美術館のエントランスは、平日ということもあり落ち着いた静けさに包まれていた。
 高い天井から降り注ぐ自然光が、大理石の床を滑らかに照らし出している。その光だまりの中で、一人の女性が待っていた。
 セミロングの波打つ髪に、水色のワンピースの上から白のカーディガンを羽織った、涼しげな格好がよく似合う二十代半ばの落ち着いた大人の女性——四宮葵だ。

「ユウくん、来てくれたのね。それに、リィンさんとシズナさんも……」
「うん。姉さんが言ってた行方不明者の話、この二人に相談したら調べてくれるって」

 アオイの隣に立つ小柄な少年が、首にかけたヘッドフォンを弄りながら応じる。
 杜宮学園の一年生であり、自称天才ハッカーでもある四宮祐騎。アオイの弟だ。

「本当にありがとうございます。警察からもおかしなことはなかったか聞かれたんですけど、何もわからなくて……」

 アオイは安堵したように胸を撫で下ろし、リィンとシズナに深々と頭を下げた。
 彼女の勤めるこの美術館で、美術品を寄託している資産家や旧家の人々が、ここ一ヶ月ほどで三人も行方不明になっているという。
 スタッフだけでなく美術館の利用者の間にも不安と動揺が広がっているらしく、アオイの表情には隠しきれない疲労と不安が滲んでいた。

(……少し、淀んでいるな)

 リィンは灰色の髪を掻き上げ、館内の奥へと鋭い視線を向けた。
 黒い瞳の奥に微かに混じる金色が、常人には見えない微細な空気の歪みを捉える。
 数多の修羅場を潜り抜けてきた彼の感覚が、この美術館に漂う異質な気配を敏感に察知していた。

「奥の展示室を案内してもらえるか?」
「あ、はい。どうぞ、こちらへ」

 アオイが先導しようと踵を返した矢先だった。

「四宮くん、こんなところで何をしているのかね。彼らは?」

 野太く、どこか尊大な声がエントランスに響く。
 現れたのは、高級そうなスーツに身を包んだ恰幅の良い中年男性だった。
 テカテカと光る額と神経質そうに細められた目から放たれる視線が、リィンたちを値踏みするように舐め回す。

「あ、館長。こちらはクラウゼル解決事務所の方々でして……」
「解決事務所? なんだね、それは?」
「探偵のようなものです。行方不明者の件で依頼を受けましてね」

 リィンが一歩前に出て、淡々と答える。
 何食わぬ顔で男の前に立ち、訝しげな男の視線を受け止めた。

「行方不明者? ふん、警察が嗅ぎ回っていた件か。当館は関係ないと言っているだろうに……探偵を雇うなど、私は聞いていないぞ?」
「申し訳ありません……私の独断です。ですが、お客様の中にも不安が広がっているので、少しでもそうした不安を払拭できればと思いまして……」
「ふん……他のお客様の迷惑にならないようにしたまえよ」

 館長は鼻を鳴らし、リィンたちを睨みつけると、嫌味を吐き捨てて立ち去っていった。

「……なんだか、ずいぶんと感じの悪いおじさんだね」

 シズナが白銀の髪を揺らし、呆れたように肩をすくめる。
 黒のタンクトップの上からリィンと同じ黒いジャケットを羽織り、下は白のダメージジーンズというラフな私服姿の彼女だが、その美しい顔立ちの奥には底知れぬ凄みが隠されていた。

「別に構わないさ、胡散臭いのは事実だしな。それよりアオイ、案内を頼めるか?」

 リィンは館長の背中を一瞥しただけで興味を失い、アオイへと向き直った。


  ◆


 案内されたのは、美術館の最奥にある特別展示室だった。
 薄暗く照明が落とされた空間には、厳かな静寂が満ちている。
 部屋に足を踏み入れた瞬間、リィンはピタリと歩みを止めた。

「……なるほどな」
「空気が淀んでるね。原因は……あの絵かな?」

 シズナの視線が、壁に飾られた一枚の絵画に固定される。
 それは不気味な抽象画だった。黒と赤が入り混じり、まるで見る者の不安を煽るような、おぞましい筆致で描かれている。

「あの絵は、前からあったものか?」
「いえ、一ヶ月ほど前、館長が個人的に持ち込んできたものなんです。ある資産家から寄贈されたもので、数千万円はする曰く付きの絵画らしくて……」

 アオイが怯えたように自身の腕を抱きしめる。
 リィンたちと違って特別な力はないはずだが、絵から漂う不気味な気配を本能で感じ取っているのだろう。

「原因がこれなら、斬っちゃえば手っ取り早いんじゃない?」

 シズナが楽しげな笑みを浮かべ、端末を手に持って〈空間倉庫〉から刀を取り出そうとする。

「えっ!?」
「やめておけ。おそらく、この絵を排除するだけじゃ解決しない。ただの依代だろうしな」

 不気味な絵画を静かに見据えながら、リィンはシズナを制止する。
 これ自体が怪異の本体ではない。
 あくまで異界と繋がるための触媒に過ぎないと見抜いたからだ。

「それじゃあ、どうするの?」
「元凶を断つ。今夜、少し張り込んでみるか」


  ◆


 閉館後、深夜の杜宮市美術館。
 静まり返った館内は、昼間とは打って変わって異様な冷気に包まれていた。
 四人は展示室の暗がりに身を潜めている。

「監視カメラのループ処理、完了。これで僕たちがここにいることはバレないよ」
「ああ、助かる」

 ユウキの頼もしい声に、リィンは短く返す。
 そのまま息を殺して待つこと数時間。
 深夜、静まり返った展示室に、フラフラとした覚束ない足取りの女性が入ってきた。

「彼女……地元の資産家の方だわ。貴重な絵画を幾つも美術館に寄託してくれていて、最近そのコンディションの確認に来られていたはずなのに……」

 アオイが小声で囁く。
 女性はまるで糸の切れた操り人形のように、問題の絵画の前に引き寄せられていく。
 そして、絵画の前に立ち止まった瞬間だった。

 ぞわり、と。

 空間が歪み、絵画の表面が水面のように波打つ。
 突如として、絵画そのものが大きく口を開くように異界のゲートへと変貌した。
 赤黒い光が漏れ出し、強烈な引力が女性を捕らえ、音もなく空間の奥へと吸い込んでいく。

「「――っ!?」」

 声を上げそうになる姉弟の口を、リィンが背後から両手で素早く塞ぎ、その音を殺した。
 そしてリィンの視線は近づいてくる、もう一つの気配を正確に捉えていた。


  ◆


 女性が異界のゲートに消えた直後。
 足音を忍ばせることもなく、昼間に会った館長が部屋に姿を現した。
 館長は女性が消えたことなど気にも留めない様子で、虚ろな目をして問題の絵画の前に立つ。
 その口元は歪な弧を描いていた。

「フフフ……私のものだ。あのような素晴らしい芸術を、価値のわからない成金どもに返してなるものか……」

 ブツブツと狂気じみた独白を漏らす。

「……そろそろ、いいかな?」

 それを見たシズナが妖しい笑みを浮かべて囁く。
 リィンが静かに頷き、二人は暗がりから館長の前へと進み出た。

「ヒッ!? な、なんだお前たちは!」

 突然現れた人影に、館長は腰を抜かさんばかりに驚き、後ずさる。

「館長! 今の女性は……! まさか最近、館内で話題になっていた行方不明者も、皆この絵を使って……!?」

 堪りかねたアオイが飛び出し、悲痛な声で問い詰めた。

「ち、違う! 返せと迫るあいつらが悪いんだ……私は何も悪くない、悪くないんだぁぁっ!」

 館長が顔を真っ赤にして絶叫する。
 自己保身と焦り、そしてドロドロとした負の感情が爆発した瞬間、背後のゲートがそれに呼応するように再び大きく口を開いた。
 空間が裂け、ゲートの中から『巨大で白い腕』が弾丸のような速度で飛び出してくる。
 その狙いは、真っ直ぐにアオイを捕らえようとしていた。

「チッ――!」

 リィンが舌打ちと共に地を蹴る。
 瞬きすら置き去りにする神速の踏み込み。ブレードライフルを抜き放ち、巨大な白い腕へと強烈な一撃を叩き込んだ。
 重い金属音が響き渡り、怪異の腕が大きく弾き飛ばされる。

(れい)の型――」

 その隙を逃すシズナではない。
 彼女は低く身を沈め、妖刀の鯉口を切った。
 黒神一刀流が誇る必殺の一撃を放とうと踏み込んだ、次の瞬間。
 静かに空間が湾曲し、凄まじい密度の光が展示室を包み込むのだった。



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