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長き刻を生きる 第二十四話『そんな彼女の憂鬱』
作者:大空   2009/02/10(火) 21:53公開   ID:4TeCCZkhrsA

 袁幽の決戦より早や二ヶ月ほど過ぎ去っていた。
 太公望軍全軍は袁紹の本拠地紀州(きしゅう:紀は当て字)の都である業(ぎょう:業は当て字)に来ている。
 何故太公望軍全軍が、今や支配地区である紀州に居を構えているかには理由があった。

「では紀州をワシ等太公望軍が」

「幽州西部および紀州北西地区を馬騰軍が」

「幽州東部および旧公孫賛領を劉虞軍が」

「私達公孫賛軍は全員太公望軍の指揮下に」

 戦後処理と領土分配の際に、琢群は馬騰軍が受け取る事となったのだ。
 無論、元々北部の者達の血を引き彼らの信頼を持っている馬騰殿ならば安心して任せられる。
 更に北部の民達に攫われていた者達の中に文に優れた才女がいるらしく、その者が馬騰殿の補佐に付く。

「袁紹には捕虜と言う事で、四人の武将はそのまま太公望軍の指揮下に入る」

「太公望様と共に行けるならば私は何の文句はありません」

「……まぁそれはそうとして私達は袁紹さんの所にお邪魔する訳ですね」

 紀州は現在では魏・呉の両国と国境を持っている場所であり、太公望としては新居を構えるには都合が良かった。
 次なる戦は間違いなく魏との総力戦へと突入する、その最前線には太公望が居る必要がある。
 また呉との連携を取る為にも出来る限り近い必要があるのも、紀州を本拠とする理由の一つ。

「はぁ……やっと慣れた琢群ともお別れなのね」

「愚痴ってないでさっさと荷物纏める! 忙しくなるぞ!」

 太公望軍全軍と琢群の民達の多くが紀州へと移動し、生活を始めた。
 戦後処理に関しては大変と苦労の連続である。

「朱里! こんな半端な法で規律が保てるか! 書き直せ!」
「はわわわわわわわわ!」

「詠! こんな自分の懐を優先する金策は認めれぬ! もっと大胆に使え!」
「良いの? だったら少し徹底的にやらせて貰うわよ」

「干吉! まだ諜報からの報告は纏まらぬのか!?」
「……今しばらくおまちを」

「愛紗! なんだこの訓練での怪我人の数は!」
「もっ申し訳ありません!」

「霞! 先の件での賊徒鎮圧は!」
「無事や無事! 怒鳴らんといて!」

「陳到! 浪人達への処置は!」
「現在田畑の開墾と街の再建に当たらせています」

 業の城は袁紹の物から太公望の物となり、執務室には山の様な書簡が置かれている。
 それの処理に太公望が本気モードに突入しており、四方八方に叱咤と罵倒のパレード状態。
 太公望の手元の書簡は物凄い速度で次々と片付けられ、終了した書簡の山が生まれていく。

「……凄いな」
「噂以上の手腕ですね」

「白蓮! 紫苑! 手を止めるな動かせ!」

「「はい!!」」

 朱里や詠と言った優れた文官達は中々良い調子で書簡を片付けていく。
 元太守である二人もどちらかと言えば出来る方だが、太公望の処理能力に唖然していた。
 
 ここ二ヶ月で各地の反乱分子の粛清・腐敗文官や地方官の徹底した掃除に始まる戦後処理。

 敗戦国への手当てや新しい税率・法律の制定・兵士や将官の再編成も同時進行でしている。

 仕事の斡旋や移住者に対する政策に異民族との融和政策に、外交の大仕事への下準備。


「治安を乱す輩には徹底した罰則を! 反乱分子には降伏を促しそれでも投降せぬならば徹底的に殲滅!
  軍の規律を乱す大馬鹿者には現実を思い知らせ! 田畑を荒す暴徒には徹底した制裁を下すように!」


 太公望自身……ある種の暴走状態に突入していた。

 実は彼は盟主としての書簡処理も有り、その所為で三日に一度位しか寝むれない日々を送っていた。
 サボる事も出来ない状況の打破は真っ向から全ての書簡を処理してしまうしかない。
 それ故に二ヶ月経った現状でさえ書簡は次々と攻勢をかけて来るのを捌いている。

「白蓮! そちらの報告は!?」
「もうすぐ片付く!」

 更に公孫賛軍と黄忠軍の丸々が太公望軍の指揮下に入ったのも追い討ち。
 指揮系統の統制から参入してきた者達の衝突を束ねる者として裁く仕事が追加されている。
 その為に更なる規律と法律の立案に四苦八苦しており、仙人でなければ間違いなく倒れているだろう。

「ご主人様……お休みになった方がよろしいのでは?」

「今日中にこれが片付いたらのぉ……」

 山の様な書簡を片付け、朱里や詠から手渡される計画書などにも眼を通して中身を確認していく。
 様々な部署に対して飛び交う伝令の嵐・報告と悲痛な労働の叫び声が城に木霊する。

 しかも机仕事が主体な武官は訓練に集中されられているのだが……

「望兄ちゃんが構ってくれない」
「無理ないよ、呉でもあんな量の書簡見たことないもん」
「皆さんは大丈夫でしょうか」 

 こちらでは侍従長に昇格した月が入れてくれるお茶に一服していた。

「新兵共もだらしないな……この程度で」
「いや……絶対にアンタ等の体力おかしい」

 息絶え絶えになっている旧袁紹軍兵士や新兵達と、将官である袁四武将達。
 基礎基本の徹底した叩き込みから簡単な陣形展開に、二対二による武術練習。
 それを反復してひたすらに身体に覚えさせて、嫌でも体力を底上げする訓練。

 太公望軍以外の兵士は皆、あの世への旅路一歩手前ほどに潰れている始末だった。

「雪さんも大変ですね」
「月ちゃんも侍従長の仕事にはもう慣れたの?」
「月…お茶」

 くたばっている兵士や訓練で怪我をした兵士に対する救護は大忙し、雪が往診に出られない程。
 だが逆に”くたばれば”美人である雪の看護を受けられる可能性がある為か、兵士達は頑張っていた。
 また救護班には女性が多く、そう言った事を理由にしてくたばる寸前にまで頑張らせている地獄が存在している。

「でも望って凄いよね、たった二ヶ月で戦後処理の殆ど終わらせてるから」
「呉からの使者にも主は対応しているからな……近いうちに同盟会議があるそうだ」

 シャオは既に太公望軍の中にしっかりと溶け込んでいた。
 中には既にお互いの真名を明かしている者までおり、姫君とは思えない程の親しみ易さである。

 ―――椛は実は警戒している事が一つ


(暇あれば主殿に向う姫君か……手強いな)


 それは彼女の女としての嫉妬とも言える感情が引き起こしていた。
 無論、この軍の女性将官の殆どが太公望に好意を寄せているのは周知の事実である。

 ―――まず要注意なのは愛紗…やはり最古参である事は武器だ。
     総合能力は間違いなく私達では最強だろう、女性としての魅力……も。
     主殿からの信頼も主殿に対する心服もある、故に良く相談しているらしい。
     ただ料理関係は全滅らしく今では少しずつ練習しているらしいな。

 ―――次は朱里…主殿が内政の大半を任せている時点で信頼は言わずとも判る。
     更に良く主殿に自ら勉学を学びに行っていると言うのも注意だな…一対一で。
     ただ主殿からは子供と見られているのは救いだな、主殿は幼子に甘い。
     料理は私塾に通っていた時に学んだらしく、主殿も中々と褒めていたな。

 ―――私達より一歩先を行っている趙雲も要注意だな。
     聞いた話によれば主殿の唇を奪ったらしい……クソッ羨ましい奴だ。
     先の戦直前に合流したにも関わらず即座に将軍としての雇用には驚かされた。
     主殿とは夜中に良く酒を飲み交わしているらしい、もっとも酔いつぶれたりはしない。
     何せ主殿の酒に対する強さは半端無い……以前皆で行っても私達が先に潰れたからな。

 ―――馬超……かの馬騰殿の愛娘であり同盟関係としてこちらに在籍している。
     馬騰殿は政略結婚させたいらしく、時折会議で会う際には主殿に孫を要求している。
     女性としては非難したいが、相手が主殿なら私は喜んで結婚するだろうな。
     やはりそう言った理由からいざとなれば飛び込む事が出来るのが強みだろうな。

 ―――霞は、正直微妙な所だが……それが脅威でもある。
     何分砕けた会話や主殿に対しても親しい友人程度の認識でいるのは幸いだが。
     最初は友人から親友に…親友以上恋人未満になって……最後は恋人から夫婦に。
     そんな何処かの物語とも思えない事を実現しかねない恐ろしい奴だ。

 ―――恋もかなりの脅威だな……あのノラリクラリとした所を意図せずに武器にしている。
     食事を奢られる側の恋が、主殿に対しては時折餡マンを奢っているのだから驚きだ。
     二人して仲良く食べ歩きしながらも二人して仕事をサボる仲でもあるのだ。
     更にセキトと言う名犬が主殿の脱走を逸早く悟っては恋を引き合わせる絶妙な援護。
     セキトを抱き込めれば勝機はあるか……


(ちょっと待て……何かおかしい気がする)


 ―――我が義妹の詠……本人も気付いていないが相当手強い場所に位置している。
     今では私達の財布の紐を自在に操れる場所にまで位置している軍師であるのが問題だ。
     いざとなれば財布を操作して幾等でも主殿に恩義を造る事が出来ると言う荒業が可能。
     まぁ本人もあくまで優れた上司と認識しているのは幸い、そう気にする必要もないと思うが。
     本人の不運が巧く作用して主殿の前でコケテは主殿の両腕で助けられる……羨ましい。

 ―――二人目の義妹の月……やはり侍従と言う立場に加えてその入れてくれるお茶の美味さだな。
     計画していないらしいが感覚的に主殿がお茶を欲している時に現れては凄く感謝されている。
     本人も助けられた恩義を深く感じており、主殿の事を話しては少し頬を染めていたな。
     だが主殿からはしっかりした娘と見られているのは幸い……そうなると義娘になるのか?

 ―――黄忠は……本人よりも愛娘の為に主殿を欲している。
     何分幼い頃に父親を亡くしている事を璃々は気にしていないが、やはり少しは寂しいらしい。
     鈴々のような年の近い者を姉と慕っては可愛がられているし、主殿にいたっては父様と慕っている。
     愛娘が父親と認めている人物を本当の父親にしてあげたいと言う…母親らしい愛情があるだろう。

 ―――鈴々はまず問題外。
     璃々が主殿を父様と呼び慕っている事を知ってからは、二人っきりなどの時にそう呼んでいる。
     主殿も出来る限り父親らしく振舞っており、叱ったり勉強を教えたりしていた。
     新しい妹にも等しい璃々と一緒に父親と主殿を慕っては甘えているから、まず安心だ。


(私には何か……何かあったか?)


 ―――袁紹も多分問題ないだろう。
     髪を切ったアイツは随分人柄が変わっている気がした…傲慢さが無くなったな。
     自分を護って死んだ二人の英雄の仇討ちの為に、主殿のお力を借り対価として自分と国を差し出した。
     一生を捧げていると言っては主殿の傍にいるのに加えて、個人的に勉学や武術を叩き込まれている。
     自らの非才を呪っての事らしく、袁の名に相応しい為に鍛えてもらっているそうだ。

 ―――白蓮は注意が必要だが…そこまでではない。
     配下の承諾を貰って現在では我が軍の一部隊として、配下共々指揮下に入った。
     事に掛けて主殿の指南や指導を受けているが、女としてよりも元太守として一面だな。
     だが馬超と同じ同盟関係として嫁ぐと言う切り札を持っている点では要注意だ。

 ―――袁の二枚看板も問題外。
     既に男と出来ている時点で外すべきだな。

 ―――琢群に残った者達も除外。

 ―――雪がある意味最重要だな……何分傷の治療と主殿の上半身を良く見れるのだ。
     だが本人はそう言った気は無いらしく、純粋に専属医としている所存らしい。
     されどそれも言葉てしかないのだから……本心とは限らない。

 そんな意外にも周囲に眼を配っている椛はある事に気付く。
 本人としては出来れば気付かない方が良い物である。

(私は―――何も武器が……)

 訓練も終了し、兵士達は続々と自分の家へと帰っていく。
 執務室から聞えてくる太公望の叫び声も静まっており、こちらも一段落。

「今日はこれまでだのう……ワシは明日は正式な休暇、サボらぬように」
「サボり魔のアンタが言うと説得力無いわよ」

 既にゲッソリした顔つきの太公望が一足先に自室へと歩みを進めていく。
 それを契機に死屍累々の執務室の面々も疲労困憊の文官達を叩き起こして自室へと戻っていく。

「さて晩飯が待ってるぜ」
「……お腹空いた」
「いやいやいやいや、呂布はそこまで働いてないって」

 豪勢に腹の虫を鳴らし、お腹を擦りながら一足先に新設された食堂へと歩み始める武官一同。
 夜空には星達と満月が悠々と光り輝いていた。

「おい椛!」

「あぁすまない、すぐに行く」
(周囲に眼を配りすぎて自分を見ていないとは…滑稽だな)

 椛は周囲に眼を配りすぎて、自分について良く見ていなかった。

(しかし……このまま私だけ”絡み”がないままで終わるわけには!)

 孤軍奮闘を決意した椛は、その日の晩中太公望とどう絡むか考える事に。
 周囲からは「あんなに難しく考え事してる椛は始めて見た」とある種不名誉な事実が発覚する事に。



=================================================



 翌日の早朝。

 小鳥はさえずり、草木は歌い、憎たらしい程に朝日は世界を照らす。

 元々使えない方の頭を酷使した女性は眼にくまを抱えて部屋から出てくる。

「朝日……今日ほど憎らしいと思った事は無いぞ!」

 椛は頭から煙を少々出しているような幻覚を周囲に見せながら城の中を徘徊する。

「華雄将軍、おはようございます」
「あぁ…おはよう……私は今日は少し遠出する」
「どちらへ?」

 城の侍従も給料を貰い、袁紹の時ほど扱き使われていない現状に満足していた。
 無論当初は批判的な者達も居たが、太公望軍の人当たりの良さや仕事場の改善に満足させられた。
 月の才能も認めており位などを鼻に掛けず、誰にでも親しくなれる彼女を侍従長に推薦したのも早い段階の話。

「……少し水浴びを」
「畏まりました、そのように伝えておきます」

 「感謝する」と一言残して椛は懸命に睡魔と戦いながら、城を後にする。
 眼にくまを作りながら、今にも死にそうな彼女を見かけた人間は一応にこう思ったと言う。


「あぁご多忙なんだな」


 兵士達の口から語れる訓練の厳しさ。
 更には文官達から語られる戦場よりも過酷な机の大戦。
 故に将官達の疲労はきっと仕事熱心なんだと……誰もが思ったと言う。



=================================================



 愛馬に跨り駆けること、およそ二時間ほど。

「この森はまだ無事みたいだな」

 椛はお気に入りであるとある森にやって来ていた。
 その森には猛獣の類はおらず、実に静かな森である。

 だが椛がこの森をお気に入りにしている最大の理由は、小さな池である。

 透き通った水が湧き出し、中には小魚達が楽しそうに踊りあう。

 周囲の木々も見事な物であり、風が吹けば耳を癒す歌声が奏でられる。

「さてと……」

 水底が見える程に透き通った水には青空の雲達が映されている。 
 そんな水の中に、普段脚を脹脛まで覆っている布を脱ぎ、脚甲も取り外し素足を浸けていく。 
 腰に巻いている布が水についてしまわない様に手繰り寄せておく。

 あとはそのまま眼を瞑って静かに身体を風に晒す。

 背は程好い木にもたれ掛かる事で体勢を整えている。

 手から戦斧を放すことは無い、警戒を怠っている訳では無いから。

(傷は戦士の誇りだが……主殿はどう思ってくださるのだろう?)

 椛は静かに睡魔に飲まれ、寝息をたてはじめる。


「先客とは……まぁ良いものが見れた」


 新たなる来訪者は跨っていた馬からゆっくりと降りた。
 自らの愛馬を椛の愛馬にお見合いさせている間に、池に服を着たまま浸かって行く。

「……良き夢を」

 来訪者の身体は水面に浮かび上がり、そのまま水に全身を任せていく。
 服から溶け出す赤い血が青い水に溶け込んでは無色に書き換えられていく。
 
 青い水は来訪者から溶け出す血の全てを書き換え、その者の顔色を少しずつ健康な肌色へと染めていく。

 森の各地から動物達が集まり始め、まるで敬服するかのように頭を垂れる。

 そしてその頭を垂れている者は池の中央でただ水にその身体を預けていた。

 だが動物達が集まっていく音は無音ではない、一つは小さな音でも群がれば大きな音となっていくもの。

「んっ…んん……」

 集まった音によって椛は起こされ、朦朧とした意識で周囲を確かめる。

「なっ! なんなんだこれは!?」

 驚くのも無理はない。
 森の動物達が一同に会しているのだけでも驚くべき事なのに、それが頭を垂れている。
 それも全てが同じ方向に向って……池の中心を向いているのだから尚更。

「中心? …あれは……人か?」

 やっと目覚めてきた眼が中心に浮んでいる来訪者を捕らえる。
 そして自分の素足に付着している冷たい筈の水が、生暖かいのにも気付く。

 それの正体が池の中央より広がっている赤い血である事に気付き、意識が一気に覚醒する。

 咄嗟に身体が動き、服の事などお構い無しに血を流している来訪者の元へと泳いだ。


「あっ…主殿! そんな、まさか!?」


 来訪者の正体は太公望だが正確に言えば伏義と言う神である。
 老人特有の白い髪を、その鍛え上げられた身体を水に浮かべていた。

「主殿! 主殿! いや、いや―――死なないでください!」

 視界が自身の涙で滲む。


「お主の女子らしい言葉を聞けたのは行幸、死んだ振りも悪くないな」


 突然眼が開いたと思うと、普段どおりの口調で話し始める。
 椛は生きていた事に安心しつつも自分が狼狽していた事が恥ずかしくなってしまい、真っ赤になってしまう。
 しかもほっとしてしまったのがいけなかったのか、脚が攣ってしまった。

「あっ!?」
「椛!」

 派手な音をたてて沈む椛を、慌てて太公望がその手を掴んで水中から引き上げる。
 幸い救助が早く水も飲んでいない為、人工呼吸と言う幸運には転がり込めない。
 だが不覚にも脚を攣ってしまっている椛が一人で岸まで泳ぐのは不可能に等しい。

「世話の焼けるのぉ」

 椛は太公望に抱き寄せられた状態であり、その温もりにずっと赤面している。
 水が冷たいからこそ自分を抱き寄せている人間の肌の暖かさが痛感出来ていた。

 後にお姫様抱っこと呼ばれる抱きかかえ方で椛を抱きかかえた太公望は、水面に立つ。

 そして水面をゆっくりと歩き始め、岸に向う。

 ―――動物達が頭を垂れ

 ―――皇たる神に乙女は抱きかかえられ

 それはまるで一つの奇跡とも思える景色。

「もぉ良い…去れ」

 岸に辿り着いた太公望の号によって集まっていた動物達は森に帰っていく。
 椛も丁寧に、木に背中を預けるように降ろされる。

「脚は大丈夫か?」

 水もしたたるいい男状態の太公望の手が、椛の素足に触れる。

「へっ平気ですこの程度! それより主の傷の方が!」

 逆に椛の手が太公望の肩に触れた瞬間、太公望の顔が痛みで歪む。
 黄忠との一騎打ちで負った傷が癒えていないのだと、椛は確信した。
 だが現実は南華老仙の刃によってつけられた呪いの傷跡であり、癒えきらぬ傷跡。

「この程度は問題ない…龍脈の力も少しばかり借りたしの」
「龍脈? ここがですか?」

 【龍脈】

 風水で登場する一種の幸運を宿した場所の事である。
 この龍脈の恩恵が大きい場所は吉が、少ない場所は凶が訪れるとされたりもしている。
 また水は特に龍脈との関係が密接であり、古来より水は多くの交易や生活を支えてきた物だ。

「少々身体に難が起きての……さしずめ穢れ流しと言った所よ」

 太公望の顔色は眼に見えて良くなっていた。
 少なくとも袁との決戦の際に懸命に体調を隠していた時に比べると尚更に顔色が良い。
 
 この行為は龍脈の力を使って、呪いを流していたのだ。

 太公望がこの場所を見つけた一ヶ月前もの間、暇を見つけては呪いを流していた。

 これによって吐血症状は少しずつ緩和され、傷も少しずつ消えている。

「しかし困ったのう……」
「えっ?」
「このままでは二人とも風邪を引いてしまう」

 二人とも水を頭まで浸かってしまったのだ、服も乾いていない。
 むしろ二人揃ってこんな格好で帰った暁にはきっと嫉妬の霊獣が降臨する。
 太公望の顔は恐怖から青ざめ、椛もかなり悩んでしまう。

(だがこのまま服が乾くまで二人っきりと言うのも……)

「椛、これを羽織れ」

 太公望は普段一番上に羽織っている黒い羽織りを椛に手渡す。
 手渡された羽織は彼の匂いを放ち、まだ溺れたのから助けられた際の水も残っている。

「お主に風邪など引かせたら詠から罵倒が五月蝿いからの……少し臭うかも知れんが……まぁ我慢せよ」

 薄手一丁の太公望と露出部分の多い椛では、羽織りを貸して丁度お相子くらい。
 椛も手渡された羽織りを羽織り、そっとその匂いを嗅ぐ。

(主殿匂い……戦場の匂いだな) 

 攣っていた脚も気付けば既に痛みも引いていた。

「馬には乗れるか?」
「この脚では少々……」

 幾等痛みが引いたと言っても、やはり不安は不安である。
 今、下手に落馬などすれば大怪我をしかねないのは間違いない。

 悩んだ太公望の取った選択は……

「仕方ない、椛はワシの前に乗れ」
「わっ判りました」

 一つの馬に二人が乗り、椛の乗っていた馬はついて来させる。
 元々走らす気はなく、とりあえずゆっくりと街へと帰り始める。
 まだ太陽は夕暮れからは遠いが、真昼は確実に過ぎている時間。
 ゆったりと日に当たりながら歩いていれば自然に服も乾いていく。

「主殿……私は皆を騙しています」

 それは馬をゆったりと歩かせている時だった。
 突然椛はそんな事を言うが、太公望は何も言わない。

 ―――騙しているのは自分もなのだから。

「私の名は…本当は”華”雄ではなく”葉”雄なのです
  葉雄などと言う弱弱しい名を嫌って、私は偽名を使っています」

「だからどうした、その程度の事に何を思う」

「主殿だけには知っていて欲しいのです……私のもう一つの真名を」

 ―――葉雄 椛

 それが私の本当の名と……

「風が吹けば、木々はざわめき、木の葉達は歌を奏でていく、時が過ぎれれば山一面を美しく彩る」

「ですが時が過ぎれば無様に散り、些細な風にすらその身を散らしていきます」

「されど再び生まれては季節を告げ、美しき始まりを歌う」

「美しき始まりならば、終わりはさぞ醜い唄を歌います」

 そんな弱さを嫌いました。

「葉雄 椛よ……ワシはそれを美しいと想う…それはいけない事か?」

 ……違うと思います

「ワシ等だけの”椛”は戦場で銀色に咲き誇る様を美しいと言わぬ者はおらぬ」

 椛の頬が恥ずかしさから赤みがかる。
 その様子に太公望はご満悦なのか笑みを浮かべていた。

「椛、散るな……皆と共に天下泰平を掴み取るまで」

「約束しましょう……この葉雄 椛は決して死なぬと」

 ―――だから

 太公望の唇を椛の唇が塞ぐ。


「これは名と共に秘密としましょう主殿」


 離れた唇・少女の様な笑顔を浮かべる椛。

 爽やかな風が一陣……木々の歌を奏でた。


「やれやれ……ワシは”主”呼ぶ女子には勝てんのぉ」


 馬は止まる事無く歩き続ける。
 新しい家たる城に向けて。



=================================================



 城に戻ってきたのはもう夕刻の頃合だった。


「ホーーーホッホッホッ! 貴方様の麗羽がお出迎えてあげますわよ!」


 城の入り口で元に戻った袁紹が悠々と立っている。

「姫が昔に戻っちゃいました!」
「せっかく融通だとかが利く状態だったのにな」

 袁四武将は一様に頭を抱えて悩んでいた。
 せっかくまともで何とかなる状態だった麗羽が昔に戻ってしまったのだから。

「猪々子・斗詩……取り押さえよ」

 呆れかけている太公望の命令で二人が麗羽の動きを封じる。

「何しますよ!」
「えーーーっと、姫ごめん!」
「それと”しますよ”じゃなくて”しますの”だと思います」

 あっという間に縄でガンジガラメにされた麗羽に太公望が短刀を振るう。

 切り落とされる腰まで伸び直されていた金色の髪。

 ガクッ! とうな垂れてしまう麗羽。

 だがすぐに目覚めて……

「あら? 私は何故縄で縛られていますの?」
「散髪を嫌がったから少し身動きを封じた程度よ」

 また礼儀正しく、融通の利く麗羽に戻る。

(袁紹ってどんな体質なんだ?)
(きっと髪の毛が伸びるほど傲慢になっていくのだろう)
(これからは定期的な散髪が必要ですね)

 ―――髪の長さで人が変わる人間、袁紹と、この日彼女は認識された。

 だが問題は椛を中心とした状況だった。

「あぁ! 椛チン、それ望チンの羽織りやろ! ウチにも貸してぇなぁ」
「貸す……じゃないと取(ぶんど)る」
「少し水被ってるわね、ほら貸して! 月に洗濯して貰わないと!」

「冗談じゃない! これは今日溺れてしまった私を助けて下さった主殿が風邪を引かぬようにと渡して下さったのだ!」

 この言い争いが嫉妬の霊獣を呼び起こす。


「華雄……その話を詳しく聞かせてもらえないか?」


 先程まで何も無かった愛紗の手に青龍偃月刀が手に握り締められている。
 戦場で放つ覇気の全てを椛一人に向けていた。


「ふっ……主殿の羽織は戦場の匂い! これがある限り負けはせん!」


 戦斧を構えて、椛も戦闘体勢に突入する。
 しかも太公望の羽織りと言うお守り付きの戦闘に、負ける気のしない椛。
 その顔は愛紗の嫉妬の覇気を目の前にしても悠然と立つほど。



「お主等……いい加減にしろ――――――!!」



 真剣による一騎打ちが始まり、それは横からの参戦者を交えた大乱戦に変貌していった。

 その日の夕刻に太公望の罵声と長い長い説教が入り口で展開させられたらしい、と。

 街ではちょっとした語り草となったそうだ。


■作家さんに感想を送る
■作者からのメッセージ
 193様
 修正ありがとうございました
 前回みたいにご迷惑をお掛けしました
 
 ソウシ様
 ご感想ありがとうございます
 文王が死んだ際には太公望も懸命に耐えていましたからね
 数千人もの粛清は反乱軍兵士も含まれて居ます
 それに袁領地内の郭図達の手勢も居たので、数千と表記させて頂きました
 袁紹と袁四武将は無事生存、次なる戦へと特訓の真っ最中です
 結局、袁紹の変化は髪の短い間……長くなると元に戻ってしまいます
 あともう一話は平穏編を書きます…呉同盟の話でもありますが

 ボンド様
 張袷には愛する猪々子の為に生きていただきました
 でも張袷は蜀や劉備がもっとも恐れた百戦錬磨の猛将ですから
 ネタバレは計画的ですね、判りました
 全ては神が計画する歴史(記録)の刻まれたままに
 もっとも南華は南華で少々好き勝手に動いていますけど
 死力を尽くした魏との決戦は間近、その為にも呉との同盟を
 最後にあざ笑うのは誰か……

 自動車学校が本日休みになったので慌てて投降
 いやプロットとネームを組み立てたりするのが楽しいです
 それではまた
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