二十九日の午後九時前後、朝見山市の由岐井町の由岐井橋の上で女性の遺体が発見されました。
遺体の身元は由岐井病院に勤める看護師の清水翔子(24)であることが判明。
清水さんは背中に四ヶ所の刺し傷があり、遺体の所持していたバッグの財布からか現金が抜き取られていた模様。
警察側では、事件は「物取り」の線で捜査中。
おそらく、近辺で多発している「連続強盗殺人事件」の犯人と今回の事件の犯人は同一人物を見ているようです。
清水さんは夜の八時三十分に勤務先の病院から出ると、歩いて由岐井町にある自宅マンションに向かう途中。
由岐井橋に差し掛かったところに、犯人がナイフで切りつけたようです。
由岐井川では、清水さんのものと見られるスマートフォンが発見されています。
通話記録から、事件直前に通話をしている事が判明。
警察では、通話相手が分かり次第、通話相手に話を聞く様子です。
清水翔子の突然の死。
それはあの夜の翌朝、朝のワイドショーで知った事である。
その通話相手である高林郁夫は、清水の死にショックを隠せないでいる様子だ。
現在進行形で聞いてしまった清水の死をどう受け取ればいいのか分からないでいるようだ。
清水の最後の悲鳴と犯人と見られる人物の甲高い笑い声が耳の奥で響いている。
―――バッドメモリー≠燒ハ白いよ、闇の教室≠ニはまた違った感じでね。
清水との他愛ないあの会話が脳裡を揺るがし、蘇ってくる。
悪戯っぽく笑う清水も、読書好きのサバサバしたあの清水がもういない。
驚きや悲しみよりも先にショックの方が大きい郁夫。
「なんで……清水さん、どうして……」
思わず気付いたらポツリと零してしまうこの言葉。
あの時、異変に気付いておきながら電話越しに何もできなかった不甲斐なさで郁夫は自分自身を責め続ける。
僕は何で何もできなかったんだろう?何で?どうして?
自問自答のように脳内を揺さぶる郁夫は、何も考えないで六月に入って間もなく日曜日の昼に一人で自分の部屋のベッドに寝そべっていた。
六畳ほどの部屋に勉強机と洋服に入ったタンスとクローゼット、そして窓辺にはベッド。
ベッドの脇の棚の上には目覚まし時計と急な発作のために薬が置いてある。
そしてこの間読み終わった荒川ルキアの「闇の教室」と一度も手をつけていない「バッドメモリー」がある。
清水の解説では、どちらも少し生々しい感じの死≠ェ代表的。
そして人間の心理をテーマにしたホラーというようなミステリー。
清水と五月の初めに死んだ青崎竜輝の死を目辺りにして、どうも読む気にはなれない。
ただでさえ「闇の教室」は青崎が死んでから、進んで読もうとは思えなかった。
しばしば落ち着いた頃に、読み始めて最近読み終えたばかり。
今思うと、あんな死を目辺りにしてよく読めたものだ、と自分を苦笑してしまう。
当分はこう言うジャンルの小説は勘弁してほしい、と言うのが半ば、郁夫の本音である。
郁夫はベッドで寝そべっている間も、ずっとあの時の記憶が蘇ってくる。
―――助けて!
ノイズ音にかき消されそうになった清水のあの叫び声が耳の奥から離れない。
あの犯人と見られる人物の甲高い笑い声も、ついさっきの事のように思い出される。
昨日、久々に病院で検査のために郁夫は由岐井病院を訪れた。
初老の担当医は「次回の検査で異常がなかったら、体育もOK」と言っていた。
いつものように軽い調子で言っていたのだが、でも頼りがいのある言葉ではあった。
十七年間の人生で一度も体育の授業を受けた事のない郁夫にとってはそれはとても嬉しい事だ。
なのに、どうしてか素直に喜ぶ事が出来ない。
病院の帰り際、いつもならロビーで清水がいつものサバサバした感じに話しかけてくれるはず。
そして「良かったじゃん」とか「やったね」とか、言ってくれるはずだ。
お互いに喜びあってハイタッチでもしそうなのに、その清水がもういない。
郁夫はナースステーションで会った清水と同い年くらいの看護師に話しかけられた。
「清水さんの担当だった患者さんだよね?」
大人びた雰囲気で清水とは対照的な印象の看護師は、郁夫によそよそしく話しかける。
郁夫は人見知りな性格で「はい」と少しだけ驚いて声が裏返ってしまった。
郁夫は頬を赤らめて恥ずかしそうに俯いてしまう。
「大変よね、突然あんな……患者さんからも人気だったから余計にね」
「はい……僕も、清水さんの事は大好きでしたから」
「そうよね、私も彼女とは仲良かったから……」
看護師は悲しみを露わにしないように我慢しているのか、顔を俯かせている。
「彼女ね、私とは幼馴染だから知ってるんだけど……十五年前にあの子はちょっとした病気で入院してたの」
「入院……」
郁夫はその事は初耳だった。
「その時は夜見山の夕見ヶ丘病院でね、当時看護師で勤めていた水野沙苗さんに憧れてたの……それで、看護師になろうと思ったらしくてね」
「水野……沙苗」
郁夫はその看護師の名前は一応知っていた。
十五年前に夜見北の三年三組の生徒としていた時に、クラスメイトの水野猛の姉だった人。
「その人ね、その年の六月に病院で事故で亡くなったそうなの。彼女、とても悲しんでね、だから水野さんの分まで頑張ろう、って言ってたのに……」
なのに、死んでしまった。
そうこの看護師は言いたいのだと郁夫はすぐに察した。
水野沙苗はエレベーターのワイヤーが切れて、それで天井に潰された脳挫傷で亡くなった。
噂ではとても気配りの良い元気のいい看護師だったと聞いている。
その彼女に憧れて、清水はサバサバした患者とも仲良くできる看護師となったというわけだ。
「あの子も、水野さんと同じような事になって……」
「そうですか、そうだったんですか……」
郁夫は何かの呪文のようにそう言うと自然と涙が頬を伝って流れる。
でも、流れたのはほんの二滴、三滴ほどで郁夫は涙をこらえた。
清水もこんなにめそめそした郁夫を見たら、きっとこんな事を言うだろう。
「なぁに泣いてんのよ!シャキッとしなさいっ、アンタは男でしょ!」
今、郁夫の隣でそう言いながら郁夫の背中をバシッと叩いているようなイメージが湧く。
本当に叩かれたわけでもないのに郁夫の背中はヒリヒリと痛い。
清水はきっと自分を元気づけているはず、だからもう泣かないでおこうと決心した。
郁夫は自分の脳内で回想を終えるとベッドから起き上がり、床に足をつける。
床には水色のカーペットが敷かれているのだが、もうそろそろ夏になったら外そうと思っている。
そんな時、一階から義母の智恵が「郁夫くん、お友達よ」と呼ぶ声が聞こえた。
なんですと?―――と、小首を傾げながら部屋から出る。
「クラスの栗山さんって子よ、あと、同級生の戸倉さんと清水さんって人も来てるわよ」
栗山と言うのはクラスメイトの喘息持ちの栗山典子と言う大柄でぽっちゃりした女子生徒の事。
戸倉はその栗山のいとこの戸倉佳乃でクラスは二組、そして清水は知らない。
清水と言う名前に、まさか清水さんが?と、一瞬あり得ない想像を膨らませた。
郁夫は慌てて階段を駆け下りて、玄関へ向かうとそこにいたのは清水ではない。
清水と顔の良く似た超の付く童顔の左側に一つにまとめたみつあみの華奢な女子。
郁夫は清水ではなかった事に少々落ち込んでしまう。
「高林くん、こちらは清水優子さん。お姉さんは看護師の清水翔子さんよ」
胸元まで垂れた黒髪で右耳の上には横髪をまとめた白い髪留めがある栗山が言う。
クラスの女子の中で一番背が高くて、ぽっちゃりした体格は身長とバランスが良い。
隣には栗山のいとこの戸倉、茶色っぽいボブヘアーでサバサバした印象の女子。
清水と言うのは清水の妹で、腎臓が悪く高校に行っていない郁夫と同い年の清水優子。
優子は入退院を繰り返しているようで、今は退院のみである。
「初めまして、優子です。姉がいつもお世話に……」
「初めまして……僕の方がお世話になってますよ」
優子は丁寧な話し方で郁夫に軽く頭を下げると軽く微笑む。
サバサバした元気の良い清水とは裏腹に見るからに大人しそうな優子。
顔立ちからは姉妹だとは、はっきり分かるのだが性格的には微妙だ。
「あの、どうして栗山さんと戸倉さんが?」
「私達、優子とは小・中学校が一緒で……優子に高林くんの家まで連れて行ってほしいって言われたから」
そう言ったのは戸倉の方だった。
「そっか……ありがとう、二人とも」
あまり栗山と戸倉とはあまり話した事がなかったのだが、栗山とはクラスの間柄で何度か顔は合わせている。
戸倉とは話した事はないが、栗山と二年の使う廊下で二人で話しているのを見た事がある。
クラスが違えば、顔も名前も知らない生徒は山ほどいる。
ましてや学年が違えば、全く知らない生徒がいる。
「あの、高林くん、だよね?お姉ちゃんが渡しそびれたものだんだけど……」
そう言うと優子は肩にかけていた白いバッグから一枚の手紙を手渡される。
可愛らしい子犬のイラストのついた便せんで、開け口にはケーキのイラストのぷっくりと膨らんだシールが貼られている。
どう考えても女子が渡しそうな便せんで、すぐに書いたのが清水だと分かる。
表面には「高林くんへ」と言うピンクのペンでこちらは大人の女性が書きそうな曲がった部分が角ばった感じの字。
裏面には「心優しいナースの清水より」と少しおちゃらけた感じだ。
郁夫は咄嗟に便せんを開いて手紙を読み始める。
「荒川ルキアの闇の教室≠ヘ面白いでしょ!バッドメモリー≠ニ20歳の条約≠熨≠ュ読みなよっ
私はさ、荒川ルキアみたいな小説は大好きなんだ!だから高林くんにもいろいろ読んでほしいの。
新しい小説が出たんだよ。題名は私と私の話≠セよ。これは瓜二つの双子の話だよ。
来月に闇の教室≠フ映画が公開されるから、良かったら一緒に観に行こうよ!荒川ファンのお友達も一緒にどうかな?
また、病院で会った時にでも一緒に来てくれる人を教えてね。良かったらでいいんだけど……。
確か、高林くんは将来は作家になりたいって言ってたよね?私、応援するから!
最後に、その私と私の話≠フ本を一緒に入れておくね。
高林郁夫様 翔子」
きっちりとした清水の性格からは想像しがたい感じの字で書かれた手紙。
読み終えると、優子がバッグから「私と私の話」と書かれた二人の少女が向かい合った横顔のイラストが書かれた表紙の本。
「これも、一緒に郵便局に出すつもりだったみたい……」
優子は静かにそう言うとポロリと涙を流し始める。
優子はハンカチで涙を拭い、郁夫も自然と啜りあげて泣き出してしまった。
手に持っていた手紙の文字が涙で滲んでしまうほど、郁夫は泣き続けた。
その様子を栗山と戸倉は静かに見守っていた。
『二〇十三年六月四日』
郁夫は昼休みに弁当を食べ終えて、校舎の裏側のT棟の隣にある裏庭にやってきた。
1号館から出て、10メートル先に石造りの階段があり、それを下りると裏庭に入れる。
裏庭には、農園のようなさつま芋の畑と花々が咲いていて、飼育小屋ではウサギは二匹飼われている。
普段は飼育委員の人が世話をしていて、女子生徒がよくここに訪れるようだ。
郁夫はウサギ小屋のウサギを見て「可愛いな」と思いながら見ている。
愛らしいウサギは真っ白な色と灰色の二種類で、種類はなんて言うのかは分からない。
そこで前屈みになって見ていると、隣から「お仲間発見」と言うお調子者の七瀬理央が現れた。
七瀬は六月に入って白い半袖のブラウスで腰に春に来ていたジャージを巻いている。
郁夫も半袖の開襟シャツを着ていて、六月に入ってからほとんどの生徒が夏服に変えた。
「七瀬さん」
「いやぁ、購買で買ったパンを食べ終わったからさ、暇つぶしに来ちゃった。おっウサギ可愛いなぁ」
七瀬は小屋の中のウサギを前屈みになって見ていると、少し男勝りっぽい七瀬も女子なんだなと思う。
すると小屋の裏側で、何やらガサガサと物音がして、郁夫と七瀬は小屋の裏を覗く。
確か裏は鯉の育成している大きめの池があるだけ。
その鯉に餌やりをする飼育委員の栗山と戸倉がいた。
「二人とも、今日当番なんだねっ」
「うん、二人も見に来てたんだ」
戸倉は池から離れて七瀬の方に駆け寄る。
栗山は餌の入ったプラスチックの入れ物の蓋を閉めると手に持って七瀬の方に歩み寄る。
少しの間、七瀬と戸倉は他愛のない会話をすると、次に進路についての話題が出てくる。
「佳乃はどうすんの?大学」
「うーん、短大は出ようと思ってる」
「ふうん、私は無理かなぁ〜ノリちゃんは?」
「ノリちゃん」と言うのは栗山のあだ名で「ノリコ」からだと言う。
栗山と仲の良い女子の大半は栗山の事をそう呼んでいる。
「私も佳乃ちゃんと同じ、高林くんは?」
「うーん、理系の大学に進もうと思ってる……」
すると戸倉が清水のようにオヤジっぽく「ほほう」と腕組みをする。
「理系が得意なのか、じゃあアサミ≠ニ一緒なんだね」
何の悪びれもないふうに戸倉が言うと、一瞬栗山と七瀬の表情が青ざめた。
郁夫も戸倉の言った言葉の意味がつかめず、ただ「え?」と繰り返してしまう。
今確実に二年二組≠フ戸倉がアサミ≠フ名前を普通に口にした。
郁夫が転校してきてまだ一度も会ったことのない生徒アサミ≠ヘ本当は存在しない生徒だと思い込んでいた。
でも、今確実にクラスとは無関係の戸倉からその名前が出された。
「いるでしょ?三組にアサミ=c…理系が得意な」
「え……戸倉さん、それ……」
副クラス委員長の常本夏帆もアサミ≠ヘ理系が得意だと言っていたような気がする。
もしかして、本当はアサミ≠ェ見えていないのは郁夫だけなのかもしれない。
そんな事を一瞬だけ、いや、ずっと思ってしまった。
「戸倉さん、そのアサミ≠ヘ……」
「……あなただけじゃない」
そう言い出したのは戸倉の傍らで黙り込んでいた栗山。
酷く動揺したふうに肩を上下させて息を切らしている。
「アサミ≠ヘいる、アサミ≠ェ見えていないのは、高林くんあなただけ≠カゃない!」
栗山はそう怒鳴るとやはり動揺をしているようだった。
七瀬は栗山の落ち着かせようとしているが、戸倉は今起きた事が理解できていないようだ。
郁夫は栗山の言葉に全身の血液が逆流してきそうな感じがした。
「いや、まさか……そんな」
郁夫が動揺していると、階段の方で慌てて走る足音が聞こえて四人は口をつぐむ。
そして小屋の裏側に走ってきたのは30代前半音楽担当の女教師で副担任の梅原香織。
梅原は息を切らして慌てたふうに戸倉に耳打ちで何かを言う。
すると戸倉の表情が見る見るうちに青ざめて行き、慌てて階段の方へと走っていく。
残された三人は「どうしたのか?」と言うふうに小首を傾げる。
「実は、戸倉さんには乳がんで入院中のお母様がいて……様態が急変してすぐさま病院まで」
その言葉が終わるか終らないかくらいの時、何やら激しい物音と短く鋭い悲鳴が階段の方で響く。
四人は「何だ?」と思って、酷く不穏な物をとっさに感じ取り、階段の方へと走る。
深く考えるよりも先に身体が動いて、階段の前で先頭を走っていた栗山が「あっ」と声をあげて口を塞ぐ。
酷く動揺しているふうに、今にもぺしゃんこに心が潰されそうな栗山。
目の前には恐ろしくも異様な光景、石造りの階段のそばにある木に戸倉は仰向けで倒れている。
階段の下から二段目に左足と一段目に右足が残されている。
戸倉の口からは血で真っ赤に染まった木の枝が突き出ていて、ピクリとも動く様子がない。
「よ、佳乃ちゃ……」
栗山はとうとうその場に座り込んでしまい、啜りあげて泣き出す。
瞬時に正しく理解するのは難しいが、おおよその想像はつく。
家族の急を知らされて動転して、大慌てで階段を駆け上がって教室からカバンを持って病院へ向かおうとした戸倉。
階段を駆け上がろうとした時、足を滑らせて転倒してしまったのだ。
そして運悪く、付近の木のほうに倒れこんでその枝に頭部が突き刺さって先が口から飛び出している。
激しく体制を崩した戸倉はその勢いで、身をひねったりする事も出来ずに頭部に枝が貫通。
戸倉は突き刺さった頭は固定された状態で、右足が階段からずり落ちて地面に転がる。
木は枝の辺りから戸倉の血で浸食していき、どんどん広がっていく。
枝の先が戸倉の後頭部を突き破り、それが口から飛び出しているさまを目辺りにして、郁夫は今にも心臓が潰されそうだ。
郁夫はとうとう立っていられなくなり、膝をつくと荒い呼吸で左胸を抑える。
七瀬も「あっあっ」と言葉を発する事が出来ないようだ。
梅原もやはり動揺を隠せないようだが、すぐに教師の顔に切り替えて呆然とした三人に言う。
「七瀬さんは職員室前にいなさい。気分が悪くなったりしたらいいなさい。栗山さんと高林くんは保健室にいなさい、いい?」
至って冷静だがどことなくやはり動揺している梅原。
持病のある郁夫と栗山を気遣って二人を保健室に移動させた。
職員室前にいるように言われた七瀬だったが、吐き気ですぐにトイレへと駆け込んでしまった。
郁夫は泣き崩れている栗山を補助しながら保健室へと向かう。
戸倉は即死だったようで、戸倉の乳がんの母親の多恵子はその後戸倉の後を追うようにして亡くなった。
こうして六月の死者≠ヘ栗山のいとこの戸倉母子となった。