「いい月だな」
言われて、空を見上げた。
なるほど。
大きな満月が夜空を占めていた。
血走った目のような、肉感的な赫い月だ。
周りに何も遮蔽物のない、草原のような場所だからよくわかる。
夜空が流れ出た血液だとするならば、赫い月は切り取られた肉塊だろう。
常ならば周囲に蟻のようにたかる星星はない。
正体はただのゴミである流れ星も当然ない。
赫い月だけが下界を見下ろしている。
「・・・・・・・・・・・・そうだな」
短く、声をかけられた男が応える。
素肌の上に上下のボタンをいくつか外したワイシャツを着て、ジーパンをベルトで適当に止めている。
髪はそれほど長くないものの、一度も洗ったことがないというようにボサボサだ。
肌の色も白く、太陽の光を知らないかのようである。
そんな不健康そうな男。
「この感じ、お前も吸血鬼なのか。それも『主人』の」
次は逆に問いかける。
背の高い、赤い男に。
青年といってもいいだろう。二人とも。
白いシャツに黒の上下。白い両の手袋。
これ以外は全て血のような赤色である。
つばの広い、ヒピハパのような帽子。
水中メガネのように目の周囲ごとすっぽり覆っているサングラス。
胸元のアクセントである、リボンタイ。
全身を包み隠せるような大きなコート。
手袋に描かれた魔方陣のような文様。
その全てが赤い。
ただ、長い髪の色はもう一人と同じ黒で、これまた同じく不健康そうな青白い肌に絡まり、背の高さとあいまって幽鬼じみた雰囲気を振りまいている。
紳士然としたその男は、しかし薄い唇から下品に歯を見せながら答える。
「いや、『主人』という言葉に聞き覚えはないな。マスターとなら呼ばれていたが。そういう意味ではないんだろう? だが。ああ、そうだ私は吸血鬼だよ。貴様と同じでな。貴様も真祖なのだろう?」
またも質問され、男は困惑する。いやというよりも、言葉の意味が解っていないようだった。
「真祖? ふん。どうやら僕が言う『主人』と同じ意味のようだな」
しかしようやく得心いったと頷く。
赤い男も似たようなことを思ったのだろう。
「なるほど。つまりはあのふざけたネコの言うように、異世界の吸血鬼同士ということか」
「いや、僕の世界に当てはめれば、君はヴァンパイアという存在だろう」
男の否定に、赤い男は失笑したかのように鼻を鳴らす。
「それがどうしたというのだ。ヴァンパイアの日本語訳が吸血鬼なのだろう?」
「だから、東と西の違いだ。僕は正確に言うなら血吸いの鬼。鬼の一種だ。西洋ではそうではないだろう? 吸血鬼、ヴァンパイアとして独立したものだろう」
「クククク。所詮は言葉遊びだろう。名前など、姿形以上に無意味だ」
「名前は重要だよ」
短く、またも否定の言葉を。
しかし赫い月から一度も目を離さず、赤い男を一瞥もすることなく会話しており、その目はどこか空っぽで、本当に月の赫さがわかっているかも定かではない。
「価値観の相違だな。ではその大事な名前を名乗らせていただこう。どうやらそちらのほうが年上のようであることだしな。私はアーカード。Alucard だ」
「年齢なんて僕らに関係ないのは分かっているだろう。僕は千年以上も生きたのに、それでも最近になって新しく知ったことがいくつもある」
「ほう。千年も。私はせいぜい500年ほどだが。それでもたしかに、いくつか知って驚いたことがある。人間の進化のスピードなどには特にな」
感心したように言う赤い男に、ようやく月を見上げる男は反応を見せた。
といっても、くしゃみをしそこなったような笑いをもらしただけだが。
「僕もだよ。人間はあれでかなりの脅威だ。ああ、そういえばまだ名乗っていなかったね。僕は────
魎月だ」
途中で言葉を選ぶように、迷うようにしながら名前を口にする。
「魎月か。いい名前だな。月が好きなのか?」
「そうだな。従者にも、月に関連する名前を付けていたな」
先ほど見せた笑いは幻覚だったと思わせるような、またもや無感動な、どうでもいいというような魎月の返答。
これに赤い男、アーカードは苦笑する。
「ああ、すまないな。久々のまっとうな吸血鬼との戦闘だからな。少し興味がわいてしまった」
戦闘。
この言葉に魎月が初めて、アーカードを睨むようにしながらも視界に入れる。
体を向け、アーカードと向かい合う。
「戦闘、か。お前も、なにか願うことがあるのか?」
「願いなど持ってはいない。だが、帰らなければならないところがあるのでな」
「帰る場所か。羨ましいな」
今度ははっきりと、魎月が目を懐かしむように細めて、笑うのが見て取れた。
自嘲のような笑みだったが。
「そういう貴様にはあるのか? 願いごとが」
言われて、魎月は再び視線を空に向ける。
そのまま静かに語りだす。
「さっき君は、人間の進化スピードに驚かされたと言ったね。僕もそうだ。このままではいずれ人間によって僕のような化生の存在は全滅させられてしまうと思うほどにね。だから、僕は人間になろうとしたんだ」
「ほう、人間にか。それはなんとも叶えがたい話だな。だからこそ、その願いをこの夢のような機会に叶えたいのか?」
「いや、そうじゃない。どだいムリだと思い知らされたからね。多大な犠牲を払って。大事な人を死なせて、人生を狂わせて、ようやく知ったんだ。吸血鬼は人間と違って平和を楽しむことができない。生きる世界がまったく異なるのだと」
最も近くにいて、自分のことを好いてくれた彼女は二度死んだ。
自身の覚悟が足りずに巻き込んでしまった彼女は、これから一人で生きなくてはならない。人間ではない体を抱えたまま。
こんな自分に呆れながらも長く連れ添ってくれた従者は、自分の勝手でその契約を破棄した。それでも彼は、まだ主人の心配をしてくれているのだろう。
だから。
だからせめて、
「彼女たちには、僕に関わらなければ失うことのなかった平穏を返してあげたい。それが僕の願いだ」
空っぽの瞳から、搾りだすかのように言い終える。
アーカードはそんな魎月の何が面白いのか、肩を震わせ、声を上げて嗤いだす。
口に手を当てて隠しているものの、かなり面白がっているのは明白だった。
「ククククク。こう言っては失礼かもしれないが、先ほどからの貴様の言動は────まるで人間のようだぞ?」
アーカードの嗤い声にも反応しなかった魎月が、静かに視線を下ろして、目を閉じる。
「そうかな? いや、そうかもしれないな。最後の最後で、僕は人間が持つ感情というものを理解できたかもしれない。でも、だからこそ、僕は自分が化生であるということも同時に理解したんだよ。所詮僕は戦闘を好む吸血鬼でしかないと。だから僕は、月島亮史じゃなくて、魎月だ」
魎月のその言葉を聞いて、アーカードはサングラスを外すと、顔の前でぐしゃりと握り潰してみせた。
あらわになった赤い双眸を歪めて、歯を剥き出しにして、獣のように謳いあげる。
吸血鬼の本性を丸出しにした、世にもおぞましい嗤み。
「そうか。ならば始めようか、戦闘を。化物同士の殺し合いを。血の臭いの中にしか生きられない吸血鬼同士の。死なない者による狂宴を。臓物を晒し並べ、血のワインを杯に注ぎ、命尽きるまで踊りつづけるとしよう」
どろりとした血の泥で作られた招待状に、魎月の体が膨れ上がる。
そして、何倍にも膨れ、黒い毛が生え出した箇所から、顎が裂け、赤い目玉が覗く。
自らの重さに耐え切れなくなったかのように、ぼとりと地面に落ちたそれは、すぐに備わった四本の足で丈の短い草を踏みしめて立ち上がった。
狼だ。
吸血鬼の『主人』としての能力。
対するアーカードは、顔の前まで両手を上げ、人差し指と親指で縦に長い長方形をかたどる。
その切り取られた空間から、片目を赤く輝かせる。
「
拘束制御術式第二号・解放」
アーカードの体が陽炎のように揺らめく。
やがて全身に目が開いた。
いずれの目も魎月を捕らえている。
「最初に言っておこう」
もはやどこにあるか分からなくなった口から言葉を吐く。
「貴様が月島亮史とやらではなく、化物の魎月として戦うというのなら、決して私には勝てない────なぜなら」
その口上が終わるよりも早く、疾く、魎月は狼を二頭左右に従えて、溶けゆくようなアーカードに突撃した。