第10話



 九條裕香は、許婚の突然の変化に戸惑っていた。
 二十歳を迎えたばかりの彼女には、親が決めた結婚相手がいた。
 庶民ならば政略結婚と言って憤慨するかもしれないが、彼女には何の不満もない。五摂家が一つ、九條本家の次女ともなれば、家格に相応しい相手を親が見繕ってくることは当たり前のことであった。

 むしろ、この婚約を纏め上げた両親に、彼女は大いに感謝していた。
 相手は、斉御司斉彬。おなじく五摂家のひとつ、斉御司家の嫡子で彼女より二歳下の男である。
 10歳になったころ、将来の相手として、親から申し渡された。
 許婚として斉彬と付き合いはじめた裕香であったが、彼の虜になるのに時間はそれほどかからなかった。

 爽やかで整った顔立ちの彼は、それだけで少女たちから人気があった。おまけに、衛士としての腕前は若手の中でもダントツ。紅蓮少将の後を継ぐのは彼しかいない。若くしてそう噂されるほどのものであった。性格も、思いやりがあって優しい。
 これでは、人気が出ないほうがおかしかった。
 彼よりも二歳年上の裕香も、そうした少女の一人であった。
 しかし、多感な少女時代に彼の気を引こうと努力した末に、彼女は悟る。彼が自分のほうを見ることはないだろう、と。

 別に、斉彬が裕香の性格、容姿などを好ましく思っていなかった、というわけではない。彼に惚れ込んでいた裕香は、斉彬が望むように自らを変えていくつもりであったし、何より、彼女自身、絶世と形容してよいほどの美しい顔立ちをしていた。
 すっきりとした目鼻立ちは、見る者を感嘆させた。キリッと閉じた薄紅色の形のよい唇から紡ぎだされる声色は、凛として透き通っていながら、品の良い穏やかさを感じさせた。暗褐色の瞳は、どこまでも澄んでおり、優しげでありながらも、意志の強さを感じさせるものであった。衛士としての訓練の賜物か、女性として豊満でありながら、全体として引き締まって躍動感のある体。黙っていても日本人形のように見事であるが、微笑みを浮かべた彼女は同性であっても惚れ惚れするような魅力を放っていた。

 しかし、その彼女をもってしても、斉彬を振り向かせることはできなかった。
 彼は彼女を姉と呼んで慕ってはくれたが、その情はあくまでも兄弟愛のそれであり、間違っても男女間の情愛などではない。

 それは、彼女のせいでは全くない。

 問題は、一重に斉彬にあった。

 彼は、第二次性徴を終えた女性を異性として認識できない、という種の保存という観点から言えば、生物として致命的な欠陥をもっていた。それゆえ、裕香がどれほどアプローチしても、姉に対する親愛の情以上の感情を感じることはなかったのである。

 裕香にとって困ったことに、彼は少女たちからも人気があった。彼は別に少女相手に欲情を覚えたわけではない。彼女たちに向ける彼の視線は、邪なものではなく、彼の感情はプラトニックなものであった。
 思春期を迎えるかどうかという頃の少女たちが、ハンサムで性格もよく、確かな衛士としての腕を持つ彼に対して、どういう感情を覚えるか。考えるまでもないことであった。

 斉彬は、頻繁に、斯衛の衛士訓練施設を訪れる。優しいお兄さんの雰囲気をまとって。

 斯衛では、10歳を過ぎた武家の子弟に衛士としての訓練を施す。武家とは、戦の際に将軍を守るために戦場に赴くことをその本分とする。ゆえに、徴兵年齢であるとか、少年兵問題などは彼らには関係がない。どれほど幼くとも、ひとたび戦争ともなれば刀を持って将軍殿下のもとに馳せ参じる。それが、武士の在り様であった。
それゆえ、斯衛の訓練所にいる子弟たちは、10歳前後の子どもばかり。斉彬にとっては、まさに天国であった。


 何とか彼の性癖を修正しようと苦闘してきた裕香であったが、成果は一向にあがらなかった。

 だからこそ、突然、彼が夜半に彼女のもとを訪れ、一緒に寝て欲しいと頼み込んできたとき、驚倒した。どうしたのだ、と問う裕香に、彼は要領を得ない答えを繰り返すばかりであった。
 曰く、「あれ以来、毎晩、紅い気配をまとった恐ろしい少女の夢を見るのです、裕香姉上。高笑いをあげながら、わたしをなます切りにする彼女の夢を……。あれは、話に聞く悪魔に相違ありません……」
 幼い少女があれほど恐ろしいものだとは知らなかった、美しいものにはトゲがあるとはこういうことなのか。震えながら、ぶつぶつとそう呟く斉彬。

 正直に言って、裕香には何がなんだかさっぱりわからなかった。ついに、彼が少女に手を出すという禁忌を犯したのかとも思ったが、それにしては様子が少しおかしい。
 憔悴しきった表情の彼を前に。取り合えず問いただすのは明日にしようと考え、斉彬を急遽自室に招きいれた裕香。しかし、彼女のほのかな期待とは裏腹に、彼は彼女にしがみ付いたまま、すぐさま眠りについた。安心しきった赤子のように、おだやかな表情を浮かべながら。


 そして翌日。
「久しぶりにぐっすり眠れました。ありがとうございます、姉上」
 妙齢の美女と床を同じくしながら、手を出すこともなく、悶々とすることもなく、よく眠れましたと平然とうそぶく斉彬。

 女性としてのプライドを木っ端微塵に砕いてくれた彼に怒りを覚えながら、何があったのかと彼女は問い詰める。
悪夢を思い出してか、怯えて要領を得ない彼から何とか聞き出したところでは、どうやら原因は先日行われた模擬戦にあるらしい。そこまでは判明した。
 しかし、と彼女は思う。いくら年下の少女に模擬戦で惨敗したからといって、あそこまで怯えるものだろうか、と。一体、模擬戦で何が起こったのだ、と。

 模擬戦の記録映像を見てもなお、彼女にはどこに問題があるのか全く理解できなかった。たしかに、相手の煌武院のお嬢さんの操縦技術は末恐ろしいものがあった。あれでまだ10歳になっていないというのだからとんでもない。だが、彼女が抱いた感慨はその程度のものであった。長い武家の歴史を見れば、戦闘の天才などいくらでもいる。煌武院悠陽もそうした天才の一人なのだろう、と。

 そう。戦闘を直接肌で感じとることのなかった裕香には、悠陽の戦闘の真の恐ろしさは理解できなかったのである。



 時は少し遡る。
 帝都近郊の斯衛軍戦術機演習場。
 廃ビルが乱立するその演習場に、12人の斯衛の戦術機乗りが集められた。帝国最強を謳われる紅蓮少将を筆頭に、かつて戦術機戦闘の鬼才と呼ばれた煌武院雷電その人。他には、紅蓮の次代を担うと期待されている若手のエース斉御司斉彬大尉。五摂家の嫡子ということで、弱冠18でありながらすでに大尉。左官に昇進して斯衛の大隊の一つを率いる日も近いと噂されている。中堅どころでは、神野中佐はじめ斯衛でも戦術機戦闘の名手として名高い衛士たちを集めた、選りすぐりの一個中隊である。
 衛士たちは、まだ8歳になるかどうかという幼い少女一人相手に、精鋭一個中隊で模擬戦闘をしたい、という雷電の話を理解できなかった。
 どう考えても、少女に勝ち目があるはずはなく、時間の無駄である。模擬戦闘ということなら、一対一で丁寧に教えたほうがよい。大体、少女相手の模擬戦闘に、斯衛の最精鋭を起用するなど、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 婉曲的にそう反論する衛士たち。
 雷電は、彼ら一人ひとりに頭を下げて頼み込む。これも全て可愛い孫娘のため。どうかわしの顔に免じて、今回だけは全力で彼女相手に模擬戦をやってほしい、と。
 帝国の重鎮、煌武院雷電その人にこう頭を下げて頼み込まれては、さすがに拒否することなどできない。

 渋々ながらも、模擬戦の相手を引き受けた斯衛の面々であった。

 もっとも、斉彬だけは、嬉々として雷電の頼みを引き受けた。
 五摂家同士として、斉彬は悠陽と何度も顔を合わせたことがある。そして、まだ幼いながらも、凛とした表情を浮かべた悠陽のことを、彼は大変好ましく思っていた。とくに、彼女が時折浮かべる大人びた懊悩の表情と、
幼い容姿とのアンバランスな取り合わせがタマラナイ。是非とも、もっとお近づきになって、手取り足取り戦術機の訓練を指導したいものだ。
 そう考える斉彬。繰り返しになるが、彼は別段、少女に対して犯罪的な欲望を持っているわけではない。
 ……もっとも、12歳で結婚する例もある武家のこと。年齢に関する基準は、社会一般と比べて大変緩かったが。

――ゾクリ。
 ハマーンを介して、悠陽は何か身の危険を覚えるような思念を感じる。

「わたしに対して下劣な欲情を抱くとは……。恥を知れ、あの俗物めが……」
 迅雷のリニアシートに腰をおろしながら、斉彬の邪な想いを察知して憤りを露にするハマーン。悠陽に代わり、今は彼女が表に出ていた。楽に死ねるとは思うなよ。物騒なことを彼女はつぶやく。

「模擬戦開始まで後一分です」
 CPの声がスピーカーから聞こえてくる。

――頼みましたよ、ハマーン。
 信頼を込めて悠陽はハマーンに言う。

――安心するといい。格の違いというものを彼らに見せ付けてやろう。
 ふふっ。極上の笑みを浮かべながらハマーンは答える。敵を自ら蹂躙するのが楽しみでたまらないとでも言うように。

――コックピットのこの振動。久しぶりだな……。MSで直接敵を屠ったときの、断末魔の叫びが何とも甘美。だからこそ、地位に関係なくMS搭乗はやめられない。
 血が滴っているかのような、獰猛な笑みを浮かべて物騒なことをハマーンは言う。

 ハマーンの完璧に統制された興奮に引き摺られたのか、戦闘開始を待ちながら、悠陽も興奮をおぼえていた。

「模擬戦開始まであと30秒です。カウントダウンを開始します」
 CPの冷静な声が管制ユニットに響く。

――相手は一個中隊12機もいますが、作戦はあるのですか?
 悠陽は問う。

――あると言えばある。要は一度に12機を相手にしなければいいだけのこと。まぁ、仮に一度に12機を相手にしたとしても、負けはしないがな。
 肉食獣の笑みを浮かべながら、ハマーンは答える。

「5、4、3、2、1……。模擬戦開始」
 CPがそう宣言した。
 その瞬間。

 大気が、粟だった。
 時が、凍った。解き放たれたのは、圧倒的な存在感。息をすることさえ、出来ない。心臓すらも、鼓動するのを停止したかのよう。
 斯衛の12機は、凍ったように動かない。いや、動けない。

 ハマーンから。蒼い迅雷から、紅い霧が広がる。瞬く間に。演習場を覆いつくす。質量を持った粒子のように。薄まることなく、拡散しながら。

 ハァ、ハァ、ハァ。
 ハマーンを介して、悠陽は衛士たちの息遣いを感じる。手が震えて、操縦桿が握れない。怖い。恐ろしい。何だあれは。思念が流れ込む。

 彼らとて武士。自分より強い者に幾度もぶつかってきた。敵に恐怖したこともある。
 だが。
 これは違う。
 人間相手の恐怖は、修練によって抑え込むことができる。どれほど相手が強大であっても。

 BETA相手とも違う。BETA相手に錯乱するものもいるだろう。恐怖するものもいるだろう。
 だが。
 それは、BETAに喰われるという本能的恐怖。グロテスクな生物に対する生理的恐怖。

 だが、これは、違う。断じて違う。
 それは畏れ。
 絶対に勝てない。そう、思う。悟ってしまう。
 それだけの威圧感。鍛錬を重ねた戦士だからこそ、わかってしまう。眼の前にいるのが、最早ヒトなどではないということを。

 それは、戦場に舞い降りた血塗れの軍神。
 幾多の戦士の血を吸って、いやましに輝くソレを、他になんと形容すればよいのだろうか。

――これが、ハマーン。
 呆然と、悠陽はつぶやく。質量を持ったかのような、ハマーンの魂に圧倒されながら。
 だが。呆然とする一方で、不思議と恐怖は感じない。信じられないほどの存在感によって戦場を支配する彼女の奥底に潜む、哀しいまでの孤独を見つけてしまったから。自らの孤独ゆえに、強くあらねばならない女の悲劇を知ってしまったから。


「ピクリとも動かずにどうした?早くも適わぬと判断して降参するのか?……賢明な判断だ」
 ハマーンはオープンチャンネルで嘲笑する。

 この嘲弄を聞いて、いち早く我を取り戻したのは、古強者の紅蓮と雷電。伊達に年はとっていない。
 ハマーンの気にあてられて硬直している若者たちを叱咤しながら、二機でハマーンに向かって吶喊する。年季のはいった連携は見事としか言いようがない。紅蓮が突撃前衛として、長刀を手に一気に間合いを詰めてくる。雷電はその後方から支援砲撃。もはや、対戦前の余裕は一切なかった。

 ふふふ。
 ハマーンが嗤うのが悠陽にはわかる。
 一気にスラスターを全開にして、紅蓮に向けて突っ込むハマーン。体にかかるGが心地よい。戦闘はこうでなくてはな。ハマーンの歓喜が悠陽に流れ込む。ハマーンと感情がシンクロする。荒れ狂う闘いの高揚感に酔いそうになる。

 紅蓮が袈裟斬りに切りつけようとするのが、予めわかる。
――これがニュータイプ。

 予定調和のように、紅蓮の袈裟斬りをかわして、空中に跳躍。紅蓮機を踏み台にして、雷電に向けて一気に疾駆する。
「なんだとっ」
「俺を踏み台にっ」
 思念が流れ込んでくる。
 慌てて銃口をこちらに向け、マシンガンで銃撃する雷電。しかし、いくらマシンガンの連射とはいえ、予め弾道がわかっていれば、避けるのは難しくない。しかも、背後には紅蓮がいる。当然、紅蓮に流れ弾が当たらないよう注意するため、射線が限られる。
 雷電は後退して距離をとろうとする。だが、最大加速で一気にハマーンは追い上げる。そして、間合いにはいるや、一閃。
 全く速度を落とすことなく、すれ違いざまに雷電機を両断。回避行動をとろうとする雷電だが、機体を捻った状態で、切り飛ばされる。
「雷電様っ」
 信じられない、という紅蓮の声が感じられる。
 しかし、後ろを振り返ることもなく、CPの判定を待つことなく、そのままの勢いで、後方に控えるグループに突っ込む。

「うわぁぁぁぁあああっ」
「くっ、くるなぁぁあぁっ」
 正面にいる三機のグループが、半狂乱になりながらマシンガンを連射する。重苦しいプレッシャーを前に、感情は恐怖に塗りつくされて。自暴自棄になりながら。
 それ以外の機体も、ようやく呪縛から解き放たれて、ハマーン機を包囲しようと支援掃射を加えながら動く。

 だが、当たらない。予め弾道が分かっていれば、回避動作すら最小限になる。
 いや、違う。悠陽は気づく。これは、単純な回避ではない。自らの機動によって、ビルなどを盾にすることで、巧みに射線を誘導している。既に、彼らの意識がハマーンの圧倒的な思念に導かれてしまっている。これでは、撃ってもそもそも当たらない。

 恐怖に突き動かされてマシンガンを乱射する三機。彼らに向けて銃口を向けるハマーン。
 そして。
 たった一発。慌てて、回避行動をとろうとする一機に向けて、ハマーンは弾丸を発射する。
 一発で十分だ。そういう意志を込めて。
「うわぁぁああっ。嫌だ、死にたくないっ」
 ハマーンのあまりの殺気に当てられて。演習だというのに死を幻視する衛士。
 そして、ペイント弾がコックピット部を直撃した瞬間、衛士の意識が弾けたのを、悠陽は確かに感じた。

「管制ユニット大破。衛士死亡」
 そう宣言する声を、規定事実の再確認として、悠陽は聞き流す。
 それは、予定調和。ハマーンが戦場に降り立ったときに、すでに定められていた小事。

 僚機を失って、動揺しながらも、後退して態勢を立て直そうとする二機。彼らに向けて速度を落とさずに急追。弾丸に殺気を込めて、放つ。今度は二発。弾丸はそれぞれ、吸い込まれるように二機に吸い込まれていく。
 ふふ、と悠陽。
 圧倒的な戦果に笑いが込み上げてくる。強いとは思っていたけれど、ここまでとは。脳を駆け巡るアドレナリンが心地よい。

「ええい、一機相手に情けない。斉御司は4機で支援に徹しろ。神山らは俺に続け。接近戦でカタをつける!」
 紅蓮が大喝する声が感じられる。

 しかし。
 斉御司機の周りに三機が集まろうと集合する隙をついて、一機づつ急襲するハマーン。相手の意図、行動を完全に読みきり、巧みに彼らの動きを翻弄して、誘導する。
 また、一機。大破。
 数的優位を持ちながら、包囲できない。
 そこに、紅蓮以下4機が長刀を持って急迫。絶対的自信を持つ紅蓮。近接戦闘でハマーンを落とそうとする。

 だが。
 障害物をたくみに利用しながら、連携を一瞬でかきみだして、右手に持った長刀で一閃。
 さらに、左手のハンドガンを何もいない空間に向けて掃射。
 僚機を助けようとして突っ込んできた別の機体がその銃弾を受ける。こちらも大破。

 二対一の数的優位を利用しつつ、逆袈裟で切り上げる紅蓮の一撃を受け流しつついなす。その勢いを利用しながら回転、うしろから斬り付けようとする一機にむけて、同じくハンドガン射撃。

――あと三機。

 紅蓮を支援しようとマシンガンを構える斉御司らに対して、なおも障害物と紅蓮機自体の位置を調節して対応。高速機動を維持しながら、紅蓮と切り結ぶ。

「うおおぉぉぉ」
 裂帛の気合とともに、紅蓮が切り込んでくる。
 だが。どれほど鋭い斬撃を繰り出そうとも。全ては予測済み。避けられるのは、確定事項。
 斬撃に合わせて、スラスター及び脚部エンジンを全開。紅蓮の頭上を跳躍した勢いのまま、彼の後ろをとり、逆襲。機体を捻って避けようとする紅蓮。しかし。先の斬撃時についた勢いを殺しきれず、前のめりになる。
 そこを、一閃。

「……紅蓮機、腰部切断。大破」
 信じられないという声を滲ませながら、そう告げる声。

 そう。たかが少女一人と侮った彼らは、コールサインすら定めておかなかった。だから、名前で撃墜が告げられる。

 残されたのは、斉御司とその僚機のみ。

 さすがに、斉御司は持ち直したものの、もう一機は紅蓮があっさり破れたことに恐慌。マシンガンを乱射するも、まるで照準があっていない。恐怖のあまり、手が震えているようだ。あれでは当たるはずがない。ハマーンを通じて、相手の全てが手に取るようにわかる。なんという、全能感。あまりのことに、力に酔いしれそうになる。

――いけない。これは、ハマーンの力であって、私が獲得したものではありません。
 悠陽は自戒する。

「馬鹿っ。一度下がってから、挟撃するぞ。散開しろっ」
 斉御司が指示する声が感じられる。

 遅い。悠陽は思う。
 既に、彼らがいる位置はハマーンの攻撃圏内。

 流れるような動作で、背部から再びマシンガンを取り出し、一発。
 ハマーンの絶対の殺気が込められた一発は、コックピットに吸い込まれていく。まるで、コックピット被弾という結果が予め定められているかのように。そして、その結果に基づいて弾道が決定されているかのように。

 もう、何度目だろうか。敵の意識が弾け飛ぶ様を、美しいと感じる。
 それは禁忌の感情。だが、どうしようもなく魂を揺さぶるもの。

――残すはお前だけだな、俗物。良くも私に向けて恥知らずな思念を向けてくれたものよ……。楽に死ねるとは思うな。

 斉御司に向けてそう呟くハマーン。
 そして、更に強まる殺気。それだけで、生命を吹き飛ばすことができると思わせるほどの濃密なプレッシャー。

「かはっ……」
 自分個人に向けて直接叩きつけられる殺気に、今度こそ呼吸ができない斉御司。
 いや。ドクン、という脈動を最後に、心臓までも動きを止めたかのよう。
 彼の毛細血管の一本まで、ハマーンに支配されたかのよう。

 ただただ、涙腺と膀胱のみが彼の自由にできたのか。顔を涙で濡らし、強化服の下半身部を湿らせながら、しかし、彼は震えることさえ最早できない。
 精神を守るために、失神することさえできない。

 彼がハマーンに対して、邪な想いを抱いたのは事実かもしれない。しかし、彼はここまで手酷く反撃されるほどの悪人ではない。明らかに、これはハマーンの八つ当たりであった。

 そう。
 かつての世界において、見境なく少女に手を出した、人の三倍手が早い男。斉御司のなかに、ハマーンはかつて自らが差し伸べた手を払いのけた、あの男の腐った根性を見出したのである。
 それが、斉彬にとっての最大の不幸であった。

――ハマーン。彼が何をしたというのです。もう……許してあげてください。
 斉彬に向ける殺意のあまりの濃度に驚きながら、悠陽は取り成そうとする。

 悠陽の思いが通じたのか。
 ハマーン機からの直撃弾を受け、やっとのことで意識が暗転する斉彬。
 失神できることに心からの安堵を覚えながら、彼は自機が撃破されたことを告げるアナウンスを聞いた気がした。


 かくて、演習は終わった。実弾もなく、過度のGがかかったわけでもないのに、衛士12名中10名が失神という、前代未聞の結末を伴って。そう。紅蓮と雷電は辛うじて意識を保ったものの。それ以外の衛士は、ハマーンの気にあてられたため、意識を失った。本当に死んだ、と脳が誤まって思い込んでしまったために。

 精神のバランスをとるためだろうか、彼らの多くは、自らの配偶者や恋人の母性に依存した。そして、娘を持つものは、自分の愛娘がいつか悠陽様のような殺気を父親に向けて放つのではないか、と恐怖するのであった。イマドキの女の子は恐ろしいものだ。
 これが彼らの一致した見解であった。


 トラウマが最もひどかったのは、当然ながら斉彬であった。
 もはや、裕香なしには眠ることさえできない。
 裕香としては、心中複雑であった。勿論、毎晩来てくれるのは嬉しい。だが、ただ寝るだけで一切手を出してこないのはどういうことだ、と。

「最近、斉彬君とはうまくいっているようだな。この調子なら、婚姻を早めたほうがいいやもしれないな」
 彼が連日裕香のもとを訪れることに気づいた父親が、よい事だ、と彼女に言う。
 一時やつれていたようだが、そなたと同衾するようになってから、順調に回復したと聞く。困難があっても、夫婦相協力してやっていけそうだな、と。

 そこまでは良い、と彼女は思う。だが、これだけ迫っても、反応しないのだ。いくらなんでも、これはない。不能ではないと思うが、と。

「いいこと、裕香。ここまで来たら、彼をどうするかは貴女次第。男なんて、所詮は肌を重ねた女の言うなりなんですから。うまく手綱をとって、彼を調教なさい。そして、貴女好みの男に仕立て上げればいいのです。母だって、貴女のお婆様だって、そうやってきました」
 自分の妻のあまりと言えばあまりの言葉に、思わず絶句する父。

 そうか、と裕香は思う。もう、この際、彼を手篭めにしてしまえばよいのだ。幸い、以前と違って、彼は私のことも見てくれる。あとは、既成事実を積み重ねて、彼を少しづつ料理していけばよい。

 あまりにも、自分のことを蔑ろにしてきた斉彬への鬱憤が爆発したのか。彼女は本当に実力行使に踏み切ることを決断する。

 ハマーンの殺気にあてられて、精神が真っ白になり、退行してしまった斉彬。その彼の空白を利用して、彼を自分好みに染め上げようと決断した裕香であった。


 かつて、シロッコに破壊された想い人の精神を取り戻すために、ある少女がどれほどの努力をしたのかを思えば、裕香は非常に恵まれていた。
 斉御司家文書によれば、裕香は斉彬のもとに嫁いだ後、非常に幸福であったようである。子宝に恵まれ、夫婦仲も円満。夫婦喧嘩などは決して起こらなかった、と言われている。だが、彼は最後まで、自分の娘を抱き上げることができなかった、という真偽の定かでない噂もある。特に、娘たちが幼いころは、それがひどかった、と噂は語る。



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