作者:佐藤C
2012/05/02(水) 01:35公開
ID:fazF0sJTcF.
そこは京都の山奥にある、無数の寺社が建ち並ぶ古い寺院。一般には知られていないが、ここは「R毘古社」という非常に長い歴史と…大きな秘密を持つ場所であった。
そして今その境内に、三人の子供が集まっている。
肩口まで伸ばした黒髪を全て左に纏めて結えた、袴姿の女の子。
ツヤのある黒髪を腰まで伸ばした着物姿の少女。
そして―――
「きゃあああ――――!!」
「わ――っ!わ―――!!」
「ばうばうばうばう!!!」
「………。」
「ってシロウなにしとるん!? はよ逃げーな! あーもーー!!」
赤い袴を履く少女と色違いの黒い袴を履いた、赤毛の少年。
彼は赤い袴の少女に襟を掴まれ、為すがまま引き摺られていった。
これは近衛木乃香・桜咲刹那四歳、衛宮士郎八歳の頃の話―――。
過去話T、京都編 関西呪術こども協会
「お嬢様、何をされているのですか」
「ひゃうっ!?」
背後から聞こえた、自らを咎めるような声に木乃香がビクッと肩を震わせた。
「ここは板場です、包丁などもあるのですよ?危ないではないですか」
「えへへ……ごめんなー」
少女はそう言って申し訳なさそうにほにゃっと笑う。すると呪術協会の大抵の者はそれ以上彼女に何も言えなくなってしまう。関西呪術協会本山・R毘古社の姫(でありアイドル)である彼女は、周囲から非常に溺愛されていた。
調理場に入ったことを咎めた巫女もその部類で、結局彼女は諦めたように息を吐いた。
「それで何をされていたのですか? かくれんぼでしたら他の場所へ行ってください」
「むー。かくれんぼしとるよーにみえる?」
「………見えませんね」
板場の作業台の上にはまな板が置かれ、その周りには野菜だったり果物だったり、その他統一性のない食材が所狭しと並べられている。
「おかしつくろー思ってん!」
巫女は目を見開いた。
「………この材料でですか?」
◇◇◇◇◇
『初めまして士郎くん。私は君のお父さんの友達で、近衛詠春といいます』
『…士郎くん。君さえよければ、君を引き取りたい―――君を、私の子供にしたいと思っているんですが』
その話を受けたのは、士郎にとってただの気まぐれだ。
見ず知らずの人間ばかりの場所に放り込まれるよりは、自分の父親の友人であったという不健康そうな眼鏡の男の所に行く方が、いくらかマシだろうと。そんな適当に過ぎる考え。
だってこの世界に居ることに、士郎は価値を感じない。
家族に、みんなに会いたい。
/そのためには天国に、あの世に行くしかない。自分も死ぬしかない。
その考えに思い至った瞬間、士郎は絶望した。
あの地獄で死を隣に感じ、死の痛みを体感し、あの場所から帰って来た。そしてそこか
ら帰って来れなかった姉の姿が脳裏をよぎる。…ああ、今でも夢に見る。
―――死にたくない。
死にたいけど死にたくない。そんな想いが、「士郎」を惰性で生かしている。
◇◇◇◇◇
木乃香の奇行、その発端はひと月ほど前に遡る。
『ただいまこのか。いい子にしていましたか?』
『おかえりなさいおとーさまー♪ ……? おとーさま、その子だれなん?』
『おっと、そうでしたね。彼の紹介をしなくては。―――このか。彼は君の
兄妹だよ』
『………ほえ?』
そうして赤毛の少年、旧姓「衛宮」…新たに「近衛士郎」がやって来た。
物怖じしない、というか天然の気がある木乃香は積極的に士郎に構っていったが、彼女はそこで思わぬ事態に直面する事になる。
『ほな、つぎはおにごっこしよー♪』
『………おれは別に』
『シロウ! アンタこのちゃんがせっかくあそぼゆーてんのに!』
『あっ、せっちゃんおこらんといてー!』
遊んでいても話しかけても、いつも口を一文字に結んで表情を崩さない。
士郎は。全く「笑わなかった」。
…極めつけは、その直後。
偶に協会の敷地に出没する子犬がおり、それに木乃香が泣かされることが多々あった。
刹那が竹刀でその子犬を追い払うことに成功したこともあるのだが……。
先日、再び子犬が現れた。そしてそのとき刹那は竹刀を持っていなかった。彼らは大人達が駆け付けるまで、吠えられながら散々追い回されることになる。
だが士郎は…その時ですら反応を示さず、刹那が引っ張り出すまで逃げだそうともしなかった。
木乃香は、そんな士郎が恐ろしくなった。
(吠えられて怖ないん? 噛まれたらどーするん? 何で逃げへんの!?)
―――なんでいつも、そんな眼で……!
『このか。士郎はここに来る前にとても辛いことがあったのです。
できるだけ、優しくしてあげてくださいね』
もともと士郎を外に連れ出したり遊びに誘ったのは、その父の言葉を受けた木乃香の、彼女なりの優しさだった。
……それにそっけない態度ばかりとる士郎に、刹那はいちいち憤慨していたが。
「せやから、おかしつくろうおもったんや」
士郎を、笑わせてあげたいと。
………まあ、その手段が「美味しいものを食べればきっと喜ぶ」という思考で決着してしまった辺り、やはり四歳の子供なのだが。
「…しかしわざわざ、お嬢様が自ら作らずとも……」
「てづくりのほうがおいしいって聞いたえ?」
こてんっ、と心底不思議そうに首を傾げた姫を見て、巫女は心の中で白旗を上げた。
(お嬢様、可愛らし過ぎです……ッ!!)
ひとり悶える巫女を再び不思議そうな顔で木乃香が見つめると、それに気づいて彼女は即座に姿勢を正す。
「……こほんっ。わかりました、しかしおひとりではダメです。誰か大人の方と一緒にお料理してください。
私が板長に話しておきましょう。ですから今日はやめてください」
「はーい」
巫女が狂喜するような笑顔を残し、木乃香は黒髪を揺らしてトテテッと厨房を後にした。
◇◇◇◇◇
後日。新品のエプロンを着て板長と一緒に板場に立つ木乃香の姿があった。ちなみに割烹着も用意されており、エプロン姿と共に撮影会が行われたのは言うまでもない。
「お嬢様は初めてのお菓子作りですし、簡単な
饅頭と団子を作りましょう」
「はーい♪」
後日焼き上がったその時の愛娘の写真を見た詠春が、そのカタブツそうな顔を蕩けさせたのも言うまでもない。
その写真は極秘に無断で焼き増しされ、呪術教会・木乃香お嬢様ファン倶楽部の会員が数日間ホクホク顔だったことはもっと言うまでもない。
「んしょ、んしょっ…」
巫女(アアンッ♪ お嬢様ぁ……!)
材料は強力粉、薄力粉、団子粉、黒こしあん、白こしあんetc……。
声を出して、心をこめて一生懸命 生地をこね続けた。
・
・
・
「できたっ!!」
板長「とてもお上手ですよお嬢様」
巫女「素晴らしい出来栄えですお嬢様ッ!」
小さな掌にボテッと白い饅頭が乗っている。プロや板長のものと比べるとさすがに歪で不格好だが、初めて作ったにしては間違いなく上出来な部類に入るだろう。
「わーいわーい! シロウんトコもってこーーー!!」てててっ
「ああっお嬢様!手を洗ってください、それに―――」
「そんなに急いで走ったら転びますよ!!」
誰も後片付けをしろという類の注意をしないのは、自分達の姫をつい甘やかしてしまう彼らの悪い癖なのかもしれない。
・
・
・
・
・
R毘古社の一角、とある社の縁側に、ちょこんと並んで座る兄妹の姿があった。
……それを柱の陰から見つめる、機嫌の悪い約一名の少女がいるのはご愛嬌である。
(わくわく♪ わくわく♪)
「どや? おいしい!?」
「………うん。美味しい…と思う」
(ワクワク♪ ワクワク♪)
「……もぐ…もぐ…。」
(……わくわく…………。)
「……もぐ…もぐ…。」
(………………。)
「………………なにさ?」
(―――しゅん……)
「……??」
………惨敗だった。
(シロウェ………!!)ギリィッ…!
二人は幸い(?)、刹那が発するダダ漏れの殺気に気づかなかった。
◇◇◇◇◇
「そうですか…このかがお菓子を」
先日の巫女が事の顛末を報告したのは、協会のトップ…「西の長」近衛詠春。
木乃香の実父であり、士郎の養父でもある人物だ。
かつて、魔法世界―――地球とは別の場所に存在する異世界―――の存亡を懸けた戦いで力を振った一団「
紅き翼」。詠春はその一員にして、魔法界で"サムライ・マスター"の異名を執る救世の英雄のひとり。
連日の激務ですっかり痩せこけてしまった頬が不健康な印象を与えているがそれでも、眼鏡の奥から覗く彼の眼は穏やかだった。
「あの娘は、本当に優しい」
その声が聞こえたのは、いま彼の執務室に居る二人だけだ。
「………長。本当に…それだけのことでしょうか?」
恐る恐る、巫女は話を切り出した。ずっと胸に抱えていた、その疑問を。
詠春は何も言わずに彼女を見やる。続けろということなのだろう。
「確かにお嬢様は心優しいお方です。しかし…木乃香お嬢様は恐ろしくないのでしょうか?
―――士郎様が」
笑わなければ泣きもしない。喜ばないし恐れない。欲も希望も、何も「無い」。
何も持たずにただ、其処に在るだけの―――赤毛の子供。
その姿を見ているだけで心が薄ら寒くなる。背筋に悪寒が走る。…怖い。
あんなおそろしいものをわたしはみたことがない―――巫女はそう言葉を続けた。
「彼は…………あれは、"空虚"…なんでしょうね」
「は……」
直ぐにはその言葉が見つからず、少しの間を置いて詠春はそう零した。後ろに控える巫女は言葉の意味が掴めず、それを見て再び詠春が口を開いた。
「あの子は「不幸な事故」で全てを喪いました。
そして…胸を抉るような現実のただ中に無力で独り放り出された」
人が生きたまま焼け死んでいく世界で、彼は独り生き残った。
空気すら焼ける灼熱の世界で、見るも無残な姉の死を突きつけられた。
そこは彼にとっても、彼でない誰かにとっても。地獄以外に成り得なかった。
そのとき燃え尽きてしまったのか。壊れてしまったのか。死んでしまったのか。それは誰にもわからない。
唯一つ確かなことは。
少年はその大事な心を、その地獄に永遠に置き去りにしてしまったということだけ。
――――いまの「士郎」には、こころがない。
「それでもあの娘は……本当に優しい」
それでも、木乃香は士郎から離れていかなかった。
大の大人でさえ恐怖を催さずにはいられない、その"虚無"を。
感じ取ってなお彼女は傍に在り続けた。
優しさと甘さは度々イコールで結ばれる。だが今回は違う。
優しさは「強さ」に成りうるのだと。詠春は実の娘に気づかされた。
『シロウ――――!!』
下の庭から、騒がしい声が聞こえる。いま本山にいる者達の心はおそらく一つだろう。
「ああ、またか」と。
「噂をすれば、ですね」
「……ええ。また刹那が士郎様を追い回しているのでしょう」
理由は先程の「このか手作りお菓子」の一件だろう。
刹那も陰の多い過去を持つ身だが……彼女も木乃香と出会って変わった。
士郎も……そうであって欲しい。
「………平和ですね」
時折り聞こえる子供達の元気な声は、関西呪術協会の日常になり始めていた。
◇◇◇◇◇
川辺ではしゃぐ「妹」と「友達」の声が聞こえる。
それでも少年はいつも通りその輪に加わることはなく、昨日の雨で濡れた雑草の上に構わず腰を下ろしている。
彼はただ気だるげに、自らにとって何ら価値のない世界を瞳に映していた。だがその目に映る光景が、彼の心にまで届くことは決してない。彼の双眸はまるで、どこまでも透明なガラス玉―――。
それでも無意識のうちに、二人の少女を常に視界に入れていた理由を……彼はまだ知らない。
(………妹? 友達?)
くだらない。自分はあの日からずっと独りだ。家族なんてものはもうこの手に無い。
何もかもが億劫で、あらゆるものが無価値で、世界の全てがどうでもいい。
(……だっていうのに)
何故かあの「妹」はいつだっておれに笑いかける。
おれが気に入らないくせに、あの「友達」も一緒になっておれを連れだそうとする。
―――放っておいてくれよおれの事なんか。
(………一体、何だっていうんだ。)
そんな士郎の
苛立ちは………突如聞こえたその音に掻き消された。
――――ドボンッ!!
「…え」
不意に、少女の片割れが川に姿を消す瞬間を視界に収めて。
「こ…このちゃんッ!」
刹那が悲痛な声で叫ぶ。突然起こった
事態に数瞬その動きを止めるも、直ぐに親友を助け出そうと慌ただしく辺りを見渡す。しかし力になってくれそうな大人は近くにいない。
その時、刹那の目が士郎を見た。
…だが役に立たないと判断したのか。刹那は足元に落ちていた長い木の枝を掴んで走りだし、流されていく木乃香に必死に突き出す。
「このちゃんっ! こ、これにつかま―――」
昨日は雨だった。増水した川は流れが激しく力がある。
つまり同時に、刹那の足元も露に濡れていて……
「あっ」
激しい水音をたてて、刹那もその身を川に落とした。
・
・
・
・
数秒。ほんの数秒だ。
たったそれだけの時間で、自分を取り巻く二人の少女が抗い難いものに飲み込まれた。
―――だが、自分にどうしろという。
家族でも友達でも何でもない少女達の為に、いったい何をしろと言うのか。
正直どうでもいい………だが助けようとしないわけにもいくまい。そう考える程度には彼にはまだ人の情と呼べるものが残っていた。誰か大人を呼ばなければならないだろう……。
『―――!』
『―――。―――!!』
声にもならない、助けを呼ぶ二人の叫びが士郎の耳を叩く。
…そのとき何故か、それが士郎の頭を占めた。
――大人を呼んでいる時間があるのか?
――自分が助けに行った方が助かる可能性が大きいのでは?
「――――いやだ」
頭に浮かんだ考えを、士郎は即座に棄却する。その可能性は危険性だ。僅か八歳の士郎自身も道連れになる恐れが大いにある。そうなった結果、訪れるのは―――
―――――――
■だ。
息苦しい程に心臓が胸を叩く。もはや呼吸することすら困難になる。
それを無理やり押さえつけ、士郎は立ち上がって川から背を向けた。
「死にたくない。おれはまだ死にたくない…!」
――――違うだろ。俺が助けるんだ(っ!?…ふふ、ざけるな!!)
頭の中に響く「自分」の声を、士郎は驚愕しながら必死に追い出そうとする。
「なんでおれが……なんで!!なんで!!なんで!!」
耐えきれなくなって喚いた士郎は―――………そこで、気づいた。
―――――
なんで。
煩いほどに心臓が動くのは……なんで。
苦しいほど呼吸が激しいのは…何で。
思わず背を向けたのは、なぜ。
耐えきれなくなったのは――――何故?
激しい動悸の正体は焦り。
苦しい呼吸は恐怖。
背を向けたのは"死"という現実。
失う瞬間を「また」直視することに……到底耐えられなかった。
父を喪い、母を喪い、目の前で姉を喪い、そして今また―――「妹」と「友達」が。
―――家族でも友達でも何でもない?
……………そんなこと、ない。
いつだって笑ってる。いつだって怒ってる。いつだって…いつだって傍にいた。
「木乃香」と、「刹那」。
“お前らまで
俺を、置いていくのか―――”
――――行こう。じゃなきゃ…きっと後悔する この数秒もない逡巡を経て。
「近衛士郎」は、川に沿って駆けだした。
◇◇◇◇◇
森の中の川沿いに、ずぶ濡れになった三人の子供がいた。
一人は息を切らして大の字に寝転び、他二人は咳き込みながら座り込んでいる。
増水した川の勢いは激しかったが、増水した故に水かさが増して川岸との距離が狭まり、士郎はなんとか二人を引き上げることに成功した。
だがこの結果は奇跡と言ってもいい。八歳の子供がたった一人で、子供二人を川から引き上げる。それがどれほどの困難か。本来ならば三人とも溺死していた。
それを理解していた士郎はそれでも…助けないわけにはいかなかった。
「ゲホッ…ケホッ……。……ごめん…このちゃん。ウチ……もっと強おなる……」
「え?…そんなんええよ…けほっ、一緒に遊んでくれるだけで」
二人が、士郎の意識がないことに気づくのはこの直後。
地元の大人が偶然通りかかり、三人の身に起こった事態が協会に伝わるのは約一時間後。
この時の会話が…二人の少女の後々にまで影響することになると知るのは、およそ10年後のことだった。
◇◇◇◇◇
「………どこだここ」
(いや、俺の部屋の天井だってことは間違いない。いま俺は自分の部屋で、自分の布団の上に横になっている。
ただどうして、こんなことになっているのかというワケで―――)
「ふみゅ……」
士郎がびっくりして声の方に顔を向けると………木乃香が、彼の横で座ったままうたた寝していた。船を漕ぐようにこくり、こくりと頭が揺れている。
(……だんだん思い出してきた。そうだ、俺は―――)
――スーッ……。
「…このちゃん、シロウ起き……」
……ばっちり目が合った。
襖を開けて入って来た刹那と、横になった士郎の視線が数秒間絡み合う。
「お…………」
(………お?)
「お…長ぁ―――!! しろっシロウが目を覚ましましたぁぁあああああああ!!!」
耳を塞ぎたくなるような大声をあげて刹那が走り去る。廊下に響くドタドタという足音が僅かに遠くなった頃、その騒がしさで木乃香も目を覚ました。
「みゅ――……。あ…シロウおはよー」
「あー…おはよう」
「……………!?」
寝惚け眼を可愛らしくこすっていた木乃香が、士郎を見て目を見開いた。
「し…シロウ―――――!!」
「おわっ!?」
ようやく脳が覚醒したのか、士郎が目覚めていると理解した木乃香が思い切り彼に抱きついた。
――ドタドタドタドタ……ばたんっ!!
「シロウ! 起きてる―――………ッ!?」
(…あ、死んだ。)
士郎は桜咲刹那という人物を自らの友人だと認識してはいるが、おそらく彼女の方はそうではないと考えていた。
士郎が木乃香と仲良くする度に彼女は、彼を怒鳴ったり竹刀を振り回して追いかけてきたりエトセトラ。木乃香との仲の良さ(実際はそんなに仲が良いわけではなかったと士郎は思っているが…)に嫉妬していたのだろう。
たぶん、いや確実に嫌われている。士郎はそう思っていた。
そんな刹那に、木乃香に抱きつかれている姿を見られた……これは無事に済みそうもない……
「…え?」
刹那は士郎を見るなり硬直し、その目にみるみる涙を溜め始める。
「……っく……ひっぐ……ふぇ…」
その姿に、士郎は声を出すことも出来ず―――彼女の為すがまま抱きつかれた。
「シロウ……シロウぅ……!」
「………。」
呆然とする士郎と、彼に抱きつく木乃香と刹那。
そんな三人の姿に頬を緩めた詠春は、部屋に入ることなくそっと襖を閉めた。
そのまま踵を返そうとして―――縁側を歩きながら―――ふと庭を見て、足を止めて空へ顔を上げる。
天気は快晴。どこまでも青い……蒼い空。
(……
士郎はもう、きっと大丈夫)
流れてゆく雲を眺めながら、腕を組んで詠春は静かに笑う。
「あの世で君に謝らなくて済みそうですよ、切嗣」
彼は自分の正面から歩いて来る医師に少しだけ待つよう伝えて、いつもより軽い足取りで執務室に帰っていった。
この後、関西呪術協会に響く子供の笑い声は三人分に増える。
ただそれも……長くは続かないが………。
短くない年月を経たその先に、再び彼ら三人が笑い合える日がきっとやって来る。
その時を、楽しみに待っていよう。
<おまけ>
士郎が目覚めた数分後。
刹那「あ、あの……し・シロウ…その、たすけてくれてあ、ありが……」
士郎「ん?なんだ?」
刹那「な……なんでもな――い!!」ゴッ!
士郎「げはぁっ!!?」メキャッ!
木乃香「せ、せっちゃんなにしとるん!?」
顔を真っ赤にした刹那の正拳突きが、士郎の鳩尾に見事に入りましたとさ。
チャンチャン♪
《裏設定》
「アンタの親父さんはなァ、ウチみたいな人間にとっては英雄や」
10年前の
大戦で大切な人を喪い……今も西洋魔術師を憎む者にとって。
元神鳴流剣士……「魔術師殺し」衛宮切嗣はまさしく英雄だった。
「長も英雄なんて呼ばれとるけども…ウチから大事なもの奪ってった奴らの仲間を……。
ウチは英雄やなんて絶対呼んでやらへん」
自分に背を向けながら、涙を殺して声を絞り出すその女性の名は「天ヶ崎千草」という事を……幼い士郎は終ぞ知ることはなかった。
※実は士郎が九歳の頃に会ったことがあるという裏設定。
修学旅行時点では、士郎はもう忘れてしまっていますが。
〜補足・解説〜>少女はそう言って申し訳なさそうにほにゃっと笑う。
由紀香ちゃんはマジ天使だと思う。(あれ?木乃香の話だったはず……)
>時折り聞こえる子供達の元気な声は、関西呪術協会の日常になり始めていた。
士郎の実の父親である切嗣は協会の反関東派に英雄視されているため、期せずして近衛家に養子入りした士郎は呪術協会から煙たがられたりはしていません(養子入りに苦言を呈したいと思う程度の人間はいるが)。刹那は神鳴流であり、木乃香は言わずもがな。
この三人の微笑ましさは関西呪術協会の癒しとなっています。
>“お前らまで
俺を、置いていくのか―――”
士郎の一人称が「おれ」⇒「俺」になるという判り辛い変化。士郎の成長、心情の変化を象徴しています。
このあと士郎のセリフから「……」が減って流暢に喋ったり考えたりするのは、以前の「士郎」とは別に「新しい心」が生まれたからであり、以前の士郎=「死んだ心」が生き返ったわけではありません。
つまりある意味、心を失う前の士郎と現在の士郎は別人と言えます。
>この数秒もない逡巡を経て。
小説ならではのご都合主義。実際は何秒経ってるんだか。
でも咄嗟の思考って、ほんの一瞬でとてつもなく速く脳が回転しますよね。
>10年前の大戦
士郎が九歳の時点で10年前です。原作時点から数えて20年前。
次回、「ネギま!―剣製の凱歌―」No.15
―――「過去話U、英国編 来訪者-Visitor-(仮)」
英国編はオリジナル要素が強く、原作キャラがほぼ登場しないのでご注意を。
それでは次回!