杜宮総合病院の個室には、微かな消毒液の匂いと重苦しい静寂が満ちていた。
 ベッドの上では、相沢千秋がすっぽりとシーツに包まり、膝を抱えるようにして塞ぎ込んでいる。
 〈ゾディアック〉の医療班による迅速な処置のおかげで、彼女の頭の中から異界や怪異(グリード)に関する記憶は綺麗に消去されていた。しかし、魔法のように全てが元通りになったわけではない。
 インターハイの前後から、自分が後輩のソラに対してどれほど酷い態度をとっていたか。
 醜い嫉妬や、己の才能に対する底知れぬ劣等感をぶつけていた記憶だけは、生々しい傷跡として彼女の心に刻み込まれていた。

(私……なんて酷いことを……)

 思い出されるのは、純粋な尊敬の眼差しを向けてくれていた後輩を、冷たい言葉で突き放した自分の姿。
 自己嫌悪と罪悪感が胸の奥をどろどろと苛み、チアキはシーツを強く握りしめた。
 コンコン、と控えめなノックの音が室内に響いたのは、そんな時だった。

「失礼します。……チアキ先輩、具合はどうですか?」

 扉が開き、顔を覗かせたのは他でもない郁島空だった。その後ろには、時坂洸の姿もある。
 ソラの優しく気遣うような声に、シーツの膨らみがビクリと震える。
 ゆっくりとシーツの隙間から顔を出したチアキの目は、泣き明かしたように赤く腫れ上がっていた。

「……ソラ……時坂も……」

 掠れた声が、室内に力なく落ちる。

「先輩、これお見舞いです。少しは顔色が良くなったみたいで、安心しました」

 ソラは努めて明るく振る舞いながら、ベッドの傍らにある花瓶に持ってきた色鮮やかな花を飾ろうとする。
 しかし、その無防備な優しさが、今のチアキには何よりも痛かった。
 チアキは痛みに耐えるように、ギュッと顔を伏せる。

「……ごめんなさい」
「え……? 先輩、謝ることなんて何も——」

 驚いて振り返るソラを遮るように、チアキはシーツを深く被り直した。

「……お願い、帰って。いまは一人にして……顔を、見せられない……」

 消え入りそうな声で紡がれた拒絶の言葉。
 ソラはショックを受けたように目を見開くが、それでも先輩の痛みに寄り添おうと、一歩踏み出そうとする。

「チアキ先輩……私……!」

 だが、その肩を、後ろから伸びてきた大きな手が優しく、だが力強く掴んだ。
 振り返ると、コウが静かに首を横に振っていた。

「ソラ、今日は帰ろう。……相沢、また来るから。今はゆっくり休めよ」

 コウは未練を残すソラを促し、静かに病室の扉を閉めた。


  ◆


 病室の扉が閉まり、廊下に出た二人を、病院特有の冷たい空気が包む。
 ソラは俯き、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、小さな両手を胸の前で固く握りしめていた。

「コウ先輩……私、嫌われちゃったんでしょうか……」

 震える声で漏らした不安。
 コウは頭を掻きながら、不器用だが真っ直ぐな言葉を返す。

「違うさ。相沢の奴、お前に酷い態度をとったことを自分で許せないんだと思う。……あいつは根が真面目だからな。しばらく距離をおいた方がいい。時間が解決してくれるさ」

 コウなりの慰めの言葉に、ソラは微かに頷く。
 その時、静かな廊下の向こうから、凛とした足音が近づいてきた。

「お見舞いの帰りですか。彼女の様子はいかがでしたか?」

 現れたのは、北都美月だった。
 彼女は穏やかな微笑みを浮かべながら、二人の前に立ち止まる。

「ミツキ先輩。……まあ、身体の傷はともかく、心の整理にはもう少し時間がかかりそうです」

 コウの返答に、ミツキは痛ましそうに伏し目がちになり、小さく息を吐いた。

「そうですか……。郁島さん。少し、あなたに話があります。場所を変えましょうか」

 再び顔を上げたミツキの表情は生徒会長としての優雅さの中に、どこか真剣な響きを帯びていた。
 ソラは戸惑いながらも、コウの顔を一度見てから、こくりと頷いた。


  ◆


 休日の杜宮学園。
 生徒の姿がまばらな校舎内を進み、ミツキはコウとソラを使われていない空き教室へと案内した。
 そこは〈X.R.C〉の部室として使われている部屋だ。
 中に入ると、柊明日香をはじめ、如月怜香、玖我山璃音といったメンバーが既に集まり、二人を出迎えた。
 ただ、リィンとシズナ、それにシオとユウキの姿はない。
 モニターに投影した資料を使い、ミツキとアスカからソラに対して「世界の裏側の真実」が語られていく。

「……以上が、私たちが関わっている異界と怪異(グリード)、そしてそれに抗う力を持つ〈適格者〉についての説明よ。信じられないかもしれないけど、これがあなたが体験した、この街――いいえ、世界で起きていることの真実」

 ソラは真剣な表情で、一切口を挟むことなくアスカたちの話に耳を傾けていた。
 突如として日常を侵食した赤い空間、自分たちに襲い掛かってきた異形の怪物。
 そして、自らの想いに呼応するように腕に現れた、白銀の霊子兵装(ソウルデヴァイス)
 それら全てがパズルのピースのように頭の中で組み上がり、ソラは静かに息を吐き出した。

「あの怪物……チアキ先輩の心の隙間に入り込んだんですね……」

 ソラの言葉に、ミツキが静かに頷く。

「ええ。彼女の記憶はゾディアックの医療班が安全に処置しました。ですが……魔法のように心に負った傷まで消せるわけではありません」

 病室で見た、チアキの悲痛に歪む顔がソラの脳裏をよぎる。
 記憶を消しても、ミツキの言うように後悔や罪悪感までは消せない。
 チアキはこれからも、その心の傷と向き合っていかなければならないのだろう。
 ソラはしばらく俯いて逡巡していたが、やがて顔を上げると、迷いのない力強い瞳で部室の皆を見回した。

「私を、仲間に入れてください。コウ先輩たちと一緒に、私も戦いたいです!」

 その真っ直ぐな言葉に、コウは真剣な表情で聞き返す。

「ソラ……お前、本当にいいのか? 危険な目にあうかもしれないんだぞ」
「はい! 私、もう見ているだけなのは嫌です。大切な人たちを守れる強さが欲しいんです!」

 やっぱりこうなったかとため息をつきながらも、コウはソラに手を差し出す。
 そんなコウの手を、ソラは力強く握り返した。
 張り詰めていた部室の空気が、ふっと温かくなる。
 アスカやミツキ。それにレイカとリオンも、口元に柔らかな微笑みを浮かべた。


  ◆


「話は決まったみたいね。それじゃ、歓迎会をしましょう!」

 レイカがパンッと手を叩き、空気を一層明るくする。

「賛成! どこか良いお店ないかな?」

 リオンも賛同し、嬉しそうに身を乗り出した。

「……そういうことなら、私の下宿先はどうかしら。ヤマオカさんに聞いてみるわ」

 アスカが苦笑を漏らしながらサイフォンを取り出し、手早く連絡を入れる。
 数回のコールの後、相手が出たようだ。

「はい……お願いできますか? それじゃあ、このあと夕方の五時頃に、みんなを連れてお伺いします。はい、よろしくお願いします。ありがとうございました……お店を貸し切りにしてくれるそうよ」

 通話を終えたアスカが皆に告げると、ソラは目を丸くした。

「えっ、いいんですか!? なんだか申し訳ないような……でも、嬉しいです!」

 女子たちが盛り上がる中、コウはふと部室を見回し、あることに気付いて首を傾げた。

「そういや、今日はあの二人はきていないのか?」

 コウの問いに、アスカとミツキは静かに視線を交わした。
 その僅かな沈黙の間に、二人の間で無言の意思疎通が交わされる。
 あの二人というのが、誰のことを指しているのかを、すぐに察したからだ。
 リィンとシズナだ。

「あの二人の心配なら不要よ」

 アスカが淡々と答える。

「ですね。彼等の手に負えないようなら、私たちにもどうすることも出来ませんから」

 ミツキもそれに同調し、穏やかに微笑んだ。

「……まあ、あいつらなら大抵のことはどうにかするだろうしな」

 コウも深くは追及せず、納得したように息を吐いた。

「そうそう、あの二人の心配なんてするだけ無駄よ。それより、アスカの下宿先って、前に話していた喫茶店でしょ。コーヒーとケーキが美味しいって評判の――」

 レイカが強引に明るい空気へと引き戻すように話題を変える。

「ええ」
「リィンとシズナが絶賛してたから、一度行ってみたかったのよね」

 レイカの言葉に、皆が笑顔で頷き合う。
 そして一行は、美味しい珈琲とケーキが待つ『壱七珈琲店』へと向かうのだった。
 そんななか、最後尾を歩くアスカとミツキの表情は、微かに翳っていた。
 実は、今回の事件はまだ完全に終わったわけではない。行方不明になった他校の生徒たちは、まだ全員見つかっていないのだ。
 だが、二人はその事実を敢えてこの場では口にしなかった。
 アスカとミツキの胸中には、街に燻る終わらない事件への微かな懸念が残っていた。




後書き

完全に解決したわけではありませんが、ソラ編はこれで一旦終わりです。
ここから先は、リィンがユウキから受けた相談に関する話になります。



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