ズッ──────
相手の視界から逃れるために利用した樹が、ずるりとズレた。
「なっ!?」
私が両手を回しても、人差し指さえ再会できないであろう程の胴を持った樹がである。
信じられないスピードで、倒れる樹と地面の隙間を縫い走り、追撃してくる銀光に、握った薄いナイフを合わせる。
突斬
袈裟切
横薙
火花は三度咲いた。
しかし私とて、『午前零時の殺人鬼』と呼ばれた女だ。
打ち合った刃をすべらし、返す刀で相手の細い首を狙う。
キンッッ
またしても火花。
刃と刃が噛み合う。
防がれた。
鍔迫り合いの状態になり、互いに相手を押し合い、距離を取る。
────ズズぅぅぅん・・・・・・ そしてようやく、先ほどの樹が地面に倒れ落ちた。
「貴様、どういう手品だ?」
余裕が出来たからというわけではないが、自分の目の信用を賭けて、今一度相手の姿を確認する。
女。
おそらく私と同じ年頃の。
背格好も、髪型も似ている。
女物らしからぬ、青い簡素な着物の上に、なぜだか赤い革のジャケットを着ているが、不思議と違和感は無い。
いや、それよりも問題は右手に握られた獲物だ。
ナイフだ。
どれだけ見ようが何回見ようがナイフだ。
それなりに上物らしいが、ナイフはナイフだ。
そうだというのに、目の前の女はそのナイフで大樹を切ってみせた。
まさに一閃。
何の迷いも無く。
数度打ち合い、そしてこれまでの動きから推察するに、
おそらく、私と身体能力は大差ないだろう。
膂力。
筋力。
瞬発力。
判断能力。
ナイフの腕。
スピード。
見切り。
体重。
身長。
およそ特異な点はない。
いや、もちろん私も自分がかなりの腕前を持っているというのは自覚しているが、いくらなんでもナイフで樹は切れない。
動きから察するに、相手は何らかの格闘技を習っているようだが、どのような技を身につけても不可能だろう。
ナイフで鉄は切れる。
ナイフで骨は切れる。
しかし鉄板は切れない。
しかし頭蓋骨は切れない。
物理学を持ち出すまでもない。
当然のことだ。
「そんなこと、お前に関係ないだろ」
「そのナイフが実はライトセーバーなのか、樹に切れ込みでも入っていたのか」
「あいにく、手品師じゃないんだ。そんな器用な真似は出来ない」
もともと饒舌な方ではないのか、言い終えると同時に踏み込んでくる。
それに合わせて、私は手に持っていたナイフを投げつけた。
スローイングナイフ。
そもそもの使い方はこうだ。
正面からの奇襲を狙うために、あえて薄いスローイングナイフで戦っていたが、相手の一撃が想像よりも重い。
ナイフも限界だ。
懐から新たにスローイングナイフを抜き、さらに放つ。
一本目は顔を。
二本目は胴を狙った。
そして両方ともが弾かれる。
想定内だ。
しかし想定外なことに、弾かれたスローイングナイフは二本とも両断されていた。
尋常な腕ではない。
私も踏み込む。
ただし、それは間合いの調節のためだ。
切り込むためではない。
まだ遠い。
しかしあと二踏みで間合いに入る。
腕の長さ。リーチは同じだ。
私の間合いは、相手の間合いでもある。
さらにスローイングナイフを一投。
顔にめがけて飛んできたそれを、驚異的な反射速度で弾く。
だが、それによって視界はふさがれてしまった。
おそらくまた両断されたのであろうナイフを見ることもなく、私はさらに踏み込んでいた。
そしてナイフを抜く。
スカートの中の、太ももに吊ったホルスターから。
すなわち、外からは見えない位置から。
スローイングナイフではない。
もっと肉厚で丈夫な、そして大切なナイフ。
スカートの裾が舞い上がる。
ひやりとした空気が、外気に触れにくい箇所の肌を撫でる。
抜き打ち気味に放ったナイフは、そのまま相手の脇腹へ吸い込まれて────
ガシッ!! 咄嗟に、ナイフを持っていない左手で、蹴りをガードした。
「くうぅっ」
肘までしびれる衝撃が走る。
当然ながら、ナイフは届かなかった。
逆らわずに吹き飛ばされて、また距離を取る。
「へえ。いいナイフだな。『線』が見えにくい」
「? どういう意味だ」
「いや、別にたいした意味はないさ」
眉根を寄せて訊ねるも、袖はにべなく払われる。
線。
なんの線か。
あいにく、手相もロクに知らない。
答えを求めて、相手の眼を見返す。
青い瞳。
いや。
青よりは濁った色か。
私とは違う色のその瞳は、いったいなんの光情報を取り入れ、脳内に映し出しているのだろうか。
果たして、その瞳にはどのような世界に映っているのだろうか。
少なくとも私には、あまり居心地がいいとは言えない世界だ。
あいつがいない世界というのは、味気ない。
「ッッ!!」
「なに赤くなってんだ?」
「う、うるさいっ! 西日のせいだ!」
「出てるのは青い月だろ」
「じゃあそれだっ!!」
「顔の赤さを指摘してるんだろうが・・・・・・。お、また赤くなった」
「わ、忘れろ!」
「過去のことになったわけじゃないだろ。まだ赤い」
「さ、刺しちゃうぞ!」
「さっきから何度も殺り合ってるだろうに」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
心から訝しむように、呆れながらもしつこくついてくる質問をふり払う。
ついでに脳裏のあいつの姿もふり払う。
ナイフを握りなおす。
眼前の敵を見据える。
殺しはしない。
誰一人とて。
でも、元の世界には戻ってみせる。
私たちはいつだって、自分たちで選択肢を作り、それを選んで進んできたのだから。
「 」
「 」
踏み出す。
飛び込む。
同時に行ったその動作は、鼓膜を引っ掻くような金属音を生んだ。
腕が弾かれる。
逆らわずに回転、側面に回りこみ、ナイフを振るう。
そこに相手はいなかった。
予想通り。
私と同じ動きをしていた。
さらに身体を回し、ナイフを振り抜く。
キシッ
ふれあいは一瞬。
噛み合うこともなかった。
正面を向き合う。
振り抜いたまま、腕を回転させて、逆袈裟に切り裂く。
それに対し、女は半身になって、ナイフを突き出すことで回避と反撃を同時に行ってくる。
私も、足を引っかけて転ぶかのように、身体を横に移動させる。
女はナイフを横に滑らせて薙ぐように追撃してくる。
回る女の側面に跳び込むように、前へと踏み込む。
しかしさらに女の体は遠ざかった。
女も横に跳んでいた。
着地するまでの滞空中には追撃は不可能と判断し、体勢を整えることを優先させる。
が、女は右足で地面を蹴って、もう一度こちらに跳び込んできた。
ガッッ! ナイフでなんとか受け止めるが、かけた体重は相手の方が上、押し負ける。
ナイフが下方に弾かれる。
この隙を見逃すはずもない。
女のナイフが私の心臓めがけて振り下ろされる。
「ふっ」
それを、左手で抜いておいたスローイングナイフで受け止める。
武器の数は、そのまま打てる手数の総数にもなる。
逃がさないように、ナイフとナイフを絡める。
こうも密着していては、蹴りも放てないだろう。
同じ愚は犯さない。
右手のナイフで狙うのはがら空きになった脇腹。
頚動脈を狙ってもいいが、殺すつもりはない。
急所は狙わない。
(これで詰みだ!)
だが唐突に、左手のナイフの手ごたえがなくなる。
(────!?)
眼球を動かさず、意識だけを向ける。
相手がナイフを手放していた。
引力の影響を受ける前の、いまだ宙にあるそのナイフの柄尻を手の甲で弾く。
回転しながら重力に逆らって昇ってくるナイフは、まっすぐ私の顔をめがけていた。
受けても致命傷にはならないだろう。
刺さるような角度ではない。
切れるだけだ。
だが、顔だ。
「くっ」
頭を逸らしてかわす。
かわされる。
ワルツのように、お互いに立ち位置を変えながら攻撃をかわす。
脇腹を狙ったナイフは空振りに終わった。
距離がまた開く。
「強いな。達人級じゃないのか」
距離を埋めるように、樹に刺さったナイフを引き抜きながら、今度は相手から声をかけてきた。
「お互い様だろう」
相手の口元が、愉悦に歪む。
私も同じ顔をしているのだろうか。
問いかける前に、女が答えを返す。
はたしてどちらの答えか。
「そうかもな」
だから、動きが読みやすい。
その言葉は声に出ていなかった。
唇を動かしただけだ。
代わりに、ナイフが真っ直ぐに飛んできた。
唯一の獲物を容易に回収できない状況でまたも投げるという愚行に、さまざまな推測を挟みつつも、左手のナイフをその軌道上に、バントをするように構える。
まだ武器を隠し持っているのか。
それは飛び道具なのか。
次の一手は。
キッ!
そして、それら一切の思考がえぐれるような痛みで吹き飛んだ。
「ぐっ!?」
皮膚が引っ張られる痛み。
痒さを伴う熱。
無意識のうちに体を捻ったおかげで直撃は免れたが、それでも胸の上を切り裂かれた。
鮮血。
ナイフは確かに弾いたはず。
飛んできたナイフの影に、実はもう一本ナイフがあったとか、そういうことではない。
左手のナイフは柄しか残っていなかった。
刃は根元から折られていた。
ちがう。
根元から切断されていた。
そうとしか言いようのない断面。
弾いたはずなのに、スローイングナイフをあっさり切り裂き、抵抗を受けることもなくそのまま真っ直ぐに飛んで、私を切り裂いた。
傷はそこまで深くはない。
かといって浅くもない。
失血死がありうるレベル。
驚愕とともに理不尽を認める。
手を塞ぐだけのものと成り下がってしまった左手のナイフを捨てる。
しかし、感情はそうもいかない。
動揺していた。
相手の姿を見失う。
(後ろ!!)
まったくのカンで振り向き、ナイフを向ける。
そこに女はいた。
青い月を背にした青い瞳に捉えられる。
女の私でも、思わずはっとしてしまう幻惑的な光景。
しかし、血なまぐささは払えない。
女は私の血と肉片をこびり付かせたナイフを空中で逆さまになって掴み、そのまま蹴りを放ってくる。
「あっ、がっっ!」
回転の途中だったのだろう。
無理な体勢からの蹴りではなかったようだ。
威力は十分。
むしろ体勢が崩れていたのは私の方だ。
両腕をクロスして受け止めるも、吹き飛ばされる。
「づぁっ!!」
数メートルほど地面とお別れし、樹に背中をしこたまぶつけてようやく停まる。
「これで詰みだ」
眼前に、ナイフを突きつけられる。
右手のナイフは手放してはいないが、腕を上げるよりも先に刺されるだろう。
打つ手はない。
だが諦めない。
死ぬことはとっくに覚悟している。
人を殺してきたのだから、当然だ。
普通に生きていることは許されない異端。
肉を刺すことに、人を殺傷することに快感を覚えてしまうこの性癖。
自分の満足のために、何人も殺してきた。
そこには、崇高さも正義も深い考えもない。
殺されても文句は言えない。
でも、あいつと出会ってからは死にたくないと思った。
もっと一緒にいたいと思った。
今もそうだ。
打開策を。
起死回生の一手を。
探す。
選択肢を。
「弱い者いじめは感心しないよ、同胞」
冷たい目をした女のさらに向こう。
男の声が聞こえた。