いまから凡そ三十年前、ノーザンブリアを襲った異変。
 突如、空に現れた巨大な杭のようなものが大地に突き刺さると、そこにあった街や人――すべてのものを呑み込み、塩へと変えてしまった忌まわしき災厄。
 それが〈塩の杭事件〉と呼ばれる歴史上類を見ない天災≠セ。

 そうして、家族や友人。ありとあらゆるもの一瞬にして奪われたノーザンブリアの人々に残されたのは、塩に覆われた大地だけだった。
 生活の基盤を失い、飢えに苦しむ国民を救うために〈北の猟兵〉を立ち上げた人物。
 それが、元公国軍大佐――サラの育ての親でもあるバレスタイン大佐だ。
 そして、

「大佐は〈西風〉の立ち上げに力を貸してくれた恩人だ」

 西風にとっても、恩人と呼べる人物だった。
 直接の面識はない。しかし、リィンはルトガーからバレスタイン大佐の話は聞いていた。
 ルトガーにとってバレスタイン大佐とは、無二の戦友とも言える人物だったからだ。

「その方は、いまも〈北の猟兵〉に?」
「死んだよ。七年ほど前に、大貴族と大企業の代理戦争に参戦してな」

 リィンの話を聞き、エリィは困惑と哀しみ。様々な感情の入り混じった複雑な表情を見せる。
 改めて、彼等――猟兵がいつ死んでもおかしくない、命のやり取りを生業としていることに気付かされたからだ。
 バレスタイン大佐もそうだが、猟兵王と呼ばれた男ですら死ぬ時はあっさりと死ぬ。
 そういうものだと理解していても、エリィは簡単に割り切ることは出来そうになかった。
 もし、リィンが死んでしまったら――そんな風に考えると、胸が締め付けられるように苦しくなるからだ。

「……リィン?」
「何を考えているかは察しはつくが、俺を信じろ」

 不意に抱きしめられ、エリィはリィンの背中に手を伸ばす。
 惚れた弱みと言う奴だろう。こんなことで誤魔化されるのだから、自分でも安い女だとエリィは思う。
 それでも、こうしてリィンの腕に抱かれている時が、エリィにとって一番安心できる瞬間だった。
 だが、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。
 チン、とエレベーターの到着を告げる音が鳴ったかと思うと、

「……こんな場所で、何をなさっているのですか?」

 エレベーターホールに、聞き覚えるのある声が響いたからだ。
 慌ててリィンから離れるエリィ。
 顔を真っ赤にして振り返ると、エレベーターの中からジトリと訝しげな目を向けるエリゼの姿があった。

「これは、その……」
「別に怒ってませんよ? 恋人同士、抱き合うくらいは当然のことだと思いますから」

 ――ですが、時と場所くらい選んでください。
 そう言われれば、自分の非を認め、エリィは頭を下げるしかなかった。


  ◆


「久し振りだな。元気にしてたか?」
「さも自分は関係ないように振る舞っていますが、兄様も反省してください」

 リィンは鈍いわけではない。エリゼがなんで怒っているか理解していない訳では無かった。
 だが、こういう時は下手に誤魔化すより、堂々としていた方が長引かないと、諦観していた。

「この菓子、美味いな」
「一年振りに再会した女学院の後輩から頂いたものです。それより兄様、私の話を聞いていますか?」

 テーブルの上に置かれた焼き菓子を口にしながら話すリィンに、エリゼは『まだ怒ってます』と言った顔で尋ねる。
 エリィはと言うと、まだ仕事が残っているということでエレベーターホールで分かれた。
 そしてリィンはエリゼに強制連行され、アルフィンの執務室で事情聴取を受けていると言う訳だった。

「はあ……もう、いいです。それより、なぜ一言連絡を頂けなかったのですか? 連絡を頂ければ、こちらからお迎えに上がったのに……」
「アルフィンから手紙を貰って、急いで帰ってきたからな」

 そんな余裕はなかったと答えるリィンに、エリゼは初耳と言った様子で驚いた顔を見せる。
 エリゼの反応が意外だったのか、リィンはもう一つ菓子をつまみながら尋ねる。

「聞いてなかったのか?」
「……はい」

 てっきりエリゼは知っているものとばかりに思っていただけに、リィンは少し驚く。
 エリゼに相談する時間も無かったのか? それとも隠しておきたい何かがあったのか?
 真相は本人に聞かなければ分からないが、エリゼの驚きようから見ても手紙のことを知らなかったのは事実のようだ。
 余計なことを口にしたかと一瞬思うが、特に口止めされていた訳でもなく、アルフィンの自業自得だろうとリィンは考える。
 あとでエリゼに追及されるだろうが、ノルンにアルフィンが余計なことを吹き込んだ件をリィンは忘れていないので、フォローを入れる気にはなれなかった。

「で? そのアルフィンは?」
「……帝国からいらした使者の方と面会中です」
「ああ、ノーザンブリアの件か。タイミングから察するに、バラッド候の使いと言ったところか?」

 予想はしていたが、もうそこまで事態は進んでいるのかとリィンは驚く。
 しかし、驚いたのはエリゼも同じだった。
 まさか、使者の素性を言い当てられるとは思っていなかったからだ。

「兄様、どこまでご存じなのですか?」
「アルフィンの手紙に、ある程度の事情は書いてあったからな。貴族たちが内戦の失敗を補うために、戦功を欲してノーザンブリアへの侵攻を叫んでるんだろ? その中心人物が次期カイエン公と目されているヴィルヘルム・バラッド侯で、オリヴァルトが貴族たちを抑えきれずに困っていると」
「……そのとおりです。ですが、どうして姫様のお客様がバラッド候の使いだと?」
「さっき、もう一人の候補≠ニ思しき少女にあったからな」

 リィンが誰のことを言っているのか察して、エリゼは目を瞠る。
 既にミュゼ≠ニ会っているとは、思ってもいなかったからだ。

(あの子……少しも、そんな素振りなんて……)

 この焼き菓子を帝都のお土産と称して、エリゼに届けたのはミュゼだった。
 特に何か話がある訳でも無く、お土産をおいてさっさと帰ってしまったミュゼをエリゼは訝しんでいたのだ。
 だが、女学院の生徒が集まっている場所にミュゼを案内した帰りで、リィンとエリィが抱き合っているシーンを目撃したのだ。
 すべて計算の上での行動だったのだと、エリゼは今更ながらに気付かされる。

「あのミュゼって娘、エリゼやアルフィンの後輩なんだろ?」
「え、はい。……あの子はミュゼ≠ニ名乗ったのですか?」
「ああ、ミュゼ・イーグレットと名乗っていたな」

 ミュゼがリィンにもう一つの名前を名乗らなかったことをエリゼは訝しむ。
 ミュゼ・イーグレットという名前が嘘と言う訳ではない。
 だが、彼女にはカイエン公爵家の血筋であることを示す、もう一つの名前があった
 リィンを巻き込むつもりでいるなら、てっきりそちらの名前で接触してくるものとエリゼは思っていたのだ。
 だが、

「オーレリアが一緒にいたからな。それで思い出した。イーグレット伯と言えば、カイエン公の相談役をしていた貴族派の重鎮だろ?」
「……よく、ご存じですね」
「猟兵にとって、情報は命だからな。内戦時に一通り必要な情報には目を通してある」

 内戦時、リィンが様々な情報を集めていたことはエリゼも知っていたので納得する。
 それにイーグレット伯のことは、少し調べれば分かることだ。
 貴族連合には参加していなかったが、長くカイエン公の相談役としてラマール州の発展に寄与してきた人物だからだ。
 話を聞き、リィンがミュゼの正体を察した理由をエリゼは納得する。
 ならば、彼女の生い立ちについても説明するべきかと悩むエリゼに対して、

「エリィにも言ったが、無理に言わなくてもいいぞ。正直そっちの話には興味もないしな」

 リィンは必要ないと話す。気にならないと言えば嘘になるが、無理に知りたいとまでは思っていなかった。
 好奇心は猫を殺すという諺もある。この場合は下手に首を突っ込めば、なし崩し的に厄介事に巻き込まれる可能性の方が高いとリィンは睨んでいた。
 恐らく二週間も前倒しで聖アストライア女学院のクロスベル訪問が実施されたのは、それが狙いだとリィンは察したのだ。

(なるほど……そういうことですか)

 ミュゼが名乗らなかったのではなく、リィンが敢えて名前を聞かなかったのだとエリゼは察する。
 しかし、それは交渉が決裂したと言うことだ。
 ミュゼは目的を達せられなかったのだろうと察することが出来た。
 少し複雑な気持ちになりながらも、エリゼは確認を取るようにリィンに尋ねる。

「兄様、あの子の相談には乗って頂けない。そういうことでしょうか?」
「逆に聞くが、エリゼはどうしたいんだ?」
「……出来れば、助けてあげたいと思っています。あの子がこんな風に私たちを頼ってきたと言うことは、本当に困っているのだと思いますから」

 ミュゼが弱味を見せるような女性でないことを、エリゼはよく知っていた。だからこそ、違和感があったのだ。
 彼女なら〈暁の旅団〉の力などあてにせずとも、もっと上手く立ち回ることが出来るはずだ。
 そうしないのは、何かを焦っているような気がしてならなかった。
 すぐに開戦という事態にならないと思っていたが、もしかしたらノーザンブリアを取り巻く状況はもっと悪いのかもしれない。
 オーレリアが護衛につかなければ危うい立場にいるのだとすれば、出来ることなら力になってあげたいと思う。
 それがエリゼの本音だった。

「条件次第だな」
「……その条件と言うのは?」

 リィンが簡単に考えを曲げないことはエリゼも知っていた。
 余程のメリットがなければ、動かせないだろうと言うことも――
 だが、口にした約束は必ず守ると言うことも知っている。
 なら、その条件を満たせば、頼みを引き受けてくれる可能性が高いと言うことだ。
 だが、

「成功報酬で、百億ミラ」

 内戦時にオリヴァルトに求めた報酬の実に十倍に当たる金額を提示され、エリゼは呆気に取られる。
 それは小国の国家予算に匹敵する法外な額だった。


  ◆


 あの後、エリゼの部屋を訪ねてきたアリサに連れられて、リィンは港湾区にある旧IBCの本社ビルに向かっていた。
 フィーから話を聞いたらしく、リィンがセイレン島より持ち帰った理法具を確認したいと、アリサが急かしたためだ。
 しかしビルに向かうリムジンの中で、どう言う訳か? リィンはアリサから詰問を受けていた。

「……エリゼが泣きそうな顔をしてたわよ? 何を言ったの?」
「ちょっと面倒な仕事を押しつけられそうになったから、百億ミラ用意できるなら仕事を受けてやってもいいと答えただけだ」

 エリゼのように、ポカンと呆気に取られた顔を見せるアリサ。
 ライフォルトほどの大企業でも、右から左に動かせるような金額ではない。
 アリサが驚き、呆れるのも無理からぬ話だった。

「バカじゃないの?」

 話を聞く気がない。仕事を受ける気が無いと思われても仕方のない要求だ。
 断るための言い訳にしても酷すぎる。もう少しマシな断り方があるだろうと、アリサは呆れた。
 しかし、

「言っておくが、俺は本気だぞ?」

 真顔でそう答えるリィンに、アリサは困惑の表情を見せる。
 だがよく考えて見れば、リィンが仕事に関することで冗談の類を口にするとは思えない。
 ましてや、相手はエリゼだ。そんな冗談が通じる相手かどうかはリィンもわかっているはずだ。
 逆に言えば、エリゼだから引き出せた譲歩とも考えられた。
 だとすれば――

「……それだけの額を貰わないと、釣り合わないくらい危険な仕事ってこと?」

 考え難いことではあるが、ありえない話ではない。
 エレボニウスが復活した時のような事件が、また起きようとしているのではないかと、アリサは考えたのだ。
 もしそうなら、リィンがそれだけの対価を求めるのも理解できなくはない。

「いや、それほど面倒な話にはならないだろう。再び帝国で内戦が勃発ということにはなりかねないがな」
「それはそれで大変なことだとは思うけど……」

 帝国が内戦となれば国内だけの問題ではなく、周辺国への影響も少ないない。
 場合によっては、経済的な損失は百億ミラ程度では済まなくなるだろう。
 だが、それでも猟兵に支払う仕事の対価としては、余りに大きすぎる額だった。

「何を考えてるの?」

 それだけにアリサは訝しむ。
 リィンがどういうつもりで、そんな条件を付けたのか分からなかったからだ。
 しかしリィンはアリサの問いに答えることなく目的地に到着するなり、さっさと車を降りてしまう。
 不満げな表情を浮かべながらも、アリサもリィンに続いて車を降りる。
 しつこく追及しないのは、これまでもそうだったように、必要な時がくれば話してくれるだろうという程度の信用はしているからだった。

「結構、大きな被害を受けたと聞いていたが……随分と綺麗だな」
「爆発があったと言っても機材を壊すのが目的で、建物の被害は軽微だったみたいよ」

 もう、ほとんど改修工事は終わっているとアリサは答える。
 多くの時間を要したのは破壊された機材の調達と、導力ネットワークを始めとしたシステムの再構築だった。
 これにはエプスタイン財団やアルティナたちの協力がなければ、もっと時間が掛かっていただろうとアリサは話す。

「誰かさんが破壊したルーレの本社ビルと比べたら、まだマシな方よ」

 アリサから非難めいた視線を向けられ、肩をすくめるリィン。

「思い出の品は、ちゃんと返してやったろ?」
「人の黒歴史を勝手に持ちだしておいて、よくそんなことが言えるわね!?」

 いまにも噛みつきそうな勢いで、リィンに詰め寄るアリサ。
 そんな相変わらずな二人の様子を、呆れた表情で観察する一人の少女がビルの玄関口に立っていた。
 ニーソックスに黒いパーカーを羽織った銀髪の少女――アルティナ・オライオンだ。
 玄関口に立つアルティナを見つけて、リィンは声を掛けようとするが、

「また不埒なことをしたのですか?」
「……お前は、俺をどう言う目で見てるんだ?」

 顔を合わせるなり変質者扱いされ、説明を求めるのだった。



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