翌日。
待っても呼んでもいないのに、勝手にやって来た土曜日。
その午前11時。
僕は揺れることのないモノレールで、都外へと向かっていた。
目指すは統合情報原理発展学研究所。
あ〜帰りたい。
思わず本音が口から洩れなかったので、今度は声に出して言う。
「あ〜あ。かえりたいなー」
この車両には他に誰もいないし、べつにかまわないだろう。
明日の昼食パーティーについては、出かける前にオンラインで食材やら調味料やらを注文しておいた。
本当はちゃんと自分でスーパーに行って、これがいいあれがいいと選ぶべきなのだろうけど、朝から行ったのでは早すぎるだろうし、帰ってからは行く暇が無いような気がしたのだ。
杞憂に終わるといいな。
それにしても、統合情報原理発展学研究所という場所だけでもうんざりなのに、昨日の彼女の件でさらに憂鬱になる。
歩きや走りだけで、昨日の今日に到達できる距離ではないが、万が一ということがある。
彼女がいたら迷わず帰ろう。
どこの研究所から逃げ出したか知らないけど、僕には関係のないことだ。
この世界の暗部に触れるのは、両親のおかげでもう満腹なのである。
ああ。
お父さん。お母さん。
あなたたちの跡を継ぐ気がこれっぱちも無い、親不孝な僕を許してください。
これも世の為人の為。
ひいては僕の為なのです。
地獄にいるあなたたち二人の後を追うつもりもありません。
僕は合理的・打算的にせいぜいささやかな幸福とともに人生を全うします。
死人にくちなし。
反論はこちらでは受け付けておりません。あちらの窓口でどうぞ。
あなたたちが残した痕は、今も呪いとなって僕を苛みます。
今日こうしてモノレールに乗っているのもあなたたちのせいです。
どうもありがとう。
いったい何人分の血で濡れているのかわかりませんが、遺産は上手に使います。
それではさようなら。
宛先は地獄の三丁目でいいでしょうか?
返事はいりません。
よし。
こんなかんじのことを一方的に言って、帰ってやろう。
監視カメラや写真に撮られないように、あるいは撮られても大丈夫なように、僕から放出されている光情報にはジャミングをかけている。
肉眼でも、度の合っていないメガネを通して見ているように、はっきりしない像を結ぶだろう。
まあこんなこと、全く意味無いだろうけど。
それでも、非合法・非存在の研究所ではなく、統合情報原理発展学研究所の指定なのだから、強引な手段に訴えるつもりは無いということだろう。
世界征服という子供じみた目的は既に達成できているのだから、新しい人材はもういらないだろうし。
見る気のなかった窓の外の風景を視界に入れる。
荒れ果て、死がこびりついた風景。
断末魔さえ聞こえてきそう。
目をそらす。
指を鳴らす。
シェルを起動させ、ミュージックのデータを開く。
ジャミングにずいぶん演算領域を割いているとはいえ、これぐらいなら大丈夫だろう。
ムービーなら危ないかもしれないけど。
到着までに一曲聞こう。
ポケットからイヤホン取り出す。
細長い勾玉のような、外耳の周りに取り付けるタイプのイヤホンだ。
耳に嵌め、流れてくる優しげな旋律に埋没する。
窓の外はもう見ない。
目をつぶる。
世界の隅で誰が泣こうと、僕には関係ない。
「・・・・・・ほんっとサイアク」
都外と呼ばれる廃墟じみた景色の中でポツリと。
苦ささえ携えたその声は、響くこともなく拡散していった。
味気ない空気に苦味を零したのは少女だった。
身に纏うボロのようなマントも、履いているスニーカーも、はみ出ている肌色も、跨っているオートバイも、すべてくすんでいるのに、髪だけが異様に輝いている少女。
「せっかく気付かれることなく都心部にもぐれたっていうのに、目的の物が無いなんて。おまけに通ってきた方向にあるとか」
眉根を寄せ、折れ線を描いた口から愚痴をもらす。
昨日の夜、やたら臆病で用心深い中学生ぐらいの男の子に情報学の機材を在処を尋ねたところ、都外の研究所にあると言われたのだ。
自分にとってはたいした距離でないにしても、疲労もあり辟易しながら、舌打ちしながら、都外へ通じるモノレールが走っている駅に行き路線図を調べたところ、浮かび上がったのが統合情報原理発展学研究所だった。
ここならば確実に機材はあるだろう。
それは確信にも近かったが、それは願望でもあった。
ただ、場所だけが分からなかった。
都外に多くある建造物のうち、どれが統合情報原理発展学研究所なのか判断するのは酷であった。
「・・・・・・・・・・・・」
深窓の令嬢のように、かすかに息を漏らす。
薄くなった目が動くものを捉えて、鋭さを帯びる。
視界の先を、一本のモノレールが横切って行った。
ビルの残骸に隠れながら様子をうかがう。
息を殺してじっと見守る。
対象は騒音を撒き散らすようなことをせず、静かに、レールが続く先へと去って行った。
例の黒い改造体を大量に蒔いていくということもなかった。
「ふう────」
安堵の色を混じらせながら、溜めていた息を吐く。
してから思いつく。
今のモノレールはたしか、例の研究所へ向かうのではなかったのかと。
後を追って行けばあるいは──そこまで考え、
「よしっ!」
一度目をぎゅっと閉じ、気合の声とともに見開く。
両の目を野性的に光らせた少女は、オートバイを急発進させた。
ここで降りるのは僕だけだったようで、他に誰もいない筒型の駅をぶしつけに見回す。
たしか、幼い頃に一度両親に連れられて来たと思うのだけど、変わり栄えは無いように感じられた。
汚れ一つ無い白いタイル。
壁には外の風景を意識してか窓は無く、一面に麦穂畑の映像が揺れていた。
天井には青空の映像。
偽者ばかりだ。
モノレールの扉が閉まり、次の駅へと走っていく。
見送ることなくレールに身を乗り出して、もと来た道を覗き込んでみる。
廃墟があった。
うん。これは本物。
納得して、警報が鳴らないうちに体を戻す。
レールの真逆を向く。
階段などは無い。
凪ぐ麦穂が映像だと言わしめる、自動ドアがあるだけ。
研究所はドーム型の駅に密着して、
聳え立っているようだった。
その全貌はわからない。
何階建てかさえも。
中に案内板があればいいけど。
微塵も期待せず、緊張だけを抱いて扉をくぐる。
が、二重扉だったようで、さらなる硬質が立ちはだかる。
透明な扉を海のごとく左右に割る。
赤い絨毯が敷かれていないことに安堵しつつ、足を踏み出して中に入る。
代わりの出迎えは人工的な冷気だった。
駅構内も十分冷やされていたが、ここはそれ以上だった。
が、その肌寒さはどうやら勘違いのようだ。
温度を調べてみると、それほど外と差は無い。
そのように錯覚してしまった理由としては、ロビーの空虚さにあるだろう。
広く、味気ない。
緑はおろか造花さえも無く、ただエスカレーターとエレベーター、それに非常階段への入り口があるだけだ。
横に伸びている廊下は、途中で折れ曲がっており、様子をうかがうことはできない。
大企業の本社ビルを連想させるようなロビーには人気も全く無かった。
代わりにドラム型の白いお掃除ロボットが音も無く床の上を動き回っていた。
受付もあるが、そこにも誰もいない。
ただ、古風なベルが置かれているだけだ。
とはいっても、そのベルは人を呼ぶためにあるのではなく、ナビゲーションシステムを起動させるためのスイッチなのだろう。
そのベルを押せば、知的な女性が描かれたウインドウが表示されて、この研究所の案内をしてくれるのだろうが、僕はどうもあの手の数学的に整った顔というのが苦手なので、できるならあまり使いたくはない。
アナログな案内板を探す事にしよう。
意外にもそれはすぐに見つかった。
非常階段の扉の横で所在無さげに存在していたのだ。
・・・・・・この配置はどうなんだろう?
非常時で、エレベーターもエスカレーターも使えなくて、いざ非常階段を使おうという時にその場所が分からず、探す手段である案内板がその非常階段の近くにあるというのは。
ともかく、問題の案内板はちょうど目線の高さに設置してあるので、首を痛めずに見ることができる。
アナログではなかったけど。
衛星写真のように俯瞰的な画によると、この研究所は本館・西館・東館の三つの棟に分かれており、いくつかの階に設けられた廊下で連結されている。
まるで急造されたキャンパスみたいだ。
僕が今いる本館は地上六階建て。
西館は地上四階建て。
東館は地上五階建て。
ただし、どの館も地下七階あり、そこでは本・西・東の区分は無い。
完全に繋がっている。
一般の研究所としてはけっこう大きいのではないだろうか。
さて、待ち合わせ場所である第五研究室はどこだろう。
「えーと・・・・・・」
第五研究室と打ちこみ、検索をかける。
一秒と経たずに結果が出る。
目印の青い点が光っているのは西館三階の端。
遠いな。
現在地点からのルートを辿ろうとして、やめる。
案内板の地図自体をシェルにコピーする。
なにがあるか分からないし、ちょうどいいだろう。
それほど重いものでもないし。
さっそくペーストしたばかりの地図を表示させて、僕はその場を後にした。
「ふーん。それじゃ、研究データとAランク以上の科学者たちの隔離は完了したのね」
黒いセミトレーラーの横にある、廃墟に似つかわしくない豪奢な赤い高級車の後部座席に、その女は腰をかけていた。
彼岸花のようなドレスを身に巻きつけ、太ももを晒すように脚を組み、その上に肘をつき、その手の甲をおとがいに当てて微笑んでいる。
纏うドレスと同じ色の、妖艶で肉感的な紅い唇から、確認の言葉を零す。
「ということは、全員殺してもいいのよね」
聴く者の耳朶をくすぐるような声音は、官能的な響さえ含んでおり、その物騒な話の内容も気にかからないほどだった。
「ええ。ジャマ者がいた場合はそれも」
運転席と助手席に座る黒マスクの怪人は一つも音を発さず、沈黙しているだけだ。
それでも、女は会話する。
蠱惑で蠱毒な破滅の物語を紡ぐ準備をする。
色があるとするなら、それはおそらく銀色だろう。
妖しく腐液に濡れる鋭利な色。
カッ
赤いヒールの踵を硬く打ちつける。
目が笑みをたたえたまま、細く鋭くなる。
「ええ。このアラクネー、我ら偉大なる────」
称える言葉は、トラクターの扉が開く音にかき消されてしまった。
金属が擦りあうイヤな音を立てながら観音に開く扉からは、冷えた空気が渦巻きながら洩れている。
奥が見通せず、光を食いつぶしたような闇の中、赤い光がいくつも点った。