ざわ…ざわ……。
俺を取り囲むように集まっていた女子たちが互いに顔を見合わせ、ざわつき始める。
一夏たちも何事かと声をかけてきてくれるが、その声もどこか遠く聞こえる。
それが何かの間違いではなく現実なのだと認識した瞬間、思考がフリーズする。
俺を今まで支えていたものがフッと消え去ったかのような、そんな感覚。
空っぽになった頭にふと、いつか聞いた声が木霊する。


― もうすぐステラ、いなくなる……ここから…… ―

― アイツ、封印された。でもそれ、ステラも同じ。
  ステラと「アイツ」は、繋がっていたから…… ―


あの時はその言葉の深い意味を理解することなどできなかった。
でもまさか、ヴェスティージ自体が起動しなくなるだと? そんなことが……。
おい、ヴェスティージ……もう一人のクソったれな俺よ。
ステラ……ステラってば……。

首から下がっている貝殻のネックレスを手の平に乗せて見る。
ほんの数か月前にはあった光沢が消え失せたそれは、全体が黒ずんで、
一見生ごみにしか見えなくなっていた。
確かに徐々にくすみが出てきたなとは思っていたけど、いつの間にこんな
沈んだ色になってしまったんだっけ。
…全く思い出せない。そんなに急激に変色してしまったのか?
でもこのネックレスはヴェスティージの待機形態、そこらの精密機器よりも
遥かに繊細で、そのくせに滅多に不具合など起きないはずなのに。
……というか、これがいつ変色したのかすら思い出せない俺。
それに気が付かないほど、今まで慌ただしかったってことなのか…。

だが気を取り直し、再度黒ずんだ貝殻に向かって意識を集中させる。
いつものように、いやいつもより強く、強く念じる。
呼びかける……もう一度心の中で呼びかけてみる。
…反応は、やはりなかった。


「アスカ、何故展開しない? ヴェスティージがどうかしたのか?」

「……せ、先生……」

「! ……………………」


訝しげに俺の顔を覗き込んだ織斑先生はすぐに表情を険しくし、少し思案。
だがそれもほんの数秒のこと、山田さんに向き直る。
それを俺は、思考も追いつかず呆然と見ている。


「山田先生、すまないが授業の続きを頼みます」

「えっ!? あ、え、ええ……了解です。
 でも、一体どうしたっていうんです? アスカくんが……何か?」

「……アスカ、こっちへ来い」


言われるままおぼつかない足取りで、先生を追いピットへと向かう。
ネックレスを指に引っかけたまま、定まらない焦点をそのままにアリーナから
一旦退場する。
何もかも分からず、混乱したまま。































「さてと……アスカ」

「……………………」


困惑する皆の喧騒から逃れる為ピットに入り、中ほどまで進んで背を向けたまま
立ち止まった織斑先生。
腰に当てた手の人差指がトントンとリズミカルに動き、間もなく先生は体ごと反転。
まるで全てを見透しているかのような鋭い眼差しが俺を射抜く。
俺はそれに対しどう反応していいか分からず、ただそれに目線を合わせるだけ。


「どうしてヴェスティージを展開しなかった?
 さっきから何をそこまで動揺している?」


織斑先生は見抜いている……隠せない。
そもそも俺自身どうしてこうなったか理解できていないのだから、織斑先生の
意見を聞いてみた方がいいように思う。
そうだ、それが現時点で最善。
気付かない内に握り締めていたネックレスを差し出す。


「俺にも……分からないんです。
 いつものように念じても呼びかけてもヴェスティージが応えてくれなくて…」

「何……?」


織斑先生はネックレスを指で持ち上げしげしげと見つめて、眉を顰める。


「この貝殻…ここまで黒ずんでいたか?」

「あ、いや……以前はこんなんじゃなかったんですけど、いつの間にか…。
 確か…クラス対抗戦の時に飛び込んできたあのデカいのとやり合ってから、
 徐々にこの色になっていったような……」

「ISの待機形態が変色するなど聞いたこともないが……。
 しかしそれ以上にISが、しかも束がしつらえた専用機が搭乗者の呼びかけに反応しないとは。
 ………ふむ」


先生は口元に手を当て少し考えていたが、それもすぐに終わったのかつかつか歩き出す。
すれ違いざまに俺の腕を掴み引いてゆく。
女性とは思えない、人には抗いようもない腕力に呆然自失としていた俺が対抗できるはずもなく、
再びアリーナの中央、皆の前に連れ出されてしまう。
山田さんは何とか収まっていた場がまたざわめき始めた為、涙目になって
取り乱している。…とても心苦しい。


「お、織斑先生。話は終わったんですか……あ。
 どうもそんな様子では……わぅっ!?」

「先生、シンが一体どうしたというのですか?
 もしかしてまた体調が……」

「篠ノ之、それは後で話す。お前たちも、とりあえず落ち着け。
 ……アスカ、こっちへこい」


織斑先生は先立って歩き、顎でしゃくって俺を促す。
立ち止まり、振り返りながらこんこんと小突いてみせたのは……。


「こいつを、動かしてみろ」


アリーナのフィールドの真ん中に鎮座する黒塗りの巨人。
既にケーブルという名の鎖から解き放たれ、己を纏う主をただ黙して待つ。
訓練の為に用意してあった打鉄、俺にとってこの世界で初めて纏った
思い入れの強いISだ。
先生の有無を言わせぬ眼光に急かされ、小走りで打鉄の前に出る。

ふと周りの景色が一変する。
四方を金属の壁で囲まれ、ひしゃげた背後の壁の隙間から火の粉と粉塵が入り込み、
その中を紅く照らす。
その部屋の中の一番奥、戦場の業火さえ届かない闇の淵に、それは静かに
俺を待っていた。
初めて俺の剣となってくれた打鉄。こいつのお蔭で俺はヴェスティージを
手に入れるまでの間、戦ってこられた。
この打鉄があの時と同じ機体かは分からないが、妙に懐かしく感じた。
不思議だな、あの事件から半年ほどしか経ってないのに。


「シンっ」


横から呼びかけといっしょに肩に手を置かれて現実に引き戻される。
顔だけ振り向くとそこには一夏が。


「おい大丈夫かよ? 心ここにあらずって感じだったぞ。調子悪いんなら…」

「…別に、何ともないよ。サンキュー」


口元を緩ませてみせると一夏は躊躇いつつも肩から手をどける。
その心遣いに背を押され、ようよう打鉄の搭乗部に体を委ねる。
カシュカシュという装着音に空気が排気される音、ヴェスティージに乗り換え
一瞬で展開できるようになってからは、久しく耳にしなかった音だ。
試しに指を動かしてみる……うん。
腕を持ち上げてみる……これも大丈夫。
一歩、また一歩と整備されたグラウンドを歩いてみる。
柔らかい砂地を踏みしめ、ゆっくりと……いける。
心の中で念じる。物言わぬ鋼鉄の守護者に向かって、語り掛ける。


( 俺の声が聞こえるか打鉄? 飛んでくれ…『守る』為の力を、俺に…… )


ほんの数秒目を伏せていただけだったが、ゆっくり瞼を開けるとそこに皆の姿はなく。
見慣れた果てしない青空が広がっていた。
風に流されていく雲海を見下ろしながら、俺は安堵のあまり大きく息を吐いた。
その世界を十分堪能し、急降下。いつものように地上へと降り立つ。
織斑先生もその険しい表情を幾分和らげ、迎えてくれた。


「なるほど、他のISであれば問題なく動かせるのか。
 ならば原因はアスカにではなくヴェスティージにあるということか…」


先生は俺が打鉄から降りるのを確認し一つ頷く。
ネックレスをそのままスカートのポッケにしまうとサッと踵を返し、
そのまま出口の方へ歩いてゆく。
おろおろしていた山田さんは慌ててその背中に向かって声をかける。


「あ、あの織斑先生! 授業はどうするんですかっ!?」

「ん? 私は授業の続きを頼みますと言ったはずですか?
 アスカ、ヴェスティージはひとまず私が預かる。
 お前はそのまま授業を受けておくように」

「「 あ、分かりました……… 」」


俺と山田さんは声を揃えてそれだけ答える。
もしかしてヴェスティージの不具合について調べてくれるのだろうか?
でも以前も同じようにヴェスティージを調べてくれたけど、名前以外
分からなかったような…。
まあ何も分からずじまいの今よりはと思索に耽る俺の周りに皆が何が
あったのかと駆け寄ってくる。
そんな俺たちに「ちゃんと授業して〜」という山田さんの叫びが虚しくアリーナに
木霊したのだった。































「ほらシン、次は後ろを塗るぞ…。
 やはりよく見ると根本の方は白い部分がびっしりだな。
 これは念入りに塗らないと…」

「そこら辺は任せていいか? 後ろはどんなふうになってるかよく分からないし。
 でも頼んでおいてなんだけど、結構手馴れてるよな箒。
 髪染めたことあるのか?」

「私は染めたこと、これでも女なのでな。
 嗜み程度には心得ているぞ。
 ほら、もう少しだから動くな」


二人が入ると少し狭く感じる脱衣所に椅子を持ち込み、鏡を前にしての
髪染め作業。
箒は手馴れた様子で床に新聞紙を敷き、俺の首周りにタオルを巻く。
傍に時計も置いて手袋をはめて、ヘアクリップで髪を小分けにして手に
白髪用の染料の入ったボトルを持つ。
少しずつボトルに付いた櫛に広げ塗ってゆく。
毛先から順に、丁寧に。


「…なあ、ちょっとクリームの量、多くないか?」

「お前の髪は太い上に固いから、これくらいの量つけないと染まりにくいんだ。
 後は全体に広く塗って、と……」


箒の手際の良さは大したもので話している内に全部塗り終えてしまった。
あとは約十五分、十分に染まるのを待つだけ。
会話が止まる。
染まるまではここにいなくていいのに、箒は脱衣所から出ていこうとしない。
だがこのゆったりとした空気、俺は嫌いじゃない。


「なあシン、一つ聞いていいか?」

「ん? ああ……何?」

「今日の授業で…その、織斑先生と何か話していたみたいだから気になって。
 ヴェスティージに乗らず打鉄を動かしていたし…一体どういうことなんだ?」


少し返答に困る。
素直にヴェスティージのことを話していいものかどうかと。
箒は他言しないだろうし、そもそも今日あの場にいた皆なら察しているかもしれないけど。
…まあ、別にいいだろう。箒にはあまり隠し事したくないし。


「実は……ヴェスティージが展開できなくなってさ。
 織斑先生に相談したら他のISは起動できるか実践させられて。
 …まあ大丈夫だったんだけどさ」

「えっ…だってシンの専用機は姉さんの…あの人の特別製なのだろう?
 それが何故……?」

「さあな、俺自身心当たりはないよ。先生も調べるとは言ってくれたけど、期待は薄いだろうな。
 …まあいいんだ。ISは動かせるわけだし、俺は学園に残ることができる」


もし仮に打鉄にも…ISに乗ること自体できなくなったら、俺はそこらの有象無象の高校生に
早変わりなわけで。
もしそれが理由で学園から放り出されてしまったら正真正銘路頭に迷ってしまうわけだ。
未だ自分の置かれている立場がはっきり分かっていないのにそれは大いに困るから
本当に良かった。


「…………まさか……………」

「………箒?」

「えっ!? あ、ああその、何でもない。
 とにかく事情は分かった。私もそれに関して何か分からないか考えてみるとしよう」


……? いくらなんでも研究者でもなく学園での権限も持たない箒には無理なんじゃないか?
でも箒の顔、何か当てがあるようだし……。
と、そろそろ十五分経つ。
これ以上経つと髪が染まりすぎてしまうので、専用のシャンプーで頭を二回、徹底的に洗う。
洗髪くらい俺一人でできるんだけど、箒がやってくれるというので好意に甘える。
箒は俺の頭の痒いところを手探りでもみ洗いしながら丁寧に洗う。
とても気持ち良くて眠ってしまいそうになる。
箒、意外とテクニシャンだな。


「……だったら、この際前向きに考えてみたらどうだ?」

「前向きって?」


ワシャワシャと俺の髪を弄りながら箒の口にしたその声に、
間抜けに聞き返す。
俺のその反応がおかしかったのか、クスクス笑いを漏らしながら
泡の中で指をすべらせる。


「IS学園生としてはあるまじき発言かもしれないが、
 私たちにとっての翼、戦うための鎧が今、その羽を休めている。
 ならばそれを駆るお前もそれを機に休養を取ってもいいのではないかと思ってな。
 ただでさえ今まできちんと休めているという状況じゃなかったのだから」


休養……っていっても、こうやって普通に学園生活送れてるだけで
十分休養になってるんだけどな。
…考えたこともなかった。純粋に休むことなんて。
元の世界にも帰れない、自分の置かれた状況も分からない八方塞がりの状況で
全てを忘れて休むなんてできなかった。
けど……。


「…お前が何をそこまで焦っているのかは知らないが、
 時にはこうやってゆっくり話をしてみたり、遊んでみたりっていうのも
 悪くはないと思うぞ。
 シン、お前は頑張りすぎだ。少しくらい休んだって遊んだって誰も咎めないぞ」

「そうは言っても………」


箒は喋りながらも手を止めない。
シャンプーを丁寧に洗い流すとドライヤーで髪を乾かしてゆく。
指を櫛代わりに優しくとかしながら整えていく。


「ほら、いつものカッコいいシンの出来上がりだ。
 やっぱりお前はこの真っ黒髪じゃないとな」

「へっ、何だよそれ。でも、サンキュー。
 結構気にしてたから助かったよ、白髪」


まるで初老のじいさんみたいだったもんな。
気になってたからどうにかなって良かった。
箒に改めて頭を下げる。
何から何まで世話になっちまって、先生が言うには素直に感謝したらいいらしいけど…。
シャワールームを出て部屋のベッドに腰掛ける。
箒も隣のベッドに腰を下ろして俺と向かい合う。


「遊ぶっていってもな…。余暇の過ごし方なんてすっかり忘れちまったからな…」

「だったら、誰かと一緒に遊んでみるといいんじゃないか?
 まだ二時前だし時間は十分にあるからな」

「誰かって……一夏か? それとも箒、お前俺と一緒に遊んでくれるか?」

「それは素敵な誘いだが、あいにくもう少ししたら出なくてはならない。
 これでも一応剣道部員なのでな」


そういえばそうだった。
今まで俺のために部活もおざなりになっていたんだ。
これからはもっと自由に学園生活を味わってほしいもんな。


「分かった。暇そうな奴捕まえて誘ってみるよ」

「そうしてみろ。最近私とばかり一緒に居たから他の皆がむくれていたしな。
 お前がもっと普通に皆と交友関係を築いてくれたら私も嬉しい」


そう言ってはにかむ箒に頷き返し、部屋を後にする。
内心何をしたいかなど全く頭になく、途方に暮れながら。































俺は学生寮を出て噴水のある大広場のベンチに腰を下ろしていた。
誰かを誘って適当に遊ぶ。そんな事はまだ家族が生きている時分までしか
していなかったから、誘い方がまず分からない。
そもそも何をしたいか、ということすら思い浮かばない。
自分が何をしたいかすら把握していないのに自分から誘うというのは
難易度が高すぎる気がした。
というか、俺にとって誰かを遊びに誘うというのは戦闘よりも難しい気がする。


「どうしたもんかな…。夏休み前の半日授業だからな。
 皆それぞれ予定立ててるだろうし…」


少なくとも各々の部屋には皆いなかった。
セシリアも、シャルも、ラウラも、凰も、そして一夏も。
他のクラスメートは遊びに誘えるほど親しいわけじゃないし…。
早速八方塞がりの様相を呈してきたわけだが……。
おや、あそこにいるのは…一夏? 何か急いでるようだけど…。


「おい、一夏。そんなに急いでどこ行くんだよ?」

「シンか? あ、いや…例の医療施設に入院してるナターシャの見舞いにな」


ナターシャって、銀の福音の操縦者で記憶喪失だっていう…。
そういや一夏が記憶回復の為に協力してるんだっけ。
あの福音事件の後俺とシャル、そしてナターシャって人は仲良く入院して。
彼女の見舞いに俺も一度だけ行ったことがある。
まあ、すぐに病室から追い出されたんだけどな。


― い、イヤァァァァァァァァァァァァァ!!!!????
  悪魔が、紅い悪魔がぁぁ!!??
  イチカさん助けてっ!!
  ああぁ、助けてぇーーーーーーーーー!!!!??? ―


後から聞いた話だけど、ナターシャって人は自身のIS『銀の福音』を
我が子のように大切にしていたらしい。
そんなに大事にしていたISが突然暴走して、俺のせいでそれを破壊され、凍結され。
悪夢以外の何物でもないはずだ。
俺に対し無意識に恐怖しても仕方がないと思う。
でも、話ではちょくちょく見舞いに行ってるとは聞いてたけど、今日もか。
確か昨日も、一昨日も、その前の日も見舞いに行ってなかったか?


「精が出るな、その後どうなんだ? ナターシャって人の容体は?」

「…体調の方はもういいんだ。お前やシャルよりも軽傷だったし、
 今はもう松葉杖なしに普通に歩けるから。
 でも、やっぱり記憶の方は相変わらずでさ。
 時たま何かの拍子にフラッシュバックすることがあるみたいだけど、
 それ以外目立った改善は見られないな」

「そっか…あれから一か月は経つのにな。
 こればっかりは狙って回復するって類じゃないらしいから。
 心配だな」


一夏は俺よりも彼女を気にかけているらしい。
深刻そうに頷く様は一夏の本気の心配する心を感じた。
…ん? そういえば一夏の右手にある箱は…?


「なあ一夏、その手にあるシュークリームとかケーキとか買った時の
 箱みたいなのなんだ? ナターシャさんに持っていく見舞いの品か?」

「え? あ、そうだった! ナターシャの奴アイスクリームが食べたいって
 言い出してさ。色々こしらえてみたんだよ。
 一応保冷剤は入れてあるけどこの気温だと溶けちゃうかもしれない。
 シン、悪いけど俺もう行くよ!」

「あ、そ、そうか? なあ一夏、良かったらこの後遊びに……」


駆け足で去っていく一夏の背中に声をかけるが、どうやらボリュームが
足りてなかったらしく、一夏は気付くことなく行ってしまった。
どうせ今から見舞いだったのだから誘うだけ無駄だったんだろうけど、
自分の意気地のなさに嫌気が差すが、気を取り直して歩き出す。

いつか通った並木道から運動公園へ。
今まで体調が芳しくなかった俺にしてみれば縁遠い場所だったが、
これからはリハビリも兼ねてお世話になる機会も増えるかもしれない。
…ん? 医療施設の方向から歩いてくるあの人影は……シャル?


「よおシャル、どうしたんだよこんな所で?
 部屋にいなかったからさ。もし良かったら今から……ん?
 やけに調子悪そうだな、その袋処方された薬だろ?」

「え、シンっ!? あ、はは……。
 未だに点滴しながら授業受けてるシンに比べれば、何ともないよ何とも……。
 ただ、ちょっと……お腹の調子がね……痛た…」

「お、おい大丈夫か? お腹? 腹の調子が悪いのか?
 そういえば今日も大分しんどそうだったよな。
 いつからなんだよ、それ?」


シャルは何故か言いにくそうにそっぽを向く。
俺が怪訝に思っているのを察したのか、チラッっと俺を見ては目線を逸らすを
繰り返していたけど…。結局観念したのか、ポツリと話し出した。


「き、気を悪くしないでほしいんだけど…。
 ほら、昨日。セシリアの紅茶を飲ませてもらったでしょ?
 あれからしっかり休んだはずなんだけどなぁ…。
 おかしいよね? 腹痛が収まらないんだ……はは………」

「な、何……だって………!?」


俺はあまりの衝撃に言葉を失う。
昨日俺とシャルは同じ部屋で寝泊まりしたんだけど…。
その際シャルが用意してくれた紅茶のお礼にセシリアからもらった
最高級に美味な紅茶を御馳走したんだ。
何故かその紅茶傷んでいて、シャルは一口も飲めずに吐き出して気絶しちゃったんだけど。
まさか飲み込んでもいないのに腹痛だなんて……!?


「お、おいそれで診断はどうなったんだ!?
 悪いのか、ごめん…俺のせいで……!!」

「あ、そんなに酷くはないんだって! 
 えっと……ドクターによると感染性胃腸炎だろうって…」


……ウイルス?
あ、でもあの紅茶傷んでたから、そのせいか…。
でもそういう事なら、全て俺のせいってことじゃないか…。


「辛そうだな、多分今から部屋で休むんだろ?
 俺が看病するよ。こうなっちまったのは全部俺の所為なわけだし。
 肩貸そうか? 歩けるか?」

「えっ、シンが看病してくれるの!?
 嬉しい…ありがとう……。
 じ、じゃあ肩……お願いしようかな」

「おう、さあ腕回せ。薬の入った袋は俺が持つよ」


俺とシャルはゆっくり寮へと歩いてゆく。
横目で見るとシャルの顔色は本当に悪い。
昨日見たのと同じ、深い緑色をしている。
改めて自分の業の深さを理解する、が……。
あの紅茶、あの後俺が飲み干したけど、特に異常ないんだけどなぁ……ん?
何だ、この音? 雷? でも空は快晴そのもの……。


「し、シン……。あのね、シンっ!」

「お、おう? どうしたんだよシャ……ル……?」


シャルの顔はさっきよりも冷や汗まみれで、心なしか体もプルプル震えてるような。
そもそもこの音……シャルの腹から聞こえてくるような…。


「え……と………シャル?」

「ご、ごめんね………シン。
 その……その、ね? ……………トイレ」

「な、何!? おいちょっと待てシャル! この辺りトイレが…!
 シャル………シャルローーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」





       ・




       ・




       ・




       ・




       ・





「ご、ごめんねシン。急がせちゃって……。
 シンだってまだ体力戻ってないのに……」

「かひゅー……かひゅー…………い、いや……げほっ。
 シャルこそ、その……漏れなくて良かったよ。
 よりによって……大だなんて」

「わ、わーーーーーっ!! わーーーーーーーっ!!!
 それ以上言わないでよーーーーーっ!!?」


シャルにポカポカ殴られて「女心が分かってない」とお叱りを受けた。
それを俺に期待するのは酷だと思うけど…言わないでおこう。
あの後何とかシャルをお姫様抱っこして何とか寮のトイレに駆け込むことに成功した。
シャルによれば下着も汚れてなかったらしいし、間一髪だったのだろう。
代わりに俺の体力は死に体になってしまったが…元々俺の所為でシャルは
こうなったんだから自業自得だろう。
今はシャルの部屋で、シャルはベッドで横になり、俺はその傍についている。
と、ぼんやり俺の方を見ていたシャルは、何か思い出したように口を開く。


「そういえばシンさぁ……さっき運動公園で僕に何か言おうと
 してたよね? 一体何だったの?」

「ん? あ、いや特に急ぐ用事でもなかったから大丈夫だよ」

「え〜? 余計に気になっちゃうよ。
 急ぐ用事じゃないんだったら教えてくれても問題ないでしょ?」

「あ、ああ……実は………」


シャルに言われるまま黙っておく理由も見つからず、箒との会話を
要点だけかいつまんで聞かせる。
するとシャルの表情がみるみる強張っていく。
…というか、怒ってる?


「…もーうっ! どうしてそういう大事な事を言わないかなシンはっ!
 せっかく箒がシンが楽しく遊べるようにアドバイスしてくれたんでしょっ!
 駄目だよ僕の看病で時間を費やすなんてっ。
 ほら、僕さっきのトイレでお腹の調子よくなったしお薬も飲んだから
 心配ないよ。誰か遊べる相手を探しに行きなよ」

「だ、駄目だよそんな事!
 さっきも言ったけどそもそもシャルがそんなになったのは
 俺の所為なんだぜ?
 それを放って遊びにいくなんて、とてもっ!」

「その気持ちは僕も嬉しいよ? でも僕も箒に同意だよ。
 シンは今まで一杯頑張ってたんだからちゃんとお休みの日や
 夏休みは遊ぶべきだよ。
 その第一歩が今日だって言うのならここにいるべきではないと僕は思うよ。
 シンが誰かと楽しく遊んでくれたほうが、僕も嬉しいし」

「そ、そうは言っても……」


なんて言ってる内にドンドンと入り口のドアが叩かれる音がする。
シャルが起き上がろうとするけど俺はそれを静止して入り口へ向かう。
少し間があってもう一度扉を叩く音がする。
俺は覗き窓から外を見る。


( ………セシリア? )


俺は鍵を外し、扉を開ける。
セシリアは俺の姿を確認した瞬間、目を丸くした。


「シャルロットさん、ごきげんよう。
 この前お借りしていた小説をお返しに……ってあら!?
 し、シンさん!? 何故貴方がここに!?」

「あ、それは」

「ち、ちょっとお待ちになって!?
 シャルロットさんもいらっしゃるじゃありませんか!
 まさか、二人で秘密の逢瀬を楽しんでらっしゃったとか…?
 そ、そんな…抜け駆けは禁止と、取決めがあったはずですのに…。
 シャルロットさん……恐ろしい娘っ!」

「ちょっと落ち着きなってセシリア。
 シンもそんなオロオロしないで。
 事情を説明するからとにかく入って」


いつの間にかベッドから抜け出していたシャルに促され、
俺とセシリアはシャルの隣のベッドに腰掛けた。
事情はシャルが説明してくれて、セシリアは途端に申し訳なさそうな顔になった。


「えっと…つまりシャルロットさんが腹痛を起こしたのは、私の紅茶が
 原因だったと? そ、そんな…まさか他人に危害を加えてしまうなんて…。
 申し訳ありません、シャルロットさん。私、そんなつもりは毛頭も…」

「い、いやセシリア! あれは俺の保存方法が悪かったから傷んでいたんだって!
 お前の紅茶が元から悪かったわけじゃ…」

「……でも、私の紅茶、ちゃんと冷蔵庫で冷やしてらっしゃったんですよね?」

「………………………」


返す言葉も見つからない。
と、パンパンと手を叩く音が聞こえそちらを向くと、シャルが苦笑
しながら俺たちを見つめていた。


「別に僕は大丈夫だよセシリア。
 シンだって好意から僕に紅茶を飲ませてくれたんだから。
 それに胃腸炎になったのは僕の胃腸が弱いからだよ。
 でも……シン。これで大丈夫だよね?」


え? 大丈夫って何が……。
首を捻る俺に対し、満面の笑みを俺を向けるシャル。


「僕の看病はセシリアがしてくれるから。
 シンは安心して遊んできなよ。それなら安心でしょ?」

「え、ちょっとそんないきなり……。
 それにセシリアだって急にシャルの看病しろなんて言われても
 困るだろう?」

「あら、私は構いませんわよ? 特に予定もありませんし。
 シャルさんがこうなった原因は私にもあるのですから」

「だそうだよ、シン」


そう言われてしまえば、もう何も言えなかった。
すごすご部屋から退散する俺に向かって「頑張って」と
声をかけた後は、セシリアとお気に入りの小説について
話に花を咲かせるシャル。
調子も良さそうだし、これなら大丈夫かなと無理やり納得し、部屋を出た。

廊下を歩いている最中、特に誰とも出会わなかった。
やはり夏休み前の最後の土曜日だ。
皆遊ぶのに必死なのかもしれない。
こりゃ相手を見つけるのは難しいかなと思い始めた矢先だった。
寮を出たところで鉢合わせしたのは……。


「あ、ラウラじゃないか。どうしたんだよ、そんな急いで」

「旦那様? ああ、実は今から部活の体験入部をしてみようと思ってな」

「体験入部?」


藪から棒に、そりゃまた一体どういった心境の変化だ?
今まで帰宅部だったラウラが何でまた?
でもラウラ、やけにウキウキしてるな。そんなに楽しみなのか?


「ほら、昨日旦那様に何か部活した方がいいのかと聞いたじゃないか?
 それを聞いていたクラスの女子共が私に体験入部してみないかと
 誘ってくれたんだ。まあ、旦那様が勧めてくれた体育会系の部活ではないが。
 茶道……日本の伝統文化らしいが、それに誘われたのだ。
 私もそんな異文化に触れたことはないから楽しみでな。
 今から待ち合わせ場所に行くところなんだ」


そういえば、昨日帰りのHRが終わった後、そんな話をしたっけか。
まさか昨日の今日で行動に移すとは、中々にアクティブだよな。
……しかし、この笑顔……。
とてもじゃないけど、遊びに行こうなんて、言えないよな…。


「それで、旦那様は私に何か用でもあったのか?
 さっき私に何か言いたそうにしていたけど…」

「……いや? やけに上機嫌にスキップしてるラウラを
 見つけたから、気になって声をかけただけだよ。
 待ち合わせる相手がいるんだろ? 早く行ってやれよ」

「ああ、そうだった。結構時間ギリギリになっていた。
 じゃあな旦那様。夕食は一緒に食べられるだろうから、また
 声をかけるから!」

「おう、楽しんでこいよ」


ラウラは大きく手を振って駆け出していった。
その足取りはフワフワと浮き立った様子で、多分ラウラは部活なんて
今までしたことなかったのかもしれない。
見えなくなるまでその後ろ姿を見送って、当てもなくまた歩き出す。

いよいよ手詰まりかもしれない。
これだけ歩き回って相手が見つからないとなると…。
いっそのこと、一人でアリーナでも行って特訓でもしてみるか。
しかしそれを箒たちに知られれば何を言われるか……。
戦々恐々としていると、ふと向こう側から歩いてくる人影を見つける。
どこかで見たようなシルエットだなと気になってよく目をこらしていると、
相手も俺に気付いたのかその場で立ち止まってしまった。
俺も駆け足で彼女の元へ向かう。


「凰じゃないか……? どうしたんだよ、やけに元気がないな」

「…別に、あんたには関係ないでしょ」


つっけんどんに言われてムッとしてしまうが、今や牙の抜け落ちた犬であるところの
俺としては一々それに対して吠えかかったりしない。
気に障った素振りなど見せずに、フランクに会話を続行するだけだ。


「お前、どこかに遊びには行かないのか?
 俺午後は誰かと遊ぼうと思って相手を探してたんだけどさ。
 誰も予定空いてなくてさ。箒たちも、一夏もさ」

「…知ってるわよ、一夏の予定が空いてないのは私も」

「…………………?」


一夏の名前が出た瞬間、凰の瞳が大きく揺らぐのを見逃さなかった。
もしかして凰の奴、今日の午後は一夏と過ごしたかったけど、断られたとか?
有り得る…最近の一夏はナターシャさんに入れ込んでいるし、今日だって
自分の余暇そっちのけで見舞いを優先した。
凰の誘いだって断るかもしれないのは想像に難くない。

……何か、可哀想だよな。
こいつほど一夏に一途な女はいないっていうのに。
そりゃナターシャさんのことを心配する一夏に非はないし、文句を言う筋合いの
ものでもないとは思うけど……。


「お前、この後何か予定ってあるか?」

「…ないわよ。ティナの誘いも自分で蹴っちゃったし、横浜の
 中華街にでも出向いてしこたま食べ歩きでもしてやろうと
 思ってたところよ」

「…横浜の、中華街?」


この勢いで一緒に遊ばないかと誘おうとしたが、二の足を踏んでしまう。
横浜の中華街とは、少なくともIS学園の外ではないか。
俺は今は各国から狙われている立場では少なくともなくなったらしいが、
それでも学園外に出ることはまだはっきりとは認められていない。
そんな状態ではなかったという方が正解だろうが。
少なくとも俺は自分を取り巻く状況が不透明な中、学園外に出るなんて
とてもじゃないが…。

凰を誘うのは諦めるか……?
でも凰も話の流れから俺が遊びに誘うんじゃないかと察しているらしく、
じっと俺を見つめている。
今誘わなければ、余計に凰を傷つけることになるんじゃないのか?
ぐ、ぐむむむむう………。
と、心の中で唸っていると、凰の真後ろに黒い影が立っていることに気付く。
何の気配もなく……敵っ!?


「ってあいた!?」

「誰が敵だ馬鹿者め」

「えっ!? お、織斑先生!!?」


何だよこれ……デコピン!?
さっきまで凰の後ろにいたはずだよなぁ!?
しかも今のデコピン、一瞬のうちに同じ個所に五発は入れてやがったぞ!?
それになんで今は凰の後ろにいるんだ!?
瞬間移動かよ、有り得ない!!
そもそも俺の心勝手に読むなよ!?


「瞬間移動などではない馬鹿者。
 ここからデコピンのように指を弾くことで空気を飛ばし、
 お前の額に当てていたのだ。なんならもう一度試してみるか?」


冗談だろ!? 悪魔超人でも達人級でも無理なんじゃないかそんなの!?
っておい! もうデコピンはやめろよ! 脳細胞が死滅しちゃうだろ!?
地面に這いつくばり額を隠す俺を哀れに思ったのか、凰が助け船を出してくれる。


「あ、あの織斑先生もうその辺に……。
 先生はどうしたんですかこんな所で。
 わざわざ私たちに声をかけてきたところを見ると、
 何か用があったとか?」

「ん? ああそうだった。冗談など言っている暇はなかったな。
 アスカ、お前から借りていたヴェスティージだが、しばらくこちらで
 保管することになった。
 それについてお前にも承諾してもらおうと思ってな。
 あれは一応、お前の専用機だ。しかも束謹製とあれば本人の許可なしに
 預かってしまえば、後々何が起こるか分からんからな」


……どこまでが冗談だったんだろう。
とりあえず、ヴェスティージの件なら俺も異存はない。
何か調査して分かるのなら徹底して調べてほしいというのが本音だ。
先生がこう言ってくれるということは、手ごたえがあるということかもしれない。
俺は大きく頷いた……這いつくばりながら。


「いつまで警戒しているのだ馬鹿者め。
 そういえばアスカはともかく、凰が未だ学園に留まっているとは
 珍しいな。てっきり誰かと街にでも繰り出しているものかと思ったが」

「あ、ちょっと友達とスケジュールが合わなくて…。
 今から横浜の中華街にでも出かけようかなって思ってたんですけど…」

「一人でか?」

「え? ああ、それは、もちろん……」


凰は言葉を濁しながら、チラッとだけ俺を見る。
だがそれだけで、後は何も言わなかった。
…流石にこれだけまごついてたら一緒に出掛ける意思なしと取られるか。
悪いことしちまったかな……もしかしたら凰も、
一人で行くのは寂しかったから、この時間まで相手を探していたのかもしれない。
互いに目を逸らす俺たちに何か感じ取ったのか、織斑先生が言い放った。


「ついて行ってやったらどうだ、アスカ?」

「………は? え、で、でもそれは不味いのでは……」

「半年前とは状況が違う。今日の午後くらい遊びに出かけても問題はない。
 私、織斑千冬の名にかけて断言してやろう。
 …あとは、お前次第だな。アスカ」


俺と凰にニヤリと笑って見せ、そのままつかつかと歩いていってしまう織斑先生。
俺たちは互いが顔を見合わせて呆然としていたが、俺はゆっくり立ち上がり、
自然と凰に向かって言うことができた。


「じゃあ………行くか? 横浜の中華街とやらに」

「べ、別に構わないけど? 私は一夏と一緒が良かったんだけどね〜。
 でも一人ってのも味気ないし、アンタで我慢してあげてもいいわよ?」

「へっ、言ってろ」


何だか今までモヤモヤ考えていたのが馬鹿らしくなって。
凰も同じ気持ちだったのか、俺たちは笑いながら寮へと向かう。
一旦着替えて、学園生活以来初めて、学校行事に関係なく街へ繰り出す。
一寸の不安はあるけれど、織斑先生がああ言うのならば大丈夫だろう。
横浜の中華街か…………。
……どんな所なんだろうな?














……楽しそうだな、アスカ。 
奴は言った。もうあの小僧に安息が訪れることはない、と。
だが私は教師で、アスカはまごうことなき、私の生徒だ。
安息が訪れないだと? そんな事は断じて認めん。
私の目が黒いうちは、あんな戯言にアスカを巻き込むなんて言語道断だ。

だが、もし仮にアスカにそんな運命が待っているのだとしたら。
私の勘通り、その確率が高いのだとすれば。
せめてアスカがその只中に放り出される前に、できるだけ楽しいことをさせてやりたい。
それを全力でバックアップしてやる。まずそれが、教師としての私の役目。
あいつは、今まで頑張りすぎていたのだから。

さて、山田君に連絡を取るとするか。
まずは街歩きの格好に着替えなければな。
しっかりバックアップしてやるから、しっかり遊べよアスカ。
では、ミッションスタート、だな。



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.