PM14:20、凰鈴音が自室を出る。
その出で立ちはいつものカスタム制服ではなく、丈の短いTシャツにデニムのホットパンツ。
さらに可愛らしいリボン付きのドット柄ウエストポーチ。
何ともカジュアルな服装だが、それがまた彼女の雰囲気によく合っている。
端から見ても男どもの目を惹く美少女に仕上がっている。

部屋に鍵をかけた凰は鼻歌混じりに歩き出す。
その足取りは先ほどよりも軽やかで、落ち込んでいる様子もない。
アスカとの外出がそんなに楽しみなのか?
と、その歩がふと止まる。そこは案の定というか、一夏の部屋の前。
少しの間、その扉を見つめる凰。と、遠慮がちに扉をコンコンと、二回叩く。
待つ、だが一夏は出てこない。
当然だな、まだナターシャの所にいるはずだ。
…それにしてもナターシャの症状の改善のためにと私自身が頼んだとはいえ、
一夏があそこまで入れ込むとは思わなかった。
最近ではむしろそれを楽しみにしているような節さえある。
姉としては唐変木の弟に突如訪れた春に嬉しさ半分複雑さ半分……。

おっと……いつの間にか凰が再び歩き出しているではないか。
気付かれないようそっとその後ろ姿を確認する。
まるで地面に足が張り付いているかのような重い歩調…。
先ほどまでの軽快な足取りの理由は、無理やり一夏のことを忘れていた故か…。
凰のあの消沈した態度の原因は、私にもその一端があるのだろうな…。

息を殺して尾行したその先はIS学園正門前。
凰はここでアスカと待ち合わせをしている。本人たちは考えてもいないかもしれないが(主にアスカが)、
それは世間一般でいうデートと同義なわけで。
そもそもデートで横浜の中華街で食べ歩きとは何とも胸焼けがしそうではないか。
凰はともかく学園へ来て初めての外出がそれとは、アスカも災難だな。
私が焚き付けたのが原因だが。


『……Yから各員へ。対象Aが間もなくそちらへ到着。
 各員所定の位置にて待機されたし、どうぞ』


小型イヤホンからY……山田くんの引き締まった声が聞こえてくる。
そろそろ、だな。今回の私たちの任務はアスカたちの…正確にはアスカの護衛。
先ほどはああ言ったし、実際にアスカへの監視の目は弱まっていると言っていい。
下手な動きをして束に察知されれば各国が被る被害は想像もつかないから。
それほどまでの抑止力があるのがISという存在なのだ。

だがそれでも、四月からこうも立て続けに起こる不審な事件。
謎のIS襲撃から始まり、ラウラの暴走、そして福音事件。
中でも福音事件の最中乱入してきた所属不明のIS。
内一人は間違いなく男、さらにあの意味深な台詞が…。
その時の音声は一部始終録音していたし、アスカ自身が目的だとはっきり取れる物言いに
学園長をはじめ首脳陣も警戒態勢を取るべきだとしていた。
アスカはそもそも身元不明の男性IS操縦者。ISという兵器がより発展するための鍵となるかも
しれない存在。一夏と共にその身柄は確実に護られなければならない。

しかし、ただ一つ懸念があった。
それがアスカ自身の状態だ。
上記に挙げた三つの事件、その全てで重傷を負いその度に生死の境を彷徨って。
アスカの担当主治医からは再三に渡って警告されていた、ISには乗せずに療養させるべきだと。
今まではアスカの自然治癒力の高さと、どんな怪我を負っても生きようとする性格が相まって
乗り越えてこられた。
だが体に蓄積されたダメージは甚大で。
この前行った最新の検査結果では、筋肉や腱の数か所に大きなダメージが見つかった。
アスカは何も言わなかったが、おそらく満足には手足を動かせてはいないはずだと。

そしてもう一つ、精神的な問題…心的外傷だ。
理由は分からないが、何時ごろからかアスカは不眠に悩まされていた。
それこそ全く眠れないこともあるほどに。
篠ノ之が看病するようになってからはそれも軽減されたらしいが、それだけがストレスの原因ではない。
度重なる怪我による激痛は恐怖を生み、落ちた体力は日常生活すら困難にし。
その全てがアスカにとって心労やストレスに繋がる。
急に進行した白髪化の原因はそれだろうと主治医は言った。通常これほどの速度で白髪化することなど有り得ないが…。
それほどの心労をあいつは背負っていたのかもしれない、ずっと。

この学園でアスカのこれまでの経緯を知っている者なら誰でも辿り着く結論。
シン・アスカの心身は限界を迎えている。
しかし各国はISのデータ収集のためにアスカを出せとせっつく。
アスカに手出しはできなくなったがISの戦闘データ収集のためにヴェスティージを与えたと明言したのは束だ。
それを傘に各国は言いたい放題要求してくる。IS学園もそれを無視することはできない。

またアスカ自身もそれを望まなかった。
自分が大きな得体の知れないうねりの中にいることが分かっているのだろう。
病院には通うが、これ以上の長期入院はもうしたくないと言う。
あの篠ノ之が説得しても無理だったのだ、その決意は固い。

アスカにこれ以上のストレスを与えるのは不味い。
しかしならばこれからの学園生活をどうするのか、出した結論がこれだった。
まず通院は今まで通り続けること。いつもの診察の他にリハビリテーションも追加すること。
徐々に体力は回復しているので、学園生活は続けさせること。
ただし過度の運動は禁物。ISは搭乗者保護機能があるので短時間の起動は問題ない。

これだけでは今までの生活とあまり変わらない。
余計にストレスを貯めることは避けられるが、蓄積したストレスを発散する術がない。
部活でも入れば気が紛れるのかもしれないが、アスカ自身がそれを望まなければ効果はない。
なので現状は上記の内容に、あとアスカが何か自発的に望んだことは可能な限り答えてやる、ということになった。
学園外での余暇を希望した場合もそれにあたる。
もっともアスカに危険が及ばないように、こうして私たちが監視する必要はあるのだが。
幸いアスカはそれを私に相談してくれる、事前に対処できるのは有難かった。


「それにしてもアスカめ、確か待ち合わせは二時半のはず。
 十分も遅刻しているな……凰もイライラしているじゃないか。
 一夏は待ち合わせ時間はキチンと守るのだが……」


時計を確認しながら指で腕をコツコツ叩いていた凰の視線がふと前を向く。
そこには小走りで駆けてくるアスカの姿が。
あの馬鹿者……小走りなどしおって、体への負担を考えんか。
アスカの服装はくたびれたグレーのシャツにクリームイエローのズボン。
空色の上着を羽織って、革製のショルダーバッグをかけて。
あれも全て学園からの支給品だ。
何せアスカの奴私物は携帯電話とヴェスティージ、見慣れぬ軍服以外は何も持っていなかったからな。

とりあえず二人とも二言三言言葉を交わして歩き出した。
やれやれ、では私も後を追うとしよう。
これで少しはアスカのストレスが解消されてくれればいいのだがな…。
そう頻繁に外出を許可するわけにはいかないのだしな。
二人からは死角になっていたベンチから立ち上がり一歩歩き出したところで…誰かに肩を叩かれた。


「っ! ……何だ、山田先生か。どうしたのですか、先生の持ち場はここではないでしょう?
 アスカの身の安全のためにもちゃんとしていただかないと……」

「そんな事は百も承知です。それよりも……織斑先生?
 貴女もしかして……その格好で尾行を続けるつもりですか?」

「え?」


格好だと? 別にどこもおかしな所はないはずだ。
街に出れば珍しくもない、キャリアウーマンのそれと同じレディーススーツだ。
サングラスもかけているし、学園内とは違いスカートをパンツに変えている。
何も変な所は……。


「逆に変化がなさすぎですっ!!
 織斑先生はただでさえ誰もが振り向く美人で印象強いのに、学園内とほとんど変わらない
 服装で出ていってどうするんですかっ!?
 そりゃよく見れば違いますけど、遠目から見ればいつものスーツと大差ありません!
 サングラスだって逆に怪しさ満点です!勘の鋭いアスカ君相手には見られたら一発でばれちゃいますよ!」


普段からは想像もつかない山田先生の剣幕に思わずたじろぐ。
そ、そんなに不味いのかこの服装……?
これでも小一時間悩んで決めた格好なのだが……。
と、山田先生は私の腕をむんずと掴むと、その細腕からは想像もできないパワーで
私を引っ張る。


「お、おい山田先生どこに行くつもりだ!?
 アスカたちの尾行が、まだ……」

「それは他の先生方に任せてます!
 織斑先生は先に他の服に着替えてもらいます!
 ほらほら私の服を貸してあげますからついてきてください!」

「待ってくれ山田先生! それは嬉しい申し出なのだが、その……。
 私の方が背が高いのだし、サイズが合わないのではないかと、思うのだが…」

「なおさらいいじゃないですか。
 へそ出しなんて普段の織斑先生からは想像もできないし。
 ほら行きますよ!」


へ、へそ出しだとっ!?
流石の私も公衆の面前でそんな破廉恥な格好をするつもりはないぞ!?
ぐ……馬鹿な、この私の力でも振りほどけないっ!?
ちょ、ちょっと待ってくれ! 一夏、助けてくれっ! う、うわぁぁぁ……………!!































「おい、凰。最初はどこから回る?
 広東料理? 上海料理? それとも刺激のある四川料理でもいいぜ」

「私はどこでもいいわよ。ホームグラウンドみたいなものだし。
 だからそんなに資料見せつけなくてもいいわよ」


全く……シンの奴はしゃぎすぎじゃないかしら?
待ち合わせに遅れたのも、横浜中華街の資料を紐解いてたのが理由だし…。
今もプリントアウトした中華街の資料に熱心に目を落としている。
織斑先生のとりなしで一人寂しくってのは避けられたけど、これはこれで少し恥ずかしいわね。
周りが私たちを見てクスクス笑ってるし。

私たちは今IS学園から少し離れた横浜中華街へ向かう道中。
湘南モノレールの中で二人並んで座りながら話している。
この後は大船駅まで行って、JRに乗り換えて石川町駅で降りるだけなんだけど…。
さっきからシンが横で子供みたいに目を輝かせているのが気になる。
シンってこんなに食べるのが好きだったっけ?
そりゃセシリアの料理は嬉々として食べてるけど……。そのせいで食に目覚めたとか? 
でもセシリアの毒料理で汚染されきった舌で中華料理の味なんて分かるのかしらね?


「すごいよなぁ、このエリアマップ見る限り飲食店がひしめいてるぜ。
 これ一日で回りきれるかなぁ」

「無理に決まってるでしょ!? ゆうに二百店舗以上あるのよ! 
 お腹も財布ももたないわよ! ていうかアンタお金ちゃんと持ってるんでしょうね? 
 どの店でも一食千円近くはかかるわよ?」

「い、いや別に全店舗入るつもりじゃなくて見て回るのも兼ねて、だよ。
 金については心配いらないよ。織斑先生からいくらか貰ってるから。
 でもこんなに貰って嬉しいんだけど、逆に心苦しいというか……」
 

あれ、そうなの?
確かこいつ今着てる服から生活用品まで学園から支給されてたわよね?
国籍もないし、家族がいるかも分からないってのは聞いてるからしょうがないとは
思ってたけど、まさか遊びに行く金まで学園が負担するとは……。
そりゃバイトとかできないし、仕方ないとは思うけど…。


「ちなみにいくら渡されたの?」

「五万」

「ごっ…………!?」


ちょっとちょっと!!
過保護ってレベルじゃないんじゃないの!?
どんなに飲み食いしても普通は一万以内に収まるわよ!
織斑先生ったら何考えてるのかしら……。

そうこうしている内にモノレールは目的の大船駅に到着。
そこからタイミングよく来た電車に乗り換え、揺られる内に到着した。
横浜中華街。IS学園からも比較的近い日本の三大中華街の一つだ。
私もよく利用している。小さい頃はお父さんとお母さんによく連れてきてもらってたっけ…。
……やめよ、せっかくストレス発散の為に来てるのに嫌な事思い出してちゃ本末転倒じゃない。
さてと……、私はシンの方に向き直る。
まるで初めて都会に来た田舎っ子のようにキョロキョロするシンを窘めながら。


「ちょっとシン、そんなにキョロキョロしないでよ恥ずかしい。
 …今三時半前か。夕食にはまだまだ早いけど、別に関係ないわね。
 さ、今日は食い倒すわよ。食いまくって食い倒れるわよ!」

「食い倒れ……おおっ! ちょっとテンション上がってきたぜ!
 で、どこから行くんだよ? 俺ここ初めてだからどこが美味しいかなんて分からないよ」

「この鈴様に任せなさいって! 美味しいって評判のお店から穴場まで
 完全網羅してるんだから! じゃあとりあえず広東料理の美味しい店から…。
 大○樓か、はたまた同發○館か……あれ?」


ふと視界の端に物凄い違和感を覚え、ハッとそちらを見る。
…あれ? おかしいな、誰もいない。でも、さっき確かに……。


「どうしたんだよ、凰? そっちに誰かいるのか?」

「いや、そこのお店の前にストライプのワンピースとストローハットを被った
 織斑先生がいたような……」


私たちは互いに顔を見合わせ、そして笑い出した。
ないない。あの堅物で厳格って言葉がそのまま人間になったような織斑先生に限って
あんな可愛い今時ファッションで街歩きするなんてあるわけないわね。
想像したら笑っちゃった。こんな所見られたら殺されるわね。


「ふぅ、久々に大笑いしたら余計に腹減ったな。
 さっさと行こうぜ凰」

「ああ、うんそうね。あー中華街についた早々面白いもの見たわね。
 幸先いいわ、うんうん」






















「あいつら………………帰ったら覚えていろよ…………………」































「ふぅーここもすごく旨かったな。さて、次はどこ行くんだ?」

「ま、待ちなさ……げふっ。待ちなさい、よ………。
 あ、アンタ……今の店で三軒目よ……?
 しかも私よりたくさん注文してたくせに、まだ食べる気……?」

「お、おいそんなに腹一杯なのか?
 おかしいな…俺まだ二、三軒くらいは余裕でいけるのに……」


こ、コイツ戦闘でも化け物みたいに強いけど胃袋も化け物なの……?
シンがこの三軒で空にした皿はゆうに十は超える。
しかも比較的リーズナブルで量の多い料理をチョイスし続けてこれだ。
もしかして織斑先生はシンの食欲というか胃の許容量を把握していたのだろうか?
ならば渡した金額の高さにも納得できるというかなんというか。


「じゃあそこのベンチで少し休憩しようぜ。
 ちょっとは腹ごなしになるだろうし」

「無理よもう……。行きたかったらアンタ一人で行きなさいよ…くぷっ。
 あ、ちょっと戻ってきた……」


私たちは近くの公園のベンチに腰掛けて、少しの間休む。
時間はもう五時過ぎだ。そろそろ戻らないといけないし、仮に店に入れても
あと一軒が限度だろう。
はぁ…まだ気温は高いけど良い風が吹いているから気持ちいい。
熱い小籠包をハフハフ頬張った直後だから火照った体が丁度よく冷めていく。


「良い風だな……あ、そうだ。味覚をリセットするって意味でさ。
 紅茶飲まないか? 俺持ってきてるんだよ」

「いきなり何よ? まあ、紅茶の一杯くらいなら飲めるけど……」


私の返事も聞かずシンはバックから出した小さな水筒から鮮やかな赤色の液体を
コップに注ぐ。
…ふーん、綺麗な色ね。どれどれとコップを受け取って匂いを嗅ぐ。
なるほど、果物みたいな甘い匂い。これは美味しそうね。


「でもシン、アンタが紅茶なんて嗜むなんて意外ね。
 水筒に入れて持ってきたってことは、自分で淹れたの?」

「いや? セシリアが用意してくれたんだよ。かなりの自信作って言ってた」


私は口をつけかけていたコップを反射的に放り出していた。
勢い余ってベンチから転げ落ちてしまうが、そんなことはどうでも良かった。
紅茶が地面に落ちて嘆くシンの胸倉を掴みあげて食って掛かった。


「あ、アンタ! アンタねぇ!! 何故私にそんな毒物を盛ろうとしてんのよ!
 そんなに私に恨みがあるわけ!? ええっ!!?」

「ちょっ、えぇっ!? ご、誤解だよ誤解!
 セシリアがシャルロットの件で反省して、メイドさんに電話して教えてもらった
 ブレンドだって言ってたから!
 他には何も手を加えてないって言ってたから!」


そんなの信用できるわけないでしょ! どれだけあの毒料理に振り回されてきたと
思ってんのよ! アイツの料理は飲み物でさえ一口たりとも口に入れたくないわ!
結局私は地面に落ちたコップを突っ返して、再びベンチにどっかと座る。
しょんぼりしながら水筒を片付けていたシンは、私の顔色を窺いながらおずおずと
話しかけてきた。


「お、俺さっきの小籠包一気に食ったから口の中の皮べろんべろんだよ。
 でもあんなに肉汁が入ってるなんて驚いたよ。口の中に飛び出てきてさ」

「あれは肉汁じゃなくてスープ。事前にスープをにこごらせたものを
 一緒に包んでるのよ。それだったら私はあの東坡肉に感動したわ。
 口の中でホロホロと崩れて。あれなら一切れでご飯三杯いけるわ」


なんて。さっきまでの険悪な雰囲気なんかすぐに忘れて二人で今まで食べた料理の感想言い合って。
あれはとても美味しかったとか、それは違うとかって批評し合ったりして。
一夏のことはまだ心に棘として引っかかってるけど、それを少しは忘れられるほど楽しい時間だった。
その話もひと段落した頃、シンが笑いながら聞いてきた。


「でも凰、お前やけに中華料理に詳しいな。
 一夏にもしょっちゅう酢豚作ってきてるし……俺には食わせてくれないけど。
 自分で研究したりしてるのか?」

「研究っていうか…昔家が中華料理屋やってたのよ。
 それで自然に詳しくなったっていうか…」

「へぇ…そんな話初耳だな」


あ。しまった……知らない内に喋っちゃってた。
私自身あんまり話したくない話のはずなのに……。


「……? 何か話したくないことだったか?」

「えっ、別に…。そういうわけじゃないわよ」


気付かれてた? 表情には出してないつもりだったけど。
ちょっと気まずくて視線を逸らすけど。
でも不思議と、嫌な気持ちにはならなくて。
口が自然と開いていた。


「昔は両親に連れられてよくここにも来たのよ。
 当時は食べる専門であんまり料理できなくてね。
 『それでも料理屋の娘か。食ってばかりで腕磨かないと、男の胃袋は掴めんぞ』って
 よくお父さんに怒られたっけ」

「そうなのか? でも今は上達してるんだろ?
 一夏もお前の酢豚、旨い旨いって言ってるし」

「当たり前よ、それはもう死にもの狂いで練習したんだもの。
 それぐらいしないとあの唐変木はちっとも気付きもしないし……………………」


言ってから自分が凄い爆弾発言をしていたことに気付く。
チラリと横目で窺うと、シンがニヤニヤしながらこっちを見てた。
一気に顔が沸騰するくらいに熱くなる。


「ち、ちょっと何よその嫌な笑いはぁ!
 違うんだから! 決して一夏の気を引くためとか、そんなんじゃなくて!
 ほら、アイツが私の手料理食べたいっていうから仕方なくっていうか!
 せっかく御馳走するんだから、美味しいもの食べてほしいと思うのは普通でしょ!?
 そういうわけだから……ああもうっ! そのにへら笑いをいい加減にやめろっ!」

「かかっ、悪い悪い。でも、そうか……お前の家も中華料理屋だったのか。
 お前の料理でもあの一夏が旨いっていうほどなんだから、親父さんの料理も
 すっげぇ旨いんだろうな……。なあ、今度外出することがあったら俺も行っていいか?」


何気ないシンの言葉。
もちろん他意も悪意もないんだろうけど、私は思わず体を硬直させた。
私が学園じゃ一夏にしか話していないこと。
セシリアたちにもまだ話してない、私の闇の部分。
どう答えようか咄嗟に悩む。


「…悪いけど、無理なの。もう店はやってないから」

「ん……そうなのか? …………まあ、残念だけど仕方ないか。
 ふぅーー、そろそろ行くか? 喋ってる内に腹の塩梅もよくなってきた」

「……うん」


結局詳しいことは言わずに言葉を濁す。
シンはそれについて特に何も言わず、話を切り上げてくる。
それに内心ホッとしながらも、やけに聞き分けがいいことに若干引っかかって。
歩く道すがら聞いてみた。


「ねえ、何で家が料理屋やめちゃったか、知りたくないの?」

「別に。料理屋をもうやってないってことさえ分かれば十分だろ?
 それ以上を深く聞くつもりはないよ」


シンはただ前を見ながらそれだけ言う。
本当に気にしていないようなその素振りにホッと胸を撫で下ろす。
うん、せっかく嫌な事忘れるために……思い出さないようにここへ来たのに
最後の最後で嫌な気持ちになっちゃ駄目だよね。
頭の中では今までの話のせいで、あの頃の、家族三人で過ごしていた頃の記憶が
リフレインしているけど、無理やりにでも振り払おうと頭を振り乱す。
シンはそれにも、何も言わなかった。

そうして中華街を出て駅に向かう道中、行きの道とは別の細い路地へ入る。
結構時間も押してたから近道しようと思ったんだけど。
そこを少し進んだ、大通りの喧騒から外れた、隠れ家的というか忘れられて寂れたというか。
小さな中華料理屋が一軒、民家と民家の間に挟まれて建っていた。
テーブル席はなくカウンター席のみ。椅子も全部で十脚もない。
『龍鈴軒』ていう油染みで薄汚れた暖簾がパタパタとたなびいて。


「へえ、こんな所にもあるんだな。流石横浜中華街」

「でもこんな所じゃ碌にお客さん入らないでしょ。よほど美味しければ
 熱心なファンもつくでしょうけど……………………」


そう言いながら店の前を通った時、引き戸の隙間から漏れ出る匂いを嗅いで、
思考が停止する。
香ってきたのは豚骨ラーメンの匂いだったんだけど、その匂いはやけに私の鼻腔をくすぐる。
全身を駆け巡る豚骨臭。それは私に強い懐旧の情を抱かせた。
中学二年生の頃から久しく忘れてしまっていた匂い。
私の手は勝手に引き戸の取っ手を持ち、開けてしまっていた。


「え? おい凰……? この店入るのか? 
 俺は別にいいけどさ」


シンは訳が分からないというように肩をすくめながら、でも私の後ろに
続いて入ってくれる。
心臓が張り裂けそうなくらい鳴り続けている。
カラカラに乾いた喉でごくりと唾を飲み込んで、カウンターに立っていた店主らしき
人に声をかける。


「え、えっと……豚骨ラーメンを、二人前………」

「あ、俺それに炒飯大盛りと餃子二人前追加で」

「へい、まいど。…豚骨二丁、炒飯大、餃子二丁!!」


店主のおじさんは軽快に私たちの注文を後ろの厨房に伝える。
と、奥で作業していた男の人が背中を向けたままで答える。


「……へい」


その聞き取りにくいたった一言だけで、私には十分だった。
忘れるはずがない。例え時間が経ってしまったとしても、それ以上の年月、その声を
聞き続けていたのだから。
気が付いたらカウンターに手をついて立ち上がっていた。
シンも店主のおじさんも何事かと私を見ているけど、私の視線は奥で黙々と作業する
男の人から逸らさない。
声が詰まって中々言葉が出せなくて、でも何とか気力を振り絞る。



「お…………お父、さん…………………?」



ビクッと男の人が震える。
チャーシューを切る手を止めて、ゆっくりと私の方を向いた。
無精ひげを剃りもせず、あの頃より頬はこけて、頭にはくたびれたタオルを巻きつけて。
でも、やっぱり何も変わってなくて。
大好きだったお父さんが、変わらぬ姿で、そこにいた。



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