地獄。
 その一言でしか、目の前の光景を表現することはできなかった。
 鉄の扉の向こうに広がっていたのは、ヨアヒム・ギュンターという男の狂気が凝縮された実験室だった。
 壁には無数の枷が取り付けられ、そこにはかつて人間であっただろうモノたちが、まるで虫の標本のように吊るされている。
 グノーシスの投与によって彼らの肉体は異形へと変貌し、人の尊厳など欠片も残してはいなかった。
 床には〈BLAZE〉や〈ケイオス〉のジャケットを着たまま、同じように変わり果てた姿で息絶えている若者たちの死体も転がっている。
 ツンと鼻を突く薬品の匂いと、甘ったるい血の匂い。
 そのあまりの惨状に、ユウキは胃の中身をすべて吐き出し、その場に崩れ落ちた。

「ユウキくん!」

 姉のアオイが悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。だが、ミツキがその腕を掴んで強く制した。

「見てはダメです!」

 ミツキは顔を青ざめさせながらも、子供たちやシスターをこの悍ましい光景から遠ざけようと、キョウカたちに指示を飛ばす。
 アスカとシオは、覚悟を決めてユウキに駆け寄り、そして部屋の中を覗き込んだ。

「「――ッ!!」」

 二人もまた、言葉を失った。
 アスカはネメシスの執行者として、シオは裏社会の揉め事を通して、常人よりは死に慣れているつもりだった。
 だが、これは違う。ここにあるのは、死ではない。命への冒涜。悪意に満ちた玩具箱だった。
 シオの拳が、怒りに白く染まる。
 アスカは、執行者としての冷静な仮面の下で、燃え盛るような憤怒を必死に抑え込んでいた。

 そんななか、ゴロウとキョウカたちの動きは、迅速かつ的確だった。
 即座に実験室を封鎖し、生き残りがいないかを念入りに確認して回る。
 彼らの動きには一切の感情の揺らぎがない。だが、それは非情だからではない。
 この地獄を前にして、自分たちが為すべき最善を理解しているからこその、プロの動きだった。
 しかし、その光景をジュンは複雑な表情で見守っていた。
 教会としては、ヨアヒムの凶行に繋がる証拠を一つも残したくはないのだろう。
 何か言いたげな顔をしてはいるが溜め息を一つ吐くと、ジュンはアスカたちに向き直った。

「僕はもう行くよ。ヨアヒムをこのままにはしておけないからね」

 ヨアヒムのところへ向かう。
 そう言って背を向けるジュンに、アスカはミツキと顔を見合わせ、声を掛ける。 

「ヨアヒムのもとには、既にリィンさんとシズナさんが向かっているわ。いまから行っても――」

 間に合わないだろうと、告げる。
 それは、リィンとシズナの実力を誰よりも信頼しているからこその言葉だった。
 ヨアヒムがどんな策を巡らせようと、どれほどの力を持っていようと、あの二人に命を狙われて生き延びられるとは思えないからだ。

「それでも、見届ける義務が僕にはあるからね。それに、ただ罠に嵌まったわけじゃない。ヨアヒムと接触した際、追跡用の聖印を打ち込んでおいたんだ」
「聖印……?」

 アスカの問いに、ジュンは頷く。

「教会が〈外法〉を狩るために用いる秘術だ。異界のなかでしか使えない手段だけど、霊脈を伝って聖印の場所まで直接転移できる」

 ジュンは単に囚われたわけではなかった。
 ヨアヒムの油断を誘い、反撃の牙を研ぎ澄ませていたのだ。
 アスカたちの介入がなくとも、自分一人でどうにかするつもりだったのだろう。
 しかし、その話を聞いたアスカたちの瞳に、再び光が宿る。

「それ、何人までなら一緒に転位できるの?」
「まさか……」

 ついてくるつもりなのかと、問う前にアスカとミツキ――いや、後ろで話を聞いていたシオとユウキも頷く。

「まだ、カズマを見つけていないしな。俺も連れて行ってくれ」

 シオの決意は固かった。
 親友が――カズマが、同じ目に遭っているかもしれないのだ。
 このまま尻尾を巻いて、逃げられるはずもなかった。
 
「僕もついていくよ」
「ユウくん……」
「ごめん、姉さん。でも、最後まで見届けたいんだ。このまま逃げたら自分を許せないと思うから……」

 ユウキの決意にアオイは何も言わず、ただ優しく微笑む。

「定員は五人だ。悪いけど、それ以上は連れて行けない」

 そう言って、ジュンはゴロウとキョウカに視線を向ける。
 やれやれと言った様子で肩をすくめるゴロウと、どこか心配げな視線を向けてくるキョウカ。
 だが、ミツキが頷くのを見て、キョウカも引き下がる。

「はじめるよ」

 ジュンは彼らの覚悟を見届けると、詠唱を始めた。
 聖句が紡がれ、足元に白銀の転位陣が展開される。
 眩い光が、アスカ、ミツキ、シオ、ユウキ。そしてジュンの身体を包み込み、光の中に溶けるのだった。


  ◆


 一方、リィンとシズナは、パンデモニウムの深奥を目指して疾走していた。
 立ち塞がる怪異や魔人たちを、二人はまるで障害物競走でもしているかのように処理していく。
 シズナの振るう妖刀が一体の魔人の首を刎ね、リィンのブレードライフルが別の魔人の心臓を貫く。
 彼らの進む道には、光の粒子となって消えていく敵の残滓だけが残った。
 そして、ついに二人は城の最奥、玉座の間へと続く巨大な扉の前にたどり着いた。
 これまでの喧騒が嘘のように、そこには静寂だけがあった。
 しかし、その静寂は、死そのものよりも濃密なプレッシャーを放っていた。
 扉の前に、佇む一つの影。黒いジャケットを羽織り、その瞳には一切の光がない。

「カズマか」

 シオが必死に捜していた親友――竜崎一馬。その成れの果てだと、リィンは悟る。
 彼の身体からは、これまでの魔人とは比較にならないほど、禍々しい強大なオーラが立ち上っていた。

「リィン」
「わかってる。やるべきことは、ここまでと何一つ変わらないさ」

 それ以上の言葉は不要だった。
 次の瞬間、二人の姿が掻き消え、魔人化したカズマに同時に襲いかかった。
 ガキン、激しく金属の衝突する音がホールに響く。
 
「やるね」

 腕で、自身の刀を受け止められたことに驚きならも、シズナは笑みを漏らす。
 だが、リィンの放った斬撃がカズマの身体を弾き飛ばす。
 そして、すかさずシズナが追い討ちの一撃を放つ。

「荒れ狂え――嵐雪」

 そこから繰り広げられたのは、人知を超えた死闘だった。
 シズナが正面からカズマの獣のような猛攻を引きつける。彼女の妖刀が放つ斬撃は、空間そのものを歪ませるかのような鋭さを持っていた。
 リィンは、その死角を突く。彼の動きに派手さはない。だが、一撃一撃がカズマの防御網の僅かな隙間を、針の穴を通すかのように正確に貫いていく。
 だが、カズマの反応は、その二人を凌駕していた。
 シズナの斬撃を腕一本で弾き返し、リィンの奇襲を予測していたかのように回避する。
 三者の間で繰り広げられる高速戦闘は、もはや肉眼で捉えることすら困難だった。

(まさか、これほどとはな)

 戦いは熾烈を極めた。
 リィンのブレードライフルがカズマの肩を掠め、シズナの妖刀がその脇腹を浅く切り裂く。だが、その傷は瞬く間に再生していく。
 逆に、カズマの振るう爪がシズナの頬を掠め、赤い一筋の線を描いた。

「いいね……興が乗ってきた!」

 シズナは内心で舌を巻きながら、愉悦に満ちた表情を浮かべる。
 鋭い眼光がカズマの姿を捉え、はじめて敵として認識する。
 そんななか、リィンは冷静に分析を続けていた。

(この動き……鍛練は続けていたみたいだな)

 力に振り回され、暴走している人間の動きではない。たゆまぬ鍛練の末に辿り着いた武術家の動きをしていた。
 それは、九重流の柔術に通じる動きでもあった。
 恐らくコウと同様に、彼もまた修練を続けていたのだろう。
 それだけに、残念に思う。ヨアヒムの卑劣な謀略に掛かったりしなければ、別のカタチでの再会もあっただろう、と。

「シズナ」

 名を呼ばれ、ハッと我に返るとリィンの意図を読んで、溜め息を一つ吐く。
 しかし、水を差され、不満げな表情を浮かべながらも、異論を唱えるような真似はしなかった。
 顔にはださないが、リィンの静かな怒りが伝わってきたからだ。

「貸し一つ、だからね」

 そう言って、シズナはカズマの注意を引きつける。
 口にださずとも、相手の考えていることを読み取り、実行に移す。
 二人の間には、阿吽の呼吸を超えた絶対的な信頼が存在していた。

 そして、その時は訪れた。

 シズナが、あえて大技を放つと見せかけて、カズマの注意を引く。
 その一瞬の隙。リィンは、無言のままブレードライフルを連結させ、その形状を一本の巨大な大槍へと変化させた。
 そして、

「グン――グニル!」

 一切の感情を表情に出さず、ただ冷徹にカズマの心臓目掛けて、リィンは破邪の光を放った。
 眩い閃光が、広間を白く染め上げる。
 悲鳴を上げる間もなく、カズマの姿が光の中に掻き消えるのだった。



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