戦いの果てにまたも全てを失い、ついには自分の世界からもはじき出された青年は、
この世界で新たな『力』を手にする。
後にこの世界で「傷だらけの英雄」として人々の記憶に永遠に残り続けることになる
青年、シン・アスカ。
彼のこの世界での戦いの幕は、今ここに上がろうとしていた。
















ガラッと。
まだ開店時間には早いのに、店の扉が控えめに開かれた。
俺とお袋とじーちゃんは一斉に入口に振り向く。
そこにいたのは蘭と、夕方助けた行き倒れだった。

「お兄、おじいちゃん…………って、お母さんも帰ってたんだね」

「ついさっきね。で、隣にいる子がもしかして………」

「うん。お兄と私が助けた行き倒れの人。名前は………」

蘭がそこまで言うと、男は自分から一歩前に出て俺たちに頭を下げる。
うむ、どうやら礼儀は知っているやつみたいだな。感心感心。

「シン・アスカといいます。倒れていた俺を助けて下さったそうで、どうもありがとう
 ございました」

「いや、大したことはしてねぇよ。行き倒れを助けるなんて、常識じゃねぇか」

「そうですよ。むしろ弾の汚い部屋に連れ込んじゃって。申し訳ないと思ってたくらいなんですよ」

うぉぉい!母さん、そりゃあねぇだろう!
あっ蘭!お前まで笑いやがって!
そしてじっとシンのことを見つめていたじーちゃんまでもが笑い出した。
何?いきなり皆して俺を笑いものにしやがって。これ何ていじめ?

「がっはっは!違ぇねぇやな!そういや蘭、お前ぇさっきこの兄ちゃんにコーシーなんて持ってい
 っただろ!俺に一言言やぁ、眠気も一発で覚める特製玉子スープを作ってやったってのによぉ」

いや、じーちゃん。病身かつ寝起きのシンにこてこての玉子スープて。
蘭もジト目でじーちゃんを睨みながら、ため息を吐いた。

「おじいちゃんに話したらそう言うと思ったから言わなかったのよ……。ていうかいい加減にしてよ
 おじいちゃん!シンさんにおじいちゃん達のこと紹介できないじゃない!」

おおっ!そういえば自己紹介がまだだったな。
俺たちは今のやりとりに目をパチパチさせているシンに向き直る。

「おぉ、そういやぁまだだったな。俺は五反田厳。この五反田食堂の厨房を一手に預かっている。
 シン、とか言ったな。まぁよろしくな」

「私はこのバカ息子と蘭の母親で、五反田蓮といいます。この五反田食堂の看板娘をしていますのよ」

「もう看板娘って歳じゃねぇだろばぁ!!?」

ぎゃああああああ!!
裏拳が!裏拳が俺の顔面にぃ!?
やっとじーちゃんの火中天○甘栗拳をくらった時の腫れがひいたってのに!
またア○パ○マ○みたいな顔になれっていうのかよぉ!

そんな思いを込めて母さんを睨むが、母さんはまるで刑務所から脱獄したばかりの死刑囚のような視線を
俺に向けてきた。
こ、怖ぇ!!人間がしていい目つきじゃねぇぞ!?

「何か、言いたいことがあるの?弾」

「滅相もありません!母上様っ!!」

俺は即座に白旗を掲げて降参する。
仕方ないじゃんか。母さんって蘭の百倍は怖ぇんだもん。
触らぬ鬼に祟りなしってな。
顔をさすりながら起き上がると、ポカーンとこちらを見ていたシンと目が合った。
やべっ!こいつがいるの忘れてた。
俺はコホンと一つ咳払いして………。

「で、俺が蘭の兄貴で五反田弾ってんだ。まあ、あんたを最初に見つけたのは俺なんだが。
 礼は別にいいぜ。当然のことをしたまでだからな」

これは偽らざる俺の本音だ。格好つけたわけじゃないぜ?
礼言われるなんてガラじゃないしな。
だけどシンはそう思っていないようだった。
シンは俺と真正面から向き合って、真紅の瞳を柔らかく細めて、薄く微笑みながら……。

「いや、そんなこと言わずにお礼を言わせてくれ。……ありがとう。弾さんは俺の命の恩人だ」

なんて、言ってきやがった。
その真っ直ぐな感謝の言葉に、俺はただ「お、おう」としか言えなかった。
くそっ。今のやりとりじゃ、まるで俺がバカっぽいじゃねぇか。

と、俺の自己紹介が終わったところで、いきなりじーちゃんが持っていたお玉で、
中華鍋をガンガンと叩く。な、何事だ一体!?

俺とシンが驚いてじーちゃんの方を向くと、厳ついとびきりの笑顔が視界いっぱいに飛び込んでくる。
うわぁ…………、えらいもん見た。

「自己紹介が終わったんなら、さっさとカウンターに座れ二人とも。客が来る前にてめぇらの飯を
 作っちまうぞ。蘭も座れ。お前のも作ってやる」

「そうね。シン君もお腹減ってるだろうし、たくさん食べられるようにとびきりガッツリしたのを
 作ってあげましょうよ」

「おうよ!シンのは五反田厳特製、超特盛業火野菜炒めをこしらえてやるよ!」

そういやもう八時過ぎか。夜の営業時間は九時からだし、そろそろ喰わないと間に合わないな。
言われるままにカウンターに座ってシンを見ると、シンも遠慮がちに俺の隣に座った。
鼻歌を歌いながら中華鍋を振るじーちゃんに、「あの、俺の分はそんなに多くなくていいんで……」
などと言っているが、じーちゃんは構わず大量の野菜を中華鍋に投下する。
その様子をシンは唖然として見ていた。
諦めろ、シン。料理中のじーちゃんには何言っても無駄だ。
そうして着々と夕飯が完成に近づいていくのを特に会話もなく見ていると、唐突にじーちゃんが口を開いた。
その内容は、俺もさっきからシンに聞きたかったことだった。

「そういやぁ、シンよぉ。お前さん、何だって俺ん家の横で倒れてたんだ?しかも、よりによって
 ゴミ捨て場で」

じーちゃんの質問にシンは一瞬口ごもるが、すぐに真剣な顔つきになる。

「それが、俺にもよく分からないんです。俺は…………………ちょっとした理由で気を失う前、
 宇宙に、月面にいたはずなんです。だけど、目が覚めたらここにいて………」

「……あ?宇宙だぁ?月面だぁ?…シン、お前さん何言ってんだ?こんな時に冗談か?あ?」

じーちゃんは胡乱な目でシンを睨む。
じーちゃんだけじゃない。俺や蘭、母さんだって同じことを思っているはずだ。
こんな時に何の冗談を言ってるんだ、と。
だけどシンの目は変わりなく真剣そのもので、俺は「何言ってんだシン?冗談にしても時と場合を
選ばないとウケないぞ?」という台詞を言えずにいた。

じーちゃんはシンの眼差しに何か感じるものでもあったのか、料理の手を止めてシンを見据えながら
話す。

「……じゃあ、お前さんの家はどこにある?どこの国だ?日本か?それとも全然別の国か?もしかして
 お前さん、家出か?」

これも俺が聞きたかったことの一つだ。
シンが今住んでいるのはどこなのか?
国名や住所が分かれば、シンの家に連絡を取れるはずだ。
だがシンはじーちゃんの質問に答えず、逆に俺たちに向かって質問してきた。

「逆に厳さんたちにお聞きしたいんですけど…。……プラントって知ってますか?宇宙に建造された
 人が生活するためのスペースコロニーなんですけど……」

…は?プラント?スペースコロニー?何だそりゃ?

「プラント?植物か?何にしても俺ぁ、そんなもんが宇宙に浮かんでるなんざ聞いたこたぁねぇぞ」

「私も聞いたことはないわねぇ。プラント……プラント……。あ、もしかしてプランターのこと
 かしら!?」

「……母さん、それは鉢植えだ。俺も二人と同じだ。プラントなんてコロニー、聞いたことないぜ」

「そう………ですか……」

シンはそう言うとがっくりとうなだれてしまった。
その落ち込み様といったら凄まじくて、俺も蘭も何も言えなくなってしまう。

「で、結局お前さんの家はどこなんだ?そのプラントってのが関係あんのか?」

「…………いえ。今の厳さんたちの答えで、俺の家がどうなったのか大体分かりました」

「は?おい、それじゃ答えに………」

じーちゃんはそこまで言いかけて、口をつぐんだ。
そりゃそうだ。今のシンを見たら、俺だって口をつぐむだろう。
じーちゃんを見つめるシンの真紅の瞳は、悲しみにユラユラと揺れていて。
儚げに微笑む様は、ほっといたらどこかに消えてしまうんじゃないかってくらい頼りなくて。
隣を見ると蘭も母さんも目を見開いてシンを見ている。
そんなシンを見てじーちゃんはさっきよりも真剣な目つきになり、どこか確認するように尋ねた。

「一つだけ、いいか?お前ぇ、家族は…………」

シンはその質問に対して、一瞬だけ間を置いて、「……いますよ」と。


「今は会えませんが、連絡も取れませんが、います。だけど、いつか会えるって。五年先か
 十年先か。それともそう遠くない未来か……。……どちらにしろ必ず会えるって。
 それだけは、分かってるんです」


そう、言った。
そう言うシンの目が、どこか虚ろに見えたのは俺だけだろうか?

何か分かりにくい言い方だなぁとコメントに困ってしまった俺は、ちらっと周りの反応を
窺ってみる。
すると蘭は俺と大体同じ反応で、どう答えたらいいか分からず、オロオロしていた。
母さんは、何故か痛ましげに顔を歪めてシンを見つめていた。
って母さん、何でそんな顔してるんだ………?
そしてじーちゃんはというと、無表情でじっとシンを見つめていて。
ただ一言「そうか」と呟いて料理を再開した。

あ、あれ?結局シンの家も家族のことも、何も分かってないんだけど、これでよかったのか?
そうツッコみたくはあるんだけど、食堂を包み込むこの何とも言えない空気が、俺のツッコみを
躊躇わせていた。

と、そうこうしているうちに料理が完成して、次々と俺たちの前に並べられていく。
シンの前に置かれたのは、じーちゃんの宣言通り超大盛業火野菜炒めとごはん特盛。
うぉう。野菜が文字通り山盛りだ。通常の盛りの三倍はあるぞ。
シンも野菜炒めの山を目の当たりにして絶句している。
そしておずおずと手を挙げて、遠慮がちに口を開いた。

「あ、あの……。俺流石にこんなに食べられない………」

「あぁ?ばぁかやろぉ!せっかく俺様がお前のためにガッツリこしらえてやったんだ。
 これ喰ってその辛気臭いツラぁ直しちまいな!」

……え?今何て言ったじーちゃん?

「あの………」

「……何かお前ぇには事情があんだろ?本当に家出じゃねぇみたいだし、深くは聞かねぇさ。
 でもよ、そんなしょんぼりした顔してたら、お天道さまに見放されちまうぜ。
 まずはうめぇもん喰って体と心をりふれっしゅってな!」

そう言って豪快に笑うじーちゃんをシンはポカンと見つめて、そしてふっと、瞳に優しい光を
宿してうっすらと微笑んで、「……はい、いただきます」と。
箸と茶碗を持って、そう言った。

……ったく、流石は俺のじーちゃんだな。敵わねぇよ。
こんなふうにシンを元気づけるなんて、多分俺には一生できそうもないからな。

シンは箸でキャベツを一切れつまんで、口に入れる。
そして一噛み二噛みして飲み込んでから、ポツリと呟いた。

「……美味い」

今度はしいたけを一切れ口に入れて、咀嚼して飲み込む。
そして、またポツリと呟いた。

「……あったかい」

そう呟くと同時に、シンはものすごい勢いで野菜炒めをむさぼりだした。
途中で飯も口に入れて野菜と一緒に頬張る。
その様子を驚いて見ていた俺と蘭は、さらに驚愕することになった。

………泣いていた。
いや、涙は流していないんだが。
でも野菜炒めを喰いながら、シンは嗚咽を漏らしていた。
その瞳はさっきよりもユラユラとおぼろげに揺れていて。
溢れ出る想いをぶちまけたいのに、それができない。
まるで泣きたいのに泣くことができない、そんな感じだった。

俺と蘭は何も言えずにただ黙ってシンを凝視するだけだったが、母さんはそんなシンを優しげに
見つめ、じーちゃんは箸を置いて肩を震わせるシンの前に、小さな器を置いた。
あれ?この匂いって………。

「五反田厳特製の玉子スープだ。眠気も覚めるし、何より心が落ち着くぜ?」

そう言って片目をつむるじーちゃんに、シンはただ静かに微笑み返して置かれた玉子スープを
一気に飲み干した。
そしてまた野菜炒めをむさぼり始める。
俺はそんなシンを、自分の分の飯も喰わずにただ見つめていた。
シンから、目を離せなくなっていたんだ。





















街灯と月明かりだけが辺りを照らす商店街に、仕事帰りのサラリーマンやOLがフラフラ
と集まってくる。
ある者は居酒屋へ、ある者は遅い夕食を摂るために食堂へと足を向ける。
そんな一時の憩いを求めて人々が行きかう街中を、一人の少女が泰然と、そして悠然と
歩いている。
ふわりと柔らかそうなドレスを身に纏う少女は疲れた様子で家路につくOLや、肩を抱き合い歌を歌いながら
練り歩くサラリーマンたちを冷ややかに横目で見やって、ただ思う。

(下らない…………)

力も持たず、ただ日々を無為に過ごす低劣な男ども。
ISを使う素質があるにも関わらず、安寧の日々を選んだ怠惰な女ども。
全てが下らない、そう思う。

そんな輩全てを私の『力』で吹き飛ばせたら。
一瞬そんな魅力的な願望が頭を掠める。
だが少女にはそれを行うことができない。
自分の上司にあたる女性が『力』を使っての殺人を禁止しているからだ。
もしその命令を犯せば、この身に巣食う監視用ナノマシンが一瞬にして脳中枢を焼き尽くす。
だから少女は従ったふりをする。
今回の任務に従っているのもそのためだ。

と、その時いきなり無線から連絡が入る。
こんなふうにおかまいなしに連絡を入れてくるのは、確実にあの女だ。
自分の上司である、あの女。
少女は溜息を一つ吐いて、無線に出る。

「………こちらエム。スコールか?」

「出るのが遅いわよ、エム。任務中なんだからその辺はちゃんとしなさいね。
 ……まあいいわ。標的はもうすぐその商店街を通るわ」

「……それなんだが、何故こんな商店街を選んだ?ここはIS学園からも近い。
 すぐに援軍がやってくるぞ」

エムがスコールと呼ぶ女性は、何でもないように答える。

「仕方ないのよ。オータムの『アラクネ』、そしてあなたの『サイレント・ゼフィルス』を
 立て続けに強奪しちゃったから各国政府も各企業も警戒しちゃってね。
 もちろん、今回のISの開発元である倉持技研もね」

「だからIS学園からも近く、人通りの多いこの場所を選んだというわけか………。だが、
 わざわざ強奪する必要があるのか?量産型の打鉄なぞ………」

そう、今回の任務はIS学園に搬送される途中の、打鉄の強奪。
ISの強奪を主な任務とするエムには、その任務自体に言うことはない。
しかしその獲物が打鉄というのが、何とも腑に落ちなかった。
そんなエムの疑問を聞いても、無線越しのスコールはクスクスと笑うばかり。

「何も専用機を強奪するばかりが能じゃないわ。今回の標的は打鉄じゃなくて、そのコア。
 コアを初期化してパーツを組み上げれば、各国もデータを持っていないISが完成する。
 最初から専用機を奪ったんじゃ、その装備も対策も割れちゃってるからね」

「だから専用機でなく、警戒も甘い打鉄か……。相変わらずよく考える」

「褒めてくれてありがとう。あと三分もすればそこを打鉄を積んだ特別車両が通るわ。
 IS学園から援軍も来るでしょうけど、各機関に連絡、承認を得て出撃するまで、最低でも
 十五分はかかるわ。任務を遂行するには十分すぎる時間よ」

「……了解」

「これ以降は任務完了まで連絡はしないわ。ああ、もし何かの手違いで援軍が来たとしても、
 無茶はしないでね。あなたの『サイレント・ゼフィルス』はついこの間奪ったばかりで、
 調整も不十分なんだから」

その言葉にエムは憎々しげに舌打ちする。
そんなに自分の腕を信用してないんだろうか。
援軍など自分の腕と、この『サイレント・ゼフィルス』があれば軽く蹴散らせるというのに。
その言葉に答えず無線を切ろうとすると、少し大きめのスコールの声が聞こえてきて、
思わず手を止めてしまう。

「それから、くれぐれもISを使って人殺しはしないこと。あなたは釘を刺しておかないと、
 何をしでかすかわからないからね」

一方的にそう言うと無線を切ってしまった。
流石は『お構いなしの雨』だなと軽く嘆息して、人々の行きかう町に目を向ける。
ここはもうすぐ阿鼻叫喚となるだろう。
自分と、自分の『サイレント・ゼフィルス』によって。
しかし自分はここにいるゴミどもを掃除することができない。それが、エムには物足りなかった。

と、その時エムの頭にある残酷な考えが浮かぶ。
そうだ……。殺人が禁じられているだけで、別に誰かを傷つけることを禁止されている
わけではない。
だったら、ここにいる無価値な人間たちを生かさず殺さず嬲ることができたら?

エムの顔に凄絶な笑みが浮かぶ。
その想像があまりに甘美なもので、早く全てを破壊したいという衝動に駆られる。
その時視界の端に獲物の姿を捉え、エムの意識が一瞬で引き戻される。

さあ、始めよう。徹底的な破壊を。
ここを瓦礫の山に変えて、群がるゴミ共に生きながらに地獄を見せてやろう。


「………展開」


そう呟くとエムの周りが光輝き、一瞬にして深い蒼色の装甲が全身を包む。
全身にみなぎる力に酔いしれながら、バイザーに隠された双眸を鋭く細める。

(さあ、行こうかサイレント・ゼフィルス。久しぶりの戦場だ。楽しく、舞おうじゃないか)

そう心の中で呟くエムの瞳は愉しそうに、本当に愉しそうに歪んでいた。


「織斑マドカ。サイレント・ゼフィルス、出る」


静かにそう呟くと驚愕に目を見張る人々を置き去りにして空中へ飛び出し、獲物に向かって
その銃口を向けた。





















「俺、塩鮭定食。それからこっちは豚生姜焼き定食。あと水のおかわりを下さい」

「は、はい!塩鮭定食と豚生姜焼き定食、水のおかわりですね?少々お待ち下さい!」


俺は少し疲れた表情の中年のサラリーマン二人から注文を聞いて、
アタフタしながら厳さんに伝えた。
さっきまでガラガラだった食堂はもう八割方席が埋まっていて、ビールなど飲んでほろ酔い気分に
浸っているサラリーマンたちが聞いたこともないような歌を気分よく歌っていた。
そして俺は次々に飛ばされてくる注文をメモ帳に書いては厳さんの所へ持っていく。
弾さんも蘭さんも蓮さんも、客とカウンターとをせわしなく往復していた。

………何で俺は可愛いPIYOPIYOエプロンなどを着て、ウェイターの真似事なんてしてるんだろう?
何かどこかの管理人さんを思い浮かべる姿で、恥ずかしいやら情けないやら。
俺はビールの大ジョッキを両手いっぱいに持ちながら、さっきのことを思い返してみた。



            ・



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            ・



食事が終わった後、俺は厳さんたちに色々質問をしてみた。
コーディネイターやナチュラルのこと。
ザフトと地球連合軍、ロゴスのこと。
オーブのことやモビルスーツのこと。
プラントを襲った『血のバレンタイン』のこと。
俺が知っている世界ならおよそ誰もが知っていることだけど、やっぱり厳さんたちは
知らないって言った。
嘘をついている様子も、なかった。
それを目の当たりにして、俺はいよいよ本格的に途方に暮れてしまった。

さっきはどうでもいいとか言ったけど、今の俺は宿無しなのだ。
金もないし、たぶんここが俺の知ってる世界でないんだとしたら、俺の戸籍もないだろう。
俺は何としてでも俺のよく知っている世界へ帰ってやろうと思うが、それにはまず
先立つものがないとどうにもならない。
元の世界へ帰るにしても、その間飲まず食わずってわけにはいかないのだ。
割と真剣に俺が頭を抱えていると、食器を洗っていた厳さんが唐突に口を開いた。


「シン。お前ぇ、ここに住みこまねぇか?」

「…………………………………………は?」


多分俺は今、ものすごいアホ面をしていると思う。
だって弾さんや蘭さんでさえ、口を半開きにして唖然としているのだから。
唯一蓮さんだけはにこやかに構えているが、そこは人生経験の差か?
そうして固まっていると、いち早く復活した弾さんが、すごい勢いで口を開く。

「って!おいおいおいおいじーちゃん!本気なのかよっ!!」

「あぁ?弾、お前ぇ何か文句あんのか?シンを連れてきたのはお前ぇだろうが」

「いや、そりゃシンがここに住み込むことには文句ねぇけどよ!そんな簡単に
 決めていいのかよ!?」

え?
弾さん、俺がここに住み込むことに文句ないのか?俺にはそれが意外で意外で
仕方なかった。
それに、弾さんや厳さんが良くても………。

「あの、蓮さんや蘭さんにも迷惑なんじゃ………」

実際、そうだと思う。
見ず知らずの得体の知れない男といきなり同居だなんて。
うら若い可憐な乙女である蓮さんと蘭さんには苦痛以外の何物でもないはずだ。
後に蓮さんの実年齢を聞いて驚愕することになるのだが……。
とりあえず、二人にとって俺と同居するなんて考えたくもない苦痛でしかない。
そのはず、なのに………。

「私は構いませんよ。お部屋も使っていない客間がありますし、食費とかも一人分
 増えたくらいどうってことないですしね」

「え、えっと……。ちょっとびっくりしちゃったけど……。私もシンさんが家に住み込む
 のは、別に反対じゃないですよ?いや!別に一夏さんのことが気にならなくなったとかじゃ
 ないですよ?だけど何か放っておけないというか!」

蘭さんは何かよくわからないことを言いながらワタワタしてるが、二人ともそう言ってくれた。
何で、だ?
何で今日知り合ったばかりの俺に、ここまで言ってくれる?
何で、こんなに親切にしてくれる?
俺は厳さんたちが、何故ここまでしてくれるのか、分からなかった。
だから、聞いた。その理由を、どうしても知りたかった。


「どうして……どうして。そこまで俺に優しくしてくれるんですか?今日知り合った
 ばかりの、素性も定かじゃない男を、なんで…………」

「いいんだよ。この食堂の主たる、この俺が決めたことだ。誰にも文句は言わせねぇ」

「俺は、そんなに親切にしてもらうような人間じゃありません。何もできない、情けない
 男なんです。そんな俺に、ここまでしてもらう資格なんて!」

「もう、いい」

「俺は!こんなに暖かく接してもらう資格なんてない男なんですよ!!力もなくて!
 何も守れなくて!ただ泣くだけで!こんなに良くしてもらう資格なんて、俺にはっ!!!」

「やめねぇか!!!!!」


半ば自棄になって叫んでいた俺を、厳さんが一喝する。
俺はハッとして叫ぶのをやめて、厳さんを見つめる。
厳さんはそんな俺を、さっきとは比べ物にならないくらいの真剣な目で見据える。
そして落ち着いた口調で、俺に語りかけてくる。

「確かに俺たちはお前ぇとは、今日初めて会った仲だ。そんなお前ぇを見て見ぬフリして警察
 とかに預けることは、簡単だ」

そこまで言って、厳さんは目に柔らかな光を宿して、「だがな………」と続けた。

「そんなこと考えられねぇくらい、俺はお前ぇのことが放っておけねぇ。俺の目にお前ぇは、
 すごく苦しんでいるように見えた。俺らじゃ想像もできねぇくらい重いモン背負っちまって
 もがき苦しんでいる。そんな風に感じちまった。何でかは知らねぇがな」

ガッハッハと厳さんは頭をガリガリと掻きながら豪快に笑う。
それが照れ隠しだということは、俺でも分かった。

「だから、だろうな。俺はお前ぇの力になってやりてぇって思った。それは、ここにいる
 全員が同じ気持ちのはずだ。お前ぇだってそうだろう。お前ぇにはまだやることがある
 んだろ?お前ぇの目を見れば分かる。お前ぇの目は、まだ死んでねぇからな」

厳さんの言葉の一つ一つが、俺の心に染み込んでくる。
涙は出ないのに、目頭が熱くなる。
ふと周りを見ると、弾さんたちも俺のことを見ていた。
厳さんと同じくらい優しくて、慈しむような瞳で…………。

「ここは俺たちの好意に甘えとけ。ただで施しを貰うのが嫌なら、店を手伝え。仕事なら
 いくらでもある。お前ぇにどうしてもやらなくちゃならねぇことがあるのなら、今は何
 にでも縋って、足掻いてみろ。
 気にするこたぁねぇ。何せ俺たち五反田一家は……」

義理人情が心情だからな。そう言って、また豪快に笑った。
その笑い声はまるで俺の心の闇まで消し飛ばしていくようで。
俺は皆を見回してただ一言、「よろしくお願いします」と言って、頭を下げた




            ・




            ・




            ・




………回想はここで終わりだ。
そろそろ洒落にならないくらい忙しくなってきたから、物思いに耽る余裕がない。

そういうわけで俺はさっそく今日から五反田食堂の手伝いをすることになった。
当面はここに住まわせてもらいながら、元の世界に帰る方法を探すつもりだ。
戸籍もないし、色々生活するうえで不便なこともあるだろうけど仕方がない。
とりあえずは、手探りでやっていくだけさ。

それにしても………。
目の回るような忙しさに汗を流しながら、軽快に中華鍋を振るう厳さんや、忙しそうに
しながらも笑顔で働く蓮さんたち。
そして笑いながらビールを飲んで食事を頬張るお客さんたち。
このなんとも不思議な一体感に包まれながら、思う。

(ここは本当に、暖かいな……)

誰もが戦争の恐怖なんて少しも感じず、日々の生活を謳歌してただ笑いあう。
元の世界で俺が望んで止まなかった、結局作ることができなかった暖かい世界がここにはあった。
モビルスーツに乗って生死を賭けた戦いを繰り返していたころは触れることすら
できなかった平和な世界。
父さんや母さん、そしてマユが生きていた時のような、温もりに満ちた世界。
元の世界とこの世界はあまりにも違いすぎて。
この世界をどこか遠くから見つめている自分がいた。

だけど、今俺はこの世界の平和を肌で感じている。
本当はステラに感じてほしかった、優しくて暖かな世界を……。
明日からは元の世界に帰る方法を探していかないといけない。
デュランダル議長がいなくなって、混迷を極めているであろう戦争のある世界へと。

でも、今日だけは………。
今だけは、この平和に。
俺が繰り返し夢に見た、この暖かな世界に身を委ねてもいいよな?
今だけは、このままで………。
少しだけ、休んでもいいよな?マユ、ステラ………。
そんなことを考えていた俺に、厳さんが声をかけてくる。

「おぅ、シン。どっかの酔っ払いが玄関閉めずに出ていきやがった。ちょっと閉めて
 くんねぇか?」

「あ、はい!」

俺はビール瓶を片付ける手を止めて、玄関に向かう。
すると店の前の信号が赤になり、どこか物々しい雰囲気の大きな車がその車輪を止めた。
夜でも目立たないように車体の色は黒一色で、その後ろにはとても大きなコンテナを
積んでいる。しかも厳重に施錠がなされていて、よほど大切な物を運んでいることが見て取れた。
その重厚な姿にザフト軍で使われていた特別車両を思い出し、近くにいた弾さんに尋ねてみた。

「あの、弾さん。あの車って何か普通の車と違いませんか?何か物々しいというか………」

「あん?車って………、確かに何か物騒な感じの車だな。………ん?あの車に描かれてる
 『倉持技研』って……。どっかで聞いたことがあるようなないような?」

俺たち二人が揃って首をかしげていると、それに気づいた蘭さんが俺の傍にやってきて、
ちらっと車を見やった。

「どうしたの二人とも?あれ?『倉持技研』って……、日本製のISを作っている開発室ね。
 あれだけ重装甲の車両で大型のコンテナを積んでるってことは………もしかしてISを
 運んでるのかも」

「あぁ!そういやIS作ってるとこだったよな。じゃああれがISを運んでるってことは……。
 行き先はIS学園か!」

二人が息を巻いてそんなことを話しているが、俺にはチンプンカンプンだった。
IS?IS学園?何のことだ一体?

「あの、ちょっと聞きたいんですけど。……ISって何ですか?」

すると二人は揃って「は?何言ってんだこいつ?」みたいな顔をする。
そ、そんなにこの世界では常識的なことなのか、ISって……。

「えっと………、何言ってんだシン?」

「そうですよシンさん。ISを知らない人なんて今の世の中一人も………。ってシンさん。
 そんなに不思議そうに……。もしかして、本当にISを知らないんですか?」

もちろん、知らない。俺はこの世界の人間じゃないからだ。
俺はその質問に答えようと口を開こうとしたが、そこに厳さんの怒声が飛んできた。

「おぃてめぇら!いつまでサボってやがる!さっさと玄関閉めて仕事に戻らねぇか!!」

「「「は、はいっ!!すみませんっ!!!」」」

俺たちは綺麗に謝罪をハモらせて、二人は慌てて仕事に戻っていく。
俺も早く仕事に戻ろうと、慌てて玄関に手をかけた。

その瞬間、突然辺りが光で照らされた。
まるで雷が落ちた時のような目が眩むほどの閃光。
皆呆然としているが、俺だけはその光を見た瞬間、反射的に叫んでいた。
その光は俺が数多の戦場で見てきたものと、全く同じだったからだ。
この光は、全てを焼き尽くす破壊の閃光……ビーム兵器。


「伏せろっ!!!!!」


俺は近くにいた弾さんと蘭さんを押し倒して、二人の上に覆いかぶさる。
そしてそれと同時に耳をつんざく轟音が鳴り響き、熱風と瓦礫が食堂に雪崩れ込んできた。






















どぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!



「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

「何じゃこりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

腹に響くほどの爆発音と凄まじい衝撃が起こり、食堂は悲鳴に包まれる。
その衝撃波に玄関の扉は粉々に砕け、テーブルが、椅子が、そしてお客さんが。
そこにあったもの全てが、まるで初めからなかったかのように吹き飛ばされていく。
俺は何とか二人だけは傷つけまいと必死に衝撃に耐えながら、なおも覆いかぶさる。
砕け散った玄関のガラス片や電灯の破片が俺たちの上に降り注ぎ、それらは容赦なく
俺の背中を切りつけた。

(グゥゥゥゥゥ!い、痛いっ!!………そうだ、厳さんたちは!?)

俺は慌てて二人がいたであろう厨房の方を見る。
すると蓮さんは厳さんの後ろに隠れて頭を両手で覆い、厳さんはお玉と中華鍋で
迫りくる瓦礫やガラス片を、目にも止まらぬ速さで全て叩き落としていた。
その姿を半ば呆然と見つめて、思う。

(この人、本当に人間か………?)

そんなことを思っているうちに衝撃と風圧が止み、いったん辺りが何もなかったかのような
静寂に包まれる。
俺は体を起こし、二人が無事かを確かめる。

「弾さん、蘭さん。無事…………ですか?」

「あ、ああ。何とかな………」

「えぇ。シンさんが私たちに覆いかぶさってくれたおかげで……。シンさんは?おじいちゃん
 たちは大丈夫ですか………?」

俺は背中が痛いが、心配をかけさせたくないので黙っている。どうせ大した傷じゃないだろうし。
すると蘭さんの声が聞こえたらしく、カウンターから厳さんの声が聞こえてきた。

「おぅ、こっちは大丈夫だぜ……。お前ぇらも無事だったみたいだな。しっかし、一体何だった
 んだ?今のは………」

そうだ。何だったんだ、今の衝撃は………?
俺はゆっくりと起き上がって、店内を見回す。
さっきまでは整然としていて、皆の活気で賑わっていた空間は、もはやどこにもない。
お客さんたちはそれほど大きな怪我もなく全員無事みたいだが、先ほどのことがやはり恐ろしかった
らしく、恐怖に震えながら泣いている人もいる。
さっきまでの暖かな世界は、俺がよく知る世界のそれに、一瞬でとって代わっていた。

「どうして………。どうして、こんな………………」

そう呟くと同時に、また外で凄まじい爆音と震えるような衝撃が起こる。
店はギシギシと軋み、お客さんたちの悲鳴が沸き起こる。

「ちくしょう!どうなってるんだよ、これは!?」

「私に分かるわけないでしょ!?でもこの音と衝撃って、学校でISの映像を見た時に聞いたことある。
 確か……砲撃とかビーム兵器?こんな街中で?だとしたら本当にISの……」

「はぁ、IS!?何でISがいきなりこんな街中で……って、シン!どこいくんだよ、シン!!
 外は危ないぞっ!!?」

弾さんと蘭さんの会話なんて、俺の耳には入っていなかった。
俺の頭を支配していたのは、ただ一つの記憶だった。
とてもとても、苦い記憶。
俺が最初に全てを失った、あの時の記憶。
俺は恐慌にも似た危惧を覚え、気が付いたら全力で走りだしていた。

玄関を飛び出した俺は、思わず絶句する。
さっきまで人々が行きかい賑わっていた商店街は、その面影が跡形もなく。
ひしめくように並んでいた家々は崩れ、瓦礫の山と化していた。
地面はまるで砲撃かRPGでも着弾したかのように大きく抉れていて。
あちこちから出火し、もうもうと黒煙が上がっていた。
まさに、焼け野原。不毛の大地。
その光景はまるでマユたちが死んだ時のオーブの風景そのもので、強烈な吐き気が喉まで
こみ上げてくる。

「何だよこれ……………。何だよこれぇ!!!?」

訳が分からず半ば混乱して叫んでいると、後ろの方から何人かの怒声と銃声が聞こえてきた。
俺は無意識のうちにそちらに向かって駆け出していた。
誰か、人がいる!生きている、人が!!
瓦礫と化した街を全力で駆けて、焼け焦げた地面を蹴り飛ばして。
その場所に辿り着いた俺の目に飛び込んできたのは……。

コンテナ部に大きな穴を開けて路上に横転している重装甲の車。
さっき食堂の前に止まっていた倉持技研っていう所の車だ。
その車を守るように数人の警察官らしい人たちが、怒声を上げながら銃を構えている。
そしてその銃口は全て、上空に佇むたった一人の女に向けられていた。

「………何だ、あれ?」

月明かりに照らされた女が纏っているのは、全身を包む蒼色の装甲。
所々が抜けている部分があるが、両腕には禍々しいクローをつけた装甲が。
背面からは何枚ものスラスターが突き出しており、脚部のスラスターからは勢いよく排気が
吹き出し、そこから起こる風にまき散らされた黒煙が、女を包み込むように揺れている。
それらを纏う女は水着のような露出の高い黒いスーツを着ており、素顔は大げさなバイザーに
隠されている。そして右手が光ったかと思うと、次の瞬間には大型のライフルが警官たちに
向けられていた。

「くそぉぉぉぉぉぉぉ!!!街をこんなにしやがってぇぇ!!何だ!?何が狙いだ!!?
 IS使い!!!」

一人の警官が雄叫びを上げると、一斉にその銃口が火を噴いた。
しかしその弾は全て女の目の前で弾かれてしまう。

(……シールド!?いや、見えないバリアーがあるのか!!?)

あのパワードスーツといい。
いきなり光の粒子が武器になる仕様といい。
この見えないバリアーといい。
何なんだあの機体は!?
いくらなんでも圧倒的すぎる!!
技術大国オーブでもあんな機体は持っていないぞ!!?

しかしそれを目の当たりにしてもなお、警官たちは弾丸の雨を女に浴びせかける。
しかしやはり、その全ては不可視のバリアーに叩き落されてしまう。
そして警官たちの集中砲火が終わったことを確認すると、女は唯一見えるその小さな口を、
にやりと歪めた。
ぞっとして警官たちに「逃げろっ!!!」と叫ぶが、もう、遅かった。
女はそのライフルを警官たちから逸らし、少し離れた地面に打ち込んだ。
威力は抑えているのか、その大口径から撃ち出されたビームは随分細いものだったが、
しかしその爆風と衝撃は凄まじく、多少離れていたにも関わらず数人の警官を爆炎が飲み込む。
そして俺を含む残りの数人を吹き飛ばした。


「ギャアアアアァァァァァァァァァァ!!!」

「ぐぁぁぁっ!!足がっ!足がぁぁぁぁぁ!!?」

「痛ぇ!!痛ぇよぉぉぉ………」


ある者は全身を強く打ってのたうちまわり、ある者は不自然に曲がってしまった足を見つめ恐怖に
おののき、またある者は脇腹に刺さった瓦礫片を必死に引き抜いて、傷口を押さえて転げまわる。
まさに、阿鼻叫喚。この世の地獄。
マユたちを失いオーブの廃墟を彷徨った時に見た光景と、まさに同じ。
俺は突如目の前に蘇った悪夢を前に、ただ立ち尽くすしかなかった。

(まただ…………)

心が軋む音が聞こえる。
だけどその音さえ、今の俺にはどこか遠く聞こえる。

(また全てが、吹き飛ばされていく………)

その間にも続く爆撃と轟音。
渦巻く怒号と悲鳴。
ビームがアスファルトを抉り、その近くにいた人たちが吹き飛ばされる。
傷つき、倒れていく。
でも、そんな地獄を前に意識を手放そうとしていた俺はその悪夢の中で、小さな、ほんの小さな
光を視界の端に捉えた。

(あれは…………)



俺の横を、パジャマ姿の住人らしき人たちが通り過ぎる。
ある人は子供を抱いて、妻の手を引いて。
ある人は老人を背負って、瓦礫の山を踏み越える。
またある人は怪我をした人の手当てをして、物陰に引っ張り込んでいる。



皆、この戦火の中を生き残るために必死にもがいていた。
その人たちの姿がこんな悪夢の中でもとても力強く見えて。
完全停止していた俺の体と思考が、ゆっくりながら動き始めた。

と、どこからかいきなり一際大きい罵声が聞こえてきて、俺は思わずそちらの方を向く。
そこにはこの地獄を作りだした、パワードスーツらしきものを纏った女と、その女に
銃口を向ける、まだ若い警官が対峙していた。
いや、対峙なんて上等なものじゃない。
女はその警官に視線を向けることすらなく、ひたすらに街にビームを撃ち込み続けている。
そんな女に警官は無駄だと分かっているはずなのに、畳み掛けるように発砲し続ける。
もちろんそれらはバリアーに阻まれてしまうが、それがまた警官の神経を逆なでするらしく、
言葉にもなっていない怒声を喚き散らしながら、なおも撃ち続けた。

「お、おい!無茶だぞアンタ!!すぐに逃げろっ!!」

しかし警官は俺の声も聞こえていないようで、なおも喚きながら一歩、また一歩と
女に向かってにじり寄っていく。

「このやろぉぉぉぉぉ!!!いつも!いつもいつもいつも!!強大な力だけ見せつけて!
 好き放題して得意げな顔をしやがって!!俺たちをまるで虫でも見るかのように見下し
 やがって!!女にしかISを動かせないからって、まるで自分たちだけが特別だと言わん
 ばかりに振る舞いやがって!!俺たちを………男を、舐めるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
 ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

半ばパニックになっているらしい警官を女は鬱陶しげに見つめ、面倒くさそうに警官の
少し離れた地面に銃口を向けた。
そしてその警官は、それにすら気づいていない。

(まずい!!!)

体が勝手に動き出す。
今まさに凶弾に倒れようとしている警官に向かって、俺は全力で駆けだした。
砂埃を巻き上げ、瓦礫を乗り越えて警官の元に辿り着き、その勢いのまま全力で体当たりする。
警官と俺は地面に倒れ伏し、その直後に爆風が俺たちを襲う。
警官に覆いかぶさる形になっていた俺の背に巻き上げられた瓦礫が降り注ぎ、俺の体を容赦なく
蹂躙する。
だが俺にはその痛みを気にする余裕なんてなかった。
衝撃と粉塵が治まったのを確認してから、俺は警官を置き上がらせて、肩を掴んで怒鳴りつけた。

「バカかアンタ!?あいつに拳銃が効かないのは分かってるだろ!?それより応援を要請する
 とか怪我人を運ぶとかの方を優先するべきだろ!?」

「うるさいっ!!ISが出てきてから、あれが台頭してから、警察はただのお飾り!力もない
 無能の集団のレッテルを貼られっ!!何もできない藁人形に成り下がった!!許して置けるか!!
 俺は正義を守るために、弱い人々を守るために警官になったのに!!
 あんなものはっ!!
 あれを使っていい気になっている女どもはっ!!
 この世から無くすべきなんだよ!今日、ここでぇ!!!」

そう言って俺の手を振り払い、なおも罵声を上げながら銃を構えたその警官を、気が付いたら俺は
…………。


「この………バカやろぉがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


何も考えず、ただ全力で殴りつけていた。
………怒っていた。
俺は今、心の底から怒っていた。
この警官の叫びを聞いても怒りしか湧いてこなかったし、警官の気持ちを考えてやることも、今の
俺にはできなかった。
何故かって?
簡単なことだ。今はそんなことを言っている場合じゃないからだ。
俺にはISっていうのが何なのか分からないし、この警官が何でISっていうものや女性に敵意を
持っているかは知らないけど。
知らないけれど、少なくとも正義を守るために警官になったのなら。
弱い人々を守るために警官になったのなら!
今はもっと優先すべきことがあるだろう!?
この焼けた焦土を目の当たりにして、そんなこと言っている場合じゃないだろう!?
俺は赤くなった頬を押さえて呆然としている警官の胸ぐらを掴みあげて、そいつの目を見つめながら
怒鳴りつけた。

「アンタはっ!この状況を見てもそんなこと言ってんのかよ!見ろよ!力のない人たちが
 理不尽に傷ついて倒れていく姿を!!そんな人たちが手を取り合って、助け合って必死に
 生き抜こうとしてる姿を!!あんたが本当に人々を守るために警官になったんなら!
 あの化け物に拳銃を向けるより、今は一人でも多くの人をこの地獄から救い出すために動け!!
 その手を引き金を引くことに使うくらいなら!誰かの手を引っ張ることに使え!!
 それが正義を守るって、人を守るってことだろうがぁ!!!」

「っ!!!!!………………………………」

警官は驚きに目を見開き、ゆっくりと首だけで辺りを見回す。
警官の目に一体何が映っていたかは定かじゃないが。
焦点が定まらずに不確かだったその目には、徐々に光を取り戻していき。
たっぷり三十秒ほど辺りを見回した後に小さくボソッと呟いた。


「正義を……人々を、守る。引き金を引くより…………人の、手を…………」


そう呟いた瞬間俺を振り払い、目の前の敵に背を向けて猛然と走り出す。
傷ついた仲間や人々の元に。拳銃を投げ捨てて。

「お、おい!アンタ…………」

「俺は、本官は倒れている人を、まだ火の手が届いていない場所まで運ぶ!君は、どうする!?」

「!……ああ、俺も怪我人を安全な場所まで運ぶ!アンタはそれに加えて、この事態を収拾
 できそうなところに連絡してくれ!!!」

「分かった!それから、少年。………ありがとう」

この極限状態の中でほんの、ほんの少しの笑顔を浮かべ、その警官は燃え盛る炎の中に消えていった。
その後姿に力づけられ、俺も側に倒れている負傷した警官の肩を担ぎ、必死に引きずって
遮蔽物のある所まで歩いていく。

しかしその間も女の攻撃が止むことはない。
建物に、アスファルトに容赦なくビームを撃ち込む女の口元は、愉悦に歪んでいる。
と、そこで俺はあることに気付く。
あの女はさっきから、その銃口を直接人に向けることはしていない。
決まって数メートル標準をずらして射撃している。威力もできるだけ抑えて。
つまり、『直接』には人を傷つけていない。
まさかとは思うが、女の行動は一つの結論を指し示していた。

(それで、誰も殺していないつもりか………!?)

俺の中の怒りが、一瞬で沸点まで到達する。
人には直接その銃口を向けずに、敵を無力化していく。
俺にはその行動にデジャヴを感じずにはいられなかった。
俺が今まで戦ってきた敵の中でアスランと同等以上の力を持つ、俺よりも強い最強の敵を。

(フリーダム………)

幾度となく戦場に現れては、その力で全てのモビルスーツの戦闘力を奪い取って去っていく、
青い翼を背負った、死の天使。
アスランは、以前言っていた。
フリーダムは、キラ・ヤマトは敵じゃないと。
戦争を止めたいから、誰も傷つく人を見たくないからこそ、あんな行動をとったのだと。
………確かに、そうだったのかもしれない。
戦争の真っただ中にあったあの時はそこまで頭が回らなかったが、この世界に来て冷静に考えて
みると、キラ・ヤマトは本気で戦闘を止めたくて戦っていたのかもしれない。
だから全てのモビルスーツの武装を奪うなんて面倒なことをしていたのかもしれない。

だけど、もちろん俺はフリーダムを許すことはない。
あいつが戦場を好き勝手に混乱させたことは間違いないんだし、ビームや実弾の飛び交う戦場で
武装とメインカメラを奪うなんて、殺したも同然だ。
戦争だから仕方なかったとはいえ、ミネルバも被害を受けたし。
ステラも……レイたちも奴に殺された。
たとえ俺の私怨だとか被害者妄想だとか言われても、この気持ちをそう簡単に変えることはできない。

でも……!それでも!
目の前の女とフリーダムとでは、シンプルかつ決定的な違いがあった。
認めたくないけど、考えたくもないけど。
幾度となく奴と戦ってきた俺には分かる。

(フリーダムは少なくとも……人を傷つけることに、快楽を感じてはいなかった!!!)

モビルスーツに、そして俺に銃口を向けるフリーダムは、躊躇いや戸惑い。
自分のしていることへの疑問、そして後悔。
そんな様々な感情をずっと抱いていて、俺は奴と戦っている最中に、そんな奴の想いをずっと
感じていた。
だから、だろうか?
アスランが「フリーダムは敵じゃない」と言った言葉を、今になってでも少しは信じてみようと
思えるようになったのは。

だが、目の前の女はどうだ!?
誰かを傷つけることに対して微塵の躊躇もしていないし、それによって罪悪感を覚えているようでもない。
むしろ嬉々として人々を蹂躙してるじゃないか!!
まるでそうすることが当然だとでも言わんばかりの態度。
人を人として認識していないかのようなバイザー越しの眼差しに、俺の全身の血が煮えたぎる。
俺は担いでいた人をまだ炎が届いていない手近な遮蔽物の後ろに寝かせると、未だ暴虐の限りを尽くす
女の元に向かって走り出した。
さっきの警官のことを、偉そうに言えないよな。
俺がどれだけ無謀なことをしようとしてるかは、俺が一番よく分かってる。
でも、もう止められなかった。
我慢できないほどに、俺は怒っていたんだ。


「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」


俺は女の元まで辿り着くと、腹の底から力一杯叫んだ。
そんな俺に女は一瞥することさえない。
だけど、俺の口から罵声が止むことはなかった。

「アンタっ!何でこんな酷いことが平気でできる!?傷ついて倒れていく人を見て、何とも
 思わないのかよ!?何でこんなことを、何で………!?」

そこまで叫んでようやく、女はチラリとこちらに視線を向けた。
さっき警官に向けたものと同じ、聞いているだけで億劫だと言わんばかりの態度。
一つ小さな溜息をついて、その銃口を俺の近くの地面に向ける。
全身が総毛立ち、すぐにその場を離れようとしたが、次の瞬間にはビームが撃ち込まれた。

爆炎が燃え盛り、その後にくる爆風が俺の体をまるで風船のように運び去る。
もはや瓦礫と化したコンクリートのビルの壁に叩きつけられ、砂糖菓子のようにボロボロに砕けた
アスファルト片の雨が、俺の体を容赦なく痛めつける。
そしてその中の大きな破片が、左足のふくらはぎを貫いた。

「グァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!???」

痛いっ!痛いぃ……!!
全身を強く打ちつけたせいで、息が上手くできない。
アスファルトの小さな破片が皮膚にめり込み、そこから内出血が起こる。
そしてふくらはぎに刺さったアスファルト片をなんとか引き抜き、ふと自分の両手を見た。

(これ……俺の血、か…………?)

俺の両手は、そして左足は大量の鮮血で真っ赤に染まっていた。
それに今気づいたが、背中からも同じように暖かな何かが流れていくのを感じる。
…………ああ、そういえば蘭さんと弾さんを庇った時にガラス片で背中を切ったっけ。
あの時は色々と我武者羅だったから気づかなかったけど、けっこう深く切ってたのかもな……。
俺は必死に体を起こして立ち上がろうと試みた。
でも失血による強烈な目まいとふらつきに襲われて、体ごと倒れてしまう。

(……はは、結局はこうなっちまうのか?誰も守れず、約束も守れず。無力なまま、
 ただ叫んで、喚くだけで………)

しかも今回は俺の命すら危ない。
あの時と同じ、いやあの時よりも状況は悪い。
俺はあの時と同じ、未だ無力な子供のままだった。
徐々に意識が遠のいていく。視界がぼやけて、霞んでいく。

(……やっぱり俺が辿り着く場所は、元の世界でもこの世界でも同じなのか?人々の嘆きと
 絶望が支配する火の海に呑まれた瓦礫の山。大切な人が傷ついていく、戦場………)

何が、今はこの平和な世界で休みたい、だ。
俺はさっきまでの自分を、ものすごく恥ずかしく感じた。
散々戦場の中でたくさんの命を奪ってきた俺が。
誰一人大切な人を守れなかった俺が。
人と同じ平和を享受しようだなんて恥知らずにも程がある。

視界がぼやけているはずなのに、鮮明にハッキリと見える逆巻く炎たちが、俺に
囁いているように感じた。
たとえどこに行こうが、お前の居場所はここなんだと。
お前は一生、ここから逃れることはできない運命なんだと。
体が徐々に冷たくなっていく。
全身が、まるで鉛のように重い。
俺はここで…………死ぬのか………………?






…………いやだ。






いやだ。いやだ!いやだ!!
たとえ俺は一生戦場から逃れられないのかもしれないとしても!
たとえ俺に平和の中で生きる権利がないんだとしても、だけど!!
俺は血で染まった手を握りしめ、歯を食いしばった。

(……生きたい)

それでも俺は誓ったんだ!!
マユに!ステラに!レイに!死んでいった全ての皆に!
生きるって!全てを守るって!必ず元の世界を、平和にしてみせるって!!

(生きたい!生きたい!!こんな所で死にたくない!死にたくないんだ!!
 だって俺は……まだ何も、成し遂げていないんだ!!!)

それに、足掻いてみろって言われたんだ!
厳さんが、五反田食堂の皆が教えてくれたんだ!!
叶えたいことがあるのなら、何に縋ってでも足掻いてみろって!!
思い出させてくれたんだ!
人の優しさが、思いやりが、あんなにも暖かいものなんだって!!

俺は、皆を守りたい!
ここは俺の世界じゃないけど、そんなこと関係ない!
蘭さんを!
弾さんを!
厳さんを!
蓮さんを!
この町の人たちを!
こんな理不尽な炎で、焼かせたくはない!!

(何か……、何かないのか!?この絶望的な状況を打開できる、何かは……!!)

無駄なんだって頭では分かっているのに、俺は倒れたまま首だけで周りを見回した。
そんなものあるはずがないんだって分かっていても、探さずにはいられなかった。
この地獄を明るく照らすことのできる、たった一筋の光を。
だけどやはりというか何も見つからず、俺の意識が限界に達しようとしたその時、
それは聞こえた。

いや、聞こえたというのは間違いかもしれない。
だけど俺には、誰かが俺を呼んでるように感じたんだ。

(どこだ………?)

俺は必死に意識を繋ぎとめて、その声のする方へ這いずりながら進んでいく。
左足の傷口に砂が入り込みさらに激痛を引き起こすが、唇を噛み締めることで
なんとか耐えて、さらに進む。
何分たったか分からないが、俺はようやく声が聞こえてくる場所へ辿り着いた。
これは………。

「倉持技研ってところの、車……………?」

何でこんな所から声が?
だけど今はそんなことどうでもいい。
未だ横転したままの車の後ろのコンテナ部に空いた穴から、何とか這いずって中に
入り込んだ。
コンテナの壁に手をつき、やっとの思いで立ち上がった俺の目に飛び込んできたのは……。


その体中に何本ものケーブルに繋がれて静かに佇む、人が搭乗する真ん中だけぽっかりと
歯抜けのように空いた何か。
不思議なことに車が横転しているにも関わらず、それだけはまるで一センチも動いて
いないかのように構えている。
そしてコンテナの中に投げ出された、なのに未だ機体に繋がったままのパソコンには
俺が見たことのない用語が、所狭しと踊っていた。
意味不明な単語が並ぶが、画面の一番下には一際大きな文字で「動作確認終了」と
出ている。
それは目の前のこれが、今すぐにでも起動できるということを意味していた。
こんなに車は滅茶苦茶になったのに、目の前の機体だけは傷一つつかずに俺の前にある。
まるで俺がここに来るのをずっと待っていたかのようだった。


そして、俺はこの機体を知っている。
これはこの状況を唯一何とかできるであろう、絶対的な『力』だ。

「これは……あの女が装着していたパワードスーツ……?」

いや、具体的には同じものじゃない。
あの女のスーツは全体的にシャープな感じで、色も吸い込まれるような蒼だったが。
これはどこまでも深く暗い黒をしていて、あの女の装着していたものよりも、無骨で
粗野な印象を受ける。
あの女のスーツが西洋の甲冑だとするなら、さしずめこのスーツは東洋のサムライが
着ていたっていう鎧みたいな重厚さを持っている。

だけど見た目の問題はこの際どうでもいい。
……感じる。これは『力』だ。
他の兵器とは比べ物にならないくらいの、圧倒的な『力』。
この状況を今切り開くことのできる、唯一の剣。
そして、分かる。
俺はこの『力』を扱える。
操縦の仕方なんて全然分からないけど、直感で理解する。
俺はこれを動かすことができると。

今、俺の目の前に『力』がある。
そして、俺はこの『力』を扱える。
この事態を収拾することができるであろう、今手に入れうる最強の『力』を。

だけど。
俺はその場から動けずにいた。
目の前にある『力』に、手を触れられずにいたんだ。
何故かって?
躊躇してしまったからだ、その『力』を手にすることに。
だって、目の前にズシンと鎮座するそれを見ていると、重苦しい声なき声で
こう言われているように感じるんだ。



―これが、お前のたった一つの生き方だ―って。

―お前はどこでどんな生き方を選ぼうが、この『力』から逃れることはできないんだ―って。

―お前は結局、ただの戦士なんだ―って。



……アスランが今の俺を見たらどう言うかな?
やっぱり「そんな力に縋るんじゃない!」って言うのかな?
でも、アスランだって分かってくれるさ。
この戦火から人々を守るために『力』を欲することを、責めはしないさ。
だってこの状況を、後ろから聞こえてくる爆撃と悲鳴を止めるには、他に手はないんだから。
そうだろ?アスラン………。

………もう、俺の心に迷いはなかった。
いや、迷いなんて初めからなかったのかもしれない。

俺は心のどこかで、もう諦めていたのかもしれないな。
戦いから、『力』から逃れて、平和な世界で過ごすってことを。

朦朧としていた意識がはっきりしてくる。
俺の足が、体が。
俺の意志で一歩、また一歩と『力』の元へと向かっていく。
さっきの警官のことを、本当に偉そうには言えないな。
だって俺はこの手を誰かの手を引っ張ることに使うより、引き金を引くことに使うことを
選んだんだから。でも……………。


「それでいい」


たとえこの手がどれだけ血で汚れても。
どんなに怪我をしたり、痛い思いをすることがあったとしても。


「俺のこの手で、誰かの命を守れるのなら」


ルナを、ミネルバの皆を。
弾さんを、蘭さんを、五反田家の皆を守れるのなら。


「血まみれにだって、傷だらけにだってなってやる」


たとえ俺が戦いから逃れられないんだとしても。
力の呪縛から、解き放たれることがないんだとしても。


「俺が戦うことで、誰かの笑顔を守れるのなら」


そのためなら俺がどんなに苦しい思いをしたっていい。
心が永遠に救われなくったっていい。
だがら………。


「力をくれ………」


全てを守る力を。
この世界の「今」を守る力を、俺に……。
その『力』の前までやっとの思いで近づいて、願う。
今の俺の、たった一つの願いを。


「俺に優しくしてくれた人たちを……。俺の大切な人たちを守る力を
 俺に、貸してくれ」


俺は意を決して、その黒光りする装甲に手を触れる。
すると手を触れた部分から閃光が発し、機体に繋がれていた何本ものケーブルが、
一本一本音を立てて外れていく。
機体の全身が光輝き、くすんだ黒色は鮮やかな漆黒へと変わっていった。






この『力』を手にした瞬間、俺は全てを理解した。
俺は結局どこにいたって戦うことしかできないんだってことを。
でも、やってやるさ。
だってもうこの世界は、俺にとって無関係じゃない。
俺はこの『力』と繋がることで、ようやくこの世界とも繋がることができたんだから。



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