『フィーー、俺の人生で初めて味わう空気、旨ぇーーー!
 もしここが人間が米粒みたいに押し合いへし合いする都会のど真ん中だったらと思うと
 ゾッとするぜぇ。排気ガス臭くて敵わねぇだろうからなぁ』


両手を目一杯広げ胸を突き出し、大きく深呼吸しながら器用に鼻腔をヒクヒク開閉させている。
しばらくして満足したのか、次は両手足をプラプラと揺らしている。
その度に関節部からポキポキ小気味良い音が聞こえてくる。
それを聞いていた心の目尻がだらしなく下がってくる。


『カハハ、こりゃ相当に痩せ細ってやがるな。
 あんな無茶な加速続けてよく折れなかったなぁ奇跡だぜ。
 …っと、そういや無茶な加速といえば!
 元ご主人め道中散々ゲボ吐きやがって! 浴衣がグショグショだぜ!
 エンガチョエンガチョ! 臭っせーな、もうここで脱いじまうかぁ??』


言いながら既に浴衣に手をかけているシン。
自室で休んでいる間着ていたであろうそれの胸から下にかけて、確かに黄色っぽいシミが付着していた。
不快そうに顔を歪めながら胸元をはだけさせていたシンは、ふと自分の腹部へと視線を落とす。
そこにはさっきまで銀の福音のテールソードが突き刺さっていたため、大きな傷痕が開いている。
流血も止まっておらず、下半身と脚部パーツが紅く染まっていた。


『おお、やけに下半身が冷たいと思ったら。
 そういや痛覚を遮断したままだったか。どれ、ちょっくら解除して……と』


言うと同時にシンの顔から大量の汗が噴出し、体がカクカクと小刻みに震えだす。
目を剥いて傷口を見つめていたシンは、天を仰ぎ絶叫する。


『ぎ……ギィィィィィィィィィィィィヤァァァァァァァァァァーーーーーー!!!???
 い、痛ぇ、痛ぇよぉ………!!??
 こうして俺自身が実際の痛みを感じるのは初めてだもんなぁ……!!?
 傷口が、熱い……!! 意識が飛びそうだぁ……!!? でも……でも………!!』

「あ、アスカっ!? 大丈…………!」


体を仰け反らせたまま荒く息を吐くシン。
シンの豹変振りに固まっていた箒も血相を変えるが…、顔を俺たちへと戻した時、
そこには喜色に満ち溢れた満面の笑みがあって。
感極まるといった様子で叫んだ。


『気持っちいィ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!』


シンの口から出たのは快楽によって捻じ曲がった嬌声。
体をくねらせ恍惚とした表情を浮かべながら悶絶するシンを前に、俺たちはただ唖然とするしかない。
箒でさえシンに手を伸ばしたまま口をパクパクさせている。
そんな俺たちのことなどまるで気に止める様子もなく、ただひたすらに喘ぎ、涎を垂らすシン。


『ぐぅ……ヒヒヒヒヒ………。
 やはり自分自身で直接感じる痛みの味は格別だぁ……!
 全身に力がみなぎってくる……いや!
 俺という器から零れ出るほどの力の奔流!!
 今まで間接的に食ってきたそれとは訳が違う!!
 この調子でいけば俺という存在が完全なものへと到達するのもそう遠い話じゃねぇ……!』


先ほどまでとはうって変わった笑みを浮かべ、くつくつと声を漏らすシン。
その表情はもはや「邪悪」と形容できるほどだ。
何だ……? これが、本当にあのシンなのか……?
確かにシンが別人とも呼べるほどに感情を昂らせている場面は何度か見たことがある。
でも今回のはそれとは全く異質なものだ。
今のシンから感じられるのは絶望的なまでに暴力的な破壊衝動。そして底の見えない
ヘドロのような負の感情だけ。
いつもの優しさや子どもっぽさなど欠片も感じ取ることはできない。
…本当に別人なんじゃないか? そんな馬鹿な考えさえ頭をよぎってしまう。
と、ブシッという噴出音に視線を戻すと、未だ笑みを崩さずに腹部を押さえているシンの姿が。


『ぐふっ! チィ…確かにこの痛みは至極甘美なんだが、こうも出血が続けば
 先に俺がくたばっちまう。
 この傷……俺の今の保護機能では出血を止めることすらできねぇ。
 ちっと弱りすぎだぜこの貧弱ボディよぉ……。
 ならば俺の溜め込んだ力を最初に解放する事柄はこれにするか……。
 俺の保護機能の、自己進化………』


一人で何やら呟いていたシンの周りに再び赤黒く粘ついた炎が現れて、シンを包み込む。
実際に熱を帯びているわけではないのに、少し離れたここにいても変な汗が滴り落ちる。
誰もが皆その場から動けず、渦巻く炎が収まるのをただ待つことしかできない。
体感的には数分くらいに感じたけど、実際は十数秒しか経っていない。
ようやく纏わり付いていた炎が粒子となって虚空へと消え去り、俺たちはシンへと
視線を向けて、言葉を失う。

シンの浴衣が破れ露出していた腹部。
未だ鮮血で染まっているものの、そこにあった傷が、ない。
まるで腹部の肉が中央に引き寄せられたかのような痕があり、歪な形で塞がっていた。


『っ……ヒヒヒ……完治っと………ギヒヒヒヒ………!』


爛々と瞳を輝かせながら肩を震わせ笑うシン。
それを見て今まで感じていた名状し難い不安感・不信感が確信めいたものに変わった。
…今のシンは、何かが根本的におかしい。
アイツは危険だ、不味い、無意識の内に一歩後ずさるように後退する俺。
鈴も僅かに怯えたように身を強張らせる。
だがそんな空気の中勇気を振り絞りシンに駆け寄る姿があった。


「し、シンさんっ!!」































「し、シンさんっ!!」

『あぁ? …あぁ、テメェはあの時の色ガキ……』


さっきから不気味に笑うアスカに意を決したように声をかけたのはセシリアだ。
完全にタイミングを逃していた中アスカに話しかけてくれたことで、ようやく
私たちも体の硬直が解け、機体を動かすことができた。
だが心底心配しているように表情を曇らせているセシリアを見るアスカの目は冷たい。
まるで汚いものでも見るようなそれに、怯むセシリア。
何だ……? 何故アスカはあんな目でセシリアを睨むのだ?
今までアスカは一度も誰かに対してあんな視線は向けなかった。
しかもさっき、セシリアの事を色ガキって呼ばなかったか?
気のせいか…? この猛烈な違和感は……?


「は……い? い、色ガキ? あのシンさん、一体何を……?」

「旦那様、もう怪我は大丈夫なのかっ!? 
 ああ、寿命が縮むかと思った……。 良かった…本当に……!」

「けほっ、けほっ……。し、シン…何でこんな所まで来ちゃったのさ…?
 そんな体で、しかもまた大怪我しちゃって……。
 これじゃ立場があべこべだよ……。
 僕たちが出しゃばった意味がないじゃないか…。
 …でも、やっぱり嬉しかった。ありがとうね、シン……」


狼狽するセシリアの後ろから、今のやり取りに気付いていないシャルとラウラも声をかける。
シャルは未だラウラにお姫様抱っこされたまま、アスカに顔を向けている。
二人とも目尻に薄っすら涙が溜まっている……もちろん私もだが。
しかしそんなシャルたちに向けてアスカが放った言葉は…。


『チッ、何だよテメェらは。鬱陶しい女どもだなぁ』


一瞬で場の空気が凍りつく。
三人ともアスカに言われたことが理解できないようで、ただ呆然としていた。
私は慌ててアスカに話しかける。
私自身、信じられなかった。呆然としていたんだ。
あのアスカが、こんな酷いことを言うなんて。
きっと今のは何かの間違いだ。きっとさっきの大怪我のせいで気が立ってるだけなんだ。
ただ、それだけなんだ。
私が話しかければ、彼はきっといつものように優しく応えてくれる。


「あ、アスカ…。気が立ってるのは分かるが、セシリアたちもお前のことを心配してるのに
 その言い方はちょっと………」

『はぁ!? 別に気なんて立ってねぇーーよ何勝手に俺のこと分かってますみたいな
 言い方してんの!? 
 前々から思ってたけどテメェ他の女より万倍ウザイぜ!!?
 四六時中俺にベタベタベタベタ、寄生虫かよってんだ!!!』


思わず変な声が出る。
一瞬で目の前が真っ暗になる。
まるで脳が停止したかのように意識が混濁してくる。
私は今、アスカから否定されたのか……?
いつも優しかったあのアスカが、私の事をウザイと、寄生虫と……。
…私自身、ずっと気にはしていた。
もしかしたら私が献身的に尽くしていることが、アスカの重荷になっているんじゃないかと。
でもそれを相談した織斑先生からは明確に否定され、アスカは何も言わないけれど私への
感謝の念はひしひしと感じていた。

私は勝手に受け入れてもらえていると安心していた。
私はアスカに必要とされている、傍に居てもいいんだと。
だけど、それを全てひっくり返すような罵声を浴びせかけられて、足元から何かがガラガラと
崩れていくような錯覚を覚える。


「う……あ………あ、アスカ………。その……あ、えっと………」


頭の中はぐちゃぐちゃで、アスカに嫌われたくない一心で何か言おうと口を動かすけど、
舌が思うように回らなくて。
そんな私をアスカは胡乱な目で一瞥するだけで。
思わず泣き出しそうになったその時、後ろから鋭い声が響き渡った。


「おいシンっ!! お前さっきから聞いてれば随分酷いことばかり言いやがって、
 どういうつもりだよ!?
 箒たちはお前のことを心配してるだけなのに、どうしてそんな悪し様なことが言えるんだ!?」

「そうよシン! アンタさっきの大怪我のせいで頭おかしくなったの!?
 いつものアンタなら間違ってもあんな事言ったりしないはずでしょ!?
 一体どうしちゃったのよ!!?」


私とアスカの間に割り込んできた一夏と鈴は、それぞれアスカを厳しく咎める。
特に一夏は向けられる鋭い視線にまるで物怖じしていない。
一夏は昔からそうだった。自分がそれが間違っていると判断したら、例え親しい人間にさえ、
躊躇いなく食って掛かった。
それが相手のためでもあるし、そうしないと一夏の真っ直ぐな正義感は治まらなかったから。
そしてその行動、考えが多くの人間を魅了していたのだ。
その歯に衣着せぬ思いやりに溢れた苦言い、アスカもバツが悪そうに頭を掻いた。


『チッ、相変わらず面倒くせぇ野郎だなぁ。…仕方ねぇか。
 まあ、俺も少しはしゃぎ過ぎたからな。
 悪かった謝る……ほら、これでいいんだろ?
 もうさっさと帰ろうぜ、ターゲットは完全に沈黙。後はその女を国際警察だかに
 突き出せば終わりだかんなぁ』


心底面倒臭そうに肩をすくめるアスカに対し、一夏はまたしても真正面から非難する。
福音のパイロット、ナターシャ・ファイルスの意識は暴走時より完全に断たれていて、
福音が暴走したことに対する責任などありはしないのだから。
もちろん福音の専属パイロットとしてある程度の罰を受けることは有り得るが、
少なくとも警察に引き渡されるようなことはないはずだ。
しかしアスカはそうは思っていないようで、詰め寄る一夏を鬱陶しそうにあしらいつつ、
スラスターを噴かせ反転する。
そこで一夏は慌てたようにアスカを呼び止める。


「って、ちょっと待てよシン! こっちは片付いたけど千冬姉たちがまだ襲撃者と
 戦ってるんだぜ!? 俺たちも加勢に向かわないと……!」

『はぁぁ!!? テメェ正気で言ってんのか!?
 俺を含めてここにいる連中は先の戦闘で消耗しまくってるんだろうが!!
 俺達が今加勢したって足手まといになるだけだ!!
 そんなもん他の先公どもにやらせとけばいいんだよ!!』


そう吐き捨てたアスカの言葉に、私は違和感を覚える。
そうだ…この作戦には私たちの他に引率の先生方が三人、一緒に参加していた。
先生方はそれぞれ一人で持ち場の空域を封鎖していた。
だけど福音が一夏と私をターゲットとした時、それぞれがこちらへ向かっていたはず。
なのに何故戦闘が終わったにも関わらず、姿を見せない?
怪訝に思っていると突如オープンチャネルが開き、その先にいる早乙女先生が
沈痛な面持ちで話し始めた。


『…アスカ君、他の皆も聞いて。
 織斑先生と山田先生以外の先生方なんだけど……。
 そこの空域に到着する直前別の襲撃者と遭遇、交戦して…皆やられてしまったわ』

「なっ……………」


一夏は思わず息を呑む。
私たちも言葉を失い、立ち尽くす。
織斑先生たちを襲った以外に、まだ仲間がいた!?
予想もしていなかった事実を前にただ呆けることしかできない。
早乙女先生はさらに続ける。


『この事を言うと戦闘中の貴方達を動揺させかねないから伏せていたの…ごめんなさい。
 たった一機で現れた黒ずくめのISは先生方を散々に蹴散らした後、そこから「消えた」わ。
 現れた時と同じく、私たちの持つレーダーや索敵システムすらかいくぐるステルスで…。
 だからその黒いISが今どこにいるのか、私たちも分からないの』


一拍置いて出たその言葉に緊張が走る。
早乙女先生たちでも捉えられない敵が他の先生方を襲った後姿を消して、今どこに
いるかも分からない。
それはつまり、その敵は私たちに向かってきているかもしれないということ。


「じゃあ、その敵が千冬姉たちのところに向かっている可能性も……」

『…否定はできない。それどころか十分あるわ』


ギリッと噛み砕かんばかりに歯を食いしばる一夏。
その焦燥が痛いほど伝わってくる。
一夏にとって織斑先生はたった一人の家族。今も気が気でないだろう。
セシリアたちも心配そうに一夏を見ているが…。
早乙女先生の言葉は残酷なものだった。


『…一夏クン。貴方にとってこの言葉はとても受け入れがたいかもしれないけれど、
 貴方達はナターシャ・ファイルスを連れて帰還してほしいの』

「っ…………」

『アスカ君の言う通り、今の貴方達は戦闘を行える状態じゃないわ。
 それいナターシャ・ファイルスもシャルロットさんも、もちろん他の皆も
 精密な検査を受けてもらって、傷の手当もしないといけないわ。
 …織斑先生たちなら大丈夫。まだその襲撃者が先生たちのところに現れたという
 報告はないし、あの人が襲撃者如きに負けるはずがないわ。
 …お願い、ここは我慢して、一旦戻ってきてちょうだい…』


早乙女先生は申し訳なさそうに目を伏せるとチャネルを閉じる。
沈黙が流れる。
顔を下げたまま微動だにしない一夏を私たちはただ見つめるしかできない。
今、一夏は激しく葛藤しているのだろう。
先生たちを助けに行きたいという想いと、自分の腕の中にいる彼女を安全な場所に
連れて行かなければという想いの狭間で。
私たちにはどちらか片方のみを選ぶことができない。
二手に分かれるという選択も難しい。それでは戦力ダウンで加勢の意味がなくなる。
本当に足手まといになってしまうから。
結局自然と一夏の決断を待つ形となったが、場の空気を読まない無遠慮な大声が辺りに木霊した。


『おいお前ら、先公直々のお達しが出たんだ。さっさと旅館まで戻るぞ。
 俺ぁさっきから空腹感ってやつのせいで辛抱堪らねぇんだ。
 早くあったけぇ飯を食ってみてぇんだ』

「し……シン。でもほら…織斑先生たちのことも心配だし……。
 一夏の気持ちも考えて……」

『馬鹿かテメェは!? 先公の話聞いてなかったのか!?
 他の襲撃者が俺たちを狙ってるかもしれねぇのにここでいつまでもウジウジ悩んで
 留まっていろってか!?
 自殺願望全開の脳内花咲き乱れ状態かテメェは!?
 あの女傑なら俺らの助けなんぞなくてもどうにかなるだろうが!!
 チッ、もういい! 俺は一人でも勝手に帰るからなぁ!!?』


言っていることは理に適っているが、あまりにも一夏に対しての心無い言葉。
アスカにそんな事言ってほしくなくて、思わず口を挟もうと身を乗り出すが…。
それを遮るように、一夏が小さく呟いた。


「……………………分かった」

「一夏っ!!??」


鈴が驚いたように声を上げるが、一夏の表情に先ほどまでの感情の揺らぎはない。
それを押し殺したような低い声で続ける。


「俺達が今最優先しないといけないのは気絶したこの人の治療と、俺たち自身の
 身の安全の確保だ。シャルロットもISが強制解除されているし無理はできない。
 それに…傷ついたこの人を連れたまま、俺たち自身がボロボロのまま加勢に
 向かったら千冬姉に絶対怒られるだろうから…。
 だから、まずは一旦引いて、体勢を立て直そう」


微かに震える声で一言一言紡ぐ一夏に対し、私たちは何も言えなかった。
…ただ一人を除いては。


『よぉ〜〜しよしよし! ようやっと男らしく決断したなガキィ!
 そういう事だテメェら! ボサッとしてねぇでさっさとずらかるぜぇ!
 新鮮な海の幸が俺を呼んでるんだからなぁ!!』


満面の笑みで一夏の肩をバンバン叩き、もはや私たちには目もくれず一目散に飛び去るアスカ。
私たちはどうすればいいか分からずオロオロするばかりだったが、一夏が無言で
アスカに続くのを見て、私たちもその背中を追った。
































旅館への帰路の間、私たちは終始無言だった。
皆自分の姉の安否よりも皆の安全を優先した一夏に対し配慮してのことだったが。
ただ一人、アスカだけは空中で三回転ターンなどしながら、ご機嫌で鼻歌を歌っている。
しかし誰一人そんなアスカを咎めない。
一夏は少し俯いて機体を動かし、鈴はアスカを睨みながらも一夏の傍を離れない。
セシリアも、ラウラも、ラウラに抱きかかえられているシャルも、アスカをただ心配そうに
遠巻きに見つめる。
皆、言いたいことはあるが、今は何も言わない。
それはこれ以上今は言っても無駄と悟ったのと、普段の優しいぶっきらぼうなアスカを
皆知っているからなのだろう。
イナバウアーなどに興じながらさらに加速するアスカは、ふとスラスターの噴射を止める。
アスカの視線の先には、海上を進む小型船の姿が。


「なぜここに船舶が? この海域は未だ封鎖されているのに……」

「出て行くのが遅れたか、はたまた封鎖の命に従わなかった密漁船か…。
 いずれにしてもすぐにこの海域から出るよう警告しなくては。
 襲撃者が近くにいるかもしれない」

「では私が行ってきますわ。すぐに追いつきますから、皆さんは先に……」


そう言って海面へ向かって降下を始めたセシリアの前に立ち塞がる影が。
アスカだ。セシリアに背を向けたまま眼下の船舶から視線を外さない。
何だか不気味だ、嫌な予感しかしない。
と、地の底から這い出てきたばかりのような暗い声で、アスカが私たちに問いかける。
船舶からは決して顔を背けずに。


『よぉ……つまりあの船に乗ってるのは俺たちの勧告を無視した挙句、未だ
 蟹の密猟をしくさっている犯罪者集団ってことかぁ?』

「へ!? い、いえ蟹の密猟をしているかは…烏賊かもしれませんし……。
 そもそもの話密漁船かどうかも……」

『しかしよぉ。封鎖されているはずの海域に留まっているってことは、何か後ろめたい
 ことでもあるのかもしれねぇよなぁ?』

「えぅ!!? そ、それは……そうかも、しれませんが………」


しどろもどろにそういい澱むセシリアにほんの少しだけ顔を向けたアスカ。
そこに張り付いていた笑顔は今まで見たアスカのどの笑顔よりも、醜く禍々しいものに見えた。
極限まで口角をつり上げ、陰湿に嗤いながら、言った。


『じゃあ……、そんな犯罪者どもは、殺しちまっても構わねぇよなぁ?』


一瞬アスカの言っていることが理解できず、皆ポカンと口を開けるだけ。
しかしその間にアスカの右手にはビームライフルが収まっており、そこから放たれた
一筋の閃光が船舶より少し離れた海面に向かって撃ち込まれていた。
まるで嵐が来たかのように大波に晒され、まるで水面に落ちた葉っぱのように激しく
翻弄される船舶。
誰もがあまりの事に愕然とする中、いち早く復活した一夏が泡食った様子でアスカに詰め寄った。


「し、シンっ!!? お前、何て事を……船に当たったらどうするつもりなんだよ!!?」

『ヒャハハ! おい見ろよガキィ、あの小船に乗ってる奴ら、目を白黒させて右往左往
 してやがるぜ! こりゃ傑作だ、滑稽だぜ!
 よぅし、追撃としてもう一発、奴らの横っ面に……』

「シンっ!!!!!」


尚も船舶に銃口を向けるアスカに対し、とうとう一夏も堪忍袋の尾が切れたように、本気の
怒りを露にした。
今にも殴りかからんばかりの剣幕でアスカを一喝する。
もしナターシャを抱えていなければ本当に殴りつけていたかもしれない。
だがそんな一夏に臆する様子もなく、それどころか一夏のそれなど比較にならないほどの
鬼気迫る憤怒の表情で睨み返すアスカ。


『黙れぇ!!! あの脳筋漁師どもは犯罪者なんだろ!?
 だったらその時点で奴らに生きている価値なんてないだろうがぁ!!
 それに本当に沈めたりしねぇよ! 三、四発近くの海に撃ち込むだけだ!
 大波にちょっと揺らされるだけだ、死にゃしねぇだろ!?』

「お前、そんな馬鹿げた事本気で言ってるのかよ!!?
 なあ…言おう言おうと思ってたけど、やっぱりさっきからおかしいぜシン。
 いつものお前なら絶対にこんな事しなかった。
 なあ、どうしてこんな事するのか教えてくれよ。
 千冬姉も山田さんも心配だけど、今はお前のことが一番心配だよシン…」


その言葉には今のアスカの状態を不安に思う一夏の、真摯な思いが含まれていた。
私は改めて、一夏のことを凄いと思った。
私は…鈴を除いた私たちは、皆アスカが好きだ。
今までどんなことがあっても自分だけが傷ついて苦しんできたアスカを、私は精一杯
支えたいと思い、傍で看病してきた。
でも私は、私たちはアスカに尽くすだけで、アスカに厳しく注意をすることなんて、
一度たりともしたことがなかった。
まあ、アスカを好きになる前は私も結構竹刀で攻撃したりしていたが…。

本当はこういう時、一夏みたいに真剣に怒ってあげないといけないのだろう。
でも、それができない。
だって私たちは皆、怖いのだ。
もしそうやって注意して、アスカに嫌われてしまったら、と……。
私も、そう。さっき寄生虫だのと言われた上に本気でアスカに嫌われてしまったら、
きっと立ち直れない。
だけど一夏は、そんな私たちのことを察してか、自ら汚れ役を被ってくれた。
本当に凄いと思うし、尊敬できる事柄だ。

一夏の心からの言葉を正面から受けたアスカの表情から、怒りの色が消えていく。
私たちは一瞬アスカがいつもの平静を取り戻してくれたんじゃと仄かに期待した。
そんな確証などありはしないのに。
少し引け腰になりながらも近くにいたラウラが、ゆっくりとアスカに寄っていく。
もはや感情を一切失くした虚無をそこに張り付けるアスカを心配して。


「だ、旦那様? あの………………」

『…………………ぜぇ……………………』

「え?」

『ウッッッッッッッッゼェェェェェェェェェェェェェェ!!!!!!!!
 ウゼェウゼェウゼェウゼェウゼェウザすぎるんだよぉさっきからぁぁぁぁ!!!!!
 いつもいつもいつもいつもいつも百点満点の優等生発言ばかりしやがって
 狙ってんのかよテンプレ鈍感主人公がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
 せっかく俺様がテメェらのレベルに合わせて会話してやってんのに横からピーチク
 パーチク五月蝿いことを言いやがってぇぇぇぇぇ!!!!!
 こちとらやっと鬱陶しい殻から解き放たれんだもっと自由に飛びてぇんだよ
 遊びてぇんだよ好きにしてぇんだよぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!
 それを無理してご近所付き合いしてやってんのについには説教か!?SEKKYOUか!!?
 こいつはもう我慢できねぇ俺様はそれが何より嫌いなんだ!!
 しかも二十歳にも満たねぇガキにだと!!??
 何を偉そうに語っちゃってんだよヴァァァァァァァァァカじゃねぇのかぁ!!!!???』


能面のようなそこから溢れ出したのはあまりにも濃厚な憎悪。
それは目前の一夏のみならず、そこにいる私たち全員に向けられた明らかな負の感情。
さっきまでの比じゃない、純粋かつ厖大な悪意がそこにあった。
その剥き出しの激情を受けて一歩下がる一夏。しかしそれ以上下がることはできない。
アスカがその銃口をそのまま一夏に向けたからだ。
もう私は、目の前の光景が現実のものだと信じることができなくなっていた。


『チッ、「蒼い絆」の奴うんともすんともいわねぇ。
 俺様に使役されるのを拒んでやがるのか…まあいい。
 ひと段落ついたらすぐに外して新しいイカした紅い大剣をこしらえてやる。
 …まあ、胸糞悪いガキを葬るにゃぁ、これの威力で十分か』

「お、おいシン…本気か? 本気で俺を殺すつもりなのか?
 …いや、この際本気でも構わない。でも、このナターシャって人だけは
 安全な場所に連れて行かせてくれないか?
 鈴に預けるだけでもいいんだ。余計な巻き添えには遭わせたくないから…」

『だからその優等生ぶりがムカつくっつってんだよクソがぁ!!!
 前々から思ってたが俺様はテメェのその「正しさ」が気に食わねぇ!!
 まるでテメェのやること成すこと全てが善であるかのようで、自分が余計惨めになる!!!
 この世で絶対正義を掲げていいのは唯一大神一郎大尉だけなんだよぉ!!!
 ……なんてな、ギャハハハハ!! ビックリしたかぁ!?
 今のは元ご主人の劣等感を俺様が脚色、アレンジしたんだよくできてたろ!?
 俺様としてはテメェがただウゼェから黙らせてぇだけだ。
 てことで、死んでくれやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!』


もはやアスカの目に理性はなかった。
あるのは狂気に染まった、見たこともないほどに充血し紅くなった瞳のみ。
そうこうしているうちにアスカは引き金に指をかける。
側にいた鈴が一夏の前に出る。それを止めようとしてもみ合いになる一夏と鈴。
そんな危機的な状況であるにも関わらず、私たちは誰一人それを止めるよう動けないでいた。

私は……私はどうしたらいいんだ……?
アスカが今していることは考えるまでもなく間違っている。
でもそれを口にしてアスカにさらに嫌われたら……目も合わせてくれなくなったら…。
嫌だっ、嫌だっ!! 怖い、想像したくないっ! それだけは、絶対に……!
で、でもそうしたら一夏と鈴が危ない。アスカは本気だ、必ず引き金を引く……。
ああ………頭が痺れてきた……………。
寒気が止まらない……私は、どうするべきなのか……どうすることが正しいのか………。
私には………分からな……………。


― 箒ちゃん、これだけは覚えておいて ―


ふと、頭をよぎる間延びした声。
いつもの能天気な声とは違う、誠実な響きを孕んだその声が、脳内に鮮明に蘇る。


― 忘れないで、箒ちゃん。君が『夫』と定めた男性が誰かってことを。
  そして支えるっていうのは物理的なことじゃない。
  本当に相手を思いやって支えて寄り添うっていうのはね、
 『相手の心をそっと包み込んであげて、その苦しみを共有し、理解してあげる』
  ってことなんだよ ―


唯我独尊を貫き私を、家族をも巻き込み不幸のどん底へ突き落とした姉の言葉が、
何故か耳から離れない。
あの時初めて耳にした姉の真摯な言葉、篤実なそれが混乱の最中にあった心を落ち着かせてくれる。
同時に頭の中がクリアーになり、私本来の冷静な思考が戻ってくる。
さっきまでのグチャグチャな感情が整理され、今私がすべきことが明確に組み立てられていく。
だってアスカは私が定めた『夫』で、私はその『妻』なのだから。

そうだ……私は何を怯えていたのだ。
「アスカに嫌われる」という目先のことに囚われて…。
そうではないだろう篠ノ之箒!!
アスカは今悪いことをしているんだ! 何故こんな事をするのか、理由は分からない。
普段のアスカならば絶対にこのような非道な行いはしないと思う。
だが、今のこれは現実だ!
だったら私はそれをしようとするアスカを止めなくてはならない!!
アスカは私の『夫』! 『夫』を救うのは『妻』の役目なのだから!!!


― それさえ忘れなければ、君はその良妻賢母を完全に乗りこなすことができるはずさ。
  多分箒ちゃんはまだ、そこまでの感情には至っていないかもしれない。
  だからこそ、忘れないで。自分の苦しみを癒してもらって、逆に自分が相手の
  苦しみを癒してあげる。心の繋がりこそが、良妻賢母の最強の力だっていうことを。
  どうか、忘れないでね……… ―


……姉さん……。
もう私に迷いはなかった。
アスカに今嫌われるよりも、アスカが取り返しのつかない過ちを犯すことの方が私にとって何倍も辛い。
それをようやく、理解できた。こんな簡単なことに、気付けた。
今までアスカに献身的に尽くすことしか考えていなかった私にできる、精一杯の愛情表現。
私は一夏と鈴を押しのけ、アスカの前で両手を広げた。


「……やめろ、アスカ」

『……あぁ? テメェは悋気をこじらせた正妻気取りか。
 さっきまで子羊みたくブルブル震えていた女が、今更何の用だよ』

「アスカ、私はお前が何故そこまで暴力的に振舞うのか、そこまで非道な行いを平気で
 するのか、分からない。
 だがはっきり言う。お前のやっていることは間違っている。
 その銃を、今すぐ下ろすんだアスカ」

『………はぁ?』


アスカの額にビキビキと青筋が浮き出てくるのが分かる。
歯をむき出しにしてまるで親の敵でも見るような目で睨みつけられる。
でも、引かない。
そんなお前の顔を見たら尚更、引けはしない。


『ウゼェなぁテメェ。ずーーーーーーっと以前から思ってたぜ。
 俺様はテメェが大嫌いだった。
 どれだけ元ご主人がストレスを感じ、永遠に続く苦しみの中で悲鳴を上げようが
 テメェの存在がそれを癒しちまう!!!
 そこのブロンド女もそう! リアル宝塚女もそう!! イタい軍人女もそうだ!!!
 テメェらの存在が俺様の成長を妨げ!! 長らく深い心の奥底に俺様を幽閉させた!!!
 俺様はテメェらが憎い!! 殺してもまだ足りねぇ!! ぐっちゃぐちゃにしてやらねぇと
 気が収まらないんだよ分かってんのかぁーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!』


天をも震わすほどの咆哮。
アスカの……彼の本心からの吐露なのだろうか。
意味不明な部分もあったが、彼は私たちを嫌っている。あまつさえ憎んでいる。
それだけは、理解できた。
でも、今や「その程度」のことで引きはしない。
既に嫌われることは覚悟の上だ。
揺るがない。揺るぎはしない。


「だからといって誰彼構わず銃口を向けるのか!?
 気に入らない者は殺すのか!? それでは子どもの我侭と同じだ!!
 そんなくだらないことでお前の手を汚させはしない!!
 目を覚ませ、アスカ!!!」

『黙れぇ!!! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇ!!!!!!!
 俺様はもう誰にも指図は受けねぇ!! 誰のSEKKYOも受けねぇ!!!
 俺様はシン・アスカだ!! その俺様に意見する奴は殺す!! 有無を言わせず殺す!!!
 それでもテメェは、俺様の前に立ち塞がるのかぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!??』

「当たり前だ! 私はお前に過ちを犯させない!!
 私はお前が大切だから! お前のことが、好きだからっ!! 
 今までと違う、尽くすだけじゃない!!!
 寄り添って、支え合いたいから!! ずっとずっと、一緒にいたいから!!!
 だから、どかない!! お前から目を背けない!! 
 私の話を聞いてくれアス……『シン』!!!
 私の大好きな……『シン・アスカ』ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

『……………………………そうかよ。
 なら、死ねよ!!! 色に狂ったラブジャンキーがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!』


私の心の内を、その決意を全てぶつける。
でもシンは一瞬こそ目を見開いて止まったものの、怒りに我を忘れたように喚きながら
引き金にかけた指に力を込めた。
躊躇いなく私を撃ち抜こうとするシン。もう先の戦いでシールドエネルギーは残っていない。
絶対防御があるから死にはしないだろうが、ISは強制解除されるだろう。
しかし私は先ほどとは違い、目を閉じることはしなかった。

シン、私はどんな時でも、どんなことになってもお前を見つめ続ける。
そう、誓ったから。
莫大な熱が集中し、一瞬視界が白じむ。
私はほんの少し目を細め、襲い来るであろう衝撃に備えた。




ボンッ!!!!!




…でも、いつまで経っても衝撃はやってこない。
代わりにやってくる耳をつんざくほどの破裂音と鼻につく焼け焦げた匂い。
何故か嫌な予感がしてゆっくりと目を開ける。
シンの周りには黒煙が漂っていて、それが晴れると私たちと同じくきょとんと目を
しばたたかせるシンの姿が。
一体、今のは…………………っ!!!???


『……あぁ?? な、何だぁ今のは……? ……………………っ!?
 は? ……おぉ?? な、何だぁこりゃ……ぐ…………。
 お、おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!?????』


自分の左手を見て驚愕に打ち震え悶えるシン。
シンの左手……右手に構えられたライフルの銃口をしっかり掴み、そこから
黒煙が立ち昇っている。
発射直前にそこを掴んだせいで暴発した!?
よく見ると左手のアーマーははじけ飛び、剥き出しになった中指と親指が不自然に曲がっている。
手全体も赤黒く焼けただれている。
あぁ……こんな、どうして…………?


『ぐ、ううううううぅぅぅ!! ……ヒャハハ……。
 ギャーーーーーーーーーーーハハハハハハハハハハハハハハハハァ!!!!!!!
 そうか、そうかよ!! まだ性懲りもなく「残って」やがったのかよご主人サマよぉ!!??
 そうやって左腕だけ奪い返して、俺様を再び制御下に置くつもりかぁ!!??
 だが残念だなぁ!! 俺様も今ははっきり感じるぜぇ!!
 こうしている間にも吹けば消えてしまいそうなほどのか細い脈動を!!!
 しかも暴発をまともに受けて捻じ曲がった左手だけで何ができる!!??
 おら……こんな事をしても、止められるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!??』


またしても意味不明な嘲りを喚き散らしたシンは、歪な笑みを湛えたまま
銃口のひしゃげたライフルを放り捨て、代わりに刃渡り十cmほどのナイフを展開する。
その刃先に帯びたエネルギーを出力限界まで上げると、私に肉迫。
勢いを落とさずにそのままナイフを振り下ろした。

今度も目をしっかり見開いたまま、その光刃を凝視する。
すると直前まで私の体を正確に捉えていたそれが、何かがへし折れる音とともに視界から消え失せる。
私はシンに向き直って、言葉を失った。


『なぁ………? お、おいおい冗談じゃねぇぞぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!?????
 み、右腕がっ!? ちくしょうっ!! 俺様の、俺様の、体がっ!! 自由がっ!!!
 奪われるっ!!? コントロールがっ!!?? 
 このっ…死に損ないの自殺志願者がぁぁぁぁぁ!!!!!
 いつまで黄泉の淵にしがみつくつもりだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!???』


シンが痛がるのも無理はなかった。
シンの右腕は力が抜けたようにだらりと垂れ下がり、その手にあったナイフもするりと抜け落ちて、
大海へと消えていった。
明らかに折れている。でも、どうして………?
シンの体は確かにやせ細っていた。しかし今はISを装着しているのだぞ?
それなのに腕が折れるなんて……。

涎を撒き散らしながら髪を振り乱すシンは、しかしそれでも臆面もなく嗤い続ける。
腕が折れているのに、左腕も耐え難い苦痛のはずなのに…。
…でも、常軌を逸した光景であるはずなのに、私の心には一つの感情が膨れ上がっていた。

……悲しい。
いつもシンと一緒にいるときに感じているそれと同じ。
とても苦痛を感じているはずなのにそれを心の奥底にしまい込み、ただ笑ってみせてみるシンに抱く想い。
シンとずっと一緒にいて、何となく気付いた。
体の怪我からくる苦痛やストレスとは違う、ずっと異質の苦しみを無理やり押し殺しているのではと。
今のシンの姿は、何故かそれと被るのだ。
シンは今、悲鳴を上げている。誰にも気付かれないように、心の中だけで、泣いている。


『ヒ、ヒヒヒ……しかし元ご主人よぉ……。
 いくらテメェが頑張ったところで無意味だぜぇ……?
 忘れてないよなぁ、それが何であれ苦痛を感じれば俺様の力は上がる。
 テメェがいくら頑張って俺様を押さえ込もうが、この苦痛は全て………うっ!!?
 な、何だ左腕が………ごっ!!?
 が……て、テメェ……まさ、か…………っ!!!』

「なっ……お、おいシン!?」

「や、やめてくれ旦那様ぁ!!? そんなことしたら………!!」

「ちょっ……何やってんのよアンタ!? 死んじゃうわよ!?」

「シンさん、やめて下さい!! どうして、そんな……!?」

「シン……………………!」


皆突然のことに喫驚し、アスカの元へ駆け寄ってくる。
指が二本も折れ未だ激痛が続いているだろう左腕で、シンは自分の首を締め出した。
爪が食い込むほどに強く、呼吸ができなくなるほどに加減なく。
一夏たちはその手を外そうと引っ張るが、その細腕からは想像できないほどの力のせいで
引き剥がすことができない。
その間にもシンの顔は見る見る内に血の気が引き蒼白、紫色に変色していく。


『デ、デメェ………そう…………かよ………………。
 心中………する…………気………かよ……………。
 や、やっぱ……ゴホッ……テメェ………イカれて……やが、るぜ………』


かすれた声で呻くシンの声には明らかに動揺の色が含まれていた。
シン自身、必死に身をよじって左腕を離そうとしている。
でもその締め上げは一層強まるばかりだった。


( シン……………… )


お前、どうしてそんな事してるんだ?
お前はそれを、何よりも嫌っていたじゃないか?
誰かが傷つくのと同じくらい、自分が死ぬことを嫌っていたじゃないか?
どんな時でも生きようと……生きなければともがいていたじゃないか?
それを捻じ曲げねばならないほどののっぴきならないことが、起こっているのか?

ふと克明に浮かび上がる、シンの笑顔。
夜うなされて飛び起きた後すぐに浮かべる儚い笑顔。
それが苦しむシンの姿と重なった。


「シン………………」


気が付くと私は、シンの前にいた。
一夏たちはとても驚いたように私を見つめ、私とシンを囲むように距離を置いている。
でも、それはどうでもいい。
私はシンに、盲目的に尽くすことを止めた。
でもこうやって苦しんでいる時に寄り添っていること。
いつもの夜みたいに、苦しむお前の傍にいてやること。
それ自体は悪いことじゃない。それも一つの、『夫婦』の形だ。
ふと目の前に表示された画面に映し出される一文。




― 『唯一仕様の特殊能力:比翼連理の絆』 ―




これは………?さっきシンの態度が急変した時に現れたのと同じ……。
…いや、今はそれを気にしている場合じゃない。私はただ、ただシンを……。


「助けたい………」


そう呟くと同時、視界が淡い桜色で覆われ、意識が急速に遠のいていった。
































夢を見ていた。
シンと一緒に、夕食を作っている夢だ。
横にはシャルたちや一夏もいて、皆楽しそうに笑いながら作業している。
シンも悪戦苦闘しながらきゅうりを輪切りにして、とても充実したような顔つきだった。


「………ん………………うぅ………………?」


そんな心地良い幸せなまどろみに沈んでいると、不意に顔に何かが振りかかる。
とても優しい肌触り、それに何か甘い匂いもする。
ゆっくりと手を顔にもってゆき、貼りついていたそれを一枚摘んでみる。
薄っすら瞼を開けて、それを見る。


「……花びら……?」


それは陽光が透けてしまうほどに薄いピンク色の花びら。
桜の花びら……? 私は寝ぼけ眼をこすりながら体を起こす。
辺りを見回して、今自分がどこにいるかようよう理解する。
地平線の先まで続く花畑。色とりどりの花が咲き乱れ、風に揺れて楽しげに歌っている。
そんな温かい世界の真ん中で、私は倒れていた。

私は……あれ? どうしてこんな所に……?
思い出せない…何か、とても大事なことを忘れているような……?
それに、この花畑……桜がどこにもない。この花びら、桜に見えるんだが、見間違いだったか…?
クシクシ目をこすりながら首を捻っていると、突然後ろから声をかけられた。


『あ、起きたの? どう、気分は?
 初めて「比翼連理の絆」を使ったんだからかなり精神が疲労してるとは思うけど』

「っ!? 何者だ………あれ? だ、誰もいない……?」

『どこ見てるの? もっと下だよ下〜〜〜』


やけに可愛らしい声に促され、言われた通り下を向く。
そこに、妖しげな物体がちょこんと立っていた。
大きさは十五cmくらい、両手足とも指はなく、まるでぬいぐるみのようなフォルム。
髪は長い黒髪をポニーテールにしている。
女の子、なのだろうか?
しかしそれにしてはその……声に反して可愛くないというか…。
だって、全裸だし。胸やおへその所に×マークがついているし。
何より妙に憎たらしい顔をしている。
何だこの生物は? 見ているだけで無性にイライラしてくる……。
その生物は持っていた大量の花びらを横に下ろすと、テトテトこちらに歩いてきた。


『どう? モッピーの用意した花びらのお布団は?
 よく眠ってたから一杯かけて寒くないようにしてたんだよ。
 あ、その顔! モッピー知ってるよ。今貴女はモッピーに感謝してるんだってこと。
 それもマリアナ海溝よりも深く感謝してるんだってこと。
 そんなに喜んでもらえるとモッピーも嬉しくてぶげらっ!!!』


私は無意識のうちにピョンピョン飛び跳ねるその生物を蹴っ飛ばしていた。
何というか……この生物を見ていると気が立って仕方がない。
不思議だ、こんな気持ちになったことなんて一度もないのに。
と、ゴムボールのように数回リバウンドしながら地面に落下したその生物は、
体の至る所に包帯を巻いた状態で、杖をつきながらヨロヨロと戻ってきた。


『グフッ…酷いよ、いきなり蹴り飛ばすなんて……。
 モッピー知ってるよ。今のが理不尽な暴力だってことあああやめてやめて。
 足を大きく振り上げないで。モッピー流石に死んじゃうから』

「ん……ああすまん。お前がどうしても憎らしいものだからつい。
 すまないが私から少し離れてしゃべってくれないか。…いや、もっと遠く…よし。 
 それで、お前は一体何者で、ここは一体どこなのだ?」

『…モッピー知ってるよ。いつの間にかモッピーが悪者扱いされてるってこあああ 
 やめてやめて。クラウチングスタートのポーズを今すぐ止めて。
 この体じゃモッピー逃げられないから。すぐに距離詰められちゃうから』


私が体を起こしたのを確認すると、ようやくその生物は安心したように花をかき分け顔を出す。
そして杖を放り投げ、その場でクルクル回転し、終いに決めポーズをとって叫んだ。


『モッピーの名前はモッピーだよ。モッピーは「唯一仕様の特殊能力:比翼連理の絆」の
 ナビゲーターなの。そしてモッピーは知ってるよ。ここが箒ちゃんが『夫』と
 定めたシン・アスカ君の心の中だってこと』


モッピーと名乗った謎生物はいきなり訳の分からないことを口走った。
比翼連理の絆……? それに……アスカ………シン………シンの、心………?
まるでその言葉がトリガーであったかのように、一気に脳が覚醒する。
さっきまでの出来事が全速力で頭の中を駆け抜けていく。
そうだ、あの時シンを抱きしめて。そうしたら比翼連理の絆とかいう文言が浮かび上がって、
目の前が桜色になって……意識が遠のいて………。

訳が分からない。確かに私は、こんな花畑に来た記憶などない。
でも、これが、ここがシンの心の中?
そんな突拍子もないこと信じられるわけない……。


『モッピー知ってるよ。箒ちゃん今かなり混乱してるってこと。
 うんとね、分かりやすく説明すると、比翼連理の絆っていうのは、
 特定のIS搭乗者と箒ちゃんの「心」を繋げる能力のことなの。
 この「特定のIS搭乗者」っていうのは箒ちゃんが「夫」として
 想い定めた人物のこと…つまりシン・アスカ君だねこの場合。
 そのシン君が危機的状況に陥ってしまったからこの能力が発動したの。
 シン君の「心」を、救うために』


心を、繋げる?
そんな非現実なことを一体どうやって……。
それにシンが、危機的状況……!?
こうして心に関する能力が発動したということは、シンが精神的な危機にあるということなのか…!?
モッピーは一拍置くと、気持ちゆっくりめに話を続ける。


『ISにはコア・ネットワークがあるよね。
 それによって互いの情報を交換したり搭乗者同士が会話したりするわけだけど。
 それ以外にもISは「非限定情報共有(シェアリング)」っていうコア同士が
 自己進化の為に様々な情報を共有、吸収してるの。
 その時搭乗者同士の意識も、少しだけどリンクしてるの』


搭乗者同士が思考を共有していると……?
そんな話、聞いたこともない…。


『ISのコアにも意識があるの。コアは自分の進化の為に搭乗者の精神、つまり心と
 常にリンクして、その在り方を学習する。
 そしてそれに応じた最適な進化をしていくんだけど…。
 シェアリングを行う際、「搭乗者と精神を繋げたコア」は「相手のコアと
 自分を繋げ、それを共有する」。
 だから互いの搭乗者の精神もリンクしちゃうの。もちろん互いの搭乗者への
 負担もあるから最小限だけど』


し、しかし最小限なら今のような「完全な精神のリンク」は不可能じゃ……。
コアが搭乗者との精神のリンクを外している可能性もあるし……。


『外している可能性はないの。人間の心は物凄い勢いでうつろいでゆくの。
 一秒目を離しただけで劇的に変化して、それまで収集したデータが使い物に
 ならなくなる可能性もあるの。だから解除は有り得ないの。
 量産機は別だけど専用機の場合は待機形態の場合も常にリンクした状態で、
 何らかの事情で体から外さないといけない場合でも登録した搭乗者の精神
 パターンを遠隔で読み取ってるの。
 搭乗者同士の精神の完全リンクあ確かに普通じゃ無理なの。
 だけどそれが「リミテッド・シェアリング」、つまり限定されたISコア同士なら
 話は別なの』


限定、されたコア…………?
……! そうか…だから、『夫』……!


『そうなの、『夫』という特別な繋がりを持ったISとならより強くリンクできるの。
 シン君の場合はコアに変なノイズが走ってたけど、少ししたら止まったからリンクできたの。
 「リミテッド・シェアリング」時に搭乗者同士の精神リンクを何倍にも増幅させ、完全リンク。
 しかも搭乗者の精神をも完璧に保護する。これが「比翼連理の絆」の力なの』


そうか……今になって姉さんがあんな事を言った意味を理解する。
姉さんは言っていた、この『良妻賢母』には特別な能力があると。
それが、この「比翼連理の絆」。
特定のIS搭乗者同士の心を繋ぐ能力。
それによって、傷ついた心を癒す可能性を秘めている。
確かに『夫婦』をコンセプトにするこのISに相応しい能力というわけか…。
姉さん……。

そこまで言い切って、ヒョコヒョコと私の前を横切っていくモッピー。
奴の進む先をよく見ると、花の植わっていない細い道があり、それが延々と続いている。
モッピーは勢いよく跳ねてそこに来るよう促す。


『モッピー知ってるよ。箒ちゃんはもう大丈夫だってこと。
 じゃあ次はシン君の所へ行こう。…できるだけ早く』

「…モッピー? どうしてそんなに急いでるのだ?
 それは、私も早くシンの元に行きたいが……」

『…この風景を見るの、一面花畑なの。
 花畑は心象風景としては「死」を連想させるものなの。
 ほらよく臨死体験で花畑にいたっていうの聞くでしょ?
 シン君も同じ、おそらく彼は肉体以上に精神的に死にかけているの。
 この場所がその証拠なの。だから彼の存在に死が訪れてしまう前に
 見つけ出さないといけないの』


どっと冷汗が噴き出してくる。
シンが……死にかけている!? 私は改めて周囲の花畑を見回す。
と、私たちの遥か後方、目を細めないと分からないが何か赤いものがユラユラ揺れているのが分かる。
それは妙に不気味で、焦燥を加速させていく。
モッピーが鋭い?声で叫んだ。


『っ! モッピー知ってるよ! これってダイハード並のピンチだってこと!
 走って箒ちゃん! シン君の『心の闇』に呑み込まれちゃうの!!』


モッピーはそう言うと私を待たずにトタトタ走り出す。
私も慌ててそれに続く。
走りながら後ろを振り向く。今まで後方にあった赤いものがどんどんこっちへ向かってくる。
それは炎で、それが通り過ぎた後ろの花畑は見たことのない瓦礫の町に取って代わっていた。
こ、こんな非現実なことが起こるなんて……!?
これが、心の世界……。シンの、心の中………!!

私は全速力で駆け出した。
モッピーの後ろを追いかけてひたすらにってもう追いついた!?
モッピーお前遅すぎるだろう!? 
元々一頭身の体ゆえか歩幅も凄まじく短い。結果あっさり追いついてしまった。
しかし当の本人は汗を滝のように流して歯を食いしばりながら走っているから始末に負えない。
私はモッピーを拾い小脇に抱えたまま叫んだ。


「こっちで道は合っているのだろうなモッピー! というか後戻りはもうできないがっ!!」

『合ってるの! モッピーはナビゲーターなの! 
 「夫」の居場所を察知して案内するのが役目なの!
 でも予想外なの! シン君の持っている『闇』がここまで濃いなんて!
 まだ一番表層のはずなのに、アレに呑まれたら箒ちゃん帰ってこれなくなるの!
 最悪リンクを切り離すの!』

「なっ!? リンク中の搭乗者の精神は完璧に保護してるんじゃなかったのか!?
 私は帰らんぞ! シンがここより深いところにいるのなら絶対に探し出して
 連れ帰るのだから!!」

『それはあくまでリンクしたことによる弊害である精神の乱れをなくして、
 完全に同調させた状態を持続させるに過ぎないの! 
 搭乗者同士が接触した時の影響もある程度緩和されるけど、ここまで強烈なのは無理なの!
 その場合強制的にリンクを途絶させるのもモッピーの役目なの!
 でもそれは最後の手段! 今はひたすら道に沿って走るの!
 シン君は、この先にいるの!!』


シンがこの空間のどこかにいる!? ここはまだ表層のはずだろう!?
しかしどんな理由があれここにいるのならば好都合だ!
シンを見つけて、一緒に帰る!! 嫌がるならば首に縄つけても連れて行く!!

私はその一本道をひたすら走る。
なるべく後ろは見ないように全力で走り続ける。
と、その途中で花畑に場違いの光景を目にする。
それはどこかの食卓で、そこには夫婦と思しき男女とその子どもだろうか。
女の子が楽しげに笑っていた。


『足を止めちゃ駄目なの! あれはおそらくシン君の記憶の断片なの!
 部外者である箒ちゃんには触れないから気にせず進むの!』


モッピーに急かされて再び足を動かす。
後ろを見るとその暖かい団欒は迫り来た炎に巻かれ、跡形もなく焼失していた。
さらに進むと花畑に私より少し年上だろうか。可笑しな軍服を着て髪をオレンジ色に染めた
男性が立っていた。
悪戯っぽく笑うその男性の横を突っ切る。
彼も猛進する炎に呑まれ、消えていた。

今度はさっきと同じ類の軍服を着た一組の男女、そしてその二人の間には薄い金髪の
美少年が談笑していた。
顔立ちも髪の色もバラバラの三人だけど、多分家族なのだろう。
私は何故かそう思って先を急ぐ。
彼らも炎に巻かれ、灰燼に帰した。

ここが心の中だからだろうか。本気で走り続けているのに一向に疲れない。
弾丸のように駆けていると、花畑の中に一人の女の子が立っているのを見つける。


「あの娘は……あの時の……」


謎のISの襲撃時、シンを抱きしめて守った不思議な少女。
いつか夢で見た、シンが泣きながら湖に沈めていた少女と同じだ。
彼女はふんわり私に微笑みと、ゆっくり小道の先を指差し、その小さな口を動かした。


( もうすぐ……あの丘の所……シン、いる………。
  連れていってあげて……、シンを、優しくて、暖かい世界へ……… )


彼女が指し示す方へ急ぐ。
予感がしたから。シンにもうすぐ逢えると。モッピーももうすぐだと喚いているし、間違いないはず。
後ろを振り向く。彼女はほんの少し悲しそうに笑ったまま、炎に包まれて消えた。
その光景に胸を締め付けられながらも走り続け、ようやく開けた丘に出たのだが、そこで驚愕。


「っ!!? 何だこれは……!? 崖……しかも底が全く見えない……。
 しかもこの濃霧は何なのだ!? 先が全く見えない…!!」

『分からないの…。多分この先には表層の中心地、さっきの断片を見るにここはシン君の
 幸せの記憶……。この濃霧の先にその中枢たるものがあるはずなの。
 でも…多分何らかの理由で封印されてるの。それが何かは、知りようがないけど……』


封印されてるって、一体どうして……。
でもここで行き止まりなら、必ず近くにシンがいるはず……!
私は辺りを素早く見渡して、一際開けた場所にシンがうつ伏せで倒れているのに気付く。
急いでそこに駆け寄って、思わず息を呑んだ。

シンの体はいつか見た時と同じ、全ての傷口が開き、血が止め処なく流れていて。
そこにできた血溜まりの真ん中で、ボロ雑巾のように倒れていた。
地面に降ろしたモッピーは震えて、私の足にしがみついてくる。


『…酷いの。このシン君はシン君の心そのもの。
 モッピーはこのお仕事初めてだけど「心の傷」の重傷パターンは一通りインプット
 されてるから知ってるの。…でもこんなに酷い傷見たことないの。
 シン君は何でこの傷で生きていられるの? 普通ならとっくに自殺してても
 おかしくないの……!? 箒ちゃん………!?』


モッピーの言葉もそこそこに私はシンの傍まで行き、血溜まりの中に腰を下ろした。
迷いはなかった。なるべく優しく彼を揺り起こそうとして、気付く。
シンは気絶していない。まだちゃんと意識がある。
耳をすませば聞こえてくる。シンが、か細い声で何かを呟いているのを。


「……いち、か………しの、のの………みん、な………まも、る…………。
 あいつの……すき、に……させて……たま、る…………か………。
 しんで……たまるか………。で…も………おれ、が……みんな、を…………。
 だったら………しんだ、ほうが……………。おれは、おれは……………。
 ……………………みん、な……………………………」


いつの間にか頬を伝う涙に気付く。
……シン、お前…こんなになっても私たちのことを………。
自然と、私はシンの頭を優しく撫でていた。そして耳元まで顔を近づけて、声をかけた。


「シン……シン……? 聞こえるか? 聞こえたら起きてくれ、シン………」


少しの間、待つ。するとゆっくりではあるが瞼を開けたシンが、目だけを私に向ける。
そして驚いたように見開き、ゆっくりと姿勢を仰向けに変えた。


「し………篠ノ之………? お前、どうして……ここ、に………?」

「お前を迎えに来たんだ。全く散々心配かけて………。さあ帰るぞ、立てるか?」

「か、帰るって……無理、だろ……。アイツが、出てるんだ……。まだ完全にコントロールを
 奪っていない。俺が表に出る、なんて……………」


シンが言う「アイツ」とは誰のことか分からないが、少なくともシンはこのまま死ぬつもりは
ないようでひとまず安心した。
しかしシンが言う問題は私には全く心当たりがない。どうすればシンは私と一緒に帰ってくれる
のだろうか、唇を噛み締めて考えていると、ふと後ろから可愛らしいモッピーの声が聞こえてくる。


『モッピー知ってるよ。シン君の懸念事項は、もう解決済みだってこと。
 この「比翼連理の絆」の能力は精神リンクだけじゃないの。
 シン君があの不気味なノイズをかなり押さえ込んでくれたお蔭で、
 封じ込める事ができたの。
 だから、シン君は安心して箒ちゃんと帰ればいいの』

「え………? な、何だその人形は……? 問題が解決済みって、アイツはそう簡単には……。
 ……でも、そういえばアイツの気配を感じない……? どういう、ことだ……?」


シンとモッピーのやり取りは私には分からないことだらけだったが、言いくるめるならここしかなかった。
私はシンに顔を近づけて、懇願するように語り掛ける。


「シン、私にはモッピーの言う通りお前の問題が解決したかは分からない。
 でもここは危険なんだ。頼むからとりあえず現実に戻ってきてくれ。
 そうじゃないと、私は心配でどうしたらいいか分からない。
 お願いだシン、お願いだから……………」


正直、これでもなお帰ることを拒否されたらどうしようと内心怯えていたが、私の顔を
じっと見ていたシンは諦めたように、いつものような弱弱しい笑顔で頷いた。


「少し、待ってくれないか……? 『ここ』まで這い上がってくるのでもうヘトヘトでさ…。
 ちょっとだけ休ませてくれよ……。そしたら戻るから、さ…………」

「そうか……良かった。じゃあ起き上がれるようになるまで、私も傍にいよう。
 さあ、少しだけ体を起こせシン……」


私はシンに膝枕をして、頭を優しく撫で続ける。
迫ってきた炎もこの丘までは上がってこず、しばらくの間私たちは互いに見つめ合ったまま過ごした。
三分くらい経っただろうか、シンがポツリと呟いた。


「なぁ………」

「ん?」

「呼び方……変わったんだな。『アスカ』から『シン』に……」

「私なりの決意表明みたいなものだ。私の告白……聞いていないとは言わさんぞ?」


少し意地悪に笑ってみせると、シンは困ったように苦笑いした。
頬をポリポリ掻きながら、私から目を逸らす。


「もちろん聞いてた。そのお蔭で俺はここまで戻ってこれたんだから……。
 でも、いいのか俺なんかで……?
 俺はお前の名前呼んでないし……。俺の事、何にも話してないのに……」

「いいさ……。いつかお前が話してくれるまで、待つさ。
 もう「私のは」見せてしまったわけだし、吹っ切れたら何のことはない」

『っ! …気付いてたの? 箒ちゃん………』


横で私たちを見守っていたモッピーはビックリしたように私を見た。
もちろん、お前からこの「比翼連理の絆」について聞いたときに気付いていたさ。
搭乗者同士の心が繋がり、共有する。
つまり私がシンの心の断片を見たように、シンも私の心を覗いたことになる。
シンの心は闇が深くて頑なで、表層しか見る事はできなかったけど、きっと私の心は
全て見られたに違いない。
私はシンに、自分の全てを見られてしまった。
でも、この胸のつかえが取れたような感覚、悪くない。
むしろ知ってもらえてよかった。ありのままの私を……。


「篠ノ之………」

「今はそれでいい、でもいつか……。お前の心をさらけ出してくれたら、嬉しい。
 私はその時まで、お前の傍を離れないから……」


シンに向かって微笑んだその時、世界が急速に色を失い始めた。
慌ててモッピーを見ると、モッピーは初めて会った時と変わらない憎たらしい笑顔で
私たちを見ていた。そのモッピーも、姿が薄れてきている。


『大丈夫、シン君の目覚めが近い証なの。シン君は無事に帰れるの。
 箒ちゃんと別れるのは悲しいけど、きっとまた逢えるの!
 「夫」を「妻」が支え、互いが相手を思いやっている限り、きっと………。
 モッピー知ってるよ! モッピーはいつでも箒ちゃんを見守ってるってこと!
 モッピー知ってるよ! 箒ちゃんとシン君は、いつまでもラーブラーブできるってこと!』


花畑をはしゃぎながら駆け回るモッピーを見ながら、次第に意識が遠のいていく。
でも最初の時とは違う。
この手に愛しい人の温もりを、確かに感じているんだから……。































いつの間にか空が赤く染まりかけている。
ゆっくり目を開けると、意識を失う前と変わらず一夏たちが私たちを取り囲んでいる。
あれから……現実では時間がほとんど経っていないのか……?
でも、変わったこともある。私の腕の中で、いつもの優しい笑みを浮かべるシンの存在が。
さっきのシンは一体何だったんだろうか……。
でもそんな事を考える余裕もなくなる出来事が起こった。
頬を染めたシンが私から目を逸らし、ぶっきらぼうに言ったからだ。


「助けてくれて、ありがとな……。えっと…し………その……。ほ、箒………」


そう、どんなにお前と私との間に秘密と言う名の壁があったとしても。
少しずつ、こうやって、一枚一枚壊していけばいいだけだ。
歩くような速さでいいんだ。だってずっと私は、お前の傍にいるんだから。
いつか私とお前の間に壁が取り払われて、その先まで、ずっと。
シンを再び強く抱きしめながら、私の頬にさっきとは違う、暖かい涙が伝った。



































ひ、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ………。
あの、あのラブジャンキー……。
奴のあの能力……特定のISの稼動を阻害し、コアごと停止させる……封印するものだったのか……。
ぎ、ギヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ。今まで蓄えた力が、消えていく……。
こんな、あっさり………あれだけのお膳立てをしたのに…………。

ヒヒヒヒヒ………だがよぉご主人サマ………忘れちゃいけねぇぜ……………。
前にも言ったよな?
傷ってのは、肉体的なモンも精神的なモンも一緒だと。
一度塞がったと思ってもふとしたキッカケで開き、鮮血が噴出すと……。

俺様はテメェの奥底に再び幽閉されるが………ゆめゆめ忘れねぇことだ………。
テメェの体と心の傷は、全く塞がっちゃいねぇということを……。
どうせすぐに、また逢えるさ……。
なんせ俺は、テメェの……『傷痕』なんだからよぉ………………。

ギャーーーーーーーーーーーーーーーハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ 
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!



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