放課後の昇降口。
部活動へと向かう生徒たちの喧騒が少しずつ遠ざかり、校舎内には緩やかな静寂が満ち始めていた。
窓ガラスから差し込む西日が、オレンジ色の光を長く床に伸ばしている。
時坂洸は一人、靴箱の並ぶ壁に背を預けて待ち続けていた。
何度もスマートフォンの時間を確認し、小さく息を吐く。やがて、階段の方から近づいてくる足音が聞こえた。
上履きからローファーへと履き替えるために現れたのは、一人の女子生徒だ。
茶色がかった短い髪に、凛とした顔立ちの少女――空手部の相沢千秋。
待ち人の姿を確認してコウは短く息を吸い込むと、努めて明るい調子を装って声をかけた。
「よう、相沢」
声をかけられたチアキは、靴箱に手をかけたまま動きを止めた。
ゆっくりと視線を巡らせ、コウの姿を認めると、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべる。
だが、それはすぐに能面のような無表情へと戻った。
「……時坂? どうしたの、こんなところで」
抑揚のない声。
以前の彼女なら、もっと気さくな反応が返ってきたはずだ。
その温度差に胸がざわつくのを抑え込み、コウは言葉を続ける。
「いや、ちょっと通りかかってな。そういえば、インターハイ優勝おめでとう。やったな」
「……ありがとう」
チアキは短く礼を言うと、コウから視線を外し、すぐに踵を返そうとする。
これ以上の会話は無意味だと言わんばかりの拒絶の意志。
だが、ここで引くわけにはいかない。コウは一歩踏み出し、彼女の背中に声を投げかけた。
「けど、顔色が悪いぞ。大会の疲れが残ってるんじゃないか?」
コウは敢えてソラの名前を伏せ、あくまで友人としての心配を口にする。
しかし、その言葉は予想外の反応を引き出した。
チアキの肩がピクリと跳ねる。
次の瞬間、彼女は弾かれたように振り返り、吊り上がった目でコウを睨みつけた。
「調子は最高よ。今までで一番、身体が軽いくらいなんだから」
ギリ、と歯噛みするような音が聞こえそうな形相だった。
瞳の奥に宿る光は、明らかに尋常ではない。
「相沢……」
「それより時坂、アンタなにが言いたいわけ? 悩みがあるなら聞くとか、そんなお節介を焼きに来たの?」
チアキの声に、刺々しい敵意が混じる。
彼女は威圧するように一歩踏み出し、コウを問い詰めるように見上げた。
そこにあるのは友人に向ける親愛ではなく、敵に向ける殺意に近い感情だ。
「もしかして……誰かさんが、あることないこと吹き込んだんじゃない?」
「誰かさんって……俺はただ、お前の様子がおかしいと思ったから――」
「嘘ね! どうせ、あの子でしょ? ソラが、私のことを悪く言ったんでしょ!」
ヒステリックな金切り声が、夕暮れの昇降口に響き渡る。
コウは眉をひそめ、激情に駆られる彼女を宥めようと手を伸ばしかける。
「落ち着けよ。あいつはお前のことを心配して――」
「まさか、私が卑怯な手を使ってソラに勝ったとでも言いたいの!?」
チアキはコウの手を払いのけるように叫んだ。
その瞳が、暗く濁った光を帯びる。
それは正常な精神状態の人間が浮かべる表情ではなかった。
勝利への過剰な執着と、力に対する絶対的な自信。
そして、底知れぬ劣等感が複雑に絡み合い、彼女の人格を歪めている。
「私は実力であの子に勝ったのよ! 誰よりも努力して、手に入れた力で! それを、あの子は……!」
ガタンッ。
チアキの剣幕に、物陰で様子を窺っていたソラが思わず身体を強張らせ、近くにあった掃除用具入れにぶつかってしまった。
乾いた音が静寂を切り裂く。
チアキの視線が、鋭く音のした方角へ突き刺さる。
「……やっぱりいた」
チアキの唇が歪み、冷ややかな笑みが浮かぶ。
柱の陰から、おずおずとソラが姿を現した。その顔色は蒼白だ。
「チ、チアキ先輩……」
「兄弟子に泣きついて、情けないわね。そんなに私に負けたのが悔しい? 自分の方が才能があるって、おだてられていい気になってたのにね」
「そ、そんなことありません! 私はただ、先輩のことが心配で……」
「心配? 笑わせないでよ。アンタのそれは、ただの嫉妬でしょう? 惨めね、天才少女も落ちたものだわ」
容赦のない罵倒の雨。
かつては面倒見が良く、優しかった先輩の口から出た言葉とは、到底信じられなかった。
ソラがショックで言葉を失い、唇を噛みしめる。
見かねたコウが、二人の間に割って入った。
「いい加減にしろ、相沢! ソラがそんなことを考える奴じゃないってことくらい、お前だって分かってるはずだろ!」
コウの怒声を受け、チアキはフンと鼻を鳴らす。
その目には、もはや以前のような理知的な光は宿っていない。
彼女の背後に揺らめく黒い靄のような不吉な影が、コウの肌を粟立たせる。
「……もう、私に関わらないで」
冷たく言い放ち、チアキは二人の横を通り過ぎていく。
その背中は以前よりも一回り大きく、そして恐ろしく冷たい空気を纏っているようにコウには見えた。
◆
校舎の二階。
渡り廊下の窓際から、その一部始終を見下ろしている二つの影があった。
リィン・クラウゼルと、シズナ・レム・ミスルギである。
「あーあ、行っちゃった。どうするの? リィン。あれ、完全に取り憑かれているよ」
シズナは頭の後ろで手を組み、興味深そうに目を細める。
その双眸は、チアキの精神を蝕んでいる〈怪異〉の存在を明確に捉えていた。
常人には見えない黒い淀みが、彼女の身体に纏わりついているのが視えているのだ。
「任せると言った以上、アイツに任せるさ。それに、いまの状態で怪異を祓っても根本的な解決にはならないだろうしな」
リィンは腕を組み、校門へと去っていくチアキの背中を静かに見つめる。
力ずくで怪異を引き剥がすことは簡単だ。だが、怪異とは人の心の闇に付け込むものだ。彼女の心にある隙間――勝利への渇望や劣等感といった負の感情が埋まらない限り、いずれまた同じことが繰り返されるだろう。
「ふうん……まあ、リィンがそう言うなら」
あっさりと引き下がるシズナ。
しかし、リィンは僅かに眉間に皺を寄せ、「だが――」と声を低くした。
「怪異が関わっているのは間違いないが、妙な違和感がある」
「違和感?」
「……ただの勘だがな」
リィンの脳裏に、ヨアヒム・ギュンターの顔が過ぎる。
奴との決着はついたはずだ。だが、まだ何かが燻っているような感覚がある。
チアキの放つ負の感情に、怪異が引き寄せられただけなのか。
それとも、もっと根深い何かが絡んでいるのか。
それが何なのか、リィンにもまだ判然としない。
「取り敢えず、今日のところは撤収?」
「ああ、様子見だな。最悪の場合は俺たちが動く」
「了解。まあ、このくらいは自分たちの力で乗り越えてもらわないとね」
シズナは妖艶な笑みを浮かべ、窓の外へと視線を向ける。
彼女の視線の先では、落ち込むソラを励ますコウの姿があった。
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