一人の幼女が公園を駆け抜けていく。
「お母さん!お母さん!」
 幼女がお目当ての人物を見つけると、背後からガバッと抱きついた。
「どうしたの?マドカ」
「ケイタ君から貰ったの!」
 そういって母ユリカの前に差し出したのは一輪のタンポポの花だった。
「綺麗ね」
 ユリカは愛娘に向けてほほえみかける。
「もうちょっと温かくなると、過ごしやすくていいんだけどなぁ」
 ユリカたちの一歩後ろを歩くラピスは、ユリカとマドカのやりとりをみながらボンヤリ呟いた。
(ピクニックはいいけど、まだちょっと寒くない?)
 桜が咲く季節はもう少し後。
「ママにあげようかな」
「お母さんにはくれないの?」
「貰ってくる!」
 ラピスはすっかり慣れてしまったが、よくよく聞くと実に不自然な会話だ。
 会話の中に「ママ」と「お母さん」が別々に存在している。
 テンカワ家の近所のママ友の間では、このテンカワ家の事情は今では定着しているが、マドカが公園に集まる子どもたちとの間に漠然とした友達関係が築かれ始めた当初、このマドカの言葉は若いママ友たちを大混乱に陥れた。
 テンカワ家において、「お父さん」は無論アキトの事を指すのだが、「お母さん」はユリカを、「ママ」はルリの事を指した。当初、マドカが言葉を覚え始めるに従って、アキトをパパ、ユリカをママと呼んだまでは良かったのだが、ルリをルリと呼んだのである。
 直接産んだのはユリカであるが、マドカに取ってはルリもまた親である。
 ということにした。
 それはそれで間違いではない。だが、そういう関係なのだと娘に正しく認識させるために時間をかけての矯正が行われた。その間のテンカワ家の大混乱は想像に難くない。何せ、「お母さん」と「ママ」の使い分けがまだあやふやな状態では、マドカ本人がどちらのつもりでどちらを呼んだのか、ということが本人にもわからなくなるということが度々起こった。
 それでも辛抱強く、ユリカとルリを呼び分けられるように時間をかけた。
 ただし、ルリをそのままルリと呼ぶことだけは絶対に許さなかった。間違って呼ぼうものなら、ユリカから特大の雷が落ちるのである。ユリカは滅多なことではマドカを怒らない(叱ることはある)のだが、普段がニコニコふわふわしてるだけに、かえって雷が落ちるときの恐怖感はアキトやルリの比では無かった。
 そんな努力の甲斐もあって、マドカがまもなく3歳を迎えようとしている昨今、それはテンカワ家だけでなく周囲の理解も勝ち取った。
 こういったテンカワ家の「特殊な事情」は、そもそも何故こうなったのか、という話がママ友の間ではよく話題にあがったりもするのだが、ユリカに華麗にはぐらかされてしまい、結局のところ「テンカワ家には母親が2人おりますが、それが何か?」という天然さをそのまま飲み込まざるを得ないという状況を作り出したのは、ある意味ユリカの人柄のお陰なのかもしれない。
 そんなママ友たちの好奇心とは全く無関係に、マドカは今日も朗らかに友達と遊んでいる。
「マドカちゃん!」
 後ろからやってくる仲良しの友達に気付いたマドカは、母親譲りの向日葵のような笑顔を炸裂させた。

 

affection series, episode #6
Martian Successor Nadesico : words of confession, 2208 A.D.
- kaleidoscope -
 
移り変わる景色
 
Written by f(x)

 

「おまたせ!」
 待ち合わせ場所にウリバタケ・ヒロトはやってきた。
「おはようございます」
 少女はペコリと頭をさげた。ヒロトより頭1つ低い小柄な少女だった。
「ごめんね、待たせた?」
「いえ、大丈夫です。まだ待ち合わせ時間の10分前ですし」
「それでもヒメも時間前に来てくれたじゃん!」
 そう言ってヒロトは嬉しそうに笑う。
「それで、今日はどういったご用件ですか?」
 ヒメがいきなり本題に入ったことに、ヒロトは酷く狼狽えた。
「いや、あの、ヒメとデートしたいなって思ったんだ。……迷惑だったら、ここで止めるけど」
 ヒロトの本音を言えば、当然ここで断られたくは無かった。ラピスに連れられてヒメが彼の父のラボを訪れた時に出会ってから数ヶ月。ウインドウ越しのコミュニケーションを重ねて、ようやくここまで辿り着くことができたのだから。
 本来であれば最初からデートをしたいと伝えておくべきだったのかもしれない。だが、少しでもいいから直接会いたかったのである。
「そんなことはありません。でも、私デートとかしたことが無くて」
 少々困り気味な表情を見せるヒメだったが、断られなかったことにヒロトは安堵した。
「うん、俺も無い!」
「私でよろしいのですか?」
 ヒメに初めて広がる困惑。
 エモーション・ユニットの開発は順調のようだ。しかし、人の感情というものを理解すればするほど、時にこんなに苦しいと感じるのは何故なのだろう。
 目の前の少年が自分にぶつけてくるのは、掛け値なしの好意であることは彼女自身、重々承知している。
 人間の言葉に置き換えるのなら、おそらくは恋愛感情、あるいは限りなくそれに近いもの。
 だからこそヒメは戸惑う。戸惑いというのも新たに彼女が覚えた感情だ。
(だって私は、ヒトじゃない。どこまでいっても、それは所詮、仮想人格)
 相手から向けられるものが好意であればあるだけ、本来それは自分に向けられるべきものではないという気持ちがヒメの中で高まってしまう。高まってしまうからこそ、苦しい。
 いつか打ち明けなければならない。
 もし本当の事を知ったとき、この人はどう思うのか。できれば傷つけたくない。そして同時に、本当のことを打ち明ければ、もうこの人は今までと同じようには接してくれなくなるだろう、という恐怖に似た感情もまた、ヒメの中にはあった。
 NAISのメンバーたちがヒメに与えてくれるのは、優しさと温かさ。
 その対極にあるものを、ヒメはまだ知らない。そして知らないが故に恐れる。
「俺はヒメがいいんだよ」
 照れで視線をちょっと横にずらしたヒロトは、はにかみながらそう言った。
(私がヒトだったら、どんなに嬉しかっただろう……)
 ヒロトがヒメの手を取る。
「ヒメさえ良ければ、俺とデートして欲しい」
 早く本当の事を言わなければという決心を、手のひらから伝わる暖かさが鈍らせる。事態を後回しにすべきでは無いことが頭の中ではわかっているはずなのに、その手を振りほどけなかった。
 嫌われてでも、この日を思い出として残しておきたい。
 そう思ってしまった。
 だから彼女は、触れられたその手を握り返した。
 それが後で自分を余計に苦しめることになるのをわかっていながら。

 

(ウソ…!)
 少女は目撃してしまった。
 ヒロトを見かけて喜びを含んだドキッとした感情は、すぐさま別の感情に塗り替えられた。
 ウインドウショッピングを楽しむヒロトは一人ではなかった。それどころか、一緒にいたのは同じ学年の同性の友人でも無かった。まったく見知らぬ、ツインテールの髪型をした少女だった。
(あれ、誰?)
 学校の中でも全く見覚えが無い。あれだけの美少女なら、学校の中で目立たないはずが無い。
 そんな少女がヒロトの隣にいる。
(なにこれ)
 心の中に流れ込んでくる感情をコントロールすることができない。
(嫌だ……)
 楽しそうに微笑む顔で、手まで一緒に繋いでいる。
 何が起きているのか理解したくない。
 そこに割り込んでいく勇気は振り絞っても出せそうにはない。
 彼女が選んだのは逃避だった。
(なんで?どうして?!)
 一言でかたづけるなら、ショックを受けたという言葉になるだろう。言葉にするのはとても簡単だが、それを実際に心で受けてみると、とんでもないほど衝撃的なものだった。
 少女は自宅に駆け込むと、玄関で靴を勢いだけで脱ぎ散らかしたまま、自室に飛び込んだ。
「ちょっと、ミノリ!」
 母親がドアの向こうで何か言ってるが、そんなものは今の彼女の耳には全く届いていない。
 そのままベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めた。
「やだ……」
 ミノリが絞り出せた言葉は、ただそれだけだった。

 

 ヒロトとヒメの二人は、特に何かをするわけでもなく、特に何かを買うというわけでもなく、ただ二人で一緒にいて食事や会話をするだけだった。
 それだけの事なのに、とても心がいっぱいになる。
 ヒメの表情にも徐々に笑顔が浮かんでくる。
 このままでいられれば、もっと良い雰囲気になれたのかもしれない。
「そういえば、ヒメって学校はどこに通ってるの?」
 ちょっとギョッとさせられる質問だった。だがウソをつくわけにはいかない。
「私は学校に通ってないんです。普段はネルガルにいて」
 ヒロトは、ふぅんすごく優秀なんだろうなとしかその時は思わなかった。
「すごいね」
「すごいですか?」
「だって、ネルガルって優秀な人がいっぱいいる会社だろ?その中にいるなんて、すごいじゃん」
 本当であればストレートに賞賛の言葉だった筈である。
 しかしヒメの中では、なんだかヒロトに対してウソをついているような気がしてきて、心の中のもやもやが晴れなかった。
 だが、時間はヒメにその場に立ち止まり続けるためには、時間を与えてくれなかった。
「あのさ!」
「はい」
 瞬間的に、ヒロトの言うか言うまいかというためらいがコンマ数秒の間を作った。
 だが彼は動き出した。
「俺、ヒメの事が好きだ」
「え……」
「よかったら付き合って欲しい」
 ストライクゾーンのど真ん中に直球のボールを放り込んできた。感情がまだそこまで追いついていないのに。
「……その、えっと、ごめんなさい」
 そのごめんなさいは即答できないこと、感情が追いついていないことへの謝罪だったのだが、ヒロトの受け取り方は違った。
「そっか、ダメか……」
「あ、違うんです!ダメじゃないんです」
「え」
「私は、ヒロトさんが思っているような女の子じゃないです」
「ヒメはヒメだろ?」
「それはそうですけど」
「だったら俺はヒメが好きだ」
「わけがわかりません」
 その台詞の裏にあった本当の気持ちは嬉しさ。
 それが言葉とは裏腹に表情ににじみ出ていた。
 ストレートに好きという言葉を、ありったけの想いを載せてぶつけられることが、こんなに嬉しいことだとは思ってみなかった。それは《ヒメ》に携わる誰からも貰ったことの無いもの。それまでも親近感や好意はあったが、これほどまでにまっすぐで大きな恋心を受け取ったのは初めてだった。
「いますぐここで決めなくてもいいから、良かったら返事を考えておいてくれないかな」

 

 ヒメの表情を表現するなら、まさに今心ここにあらず。
 何やら上の空といった具合にぽんやりとヒメはチェアに腰掛けていた。
「なぁ、ラピちゃん」
 サブロウタ、どん引き気味。
「言わなくても、わかってます」
 ラピス、引きつり気味。
「ヒメ」
「はい、なんですか?」
 ラピスに声をかけられ、ヒメは現実に戻ってきた。
「何かいいことあった?」
「え、あ、いや、何も無いです」
 慌てて取り繕うヒメをラピスが見逃すはずが無い。
 その目は、ミナトやユキナと同類の捕食動物の目をしていた。
「本当に?」
「本当です」
「こんなにヒロト君のウィンドウを出しまくってて?」
「え?」
 もしかして!と思いヒメは慌てる。
不可視状態ヒドゥンにし忘れてるよ」
 あわわわと慌てるヒメを見て、ラピスはくすりと笑う。
 ヒメの周囲にあった百近い数のヒロトが写っていたウィンドウが一斉に消散する。
 待ち構えるラピスの笑顔には、さぁお姉さんに白状しなさいと書いてあった。
 ヒメはラピスに顔を近づけると小声で白状した。
「ヒロトさんに告白されました」
「えー!」
 驚きのあまりに声を出したラピスの口を、ヒメは慌てて塞いだ。
「ラピス、声でかいです!」
「ごめん」
 はぁとヒメは気持ちを落ち着かせた。
「それで?」
「それでとは?」
「付き合うの?」
 その言葉にヒメはちょっと唇を噛みしめた。
「ラピス、本気で言ってますか?私、AIですよ?」
「別にAIが恋をしちゃいけない決まりなんて、どこにもないよ」
「それは前例が無いからです。私にはできません」
 そうでなければ、こんなに苦しいわけがない。そうヒメは思った。
「前例がなければ作ればいいじゃない」
「そんな簡単にっ」
「私もそうだった」
 え?とヒメはそれまで沈み込みがちだった目線をあげた。
「私はマシンチャイルドで特殊だから、恋なんかできないって思った時あった」
「でもラピスはヒトじゃないですか。私とは根本的に違います」
「ヒトかどうかなんて、そんなに大事なこと?」
 異種族間という枠を大きく飛び越えている。ヒメは有機生命体ですらないのである。
「問題は気持ちじゃないの?ヒメは嬉しく無かったの?」
 嬉しく無いはずが無いのはラピスもわかっている。そうでなければ、ヒロトの写真に囲まれてぼーっとしているなどないのだから。
「……嬉しかったです、すごく」
「じゃあ何の問題も無いじゃない」
 果たしてそうだろうかという疑問がヒメについて回る。
「ラピスはハーリーが肉体を失って、脳だけがAIに繋がれた状態になっても愛せるって言えるんですか?」
 このときのヒメの言葉にそんなに深い意味は無かった。ちょっとした逃げのようなもの。だからこそ、返ってきた言葉に衝撃を少なからず受けた。
「愛せるよ」
 迷う事無く即答。
「え」
「それがハリなんだったら、AIだろうが車だろうが、私はハリを愛せる」
 この人はそういう人だったということを嫌でも思い知らされる事となった。
「まぁ、ヒロト君もそうであってくれればだけど」
 自分に向けられる恋心は、むしろヒロトの将来にとって大きな邪魔でしかないのではないかという気持ちがある。ヒトはヒトと結ばれることによって、子を為すことができる。子供ができれば幸せとは必ずしも言えないし、愛があっても子に恵まれないケースは山ほどある。それでも、ヒロトとヒメとの間に幸せな将来が待っていることは、可能性として絶望的なほどあり得ない。
 そもそも幸せとは何か。
「大好きな人と一緒にいられるものを上回る幸せって、そうそう無いよ?」
 それはわかっていても、結論を導き出せないでいた。
「結局、ヒメはどうなりたいの?」
「それがわからないから苦しいんです」
 ウソだ、本当はわかってる。
 わからないのは、それを認められない自分と、何故認められないのかという理由だった。

 

 放課後、屋上で待ってます。
 という短いメッセージを朝に受け取って以降、ヒロトは妙に落ち着かない気分でいた。
 発信元はシノザキ・ミノリ。放課後まで相当気まずいことになっていた。お互いに気にしない素振りを見せていたが、気にするなという方が無理がある。
 ヒロトはミノリという少女のことをあまり知らない。会話を交わしたことはそう多くなく、特に親しいという関係では無かった。かと言って、まるでつきあいが無いかというと、そこまででもない。取り立てて美少女というほどでもないが、ちょっとクリッとした目がかわいらしいという印象を持っている程度の、そんなふわっとした関係にいる女の子だった。
 このメッセージが何を意味するか、というところに興味が湧かないほど愚鈍なヒロトではない。
 全くの見当外れかもしれないが、そうでなければ、ひょっとするかもしれない人生の大イベントが待っているかもしれない。
 もしこの仮定が正しかったとして、それでもヒロトの心にはヒメが揺らぐこと無く位置していた。
 正直、自分の気持ちだけで手一杯で、相手の気持ちにどうやれば向き合えるかというところまで気が回らない。結局、勢いだけの行き当たりばったりで、放課後を迎えることとなった。
 周囲の生徒があらかた下校した時間を見計らってヒロトは屋上に向かった。
 すぐに行くと友人らの間で目立ってしまうかもしれないからだった。
 ヒロトが屋上への階段をのぼり、扉を開けたその先にはミノリが待っていた。
 あまり意識していなかったとはいえ、さすがに自分の鼓動が高まるのを抑えることができない。
 屋上に吹く風が、ふわりと僅かばかりミノリの制服を持ち上げる。
「わりぃ、遅くなった」
 というヒロトの言葉に、ミノリは笑顔で返した。彼女にしてみれば、ひょっとしたら来てくれないかもしれないという不安がずっとつきまとっていたし、何より昨日のヒロトの隣にいた少女のことが頭から離れない。内気で目立たず大して可愛くも無い、と自分では思っているミノリ自身の評価に比べて、相手は格段に可愛い。美少女と言っていいレベルである。
 勝算も何もあったものではなく、とにかくいてもたってもいられないという気持ちから来るかなり前のめりな行動であることは、ミノリ自身もわかっていた。
「呼び出したりして、ゴメンね」
「いや、大丈夫」
「聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「何だ?」
「昨日、一緒にいた女の子、誰?」
 ヒロトは一瞬あれ?と思った。思っていたのとは違うところに話題がいったせいかもしれない。
「あの子は、ヒメっていうんだ。っていうか、そんなことシノザキに別に関係ないし」
「関係無くない!」
 ミノリの声にはっとする。
「ごめん、言い方悪かった」
「そのヒメって子と付き合ってるの?」
「いや、まだ返事貰ってない」
 告白したことも好きであることも暗に認めた上で、YesでもNoでもない状態。
「だったら、私は結論が出るまで諦めない」
「は?」
「ヒロト君が好きだから」
 ヒロトは自分でヒメに対してあっさりと好きだと告白できたのに、逆に告白される立場になってみるともの凄い照れる。告白した時よりも、顔を赤くし、心臓はバクバク言っていた。
 直感的にズルいと感じてしまったのは、自分に対してなのだろうか、ミノリに対してなのだろうか。
 それまで何とも思っていなかった相手だったのに、想いが込められた一言が発せられるだけで相手がどうしようも無くかわいく見えてしまったのだ。
「シノザキ、俺は」
「待って!」
 ミノリは涙混じりに訴えた。
「ヒメさんの返事が貰えるまで、そこから先は言わないで」
 ふられるなら、せめて自分自身の納得のできる形でふられたかった。
 何もしないまま、ただ諦めるのはどうしても嫌だった。

 

 ハーリーの元にラピスからの呼び出しが届いた。
「どうしたの?」
『もう夕飯食べた?』
「いや、まだ。どうしようか考えてたところ」
『だったらうちに食べに来ない?』
 ラピスの家、と言ってもそれは同じマンションの別の階にある部屋なので徒歩1分という距離だ。
「うん、いいよ。何か持ってくものある?」
『ううん、特に無い』
「オーケー、じゃ、今から行くよ」
 通信を終わらせるとハーリーはサンダルを履いて玄関を出た。階段で2つ上のフロアに登るだけなのだが、外を吹く風は冷たい。
「うわ、寒っ」
 サンダルで足が剥き出しなせいで余計に寒く感じる。
 インターホンのボタンを押すと、中で返事も無く、ガチャと鍵が開く音が聞こえる。
「入るよー」
「はいはいー」
 キッチンから漂う香りがハーリーの鼻腔をくすぐる。
「何作ってんの?」
 ラピスはエプロンを着けて、何かを焼いているようだ。
「今日は鮭焼いてる。バターで焼いてムニエルにでもしようかと思って」
「なるほど」
「ハリはご飯よそってくれる?」
 言わずもがなで二人分。
 準備ができあがると、それをリビングのローテーブルに並べて、二人で合掌。いただきます。
「うん、美味しい」
 ハーリーはこういう礼を言うことを欠かさない。
「ありがと」
 ラピスの笑顔の返事まで含めていつものこと。
「そういえば今日ね、ヒメと話したんだけど、あの子ヒロト君に告白されたんだって」
「へぇ……ぇええええ?!」
 ハーリーは予想外の出来事に驚嘆した。
「びっくりだよね」
「びっくりっていうか、ヒロト君はヒメがAIだってこと知ってるの?」
「どうなんだろう」
「……ラピスさん、そこ見落していいとこ?」
 ハーリーはちょっと呆れ気味に言う。
「だって、別にAIでも問題ないでしょ?」
 いや、あるだろと口に出しかけて、むしろなんで問題無いと思うのかがわからなくて言葉に出せなくなった。
「人間、二次元だって嫁にできるんだから、AIなんて楽勝じゃない」
「そうかなぁ。例えばラピスは僕がボソンジャンプで二次元に飛ばされても平気?」
「全然平気」
 それは肯定的に捉えればいいのか、否定的な意味なのか。
「僕はダメだな。好きっていう気持ちは、物質的な感触を伴わないとリアルじゃない気がする」
「つまりは、おっぱい?」
 食事中に言うんじゃありません。とハーリーは唸った。
「別にヒメにだって触れられるじゃない」
「でも、ボディと生身の肉体って違わないかい?」
「ヒメも、ヒトであるかどうかを気にしてたけど、それってそんなに重要かな」
 ハーリーは思わず考え込んでしまう。自分の尺度で考えれば、そこは重要だ。これまでに人間が人間じゃ無いものに対して、比喩的な意味合いではなく、リアルで恋をするという話は聞いたことが無い。少なくとも、ハーリーの知る限りでは聞いたことが無い。
 ただしこれまでに例が無いからと言って、未来永劫あり得ないとは限らない。
 自分が出来ないからと言って、他の人もみな等しく出来ないということにもならない。
「これ、思ったより難しい問題だな」
「難しく考えすぎ。好きな気持ちと気持ちが一つになれば、誰だって幸せになれるんだよ。そんなに凝り固まってたら、将来異星人とファーストコンタクト取っても素敵な未来にならないよ?」
 固定的な価値観や観念、時には本能も、前に進もうとする自分たちに邪魔になるかもしれない。どうやってそれを打ち破っていくのか。打ち破ることができた時、ヒトはそれを進化と呼ぶのではないかとハーリーは口に出さずに考えていた。

 

「あ、ウリバタケ博士、夜分遅くに申し訳ありません」
『いや、全然構わないが、どうした』
「次のボディのメンテナンス日なんですが、ヒロトさんが不在の時にお願いできませんか?」
『別に問題ないけど、なんでヒロトが?』
「ヒロトさんには見られたくないんです」
 そのヒメの言葉を、ウリバタケは、あいつヒメに嫌われるようなことを何かやらかしたのか?と誤解した。

 

 だが、こういう望まれない遭遇エンカウントは得てして起こりうるものなのである。

 

 登校したヒロトとミノリに告げられたのは、本日休校の知らせだった。原因はインフルエンザ。
「そういうの、学校に来る前に言って欲しいぜ」
 ヒロトがクラスメートにぼやく。
 そんな姿を見ながら、実はミノリはヒロトに少しでも会えてラッキーとか考えていた。
 しょうがない、とヒロトは教科書が入った鞄を引っつかむと身を翻した。
 そこにミノリと視線があった。
 ミノリは小さくヒロトに手を振った。そのことに気付いたヒロトも少し笑って、同じように小さく手を振り返した。
 まだ白黒がハッキリしない状態で、本当はミノリの心は穏やかではないのだろうとヒロトは想像するのだが、こうして微笑みを向けられると少し救われる気持ちになる。
 早く結論を出したいのはヒロトとて同じだったのだが、実はあの日以来、ヒメとはあまり会話をしていない。こちらから送っているメッセージに対する返信も遅い。
 ヒメが自分をどう思っているのか、という事に対してハッキリとした確信を持てないでいることが、ヒロト自身の気持ちを少し俯かせる。
 帰り道を歩きながら、今日はヒメと話がしたいと思いながら考えていたのだが、あっという間に自宅についた。
「ただいま」
 ヒロトが家の中に入ってそう告げたとき、ラボの方からがたんという音がした。
 そういう物音がするのは別に特別珍しいことではない。正直なところ、ヒロトは自分の父親がいったいどういう仕事をしているのかをよく知らない。ただ漠然とネルガル関係の仕事をしていて、その関連でかつてはナデシコという船に乗り、今でもネルガルからハーリーやラピスがちょくちょく訪れることを知っているという程度の認識だった。
 その日、ヒロトがラボに顔を出したのは、ただの偶然だった。気にせずに自室に戻っていた可能性と比べるなら、確率はまさに五分五分といったところだろう。そして今日の五分は思わぬ方向に事態を傾けることとなった。
「父さん?」
 父は確かにラボにいた。
 が、衝撃が走ったのは、そこにヒメもいたという事に付け加えて、彼女はラボにある寝台の上で上半身を裸にしていたからである。
 いったい何がどうしてそうなるのか、ヒロトには全く理解できない。
 緊張が走るのは何もヒロトに限らない。それはヒメにしても同様と言えた。
 こんな姿を一番見られたくない相手に見られた。
 今日はヒロトは午前中学校だったはずでは無かったか。ヒロトのいない時間帯を選んできたというのに、何故かこの時間にヒロトが目の前にいて、しかもウリバタケのラボの中で上半身は何も身にまとっていないという、これで誤解するなという方が無理という最悪のシチュエーションを呈していた。
 恐らく何もいつもと変わらないのは、父だけである。
「おう、お帰り」
「お帰りじゃねぇよ!あんたヒメになにやってんだよ!」
「何って、メンテナンスだよ。ボディの」
「メンテナンス?」
「よくできてるだろ?ヒメのボディは俺の最高傑作の一つだからな」
 ヒロトは父の言葉が全く理解できない。
 ヒメにしてみれば、一番言って欲しくない言葉が放たれてしまった。
「意味がわかんねぇよ」
 ヒメは寝台を離れると、彼女が持つ最大速のパワーをもってラボを走り去った。
「ヒメ!」
「お前、ヒメに何かしたのか?」
「どういう意味だよ」
 とヒロトは父を睨みつけた。
「あいつ、態々お前のいない筈の時間帯を指定してメンテナンスを受けに来たんだぜ。お前、そんなに嫌われるようなことしたのか?」
 ヒロトは耐えきれなくなってヒメの後を追った。

 

 ミノリは帰宅途中の小さな公園で、一人の少女を見かけた。
 その少女には見覚えがあったのだが、それよりも彼女を驚かせたのは、その少女は上半身に何も身につけておらず、小さな乳房を露わにしたまま、放心したようにブランコに座っていたことだった。
 いくら何でもこの状態を放置するのはまずいだろうと考え、ミノリはその少女に近づいた。
「ねぇ、あなた、大丈夫?」
 その呆け具合が酷くて、ミノリは嫌な想像をしてしまった。
 上半身ははだけ、足先に靴も無く砂埃で汚れ、魂が抜けたような放心状態。これは警察に通報すべきレベルだろうかと躊躇したが、その前にまずはミノリが着ているコートをその少女にかけてやった。
 そしてようやくそこで、ヒメは隣に立つ少女に気がついた。
「あ……」
「大丈夫?何か酷い事とかされてない?」
 何をされたのかを想像するのも恐ろしくて、具体的に何をされたのかを尋ねることができないでいた。
「はい、大丈夫です。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」
「迷惑なんかじゃないよ」
 だがそのションボリ具合が一向に改善されないため、ミノリの方から会話を振ってみることにした。
「あなた、ヒメさん、でしょ?」
 何故知っているのか?というヒメの表情がミノリに向けられる。
「私はシノザキ・ミノリ。ヒロト君の同級生なんだ。あなたがこないだヒロト君と一緒にいるところをちょっと見かけたんだよね。それでヒロト君から少し話を聞いたの」
「そうだったんですか」
 ヒメは何故、目の前の少女が何故自分の事を知っているのか、合点がいった。
「いったい何があったの?こんな格好でいるのって危ないよ。それに風邪ひいちゃう」
「私は……私の正体をヒロトさんに説明しなければなりません。たとえ、それで嫌われようと」
 ただならぬ空気をミノリは察した。
「嫌われるって、どういうこと?ヒロト君に告白されたんでしょう?」
「私の正体を知れば、隠していたことを知れば、きっとヒロトさんは騙されてたって思うんじゃないかと思います。私は、ネルガル・アーティフィシャル・インテリジェント・システム社製、第三世代型人工知性体《ヒメ》」
「……はい?」
「ヒトじゃないんです、私は」
 ミノリの理解が追いついていかない。
 追いついたのは、ヒロトの足だった。
「ヒメ!こんなところにいたのか!」
 ヒロトが駆け寄ってくる。
 ところが、そのヒロトの表情を見ると今しがたのヒメの正体を説明せねばという決心がぐらつきそうになる。
 ヒロトの両手がヒメの両肩を掴む。
「ヒメ!俺の事が嫌いなんだったら、そう言えよ!」
「え……」
 嫌われるのは許容できたとしても、そういう誤解のされかただけは我慢できそうに無かった。
「嫌いじゃ無いです」
「ヒメ……」
「嫌いじゃ無い!私、ヒロトさんの事、好きです!ずっとそばにいたいって思った!でも私は人間じゃ無いから、AIだからこの身体も心も全部作りものなの!」
 そしてヒメの目から涙が零れた。それは彼女の初めての涙。
 ヒロトもミノリも、立ち尽くすようにして、ヒメの慟哭をただ聞くしか無かった。
「この身体も顔も私が欲しがったもの。でも、もういらない!こんなに苦しいなら感情なんかいらない!恋なんかしたくないっ!アバターなんかお願いしなければ良かった!」
「ねぇヒメさん、苦しいのは、本当の事を隠していたからじゃないかな」
 ミノリの言葉はヒメに助けとなった。
「それもきっとあると思います。本当のことを早く言わなきゃって思ってました。でもそれを言ったら、もうヒロトさんは私に話しかけてくれなくなるって思って、怖くなって」
「見損なうなよ」
「え?」
 ヒメは涙で濡れた顔を上げた。
「俺は最初に言ったぞ?ヒメがヒメなら、俺はヒメが好きだって」
「わけが、わかりません!」
「何も怖がらなくていいし、何も隠さなくていい。ヒメが人間であろうがなかろうが、俺はヒメが好きで、ヒメは俺が好きだ。そうだろ?」
 ヒロトの笑顔に視界が再び滲む。
 ただ、さっきのとはちょっとばかり涙の色合いが変わってきていた。
「ねぇ、ヒメさん」
 ミノリは言葉をかけた。
「私、あなたの身体が作り物だったとしても、その心はあなた自身のものだと思うな」

 

「ヒロト、おはよう!」
「おっす、おはようミノリ」
 しばらくして二人は互いをそう呼び合うようになった。
 そこをクラスメートの女の子から、ミノリは指摘を受けた。
「なんか、ミノリ最近ヒロトと仲良いよね。オマケにかなり性格変わったし」
 ミノリはそうだねと笑顔で肯定した。
「あ、もしかして、ヒロトのこと狙ってる?」
「え?もうフラレたよ?」
「はぁ?!」
 だったらなんでそんなに仲良くなってんの?というツッコミは至極もっともだと言えた。
「あんなに盛大にフラレたら、なんか全然後引きづらない。ね、ヒロト」
「そういうこと口に出して言うな!」
「もしかしてヒロトの相手って、こないだの超美人のおねえさん?」
「大外れ」
 ブーブーと文句が聞こえてくる。
「ミノリは知ってるの?」
「うん、知ってる。その子がね、すっごいかわいくて良い子なんだよ、これが」
「おい、あんまりばらすなよ」
「照れ屋さんめ」
 ミノリにいいように手玉に取られているヒロトであった。

 

fin

Postscript
 最後までお読み頂きありがとうございます。
 episode.5を投稿した後、そのままepisode.6に取りかかりました。
 しかし推敲を兼ねて何度も読み返すんですが、これ、もはやナデシコじゃないなw
 ということで、episode.6をお届けします。
 ウリバタケ家の子どもたちの名前、公式設定にあるのかどうか知りませんので、オリジナルな名前を与えています。実際は何歳くらいなのだろうというところを確認したくて、子どもたちが写るワンシーンを見るために劇場版を再度見直してみました(結局全編を通して見ることになったんですが)。もし違和感があったら申し訳ありませんが、この時点だと中学二年生くらいかなぁとぼんやり設定しています。もう少し上かも?という気もしたんですが、年齢的にハーリー&ラピスと被らせたくないなと思って下目にしてみました。
 じゃぁヒメは?というと、ヒロトのちょっと下、12歳前後のナデシコ本編のルリに近いイメージを思い浮かべながら書いていました。
 ヒメに関する着想は、AIに対するエモーション・チップと異種族間交友という軸で、結構スタートレックの影響が出てるなぁと書きながら思っています。っていうか、まんまですねw
 次はマドカ絡みの話を書きたいと思っているんですが、ちょっと今のままではボリュームが足りなさそうなので、もう少し練ってみます。もし書きあげることができましたら、次回episode.7でお会いしましょう。
 
2014年10月

押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


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