「確か、シエルかノエル……そんな変わった名前だったって」
体育の授業中に入院時に担当だった看護師の清水翔子からの電話に呆然とする高林郁夫。
朝見山市と言う都市の朝見南と言う高校の二年三組で抱いていた違和感。
郁夫が転入してきてから一度も会ったことのないアサミ≠ニ言う生徒と今日欠席している榊原志恵留(シエル)。
アサミ≠ヘどうしたかと聞けばクラスメイトはアサミ≠フ席を指差して「そこにいる」と言う。
志恵留の話をすれば全員が青ざめたような表情をして首を傾げて曖昧な返事をする。
そして清水が言う一昨日に事故死したと言う女子高生の名前がシエルもしくはノエルだと言う。
どちらも日本人離れした名前で、その名前の人物はかなり限られてくる。
その女子高生がシエルと言うのなら……郁夫は変な解釈をしてしまう。
昨日、郁夫は病院で志恵留に会ってその時志恵留は地下二階からエレベーターで上がってきていた。
地下二階と言えば、霊安室がある。郁夫はその時点でどうしてもあり得ない方向に向かってしまう。
―――可哀想な私の片割れ。
志恵留が郁夫に問いただされた時に言ったあの言葉の意味が郁夫は未だに分かっていなかった。
郁夫は清水からの言葉が耳に入らず、そのまま携帯電話の通話終了ボタンを押していた。
土曜日の休日、郁夫は義理の母の智恵と腹違いの妹の梨恵と少し大きなスーパーを訪れた。
父の敏夫は仕事で忙しいらしく、ここ最近は郁夫とも顔を合わせていない。
たまには家族サービスくらいはしてほしい、と言うのは半ば郁夫の本音であった。
智恵は梨恵をショッピングカートのシートに座らせると食品売り場を回っている。
今ショッピングカートに乗っているのは、ジャガイモ、マヨネーズ、キュウリ、ひき肉、玉ねぎ。
この食材を見ると、今日の夕飯はポテトサラダと梨恵の好物のハンバーグだと思われる。
郁夫は智恵たちから離れて店内をフラフラと歩き回っていた。
食品売り場の他には婦人服売り場と家電製粉売り場、それと少し広めの書店がある。
郁夫はフラッと書店の入ると、小説や漫画が並ぶ棚が店内に並んでいる。
入院中は暇で郁夫はよく小説などを合間に読んでいた。
郁夫は小説が並んでいる棚に寄ると、小説の題名を読んでみる。
スティーヴン・キングの「呪われた町」と「ペット・セマタリー」どちらも二分冊の大長編。
ホラーものが集まっているようで、郁夫はあまりホラーものは読んだ事がなかったので、たまにはと思う。
でも、最初からかなりのグロテスクなものは読めない。
郁夫は少し用心しながら小説の数々を手にとっては裏面のあらすじを読む。
見る限り生々しいものもあれば、人間の心理に関するホラーもあるようだ。
郁夫は身体を前屈みにして小説を物色すると、棚の中央に一番目立つように置かれている小説がある。
小説の下には店員が書いたと思われる「今注目のビックホラー!」と赤いマーカーペンで書かれたカードがある。
郁夫は何気なく小説を手に取ると題名は「闇の教室」で著者名は「荒川ルキア」だ。
これも上下巻の作品で、店員が書いたらしきカードには「300万部突破!」とこちらは紫のマーカーペンで書いてある。
郁夫は聞いた事のない作品名と著者名だったので、もしかしたらアメリカで治療中に出た作品かもしれない。
郁夫は裏面のあらすじを読むと、結構面白そうな感じで郁夫は上下巻どちらも一緒に購入した。
郁夫はその後、智恵の運転するキュートな青い小型車の助手席で上巻のほうを早速広げてみる。
郁夫が一ページ目を読もうとした時、ハンドルを握っている智恵がチラッと郁夫の方を見る。
「あ、それ『闇の教室』郁夫君買ったんだね」
「え、はい。あの、智恵さんはこの本を知っていますか?」
「そりゃあ、有名な小説だからね、来月くらいに映画が上映されるらしいよ」
「へえ、そうなんですか」
郁夫は気を取り直して一ページ目を読むと、なかなか文章の上手いと言う印象が持てる。
ストーリーは、主人公のクラスメイトが突然主人公の目の前で自殺し、その主人公はそれから生きていると言う快楽を味わう。
もっとその快楽の欲しい主人公は、いじめを受ける友人に自殺を進める。と言う話である。
幽霊とか呪いとかではなく、人間の欲望を重視した内容である。
人の死を目の前で見て自分の命の快楽を味わい、その後からどんどん壊れていく。
確かにヒットする理由も映画化される理由も郁夫には分かる気がする。
この小説の作者の「荒川ルキア」はこの作品でデビューし、その後も二冊ほど本を出してどちらも同じようにヒットしている。
郁夫はこの時、その他の二冊の本もこれを読み終えたら読もうと考えた。
郁夫は学校でも休み時間になると「闇の教室」を読んでいた。
郁夫は本にブックカバーを付けて一人で席に座って黙々と読んでいる。
だが、郁夫の隣の席の志恵留は今日も休みで先週も結局はあれ以来学校に来ていない。
アサミ≠燉ていないが、なぜだかアサミ≠フ机の周りにはあの女子三人組が集まっている。
クラス副委員長の常本夏帆、野々村飛鳥、高橋直子の三人。
しかも誰もいない机に向かって話しかけているようにも見える。
彼女らは一体何をしているのか?―――それが郁夫にとっての最大の謎である。
郁夫がその謎を脳裡の隅に置いたまま、小説を読んでいると「何読んでるの?」と言う声が隣から聞こえる。
茶髪のショートヘアーに上着のボタンを二つ、三つ外してブレザーではなく上着はジャージを羽織っている七瀬理央。
七瀬は郁夫の机にもたれかかるような体制で郁夫の持っている本を覗き込む。
後ろには黒髪で黒ぶち眼鏡をかけた真面目そうなクラス委員長の八神龍。
八神の隣には黒いセミロングの制服をきちんと着こなしている福島美緒。
「ああ、土曜日に見つけて……」
郁夫はブックカバーを外して表紙の題名を見せると七瀬は「あっ」と声を上げる。
「それ知ってるぅ、私のお姉ちゃんも読んでた!八神も読んでたよね?」
「ああ、少し前にな、結構面白いぞ」
八神は七瀬を小馬鹿にするようにフンと鼻で笑うと自分の黒ぶち眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
七瀬はその八神の笑い方に苛立ったようで、眉間にしわを寄せて腕を組んでわざと怒ったような態度をとる。
「私も読んだことあるよ。他にも荒川さんの小説は読んでて、どれも面白いよ」
「ふうん、他にどんなのがあるの?」
「『バッドメモリー』と『20歳の条約』って言うのがあるの。私は今は『バッドメモリー』を読み終えたところ」
福島はニコニコと何だか嬉しそうに荒川ルキアの作品について語る。
話を聞く限り福島は荒川ルキアのファンだと言うのがよく分かる。
ミステリーホラー系をよく書く荒川ルキアは「バッドメモリー」も「20歳の条約」もミステリーホラーだとか。
福島がそんな話をし終えると、郁夫はあの事について思い切って尋ねてみる。
「ねえ、榊原さんってどうして学校に来ないの?」
郁夫がそう聞くと、三人とも凍りついたような表情で言葉を詰まらせる。
七瀬に関しては前回に聞いた時とほぼ同じような状態で、八神と福島も七瀬と同じような反応。
やはり志恵留、このクラスで何かが起きている≠ニ言うのが分かる。
「あ、あのさぁ、高林君、これアンタが転入した時から話そうと思ってたんだけど……」
「おい、七瀬」
七瀬が郁夫に何かを言おうとした時、八神がそれを阻止しようと口を開く。
「もう、遅いんだよ!」
「もう≠チて言ってもさぁ、高林君に話とかないと」
二人が言い争うのを呆然と見ている郁夫、福島もどうしていいのか分からないようで俯いている。
「と、とにかく!その話は二度としないでくれっ、頼むから」
八神はそう郁夫に吐き捨てると七瀬の手を引っ張って教室から出ていく。
福島も二人の後を追って慌てて教室を出ていく。
郁夫は八神の言葉と七瀬の言いかけたあの言葉がどうしても気になって仕方がない。
このクラスで起きているこれ≠ヘ一体何なのか……。
放課後、部活に入っていない郁夫はそのまま学校を出て帰ることにした。
玄関から出る時、郁夫の自宅の向かいに住んでいるトモさんが言っていた「心構え」その二。
―――玄関から出る時は靴を履きながら出てはいけない。
と、言う事は玄関を出る直前に靴を履き終えてからでないといけない。
郁夫は用心して靴を履き終えてから玄関を出ると、福島とばったり会った。
「福島さん、今日は部活はお休み?」
「うん、美術部でね。顧問は見崎先生」
「えっ見崎先生ってあの……」
見崎鳴、夜見北の一昨年の三年三組の担任だった美術教師。
この学校の美術教師で、一年四組の担任をしていると聞いている。
郁夫はまだ鳴と話をしていなく、明日美術の授業があるのでその時に初めて顔を合わす。
福島は一年の頃から美術部に入部しているらしい。
中学の頃も美術部で絵は結構上手くて、何度もコンクールで賞をとっている。
「高林君は部活やらないの?」
「うーん、考え中、かな?」
「美術部に入ればいいのに」
「絵はそんなに得意じゃないし」
「絵の上手い下手は二の次、気持ちがこもっていればいいんだよ」
福島は入部者を増やそうとしているようだ。
別に郁夫は美術部に興味がないわけではないが、今は様子見程度だと思う。
「福島さんって家どこ?」
「香住町、高林君の家のある杏里町のちょっと向こうに行ったところだよ」
「そっか……福島さんってどうして美術部に入ろうって思ったの?」
「え?あ、それは……絵が好き、って言うのと見崎先生が……」
「ん?」
「何かカッコ良くない?クールって言うか……美人だし」
言われてみればそうかもしれないと郁夫はその時ふと思う。
福島は少し頬を赤らめて恥ずかしそうに鳴の事を語るのだが、ひそかに憧れているのだなと思う。
「あれ?福島と高林じゃん」
そう話しかけたのはクラスメイトの青崎竜輝。
少し日焼けした肌のスポーツ刈り、いかにも体育会系と言うのが一目でわかる。
ブレザーを着ずに赤いチェックのネクタイを外して青いジャージを羽織っている。
青崎は自転車をついて二人に近寄ると「よっ」と二カッと笑う。
青崎はこの学校から遠めの蒼倉町に住んでいて、自電車通学。
「青崎君も部活は休み?」
「ああ、まあなっ久々の休みだからな!バスケ部は大変だぞぉ」
からりとした笑顔で自分のうなじを右手で撫でる青崎。
やはり運動部か、と郁夫は苦笑をするのだがほとんどが自分に対する苦笑だと思う。
青崎は少々の立ち話をすると二人に「じゃあな」と別れを告げると自転車を押して校門へと向かう。
取り残された二人は少しだけの沈黙の空気が流れると福島の方から言い出す。
「じゃあ、私用事があるから」
「あ、うん。じゃあね」
福島は急ぎの用らしく走って校門へ向かう、その後ろ姿を郁夫は見届けると自分も校門へ向かう。
今日は休みの部活が多いようで、多くの生徒が下校していた。
郁夫は一人で下校をしていると、朝見南と杏里町の間(郁夫の勝手な想像の地図にて)の町をトボトボ歩いている。
電柱に「榊町」と言う町名の標示を見つけて郁夫は志恵留を思い出す。
「サカキ……サカキバラ」
まさか、と思いつつもここに榊原志恵留がここに住んでいるんじゃないかと思って町内を散策する。
榊町はどちらかと言うと落ち着いた雰囲気で郁夫にとっては好きな感じである。
郁夫は何となく曲がり角を横切ると目の前に薄暗い雰囲気の大きな建物がある。
レトロな感じで一階には郁夫の身長と同じくらいの大きさのガラスがある。
郁夫は何気ない気持ちでそのガラスを覗くと、ガラスの向こうの壁に黒をモチーフにしたような絵が飾られている。
その下には紫の長い髪で青いレース付きのショートドレス着た青い瞳の美しい人形が座っている。
絵が背景で人形が主人公だとすればかなり良い感じだ。
郁夫はその絵と人形に圧倒されていると、制服のズボンのポケットから振動が伝わってくる。
ポケットに忍ばせておいたマナーモードの携帯電話を取り出すと、どうやら清水からの電話のようだ。
郁夫は今度はためらいもなく電話に出ると、清水が元気の良い声で言う。
「あ、高林君?この間の女子高生の件なんだけど、名前、分かったよ」
郁夫はついにその事故死した女子高生の名前が分かるとなると深く深呼吸をする。
どうかシエルではありませんように―――それが郁夫の些細なる願いであった。
「ノエル。シエルじゃなくてノエルだった」
「ノエル……」
郁夫はシエルではなかった事に少しホッとすると、ではどうして志恵留が霊安室にいたのかと思う。
郁夫はフルネームではどういうのかと気になる。
「苗字は安田って言うんだって、安田ノエル」
漢字に変換すると、安田野恵留らしく漢字で読むと読みづらいと言う。
「それで……なん……高林く……」
ザザッとノイズが流れたと思うと突然プツンと電話が切れてしまった。
郁夫は携帯電話の通話終了ボタンを押すと携帯電話をもう一度ズボンのポケットに忍ばせる。
目の前には暗黒のような美しい絵と美しい少女の人形。
黒塗りの板にクリーム色の塗料で「闇夜の訪問者」と記されてかなり風変りの看板。
三階建てほどの建物で、無愛想な感じが滲み出ている。
看板の下に吊るされている同じような黒塗りの板に同じような塗料で「どうぞ中へ―――荒川ルキア・聖斗」と記されている。
郁夫は「荒川ルキア」と言う名前に若干の違和感を覚える。
郁夫はふうっと息を吐くとガラスの隣にある扉から店(?)の中に入る。
扉を開けた途端、カランとドアベルが鳴るとその音が部屋の中に響き渡る。
部屋は薄暗く入るとすぐのところにカウンターがあり、その上に貯金箱のような箱と小さな黒板が立てかけていて、白いチョークで「入館料五百円」と記されている。
その下には小さく「十八歳未満は半額」と記されている。
カウンターには誰もおらず、郁夫はきちんと箱の中に入館料を払うと館内の奥に進んでいく。
仄暗い館内を歩いていると、壁には入り口で見たような不思議な絵が飾られている。
ガラスのケースやテーブルの上や椅子の上には美しい少女の人形が飾られている。
佇んでいたり、腰かけていたり、横たわっていたりとさまざま。
少女だけではなく、中には美しい少年がいたり、動物もいて、人と獣が入り混じったような不思議な造形物もある。
たまに幻想的な絵をバックに少女の絵が腰かけているのもある。
それは何だか物語でもできそうな雰囲気で郁夫は圧倒される。
郁夫はいつの間にか館内の一番奥まで入っていて、最後の作品を目にする。
ラストを飾るのは、美しい女性の絵で肩から上と顔が描かれた一番大きな油絵。
長いストレートの黒髪に鼻筋の通った美しい顔立ちのこの女性。
「お姉さん……」
郁夫はボソッと声を漏らすとギュッと拳を作る。
一昨年に夜見北の災厄≠ナ亡くなった郁夫の姉であり、志恵留の母親の志乃。
間違いはない、この油絵のモデルは志乃だと郁夫は確信した。
「気付いた?その絵……」
突然隣から声をかけられ郁夫はビクッとなると隣を見る。
そこに立っていたのは青色のロングTシャツに黒のジーンズ姿の志恵留。
長い髪をいつものようにハーフアップで結んで少しだけ目は虚ろだ。
「気付く、よね?お母さんがモデルだって……」
「榊原さん、なんでここに?」
「気が向いたから来たんだ。どうせ、暇だしね」
志恵留はいつものようにほのかに微笑むと、郁夫も同じように微笑む。
「ねえ、ここの絵を描いてるのって……」
「荒川ルキア、人形は聖斗ね。荒川はこの二階で絵を描いてる人」
「荒川ルキアって小説家にもいるよね?」
「知ってるんだね。あの荒川と同じよ、割合的には小説の方を書いてるみたい」
「榊原さん、どうして……今日、学校来てなかったよね?」
「……ちょっとね、いろいろ、高林君は皆から何も聞いてない?」
「え……何を」
郁夫が不思議そうに首を傾げると志恵留は呆れたようにため息をつく。
郁夫はそのため息の意味が分からず、眉をひそめる。
「あのね、二十八年前の話なんだけど。三組にアサミ≠チて生徒がいたの」
志恵留は突然、そんな話をし始める。
郁夫は困惑気味に「えっ」と言うが、志恵留は話を止めない。
「その子ね、ネクラな感じでクラスの皆からいじめられてたの。無視されたり、机に落書きされたりだとか……多くて空気みたいな扱い≠されてたんだ。
それでね、その子……二、三年に上がる頃に自殺しちゃったの。私が聞いた話では、自宅で首を吊ってらしいけど」
志恵留はそこで話を止めると「どう?」と言いたげな風に上目使いで郁夫を見る。
郁夫はどうしていいのか分からず、引きつった笑顔で首を傾げる。
「この話にはね、恐ろしい続きがあるの……」
「えっ続き、って」
「それは……」
「何なの?」
「……やっぱり、私の口からはちょっとね」
志恵留はそう言うと苦笑をして郁夫に背を向けて部屋の奥へ進む。
すると郁夫はそれを止めるように「ねえ!」と志恵留に言う。
志恵留はスッと立ち止まると、振り向きもせずに「何?」と言う。
「あの……この間亡くなった子、安田野恵留って言う子だったんだよね?」
志恵留はついに振り向くと、驚いたように目を見開いて考え込んだ。
「野恵留は……私の、友達」
そう言い残すと志恵留はもう一度背を向けて部屋の奥へと歩き出す。
郁夫は一人取り残されて、壁に掛けられた志乃がモデルの絵を見つめる。
その絵の志乃は、どことなく悲しげな眼差しをしていた。