アメリカ合衆国。
総人口は三億人を超え、政治・経済・スポーツ・芸能・ファッション等の
あらゆる分野にて世界をリードするこの国は、IS開発についても
最先端であり、保有するISの数も世界第一位を誇る。
そこの最大都市、摩天楼がひしめきそびえ立つ「眠らない町」。
その中のゆうに200mを超える高層ビルの最上階に、その男はいた。

時刻は既に深夜一時を過ぎている。
しかしその部屋を照らす明かりといえば、男の目の前に備え付けられた
大型モニターから発せられる光のみ。
だがしかし、男はそんな事は全く気にしていない。
今の彼の関心はただ一つ、眼前のモニターに映し出されている映像にのみ
向けられている。

高級チェアに腰掛けて、膝にはペルシャ猫を抱えて、優しく優しくその
毛並みを手櫛で梳いてやっている。
だがモニターを見つめる彼の表情は禍々しく歪んでおり、裂けんばかりに
つり上げられた口からは、涎が絶え間なく流れ出ている。


「フヒ………………、フヒヒヒヒヒィィィ…………………」


涎とともに下卑た笑いがその口から漏れ出す。
その笑いには彼の押さえきれない愉悦と、底の見えない悪感情が内包されていて。
モニターの中の傷だらけのISを纏った少年が苦痛に悶えて絶叫するたびに、
彼もまた絶叫の如き歓声を上げながら手をパチパチと叩いていた。


「ヒィーーーーーヒャヒャヒャァァァァァァァァァ!!!!!!!!!
 な、何度観てもたまらないぃぃぃぃ!!!!???
 奴の苦痛に満ちたその叫びが、これほどまでに甘美な調べだとはなぁぁ!!!
 おっ?そろそろクライマックスか?クライマックスなのかぁぁぁ………?」


男は哄笑を止めて、モニターを凝視する。まるで夏休みに映画を観に来た子供が、
その先の展開を固唾を飲んで見守るように。
そこでは黒髪の少年が溢れ出る炎の奔流に真正面から立ち向かい、それを食い止める。
しかし彼自身はそれにより全身血だるまになって、焼け焦げた焦土に、そこに広がる
血の海に、ドチャリと倒れ伏す。
その一部始終をまばたき一つせずに鑑賞していた男は、全身を震わせて歓喜に悶えた。


「ギャアーーーーーーーーーーーーーーハハハハハハハハハハハハハァァァァ!!!
 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


頭を激しく掻き毟り、足をまるで子供のようにバタつかせ、体をクネクネとくねらせる。
そのあまりの大仰な動きのせいでバランスを崩し、チェアに腰掛けたまま仰向けに
バタンと倒れてしまう。
ペルシャ猫も倒れる直前で男の膝から離脱し、安全な部屋の隅へと移動し、丸くなる。
でも彼は倒れたままの姿勢で床をゴロゴロと転がりながら、未だ燃えるような興奮に
その身を委ねていた。
と、かれこれ数分はそれを続けていた男は、ふとそんな自分を見下ろしながら
溜息を吐く一人の女性に気付く。
荒く乱れた息を整えながら、彼はその女性にニタァリといやらしく笑いかけた。


「………ああ、キレンか。いつの間に入ってきたのだ?
 というか、入るときはノックくらいしたらどうだ?
 社長室なのだぞ、ここは」

「黙ってくださいこの変態社長。こんな趣味の悪い映像見ながら子供みたいに
 みっともなくハシャギまくっている中年紳士に、一体どんな遠慮が
 いるというのでしょうか?
 というかノックは何度もしましたし、声かけも同様の回数しました。
 いくらこの部屋が完全防音だからといって、ノックさえも聞こえないくらいにボリュームを
 上げて観戦なんてする方が悪いのです。
 もし入ってきたのが私でなく他の者だったらどうするつもりだったのですか?
 仮にそうなった場合貴方の明日からのあだ名は…………」

「ええい分かったからその辺でやめろっ!!……全く、相変わらず主を主とも思っておらん。
 以前の私の部下ならばもっと…………ブツブツ」


顔をしかめながらむっくりと起き上がり、ブツブツと文句を垂れる男を呆れたように
見つめる「キレン」と呼ばれた女性は、その短く切り揃えられたショートの黒髪を
艶やかになびかせながらモニターを見やった。
そこに映し出されている凄惨な光景に、僅かに目を細めて、小さく溜息一つ。


「……正直私はこんな映像一分として見ていたくありませんが。
 貴方は本当に、彼が憎くて憎くて、仕方がないのですね」

「当たり前だろうキレン。その小僧はかつて私を一度『殺した』のだからな。
 ……本当はもう一人、私をまるでチェス盤の上の駒の如く扱い、踊らせるだけ
 踊らせて最後は体よく切り捨ててくれた男もいるのだが………。
 そいつは残念なことに既に他の者の手にかかってしまったからなぁ………。
 だからこそ私は、地獄を見せてくれたそいつにその分まで復讐をしてやらんと
 気が済まんのだよ…………。
 私が見たそれをも遥かに上回る『地獄』をなぁ………!!」


目を血走らせながら歯をむき出し、凄絶な笑みを浮かべる男を見て、
キレンは微かに恐怖を覚える。
男のことはある程度理解しているつもりだったが、未だその内に渦巻く
闇は底が見えない。
自分はひょっとしてとんでもない悪魔の元にいるのでは、そんな錯覚さえ覚えてしまう時が
あるが、しかしそれと同時に自分でもよく分からない高揚と興奮を覚えている自分にも
気付いていて。
その男の未知数の悪意は、何故だか分からないがまるで媚薬のように、彼女の
脳中枢に染み込んでいく。


「……しかし、今回のことで二つ、分からないことがあるのですが………。
 一つは、シン・アスカが爆発に巻き込まれた時に現れた、あの青色の少女……。
 どう見ても実際の人間ではありませんでしたが、仮に『傷痕』の武装だったと
 しても、私はISの武装にあのようなものがあるなんて知りませんでした。
 というか、『傷痕』にそんなものが積まれているなんて、私は聞いてません。
 一体あれは、何だったのですか?」

「……私もあんなものが『傷痕』に積まれていたなんて聞いていなかった。
 どんな効力があるのかも分からない。
 だが…………、あれを私の目を盗んで密かに実装した犯人の目星はついている。
 ………あの、ロリ巨乳めがぁぁぁぁぁぁぁ………!!!!!」


男は怨嗟の念を込めながら憎憎しげに唸り声を上げる。
キレンも詳しい事情は分からなかったが、男の『ロリ巨乳』という言葉で、
誰があのような異質な武装を積んだのか、見当をつけることができた。
なので男がまた憤りのあまり奇行に走る前に、さっさと次の質問に移る。


「……それについては、なるほど承知しました。
 でも、もう一つだけ分からないことがあります。
 ………貴方は彼、シン・アスカの継続的な苦難を願っていたはず。
 今回『ゴーレム:バージョン01』があのような自己進化を果たしたのは
 想定外でしたが、もしかしたら彼はゴーレムに敗れて、死んでいたかもしれなかった。
 なのに貴方は、どうしてそんなに喜んでいるのですか?
 たった一つの生きがいが、なくなってしまっていたかもしれないのに………」


それまで頭を抱えながら怒りに打ち震えていた男は、キレンのその言葉に目を
パチクリさせて、首を傾げてうーん、と唸る。
そしてたっぷり十秒ほどかけてから、男はまるで子供のような、とても爽やかな
笑顔で、言った。


「………私はね、キレン。結局のところシン・アスカが無様に惨めに、何より
 様々な苦痛に身悶えしながら、ゴミクズのように死んでくれれば、
 それだけでいいのだよ、それだけでねぇ……………。
 ……さて、辛気臭い話はこれくらいにして………。
 キレン、君は何か私に報告があって来たのだろう?
 そっちの用件を、さきに聞こうじゃないか?」


倒れたチェアを元に戻してそこにドッカと腰を下ろした男はキレンにそう促す。
男の笑顔に戦慄を覚えて止まっていたキレンはハッと我に返り、慌てて持っていた
ファイルを開けてパラパラと急いでめくる。
そしてコホンと咳払い一つ、報告を始める。


「デュノア社の社長ダニエル・デュノアが娘のシャルロット・デュノアを
 一週間後、正式にIS学園に入学させます。
 一応表向きにはその目的をシン・アスカのISデータ奪取としていますが……。
 いかがしましょう、シャルロットを利用すれば次の作戦も………」

「必要ない」


男はキレンの報告を途中でバッサリと切り捨てる。
キレンはそれに僅かに疑問を覚えて、訝しげに眉をひそめて尋ねる。


「……何故です?現在シャルロットのIS『ラファール・リヴァイヴ・カスタムII』は
 デュノア社のIS開発施設にて調整中です。
 私なら子飼いの技術者を連れて、アレを仕掛けることだって………」

「……『Dコア』は未だ未完成なことは知っているだろう?
 ゴーレムの一件では素晴らしい経験値を積ませることができたが、
 シャルロット・デュノアのような「ただ」優秀なパイロットのISに
 取り付けたとしても、大した成果は望めん。
 ……それに、あの苦労人の社長の決死の親心……、尊重してやるのが人情って
 ものだろう?……ヒヒヒィ……………」

「しかし……………………」

「キレン………。お前がシャルロット・デュノアに悪感情を持っているのは知っている。
 寛大で寛容な私は部下のそれまで束縛することはないが………、一応忠告は
 しておいてやろう。
 ……あんまり男に執着しすぎるのは考えものだぞぉぉぉ…………?」


男のネバネバした陰湿な言葉に一瞬目を見開いたキレンは、ギリッと
歯をかみ締める。
持っていたファイルをグシャッと握り締めて黙り込むキレンをニヤニヤと
見つめながら、男は机に置いてあった一枚の書類を手に取り、差し出す。


「それに、『Dコア』の次の実験体は既に決めてあるのだ………。
 ちょうどドイツから一人、そのシャルロットと同日にIS学園に転入する
 代表候補生がいると、情報が入ってきたのでなぁ」

「ドイツから………?この用紙は、経歴書………?って、この娘は、
 『シュヴァルツェ・ハーゼ』の…………!?」

「ああ、生まれた時から戦いの道具として様々な訓練を受けてきた戦闘のプロフェッショナル。
 当然熟達した男の軍人と比べるとその能力も精神も見劣りするだろうが………、
 この娘は遺伝子強化試験体にして、『越界の瞳』を持つ者。
 ……『Dコア』に戦闘経験値を積ませるには、まさに最適の人材だと思わんかね?
 ドイツ軍には色々と顔も利くし、奴のISも学園入学に向けての最終調整に入っている
 頃だろう。……『Dコア』を取り付けることなど造作もない………ヒヒヒヒヒィィ……」


男の言葉が一区切りしたところで、キレンは改めて書類に目を落とす。
……確かに各国の代表候補生はその時点では大した実力差がないのが普通だが、この娘は別だ。
それらを一段階上回る抜きん出た実力を有している。
それは幼い頃から軍人として厳しい訓練を受けてきただけでなく、『試験官ベビー』
としての通常を上回る身体能力と、何より『越界の瞳』の加護によるところが大きいのだが……。
しかし、確かにこの娘ならば『Dコア』の成長という点では素晴らしい成果を上げられるだろう。
だが、一つだけ懸念事項がある。
キレンは書類を読み終えて男が座る机にそれを戻してから、尋ねる。


「……しかしその娘のIS『黒い雨(シュヴァルツェア・レーゲン)』には、ドイツ軍が
 極秘に『VT(ヴァルキリー・トレース)』を実装しようとしていると聞いています。
 もう最終段階まで入っているであろうそれを中止させて『Dコア』を搭載することを、
 果たしてドイツ軍が了承するでしょうか?」

「……ふん、『VT』か……。そんなもの、私が自ら出向いて連中に説明してやるさ。
 この『Dコア』がより完成に近づけば、それを今同時並行で研究している
 『FT』や『JT』に転用することもできる。
 それらが『VT』などよりも遥かに優れているシステムであることは、いくら
 凡百の脳みそのドイツ軍上層部の連中でも理解できるだろうからなぁ…………」


クックッと陰鬱な笑いを漏らしながら男は再びキレンへと視線を向ける。
その瞳にはまるで新しいおもちゃを与えられた子供のような、しかしどす黒い
思惑を胎に溜め込んだ大人のような、不可思議な光がギラギラと宿っていた。


「ではキレン、お前は引き続きデュノア社に戻れ。
 ダニエル・デュノア、及びデュノア社の監視を怠るなよ。
 あそこも近いうちに私の物になるんだからなぁ………」

「………分かっています。ではキレン・デュノア、任務に戻ります。
 ……健やかに、『ミスターD』……」


軍人のようにピシッと敬礼して出て行くキレンを見つめながら、フゥ……と一息。
そして男はゆっくりとそこから立ち上がり、壁一面に貼り付けられたガラス窓から
どこまでも続くコンクリートジャングルを見下ろす。
そしてバッと両手を大きく広げて、嗤う。嗤い続ける。


「さぁ………第二幕の始まりだぁぁ………。次はどんなふうにもがく?足掻く?
 そして………苦しむ?
 前回以上に、私を楽しませるために、せいぜい派手に踊ってくれよ?
 なぁ………シン・アスカァァァァァ………………。
 ギャァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
 ハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!???????????」


男は感極まるとばかりに床に倒れ込み、先ほどと同じくそこを転がりながら、
机にドカンとぶつかってしまう。
それは、シャルロットがIS学園に入学する一週間前の出来事。
体をよじらせて尚も哄笑する男の横に、机から経歴書がハラリと落ちる。
そしてそこの氏名欄には「ラウラ・ボーデヴィッヒ」の名が記載されていた。

ゴーレム襲撃から一ヶ月半。
傷もまだ完全には癒えないシン・アスカに、新たなる脅威が迫ろうとしていた。
































……うん、これでよし。
篠ノ之が用意してくれたパジャマ類も、元々支給されていた日常用品も
バッグに詰めたし、制服にも着替えた。
………へっ、これに袖を通すのも久しぶりだな。

俺は一ヶ月間世話になった病室を綺麗に整えてから、心の中で礼を言って
頭を下げる。
……そういや、壁に備え付けられたナースコールだけは結局一回も使わなかったっけ。
看護師の人や篠ノ之に、「調子が悪いときはちゃんと使え」って散々注意されたっけか。

と、一人物思いに耽っていると、ふと後ろから柔らかい優しい声をかけられる。
その声は俺の大切な大恩人のもので、凛としたその響きは俺の胸にとても
心地良く響いてきて。
俺は自然と笑みを浮かべて、振り向いた。


「……それじゃあ、そろそろいい時間だし………。
 行くか、アスカ」

「……ああ、迎えに来てくれて、ありがとな篠ノ之」


俺と篠ノ之は一緒に病室を出て、施設の正面玄関へと向かう。
そこには俺の主治医の舛田ドクターと、俺が入院していた病棟の看護師の人たちが
数人、見送りに来ていてくれた。


「アスカ君、分かっているとは思いますが………。君の今の状態は決して楽観視できる
 ものじゃない。本来なら未だ入院していないといけないほどに君の体は
 弱っているんだということを、肝に命じていてください。
 織斑先生との約束どおり、一日一回は私の診察を受けに来ること。
 他の患者さんの順番を後回しにして、優先して診てあげますから。
 ……篠ノ之さん。アスカ君のこと、よろしく頼みましたよ。
 放っておくと、どんな無茶をするか分かったものではありませんから」

「ドクター、いくら俺でもこんな体で何か無茶をするなんて有り得ませんよ。
 自分の体のことは良く分かってますし、わざわざそんな忠告しなくとも………」

「分かりました。アスカが無茶をしそうになったら、私が全力で止めますので。
 それにドクターの診察をちゃんと受けるよう、私も目を光らせておきます」

「………………………………」


俺の言葉を途中で遮ってピシャリとそう言う篠ノ之に、思わず黙り込む。
そして少しブーたれてそっぽを向いてしまった俺を見て、皆が優しく笑い出した。
そんなとても穏やかな雰囲気の中俺と篠ノ之は医療施設を後にし、学園へと
続く並木道をゆっくりと、しかしSHRには間に合うように歩き続ける。

……あの戦いから一ヶ月半。
俺は何とか歩けるまでに傷を回復させ、今日の退院にこぎつけた。
とはいえドクターや篠ノ之からは散々止められたし、織斑先生からも
色々と条件をつけられてしまった。
……まあ、分かってはいるんだ。
俺が、どれだけ無茶なことを言ってるかってのはさ………。
だってさっきも言ったけど、自分の体のことなんだ。
どれだけ今ヤバい状態かってことくらい分かるさ。

………体がだるい、重い。
傷は塞がったはずなのに、節々が痛い。
…頭が痛い、耳鳴りがする、眩暈が頻繁に起こる。
……眠い。今までもそんなに眠れていなかったけど、最近はそれがさらに
酷くなってしまった。
……もう、夢の中で皆と笑って過ごした思い出は、皆が笑顔でいる思い出は、
全く見なくなった。
今までは、皆が死んでいく場面にいく前に、少しはそれまでの他愛ない日常の場面も
夢で見れていたんだけどな………。
………皆が、死んでいく場面。俺が、それを目の当たりにして情けなく泣き叫ぶ場面。
それだけを、毎晩毎晩、繰り返し繰り返し繰り返し…………。
三十分毎に起きるなんて、最近じゃあ当たり前になってしまった。
………俺の一日の実質の睡眠時間って、平均にしてどれくらいだろう?
多分、指二本分もないかもしれないなぁ………カハハハハ………。

……そして何より、たまに俺の脳みそに直接語りかけてくるように聞こえるようになった、
あの不快極まりない声。
俺の精神をズタズタにしていくその存在が、今も俺のすぐ傍で俺の体を虎視眈々と
狙っている、そう、感じる。


「……アスカ、大丈夫か?少しふらつきが激しいぞ?
 そこのベンチで少し休もう。
 授業には少しくらい遅れたって………」

「……ん、いや大丈夫だよ。今日は久しぶりの登校なんだし、遅れるわけには
 いかないしさ。
 それに、俺につき合わせてお前まで遅刻することないよ。
 さっさと先を急ごうぜ」


……どうやら気付かないうちにまたフラフラしていたらしい。
俺の体を優しく支えながら、篠ノ之が心配そうにそう言ってくれる。
俺を見つめる篠ノ之の瞳にはとても俺を労わる優しい光がある。
それ自体はとても嬉しいけれど、同時に心苦しくもある。
この一ヵ月半、他の皆もそうだけど、特に篠ノ之には苦労をかけっぱなしだった。
一番俺の看病をしてくれたのも篠ノ之だし、ドクターに頼み込んで一晩中病室で
俺の世話をしてくれたし。
……これじゃあ寮生活をしていた頃と、何も変わりがない。
………でも、やっと少しだけその恩を返せる機会を得たんだ。
でもそれを直接篠ノ之に聞くわけにはいかないし……。
とりあえず遠まわしに会話を進めながら、その話題を引き出していくとするか。


「そういえばちょっと聞いてなかったけど、さっきから篠ノ之、俺に何か
 話しかけてたよな?どんな話だったっけ?」

「ちょっとって、……病院を出てからずっと話をしていたんだが……。お前が昨日ドクターの
 許可も取らずに学園内をウロウロしていたことについて話していたんだ。
 まだ退院までの外出は誰かの付き添いがないと駄目だと言われていただろう?
 何故一人でそんな……私に言ってくれれば、付き合ったのに……」

「……リハビリのためだよ。どうせ退院日は翌日だったわけだし。
 それにいつもお前が俺に付き添ってくれていたし、お前も相当な負担だっただろう?
 だから一人で運動がてら、な。まあそのお蔭で面白い奴と出会えたし、あの試合を
 観戦に来ていた女の子たちの無事を、全員じゃないけど確認できたんだからな……
 …………クククク……………」

「私は負担になど感じないっ!!!」


うっ!?
な、何だ篠ノ之の奴、いきなり大声張り上げやがって………。
でも俺の服の裾をギュッと掴む篠ノ之の手は震えていて……。
何か自分が物凄く悪いことをしたように思えてくる。


「ご、ごめん篠ノ之。そんなに心配かけてたなんて、知らなくてさ……。
 いっ!?お、おい泣くなって!何でそんなに………ぐっ、グゥッ………!?」

「っ!?あ、アスカ大丈夫か!?……軽い頭痛みたいだけど……。
 すまない、お前に負担をかけるつもりじゃなかったんだ……。
 ……でも、頼むから今の状態で一人で無茶なことはしないでくれ。
 心配で心配で……胸が張り裂けそうだから………」


最後の方は蚊の鳴くようなか細い声だったが、俺には確かに聞こえていた。
………何で篠ノ之の奴、こんなに………。
そりゃあ、織斑先生からも篠ノ之が俺のことを心配してくれてるって
教えてもらったけど、こんなに、どうして………?
と、篠ノ之は目に溜まっていた涙を拭いて、俺を見つめてくる。


「そ、そう言えばお前さっき、『観戦に来ていた女の子の無事を確認できた』って
 言ってたけど…………。
 ………もしかして、お前があんなに早期の退院を希望した理由って、それなのか?」

「……まさか。ははは…………事前に織斑先生からも皆の無事は知らされてたのに、
 わざわざそのために退院する意味が分からないだろ」


俺は持ち前の爽やかなポーカーフェイスでそのピンチを鮮やかにかわす。
あ、危ねぇ〜〜〜〜〜。
いくら意識が少し飛んでたからって、俺の口ちょっと軽すぎないか?
こんな馬鹿らしくて恥ずかしいこと、篠ノ之に漏らしてしまうなんて………。

……俺は実は、今かなり気分が良い。
あくまでいつもと比較したら、だけど……。
昨日デュノアを総合受付に案内したとき、あの試合を観戦していた女の子たちの
無事を確認できた。
それは俺にとって、何よりも嬉しいことだったんだ。
だって俺は、そのために無理して早く退院したんだから。

病室で織斑先生たちから「怪我人は一人も出なかった」って、事前に言ってもらってたけど。
三ヶ月前、サイレント・ゼフィルスと戦って病室送りになった時に同じことを聞かされた
時よりも、俺の不安は何故か拭いきれなかった。
理由は自分でも分からない。
でも俺は織斑先生の言葉だけでは完全にそれを信じることができず、日に日にその
不安は高まっていった。
だってあれだけの大規模な戦闘だったんだ。
俺や凰が気付かなかった流れ弾が、観客席に向かっていたかもしれない。
……俺はまた、大切な人たちを守れなかったのかもしれない。
そう思ったら是が非でも自分の目で皆の無事を確かめたくなったんだ。
また、そうしなくてはならないという、脅迫観念にも囚われた。

まさか退院前にそれを知ることができるとは思わなかったけど……。
だからこそ本当に嬉しかったし、何よりホッとした。
胸のつっかえが取れた気がしたんだ。

でもこんな馬鹿らしいこと、誰かに言えたもんじゃない。
だって自分の中で勝手に疑心暗鬼に陥っただけだし、要は俺は織斑先生の
言葉すら信じられなかったってことだ。
それはとても申し訳なくて………。
それに何だかヤケに自分でも偽善っぽい考えや行動だと思うし……。
だからこそ俺はそれを誰にも言うつもりはなかったんだ。
篠ノ之にはバレそうになったけど、それも俺の卓越したスルースキルで
何とか回避したし。

と、何故か少し頬を赤くして優しく俺を見つめていた篠ノ之が、
俺の正面に回ってきて、少し顔を伏せた後、真剣な眼差しを向けてきた。


「……そういえば、アスカ聞いたか?私とお前の同室が、昨日をもって
 解除されたって……」

「ん………ああ。昨日織斑先生から聞いた。
 俺もビックリしたけどさ、突然だったよな本当に………。
 ……そういえばさ、俺は今日から一人で部屋を使うことになるらしいんだけど……。
 ………篠ノ之は?
 お前は次、誰と同室になるんだ?」


なんて、俺は一ヶ月以上前から同室解除について聞いていたし、篠ノ之の同室相手が
誰かっていうのも既に知っているのだが………、ここはもちろん黙っておく。
そんな恩着せがましい行為など、できるはずもないからな。
でも、やっぱり篠ノ之の口から、それについては聞いておきたかった。

織斑先生にそれを頼み込んだ時の反応からして俺の頼みはまず通ったものだと
確信してはいるが……。
よく考えたら特別な理由もないのに年頃の男女を同室にするのだろうかという
根本的な疑問も後から沸いてきて。
織斑先生も一応普通の教師なわけだし、そこは一線を越えないのではないかという
懸念も無きにしも非ずなわけで。
俺が一夏と篠ノ之の同室を頼んだときも、その口頭での返答は「検討する」
という実に無難なものだったし。
……数日前感謝の気持ちを抑えきれなくて篠ノ之にフライングであんなこと
言ってしまったのは間違いだったかなと、反省し始めている始末で。
と、篠ノ之は一拍だけ間を開けてから、俺の目を見据えて、続ける。


「………私の同室の相手は、一夏だ」

「お………おぉ、そうなのか?だったら良かったじゃないかよ篠ノ之!
 やっと念願が叶って一夏と同室になれたんだなぁ!
 良かった……本当に良かったぜ………!!」


自分でセッティングしたことであるにも関わらず、俺は感極まって篠ノ之の肩を
掴んで、ポンポンと叩いてやる。
織斑先生、俺の頼みを聞いてくれたんだな!
今までずっと篠ノ之には苦労をかけてたけど、ようやっとほんの少し、その恩を
返せた気がする。
俺の100%自己満足なんだけど、でもその自己満足もまんざら無駄って
訳でもなくて。
と、俺は顔を上げて篠ノ之の顔を見る。
きっと一夏と同室になって生活している場面を想像して、滅茶苦茶に赤面しているはず……
………………………あれ?


「…………篠ノ之?」


はしゃぎまくっていた俺は篠ノ之の表情を見て、止まった。
……何だ、その表情は?
その嬉しそうなんだけど、でも悲しそうな、その複雑怪奇な表情は?
混乱する俺を見つめながら、篠ノ之は静かに俺に語りかけてくる。


「……アスカ、お前はそれで良かったのか?
 私がいなくなって、お前の負担が増えることは、どう思ってるんだ?
 今だってとても辛いだろうことは分かっているつもりだ。
 …何でお前は、そんなに私と一夏の同室を喜べるんだ?
 ……お前の口から、それを聞いておきたかったんだ」

「どう思ってるって………良いに決まってるだろう。
 やっとお前が自分の恋を始められるんだぞ?
 嬉しいに決まってるじゃないかよ。
 俺のことなんて気にする必要なんかないよ。
 ……俺の体のことなんかより、お前の恋の方が大切だよ、俺はな」


ったく、何を当たり前のことを………。
散々俺のせいでお前の恋の足を引っ張ってきたんだぞ?
嬉しくないわけがないだろう。
篠ノ之はこの同室が俺が仕掛けたことだとは知らないからそんなことを
聞いてきたんだろうけど、答えなんて分かりきったことなんだよ。
俺にとっては自分のことより、お前のことの方が大事だってな。
と、そんなことを考えていると篠ノ之が顔を少しだけ伏せていることに気付く。
何故だか微妙に体を震わせていることにも気付いて。
どうしたんだろうと思っていると、篠ノ之は突然バッと顔を上げる。
その顔を見て、俺は再び、止まる。

篠ノ之のその表情……、微笑んではいるんだけど、それはとても優しい柔らかいもので。
俺が想像していたものとはちょっと違っていて。
それに、その慈愛に満ちた、聖母のようなそれは、何だか俺に対して向けられているような……って!
何を有り得ない勘違いをしてるんだシン・アスカ!?
な、何て恥ずかしい……!
妄想乙!妄想乙!!妄そ………。


「…………え?」


一人で悶々と頭を抱えていると、ふいに篠ノ之の肩に乗せていた右手に暖かい温もりを感じて、
ハッとして見やる。
と、俺の右手には篠ノ之の手が添えられていて、篠ノ之は少しだけ顔を赤くして目を伏せていて。
俺は反射的に篠ノ之の肩から手をのけようとするけど、篠ノ之の華奢な手がそれを許さない。
いつもの超力招来もそこにはなく、女の子のか弱い力で、キュッと俺の手を握ってきて。
そのあまりの想定外の自体にアタフタするだけの俺を他所に、篠ノ之は俺の右手を自分の
左頬まで持ってきて、おずおずとしながらもすり寄らせた。

な、何だ!?
何なんだこの展開は!?
恥ずかしい、顔から火が噴出しそうだ!?


「お、おい篠ノ之!?お前、一体何を考えて………」


でも篠ノ之は俺の言葉なんか関係ないとばかりに、俺の手をさらにギュッと握り締めて。
そしてほんの少しだけ目を開けて………。


「……全く、本当に、ズルいくらいに優しい男だな、お前は………」


そう優しい声色で呟いた篠ノ之としばらくの間見詰め合っていたが、そろそろ本気で
授業に遅れそうなので、俺も篠ノ之も慌てて駆け出す。
学園へ向かう間、俺は何だか妙に気恥ずかしくて篠ノ之と目を合わせることができなくて。
よそ見しながら走っていたら、フラフラと角から出てきた誰かとぶつかってしまった。



ドンッ!!



「っ!!!」

「うおっ!?あ、わ、悪い!大丈夫か、アンタ…………」


慌ててぶつかった相手に手を差し伸べるけど、その女の子はそんな俺の手にまるで
気付いた様子もなく、長い銀髪をゆらりと揺らしながら、ゆっくりと立ち上がる。
そしてほんの少しだけ振り向いたときに、俺と目が合った。

左目には大きな眼帯をつけて、唯一見えるその瞳は俺と同じ赤色で。
でもその目の下には、俺も最近鏡で良く見る、大きなクマができていて。
その瞳の奥には、ゆらゆらとおぼろげに揺れる光が見て取れて。
……「助けてくれ」と、その光が語っているように思えた。

……シャルロット・デュノアとラウラ・ボーデヴィッヒ。
俺の新たな大切な女の子たちとの新たな物語は、ここから始まったのだった。



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.