林檎が一人、二人、三人、四人、五人……大勢居た。
 いや、何人も居るかのように見える素早い動き。周泰が見たら『おおっ!』と目を輝かせて教えを乞いそうな見事な分身の術。そう、それはすべて林檎が余りに速すぎるために見える錯覚――残像だった。
 あっと言う間に山のように積まれていた書類が片付けられていく様は、まるで印刷機に紙を通すかのような流れに乗った動きで、文官百人、いや千人はくだらない情報処理能力を発揮していく。
 林檎と太老、実はこのふたりだけで魏一国の情報処理を超えるほどの成果を、ここ一ヶ月ほどの間で残していた。

 宦官・官吏の大粛正による影響で大量に増えた仕事の山により、本来は半年から一年は内政に掛かりきりになると思われていた仕事が、まさか一ヶ月で終わりの目処が立つまでに片付くとは誰一人考えもしなかったはずだ。
 特に林檎の発案で導入した人材・情報管理システムは、これまでより遥かに効率の良いもので仕事の流れを今まで以上に円滑なものにしたばかりか、経費などの無駄を凡そ三割カットすると言った考えられないような成果を現実の物としていた。
 鬼姫の金庫番――神木家経理部主任の名は伊達ではない。
 あの鬼姫すら戦慄する経理手腕は、銀河規模で活動する樹雷においてもトップクラスのものだった。

「ふう、これで終わりですね」
「お疲れ様でしたー。林檎お姉さん、御茶でもどうぞー」
「ありがとう、風ちゃん」

 程イク(風)から御茶を受け取って、やっと終わったと言った様子で一息入れる林檎。
 今日まで林檎が片付けた仕事で収まりきらなくなった書類の山は、この一ヶ月で簡易の倉が商会の裏手に十棟も新設される結果を残していた。
 実のところ、倉を新しく建造するのに必要な労働力の方が、遥かに人手が必要だったくらいだ。
 これには今まで商会で経理を担当してきた程イクも、ただ驚きの声をあげることしか出来ないくらいだった。

 ただまあ、太老という非常識で免疫が出来ていた分、商会に所属する者達の驚きは比較的マシな方だったと言えるのかも知れない。
 太老だから、太老の関係者だから、それで納得してしまえると言うことだ。
 しかし、これ以外に説明が付かず、これ以上に簡潔な説明は他にない。
 丁寧に説明すれば生体強化やナノマシン、並列思考など、幾らでも言葉は出て来るが、そんなものをこの世界の人達が理解出来るはずも無く、二千年近い時代差がある二十一世紀の人類とて理解の及ばない技術の集大成だ。
 ならば、理解出来ないのであれば、理解出来るように納得するしかなかった。

 だが、これが正しい太老達との付き合い方とも言える。
 一種の特技や超能力のようなものと考えてしまえば、なんてことはない。
 この世界の人達からすれば、太老も林檎も『天からきた住人』――『天の使者』なのだ。
 自分達に出来ないことが出来たとしても、なんら不思議な話ではない。そう、納得する人達が大半だった。

「お兄さんとお姉さんのお陰で殆どの仕事は片付きましたー。あとは風達だけでも十分に回せる範囲ですねー」
「そうですか? それじゃあ、あとはお願いしますね。どちらにせよ、後任者を育てて行かないことには、私と太老様に頼られてばかりでも困りますし……」
「そうですねー。風もそれが一番良いと思います。当たり前になってしまえば、ヒトはどうしてもその環境に甘えてしまいますからー」
「フフ、そうね」

 子供の成長を見守るように、程イクの話を満足そうに聞く林檎。自分達ばかりに頼られても困るというのは林檎の本音だった。
 今は太老のために協力してはいるが、林檎はずっとこの国に留まるつもりはない。
 太老の納得が行く解決策と帰る方法さえ見つかれば、すぐにでもあちらの世界に太老を連れて帰る考えを持っていた。
 今はまだその時期ではなく、太老の望まない結果を林檎も望んでいないだけの話だ。
 恐らく彼女達が助けを求めれば、太老はきっと手を差し伸べるだろう。
 でも、それだけではいけないのだ。この世界のことは、この世界の人達にどうにかしてもらうのが一番。
 力を貸すだけでなく、天の力などに頼らずともやっていけるように彼等を導くことも、林檎は必要なことと考えていた。

「やはり、お兄さんとお姉さんは、いつかは天に帰ってしまうつもりなんですね……」

 そんな林檎の考えを察してか、少し寂しそうに呟く程イク。
 彼女は商会のなかでも一番聡く、太老との付き合いも長いために雰囲気からなんとなく、そのことを察していた。
 そんな程イクをスッと覆い被さるように抱きしめる林檎。

「大丈夫。太老様のことだから、きっと悪いようにはしません。それに――」

 林檎は優しく、優しく、程イクの耳元で囁く。
 それは太老に対する信頼の現れであり、疑いようのない確信でもあった。

経理部(うち)に来なさい。歓迎しますよ」

 そして彼女は抜け目がない。曹操以上に将来有望な人材の引き抜きに余念が無かった。





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第102話『長期休暇』
作者 193






【Side:太老】

 仕事を終えて自室に戻ると、そこは殺人事件の現場になっていた。
 ぐったりとした様子で、血だまりのなかに倒れている眼鏡の女性。
 ああ、そうだ。その女性が誰かなど問うまでも無く――

「おーい、何やってるんだ? 稟」
「ふわぁ……ああ、た、太老様。ほ、本物!?」
「いや、本物ってなんだよ……」

 偽物が居るなら、ここに連れて来てくれ。すぐに変わってもらうから。主に仕事を。

「ほら、手を貸してやるから、とにかく起きろ。ああ、こんなに血で汚しちゃって。誰が掃除すると思って――」
「た、太老様がこんなにちか、ちかくにふ、ふれ……ぶはっ!」
「ちょっ!? 稟」

 また鼻血のシャワーを噴き出して、くらくらと床に倒れる稟。重症だった。
 床もベッドも部屋中が血まみれじゃないか。これ、どうするんだよ。血って落ちにくいんだぞ?
 さすがに血の臭いがべったりとついた部屋で休む気にはならない。はあ……俺にどこで寝ろと?
 そもそも、なんで稟が俺の部屋にいるんだ? そこからして謎なんだが。

「太老様。少しよろしいです……か?」
「あ、林檎さん。丁度よかった。稟を――」
「太老様……。まさかとは思いますが、彼女を……」
「容疑者はお兄さんですねー」

 いつの間にか、風が犯行現場の検証を始めていた。しかも虫眼鏡を持って。
 まあ、なんとなく似合っているからいいんだが、容疑者ってなんだ。容疑者って。
 それは稟をこんな風にした奴のことを……あれ? 俺が原因なのか?
 いや、俺は介抱してやろうとしただけだしな。勝手に鼻血を噴いて稟が倒れただけだ。
 鼻血を噴き出す要素なんてどこにもない。疑われても困るので、そこは丁寧に説明してやることにした。

「――ってわけなんだが」
「自供しましたねー。お兄さん」
『語るに落ちたな。大将』
「なんでそうなる!?」

 風だけでなく、その頭の上に乗ってる宝ケイにまで容疑者扱いされてしまった。
 いや、林檎さん信じてください。そんな目で見るのはやめて。マジで。

「まあ大方、部屋にお兄さんを呼びに来て返事がないから部屋の中に入ってみたら、お兄さんがいなくて。これは好機とばかりにちょっとした出来心でお兄さんの布団に横になって、お兄さんの匂いを堪能していたところ妄想を膨らませすぎて、鼻血をだして倒れたんでしょうけどねー。で、お兄さんが事件現場にやってきて介抱しようとしたところ、これまた(ナマ)お兄さんの(ナマ)感触に耐えられなくなって、またまた妄想を膨らませて鼻血を噴き出して倒れた、と言ったところでしょうか〜?」

 いや、大筋あってるような気もするが、まるで見ていたかのような推理だな。
 そもそも『(ナマ)』って何? 『生』って。そんなので鼻血を噴くって、どれだけ男に免疫がないんだよ……。
 あれか、稟って華琳のことが無茶苦茶ラブだったよな。まあ、それなら百合(あっち)系の人だし、男に免疫がないってのもわからないではないかな。
 桂花みたいなもんか。あれは更に稟の上を行く変態で、華琳命みたいなところがあるが。
 それにしても鼻血だけは勘弁して欲しい。そもそも俺との付き合いも、それなりに長いんだから慣れてくれよ。

「よくそこまで見ていたかのようにわかるな……」
「稟ちゃんに『お兄さんを呼んできて欲しい』と頼んだのは風ですからねー」

 元凶はお前か……。真犯人を見つけた気分だった。

「ほら、稟ちゃん。トントンしましょうねー。トントン」
「いつも思うんだが、それって本当に効果あるのか?」
「多分。一応お医者様から教えてもらったので、それなりに効果はあると思いますよー」
「根本的な解決には、なってないような気もするけどな……」

 稟の場合、突然死の原因が『鼻血で出血死』だとしても全然不思議じゃない。
 ここは根本的な解決策を考えてやるべきなのではないか、と真剣に考えるくらい心配になる。
 いっそ、ナノマシンで身体の構造を弄っちゃうか?
 もしかしたら、林檎が持ってきてる七つ道具のひとつで治せる病気かもしれないしな。

「はっ、ここは……」
「目が覚めましたか? ダメですよ、稟ちゃん。こんなところで寝ちゃ〜」
「こんなところ……ここは太老様のふ、ふと……」
「はいはい。妄想は程々にしましょうねー。また倒れちゃいますよー」

 うん、やっぱり風は稟の扱いが手慣れてるな。さすがは古くからコンビをやっているだけのことはある。
 折角だから林檎も居ることだし、さっきの案を訊いてみるか。

「稟、ちょっといいか?」
「あ、はい! なんでしょうか!」
「その鼻血、何かの病気かもしれないから一度ちゃんと治療した方がいいと思うんだけど、よかったら俺に診させてもらえないか?」
「そ、それは……た、太老様が診察をされると」
「うん? まあ、そうなるかな? 俺が昔作った発明品にそういうのが――」
「た、太老様とお、お医者さんご、ごっこ……ぶはっ!」

 重症どころか、末期症状だった。
 もう、この部屋使えないな……と思うくらい、床や壁が一面真っ赤に染まっていた。


   ◆


「林檎さん。稟の容態は?」
「完治には至りませんでした。ただ症状を抑えることは出来るみたいで、治療用ナノマシンによる処置は施しましたが」

 俺ではまた鼻血を噴いて倒れてしまいそうだったので、治療は林檎にお願いした。
 その名も『メディカルナースちゃん』という、俺の発明品の一つ。基本的な操作が出来れば誰でも使える。まあ、こっちの世界でこれの使い方がわかるのは、俺か林檎くらいのものだろうが。
 パーソナルデータを解析し、身体の異常な部分を特定することで、銀河アカデミーに登録されているナノマシン治療が可能な病気であれば、大抵はその場で簡単に治療できてしまうという優れもの。
 しかし稟の病気がこれで治せないってことは、かなり特殊な病気ってことになるな。
 地方特有の病気とか、ある特定の遺伝子を持つ一族しか発症しないような特殊な病気には、この手の簡易装置は弱い。予め登録されている治療方法しか試せないからだ。
 俺も医者と言う訳ではないので、未知の症状や個人に合わせた薬を作るとかは、さすがに難しい。

「まあ、症状が抑えられるだけマシか」

 今はそう、納得するしかなかった。
 機会があれば、あっちに帰る算段でもついた時に、稟を大きい病院にでも連れていけばいいだろう。
 樹雷やアカデミーの医療施設なら、なんらかの治療方法がきっと見つかるはずだ。
 肉体的な寿命や病気による死亡は、俺達の世界ではほぼ克服された問題と言っていい。
 最悪の場合は、アストラルを別の身体に移すなんて技術もあるくらいだしな。まあ、この手の高度医療技術を受けられるのは物凄い金持ちか、一部の権力者に限られているわけだが。
 特に数千年・数万年単位の延命調整などは、本当に限られた人達しか受ける事が出来ない。
 例えばその人が亡くなることで、社会的・文明的に大きな損失が出るケースや、国家規模の組織基盤を揺るがし兼ねない問題が発生する可能性がある場合など、多大な影響力を持った人物とその親族に限られるということだ。
 それでも、普通の延命調整ですら数百年から千年という長命を得る事が可能なことから、普通はそこまで長く延命調整をしたいと考える人は少ない。
 その証拠に、最近の流行は延命調整に頼らない寿命による自然死なのだそうだ。
 生や死に対する価値観や概念。考え方がそもそも初期文明段階の人達と宇宙に進出した人類では大きく違う。
 だから、こうした問題は議論するだけ無駄な話だったりすることが多い。
 寿命に関する捉え方自体、一種の流行や文化サイクルだと考えた方が自然なくらいだった。

 ――閑話休題。

 話が少し脱線したが、ようするに今ここで完全に治療するのは難しいということだ。方法は追々と考えるしかないだろう。
 やはりここでも帰る手段と、この世界の問題をなんとかする解決策を探すと言う方向に落ち着くわけか。
 一応、方法を考えていないわけではない。幾つか案は考えてあるんだが、それを実行に移すための駒や条件が足りないんだよな。
 多麻にも手伝ってもらっているので、そのうちなんらかの進展がみられるとは思うんだが。

「あ、そう言えば。風は、俺に何か用事があったんじゃなかったのか?」

 稟を寄越して、その後に自分から林檎と一緒に尋ねてくるくらいだ。何か用事があったのは間違い無い。
 また厄介な問題じゃなければいいんだが……。

「ああ、そのことなんですが、お兄さんとお姉さんにはしばらく一緒に休みを取ってもらおうと思いまして」
「休み? え、でも……仕事は?」
「それはもう風達だけで大丈夫です。急を要する仕事は殆ど片付きましたし、人材の育成に力を入れる機会かとー」
「ああ、なるほど。ようは、下の仕事を取るなってことね……」

 というか、そんな状態になるまで俺に仕事を振ってたのか?
 ここ最近忙しかったわけだ。何気に容赦ないよな。風って……。
 でもま、休暇というなら遠慮無く取らせてもらおう。ここ最近働き過ぎだったのは事実だしな。
 長期休暇ってことなら、一刀について行くのも面白いかな?
 いや、自分から面倒事に首を突っ込むのはやめておこう。絶対に碌な事にならん。
 強力な助っ人も付けてあるし、一刀なら多分大丈夫だろう。主人公補正があるだろうしな。

「それで休暇を利用して、お兄さんとお姉さんには行って欲しいところがあるのですー」
「行って欲しいところ?」
「はい。連合加盟国ですー」
「……なんで、また」
「連合の結束を強めるためですねー。陛下や華琳様の了承も貰ってます。天の御遣いの威光を各国の民に知らしめるのが目的。本音は皆さん、お兄さんを国に招いて宴会をしたいみたいですねー。魏にお兄さんを独り占めしてずるい、といった意見が多く寄せられているそうでー」

 それ、休暇というか仕事じゃ……ああ、そのための長期休暇なのか。合点がいった。
 でも、『お使いに行ってきてくれませんか?』ってノリで言ってるけど、大陸をグルッと一周して来いってことだよな。
 何ヶ月……いや、軽く一年くらいはかかるだろう。それ。
 お使いのレベルを軽く超えちゃってるぞ。この世界には飛行機とか便利な乗り物はないんだから。

「ああ、期間は半年でお願いしますねー」

 全然ゆっくり出来る休暇じゃない。無茶振りもいいところだった。

【Side out】





 ……TO BE CONTINUED



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.