゴスという商人だ。
元々は、士郎の財産を彼女が厳しく管理することでラカンの魔の手から守るという計画だった。
しかしその後に結んだ
投資信託契約に基づき、ドルネゴスは今でも士郎の資産を増やし続けていたのだ。
(やり過ぎだルネさん………今回は、すっごく助かったけど)
二年ぶりに魔法世界を訪れ、ゲートポートで預金残高を確認した士郎の眼球が飛び出したのも無理からぬことであった。
同時に、いずれ臨むであろうラカンとの交渉に「これで勝つる!!」と拳を突き上げて不審がられたのも無理からぬことである。
(…フフフ。力を信じる者は、より強い力の前には無力になる。
そして金を信じる者は金に弱い―――師匠、今のあんたのようにな!!)
ラカンは、顔から滝のような汗を流して視線を彷徨わせている。
こんな師匠を見れただけで、弟子は長年の鬱憤……の、数分の一……が晴れるようであった。
(だ…駄目だ。まだ笑うな…堪えるんだ…し…しかし…)
勝利の喝采を上げるにはまだ早い。
士郎は自身にそう言い聞かせ、表面上は平静を保ちながら、腕を組んで唸るラカンをポーカーフェイスで睨み続ける。
対して、ラカンはといえば。
(ええー…。ちょ、これマズイんじゃねーの? 五百万だぜ?
こんなあっさり出せるなんて誰も思わねえだろうよフツー…!!)
彼は、士郎が払えないような大金を吹っかけて話を濁したかったのだ。
ラカンにとって二十年前の戦いはやはり特別な思いがあるのか、士郎に話したくない理由があるらしい。
―――或いは、
誰にも話したくない何かが。
だが今の問題はそこではない。
ラカンは金に細かい…それは同時に、一度取り決めた金銭の約束事に誠実だということでもある。
ラカンの出した条件、五百万ドラクマを用意できると士郎が言った以上、この契約は成立している。
また、ここにはアリアドネーの国家元首セラスがいた。
彼女が同席している場で交わした約束を違えるなど、いくらラカンでも簡単な事ではない……!!
(――うむ。ヤベェな!!)
「マジでどうすっかなー」と困り果てたラカンは、助けを求めて視線だけでセラスを窺う。
机に肘を乗せ、組んだ手の上に顎を載せたアリアドネー総長は、それを受け止めて柔らかく微笑んだ。
(………頑張りなさい♪)
微笑んだ―――だけだった。
(ンだとおま…っオイオイ頼むぜ、お前この国のトップだろ!?なんとかしろ!!)
(私がこの国の代表なのは事実だけれど、それとこれとは全く関係がないわね。
でも安心して。テオドラ様とリカードにはアナタがヘマをしたって馬鹿にしておいてあげるから)
(ハハハ待てそれはヤメろ!!)
必死に食い下がるラカンは長ったらしくアイコンタクトを送り続ける。
彼らの意思疎通はもはや
念話でもしてるんじゃないかってレベルだ。
「…お。このお茶菓子うまいな。フィンも食べるか?」
「ふむ、頂こう」
その間、ラカンの対面に座ることに気後れして立ちっ放しだったフィンレイを自分の隣に座らせて、士郎はすっかり和んでいた。
彼は頃合いを見計らって「さて」とわざとらしく口にすると、懐からペンと紙の束を取り出す。
その紙にさらさらと文字を走らせ、一番上の用紙だけを破いてテーブルの中央に置いた。
紙の束は、額面未記載の小切手。
但したった今テーブルに置かれたものには、「5,000,000
D」と走り書きされている。
周りはそれを、興味津々な様子で顔を寄せてまじまじと見つめた。
「じゃ、話して貰いますよ」
「………あー、それはだなぁー」
ニコッ。笑う士郎。ただし目は笑っていない。
ヒクッ。笑うラカン。でもそれは引き攣った笑いだ!
(くっ…諦めるんじゃねえジャック・ラカン。
ナギ以外に土を付けられた事のねえ俺がまさかこんな所で―――ホントに五百万ドラクマ貰えるならもうイイかな……)
“―――おいおい正気かよジャック。年食って日和るにはまだ早いぜ?”
(…ナ、ナギ!?)
金の暴力に揺らぐ大英雄ジャック・ラカン。
しかしそんな彼の前に、かつてのライバル・ナギの幻影が現れた…!
“姫子ちゃんのコトとか、もうちょい隠しといてもらわねーと困るぜ。
ってなワケで…えーと、走れよ稲妻!!”
(相変わらず雑な詠唱だなーって大呪文かよ!?)
ハハハと笑うナギがラカンに向けて、極大呪文『千の雷』をぶっ放した!
するとラカンの脳裏に電流走る―――!
“五百万だ。そんだけありゃあ考えてやってもいい”
「…はっ!!士郎、俺は五百万ドラクマ払えとは言ってねえ!
勝手にドラクマと決めつけたのはお前の方だ、俺は『五百万』て言っただけだぜ!!」
「な…ッ!?」
「ふふはは、言葉が足りなくて悪かったなー。十年前に隠居した年寄りだからな、ついなー。
さーあらためてきちんと条件を設定しよーぜー。交渉はそれからだー」
「こ、これ以上ない棒読み…っ!腹立つ!!」
頭をカクカク揺らしてケラケラ笑うラカンの前で、士郎は拳をワナワナと震わせる。
ムキになって向かい合う彼らを、女性二人は呆れと困惑の表情で眺めていたが。
「…はあ。子供のケンカね」
「あのー、ラカン殿、魔法世界で流通している通貨はドラクマとアスだけなのですが…」
フィンレイの冷静な指摘は風と消えて届かない。
腕を組んでフフフと仁王立ちするラカンを睨み、士郎は冷や汗を流して思案する。
……このままゴネられては話が進まない。
しかもラカンは、対価を提示こそするものの〈完全なる世界〉について口を開く気は全く無いと見える。
下手をすれば、ヘンな言い訳を残してこの場から逃げてしまいそうですらあった。
それだけは駄目だ。
あと最短九年で、この魔法世界が自然に滅ぶという危機の真偽。
それはこの部屋にいる、士郎以外の三人が死ぬかもしれないという危険でもある。
〈完全なる世界〉は、それを防ぐために魔法世界を滅ぼすという矛盾を掲げていた。
そして彼らは―――木乃香、刹那、ネギ、明日菜。
士郎にとって大切な人々と、再び相まみえ、戦う日が来るかもしれない。
もしそうなった時、〈完全なる世界〉の真の目的を知っておくことは、間違いなく必要な力である筈なのだ。
少なくとも、士郎はそんな予感がしていた。
(―――もう、これしかない)
士郎は、用意していた二つ目の策を実行に移す決意をする。
それは用意していたと言えるほど高尚なものではなく、策とも言えないほど単純で稚拙なモノだ。
これだけは、できれば………できることなら絶対に避けたかったが。
「…師匠。俺と賭けをしませんか?」
「ほう?」
先の金の事と同様、士郎はラカンの人となりをよく知っている。
故に、この二つ目の策が間違いなくハマると確信していた。
―――
ラカンは、勝負ごとには必ず食いつく、と……!!
「俺が賭けに勝ったら、あんたには全て話してもらう。
俺が負けたら……その五百万ドラクマは全て師匠のものだ」
「ぃよしその勝負受けた!!」
「ちょっとラカン!!?」
セラスが目を剥いて悲鳴を上げる。
彼女は椅子を蹴って立ち上がりラカンを非難するが、当の本人はどこ吹く風だ。
「大丈夫だ、俺に弱点はねえ。どんな土俵での勝負だろうと五百万なにに使おっかな〜グフフフ」
「もう上の空じゃないの!!しっかりなさい!!
二十年前のことを口外しないと決めたのは
紅き翼で…」
そこまで口にして、セラスは慌てて口元を押さえる。
士郎の視線が、彼女を見つめていたからだ。
「…なるほど、師匠が昔のことを話したがらないのはそういう――」
「まぁな。自慢話もハズかしい話も腐るほどある。
今を生きる男ジャック・ラカンは過去を振り返るのがニガテなのさ」
士郎がセラスを責めているように感じたのか、ラカンは強引に話の矛先を自分に向けた。
「それで、いったい何に賭けて勝負をするって?」
「賭けの対象」。それは何より重要だ。
士郎がわざわざ魔法世界に来てまで知りたがった情報と、五百万ドラクマという大金。
これらの行く先を決める大一番に対し、士郎の方が提示したギャンブルだ―――彼に有利な、あるいは勝算が高いと思わせる勝負の筈である。
しかし、彼の口から出た言葉は、この部屋の人間すべてが言葉を失うものだった。
「賭けの対象は、魔法戦闘。
俺と師匠が戦って、どちらが勝つかに賭ける」
ラカンさえ、目を白黒させた。
セラスに至っては、士郎の正気を疑った。
「俺は、俺の勝ちに賭ける」
平然とラカンに視線を刺し続けていたのは……衛宮士郎ただ一人。
(アンタなら受ける筈だ師匠。
勝負好きの師匠なら必ずこの勝負を受ける。なら、俺が勝ちさえすれば…)
「クッ………くくく」
押し殺そうとした、しかし隠せない笑み。
一同は、その主であるラカンを見た。
彼は、到底抑えることができなかったのだ。
自身の内から込み上げる―――その感情を。
「くくく……ははっ、はーーーっハハハハハハハハハハ!!!」
空気が、ビリビリと音を立てて震えた。
窓や調度品が揺れ動く様は、大音量の振動ではなく恐怖で慄いているかのよう。
圧倒的なプレッシャーが痛みとなって、この場にいる者の体を全方向から串刺しにした。
ラカンの放つ存在感に気圧されぬ者は、今この部屋に誰一人として存在しない。
冷や汗が噴き出して、一向に止まらない……!
「ハハハ…くくっ。あのガキが…」
二年前までの、二年間。
ラカンの傍には、いつも必死な顔をして彼の修行についてくる、一人の子供がいた。
戦いは楽しむものではない。
/武術、戦術、戦闘力……「強さ」は手段でしかない。
強くなる喜びなどない。
/強くなると、そう決めたからそうするだけ。
それがどれほど身を削る行為であろうと、ただ、目的を果たすために。
(ああ……そんなガキだった)
故に、ラカンは言ったのだ。
「戦いを楽しめない奴は強くなんかなれない」と。
その言葉に、本気で「解らない」と言いたげな表情をした……かつての子供が、今。
(理由があるとはいえ、あいつが俺に、「戦おう」と言ってきた……!)
かつての戦友を除けば、ラカンの強さを一番よく知っているのは、弟子たる衛宮士郎に他ならない。
それでも彼は、ジャック・ラカンに勝負を挑んだのだ。
「本当に……大きくなりやがったなぁ。士郎」
不敵に浮かぶ歓喜の笑みの中、ラカンは穏やかに目を細めた。
予想外の反応に士郎は一瞬だけ呆気にとられる。
その瞬間、室内に鈍い音が突き刺さった。
“ズンッ!!”
「いいぜ、その勝負受けてやる。
言わなくても分かってるだろうが……〈千の刃〉は伊達じゃねえぜ?」
先の音は、ラカンが純白の大剣を床に突き刺した事によるものだ。
長さ2m、剣幅30cm近い西洋の十字剣。
それはラカンの持つ
仮契約カードがアーティファクトに変じたもの。
古今東西あらゆる武具に変幻自在、数すら無量に分裂する規格外。
かつて魔法世界全土に勇名を轟かせ、今も現存する生きる伝説。
これぞ“無敵無類”と名高き宝具―――アーティファクト『
千の顔を持つ英雄』―――――!!
「楽しもうぜ、士郎」
「……はっ」
士郎の内に湧き上がる感情は、彼の知らないものであった。
ただ、気分は悪くない。むしろ彼は、心地いいものすら感じていた。
その正体は、二年前には感じなかった高揚感。
衝動に従い、士郎はひと振りの剣を投影し、師に倣って床に突き立てた。
(―――ああ。アンタと戦うのが―――)
「俺も、楽しみかもしれない」。
師弟は同じことを考えながら、不敵に笑って睨み合った。
突き立てたる剣の
銘は『カリバーン』。
王に相応しき者が振るう時のみ真価を発揮し、担い手が騎士道を違えぬ限り勝利の
追い風を与える黄金剣。
故にその真名―――、『
勝利すべき黄金の剣』と云う。
<おまけ>
セラス
「…所で、お二人さん?剣が刺さった床と絨毯の弁償はしてもらえるのかしら。
ああ、タルシス産天然大理石のテーブルにも瑕が付いたわね」
ラカン
「じゃ、俺はこのへんで。後は任せたぜ士郎!」
士郎
「あっ師匠!?ちぃっ逃げ足の速い!」
セラス
「じゃあ士郎君、請求書は明日にでも渡すから」
士郎はガクリと項垂れたが、こっそり投影魔術で修復して誤魔化したのだった。