朝見南の正門辺りで昨日心臓発作で亡くなった雪村理奈からもらったクラス名簿の榊原志恵留(シエル)電話番号を見て携帯電話で自宅にかける高林郁夫。
クラス名簿には生徒たちの名前と住所と電話番号が記されている。
朝見山市榊町1−22
これが志恵留の住所、榊町という町名はもちろんのこと「1−22」という番地も郁夫には覚えがあった。
おそらく間違いなく「闇夜の訪問者」というギャラリーのある建物が志恵留の自宅だった。
郁夫は携帯電話に耳を当て、応答があるのを待っている間、クラス名簿の志恵留の欄を眺めていた。
しばらくして電話に出たのは郁夫の薄らいでいる記憶の断片に覚えのある男性の声。
「えっと、榊原……志恵留さんはいますか?僕、彼女のクラスメイトの高林と言います」
「ん?」
びっくりしたような、あるいは不安そうな声で電話の相手は答える。
「たかばやし……」
「高林郁夫です。朝見南の二年三組の……あの、そちらは榊原さんのお宅ですよね?」
「……そうですが」
「志恵留さんは今そちらにいますか?」
「……どう、かな」
「今日は学校に来てなかったので……ええっと、志恵留さんに代わっていただけないでしょうか?」
男は少なからず迷いがあるふうに「うーん」と返事を濁し、郁夫が「お願いします」ともうひと押しすると。
「そうだな。じゃあ、しばらく待っててください」
それからずいぶん長い間、ひび割れた音色で奏でられる「P.ヤーロウ・L.リブトン」作曲の「パフ」のリピートを聴かされた。
その後、透き通ったような結構幼い感じの少女の声が返ってきた。
「はい」
「高林だけど、いきなり電話なんかしてゴメン」
二、三秒くらいの微妙な間があってから、志恵留は心配そうに問う。
「どうかしたの?」
「あの……会って、話を聞きたいんだ」
「私に?」
「うん、榊原さんの家……榊町のギャラリーなんだね。だから、その……」
志恵留は反応に困ったように苦笑する声が返ってくる。
「知らなかったんだ。こっちに来てから、あのギャラリーの三階にね」
「まあ、一階と地下は家とは違うみたいだし……近く≠ノは変わりはないけどね」
「で、なんで急に?」
志恵留はそんなに興味がなさそうな反応をして、郁夫は逆にいくぶん声高になって言う。
「雪村さんが、亡くなったの知ってる?」
「えっ」
素直な反応で短い驚きの声、雪村の件はやはり知らないでいた。
郁夫はあまり思い出したくない事だったのだが、昨日の件を告げる。
「昨日、心臓発作で急に。僕の目の前で……前から僕と同じで悪かったらしいけど、知ってる?」
「雪村さんの病気の事は前々から知ってた。よく、私の気胸の件で病院に行った時にばったり会ってたし」
驚きとそれなりの悲しさが消えないまま、志恵留は淡々とした口調。
「それでね、今日……学校へ行ったら皆の様子が変で。僕の事をいないもの≠ニして扱ってるみたいで」
「高林くんを?みんなで?」
「うん。今朝、登校した時からずっと。で、もしかして僕を……」
幾ばくかの沈黙を挟んで、志恵留はため息をつくように答える。
「ご想像の通り、かな?でも、事情は知らないんだよね?」
「うん」
「じゃあ、これを機に教えてあげる。これから、うちに来れる?」
「行けるよ」
「じゃあ、地下で待ってる。料金は遠慮するから」
「分かった」
そうして郁夫は榊町の「闇夜の訪問者」を訪れた。
館内は相変わらず仄暗い黄昏めいていて、館内に流れているのは「エリーゼのために」のピアノの音。
郁夫はカウンターの貯金箱に小銭を入れずにそのまま地下へと降りて行った。
地下の一階とは雰囲気の異なる人形と幻想的な絵達を見渡しながら奥へと進む。
奥には紅色のカーテンの前に紺の長袖のシャツに黒いレース付きの裾の広がったスカート姿の志恵留が立っていた。
志恵留は郁夫に気付くと微笑みかけて自分の後ろで手を組む。
「ここに来るのは二度目でしょ?一階は三回目だけど」
「うん、まあ……お姉さんのあの絵も見たのは三回目かな?」
「どう?あの絵」
「うん、とても綺麗だと思うよ。一番リアルな感じで……」
この言葉に嘘はなく、郁夫はありのままを志恵留に告げただけ。
志恵留はその言葉に嬉しそうに微笑むとハーフアップをした後ろの髪を撫でる。
「ねえ、もしかして人形を作ってる聖斗≠チて、その……」
「恒一兄ちゃんの事」
志恵留は悪びれもないふうに言うと郁夫は「やっぱり」と思ってしまう。
「恒一兄ちゃん」と言うのは志恵留の年の離れたいとこ≠フ榊原恒一。
十五年前の夜見北の三年三組の転校生で、当時死ぬ前の郁夫の同級生だった。
「電話に出たのも恒一さん?」
「そう。ちょっとびっくりしてたみたい、私と恒一兄ちゃんは私がこっちに来てから一緒に暮らしてるの」
「じゃあ、絵を描いてて作家でもある荒川ルキア≠チて、榊原さん?」
その質問には志恵留は逃げるように目を反らして、少しばかり戸惑いながら頷く。
「雅号っていうのが聖斗ね。荒川ルキアは雅号でもペンネームでもあるし」
「じゃあ、榊原さんが闇の教室≠ニか書いてるの?」
「……気味が悪いでしょ?そんなの書いてるのって」
「そんな、別に……僕は好きだけどな、榊原さんの小説」
志恵留は郁夫の言葉に素直に嬉しかったようで「ありがとう」と恥ずかしそうに呟く。
これほど近くに五月に死んだ清水翔子と郁夫が好きだった作家がいた事に郁夫は少々変な気持になる。
「お父さんは?」
「単身赴任で今は仙台、それで今は恒一兄ちゃんのところに預けられてて、高校も朝見南ね。恒一兄ちゃんは私が卒業したとほぼ同時にこっちに来たらしいの」
「だからなんだ……」
「うん、恒一兄ちゃん。新婚なのに快く私の事を引き受けてくれたみたい、見崎先生も、ね」
去年の終わり頃くらいに結婚したらしい恒一と見崎鳴。
志恵留の父の陽平が仙台に単身赴任になったのは志恵留が卒業してからで、志恵留を預かる前に恒一がプロポーズしたらしい。
だからそんな微妙な事になったと志恵留は言う。
「ねえ、高林くん。その名簿って誰からもらったの?突然さっき電話をかけてきたってことは今日か昨日くらいでしょ?」
「えっあぁ……実は雪村さんが亡くなる前にこっそり机の中に入れておいてくれたみたいなんだ」
郁夫は肩にかけていたカバンから机の中に入っていたクラス名簿のコピーと雪村直筆の手紙を渡す。
志恵留はそれを受け取ると、手紙を虚ろな瞳で読み上げで肩を落とす。
「雪村さんらしいね」
「らしい=H」
「うん、この件に関しては彼女、私の事に関してもあまり賛成できてなかったみたいで……不平等な事は嫌いな人だからね」
「彼女が死ぬ前……僕に事情を説明しようとしてたんだ」
「えっ」
「二十八年前の事を言おうとしたら、倒れて。非在者は誰≠ニか足りない≠ニかうめきながら言ってて……」
「……きっと、彼女はそのせいで死んだのね」
志恵留は郁夫に名簿のコピーと手紙を返すと眉をひそめて言う。
「この件はね事情を知らない人≠ノ話そうとすると死ぬ確率が一気に上がるの。でも、これはただの噂ね。彼女は偶然死んだと考えるのが自然かも」
「そっか」
「でも、タイミングが良すぎるね。もしかしたらアサミ≠ノ目をつけられて死んだのかも」
「どういう事?」
「聞きたいんでしょ?その、き・め・ご・と、を」
志恵留は少し不気味な微笑みを浮かべると紅色のカーテンを引き開けて中に入る。
郁夫も何拍か遅れて慌ててあとを追って、カーテンの中に入る。
そこにはクリーム色の鉄の扉があり、扉の横には四角いプラスチックのボタンがある。
鉄の扉が低いモーター音と共に左右に開く、地階と上階を結ぶエレベーターだった。
「これには気づいてた?」
「前に来た時に榊原さんが消えちゃって。さすがにカーテンの後ろを見たよ」
「じゃあ、上でゆっくり話そうか」
エレベーターを降りて通されたのは三階にある自宅のリビング&ダイニング。
広々としていて家具は少ないが、生活感はあって床に新聞紙や雑誌が二冊ほど無造作に置かれている。
ソファの隣にある液晶テレビのテレビ台には、ギャラリーで見たような少女の人形が一体。
赤いショートドレスを着ていて、瞳はギャラリーと同じで蒼い。
おそらくこれも恒一が作った作品だとはすぐに分かった。
ガラストップのローテーブルを囲んでクリーム色の革張りのソファが三つ置かれている。
ダブルが一つにシングルが二つ。郁夫は志恵留に勧められてダブルの左側に腰を下ろす。
「紅茶、飲めるかな?」
「え……あ、うん」
志恵留は静かにソファを離れてキッチンのほうへ向かってからしばらくして、トレイに入ったグラス入りのアイスティーを持ってくる。
志恵留はアイスティーを郁夫の方に一つと郁夫の前のシングルのソファの前に一つ置くとそのソファにすとんを腰を下ろす。
志恵留はグラスに入ったストローで一口飲むと「で?」と言うふうな眼差しで郁夫を見る。
郁夫も一口飲むと志恵留が置いてくれたコースターの上に置く。
「何から話せばいいかな?」
「ええっと、僕に話しても大丈夫なの?」
「いないもの≠セからね。だから、大丈夫だと思う」
「じゃあアサミ≠チて言うのは?」
「あれはね、もちろん二十八年前のアサミ≠フ事。今はもう存在しない人よ」
志恵留はそう言うのだが、六月に死んだ栗山典子のいとこの戸倉佳乃が言っていた。
―――いるんでしょ?三組にアサミ
あれは一体なんだったのか?と言うのが郁夫の新たな疑問。
「ねえ、二組の死んだ戸倉さんが言ってたんだいるんでしょ?三組にアサミ≠チて、あれは一体……」
「戸倉さんが……たぶん、あれはね、栗山さんが戸倉さんにアサミ≠フ話を吹き込んだから」
「どうして?」
「三組ではねアサミ≠いるもの≠ニして扱わなきゃダメなの。だから栗山さんはより一層そうしようとアサミ≠フ話を三組じゃない戸倉さんにしたの」
郁夫はその解説に納得すると志恵留の話に少々の相槌を打つ。
「君がいないもの≠ノなったのは僕が転校してから二日後だったよね?どうしてそんな中途半端な時期に?」
「それはね、一年の頃にいないもの≠セった生徒が高林くんが来たのとほぼ同時期に転校しちゃったから」
「えっそうだったの?」
「その人はいないもの≠ノなってからは皆に気を使ってあまり学校に来なかったの。だから、高林くんが知らなくて当然」
「転校したのはいつ?」
「私がいないもの≠ノなる前日、いつの間にか転校しちゃってね。理由は家の事情らしいけど」
「それで?」
「うん、急遽ね。風見先生からお願いされて、元々私は夜見北のいないもの≠セったし」
かなり中途半端な時期に転校してしまったようだが、それで志恵留が次のいないもの≠ノされた。
郁夫は気引き締めて「じゃあ」と背筋を伸ばす。
「朝見南の三組では、何が起きているの?」
その質問に志恵留は震えるようなため息をついて一口アイスティーを飲んで喉を潤す。
「二十八年前のアサミ℃んだ後、新学期が始まってからね。クラスの机の数が一つ多かったの@摎Rは分からず、手違いだと思って机を戻したのね。
そして、二ヶ月後に今度は一つ足りなくなっていた≠サの後、クラスの関係者が次々と死に始めたの。おもにアサミ≠いじめていた生徒がね。
それでね、その人たちが卒業した後、やっと分かったの。クラスにいるはずのないアサミが紛れ込んでいた≠チてね」
志恵留はいくぶん声のトーンを落としつつ話す。
郁夫はその意味があまり分からないようで、小首を傾げるしかない。
「言葉が難しいかな?私も、詳しい事は聞いてないから」
その言葉が終わるか終らないかくらいにリビング&ダイニングの扉が開く。
入ってきたのは美術教師の鳴、どうやら今日は早めに帰宅する事が出来たようだ。
鳴は志恵留を見てから郁夫を見るとそれなりに驚いたようで郁夫は慌てて鳴に頭を下げる。
「お帰りなさい」
「ただいま、高林くんは何で?」
「……あの件≠ノついて、聞きたいそうなんです。あの、鳴さんから説明してもらえませんか?」
志恵留は家では鳴の事を「先生」ではなく「鳴さん」と呼んでいる。
鳴は幾分か考えるそぶりを見せると「いいよ」と言って志恵留の隣のシングルのソファに腰を下ろす。
それと同時くらいに志恵留は再びキッチンへ向かうと鳴の分のグラス入りのアイスティーを持ってきた。
志恵留がソファに座ったと同時にゆっくり深呼吸をして口を開く。
「どこまで聞いた?」
「初めの年の事をおおまかに……あの、詳しく話してください」
志恵留が鳴にお願いすると鳴は後を受け持って話を始める。
「アサミ≠ェ死んだ後に机が多かったのは偶然じゃないの。後から足りなくなったのはねアサミがクラスに紛れ込んだから≠セから人数が増えたの。
けど、その事を誰一人として気づいてなかった。アサミが死んだ事に気づいてなかった=v
「気付かない、って。死んだ記憶がなくなったってことですか?」
「そう。アサミ≠フ怨念が実体化して、いじめていた生徒を自分の手ではなく、現象として殺した。けど、生徒本人じゃなくて家族だったり、親族だったり」
「家族も……」
「アサミ≠フ怨念はそれからも残り続けて、その人たちが卒業した後に入学してきた三組でも、同じような現象が起きたの」
「ってアサミ≠ェ紛れ込んで?」
「アサミ≠ェ紛れ込むんじゃなくて、夜見北と同じで今までにその現象で死んだ死者≠ヒ。でも、その前に非在者≠ェ出るの」
郁夫はその言葉に脳裡で志恵留の机の「非在者≠ヘ、誰―――?」と言う落書きがフラッシュでよぎる。
「非在者=H」
「そのクラスの生徒の一人の存在がなくなるの≠チて言っても、その人の実態がなくなるんじゃなくてそのクラスの成員だと言う事実が消える
記憶や記録に至るまでの全てが改竄されてしまう。それが分かるのは入学した時に机の数が一つ多かったら≠サれで、その後くらいに死者≠ェ紛れ込む」
「じゃあ、生徒が一人減って、後から一人増えるって事ですか?」
「そう。災厄≠ェ始まるのは死者≠ェ紛れ込んだ時、生徒が足りない時は警告みたいなもの」
「それで、夜見北みたいに月に一人以上の死亡者が出るんですか?」
「そう、それは生徒本人だったり、三親等以内の親族の時もある」
鳴は平然とした態度で淡々とした口調で語り「三親等以内」と言う言葉に郁夫は眉をひそめる。
「三親等、ですか」
「夜見北は二親等だけど、朝見南は三親等……しかも、義理の親兄弟もいとこやおじ、おば、姪甥までね……」
夜見北では範囲内になるのは二親等以内の血縁関係者で、血のつながりのない家族は範囲外だった。
鳴は少しくたびれたような表情をするとアイスティーを飲んで、郁夫も同じようにストローで飲む。
「じゃあ、起こる現象は夜見北とは同じなんですね」
「そうね、月に一人以上って言うのは同じ……違うのは初めの警告があるのと範囲が広いところかな?」
「じゃあ、栗山さんのいとこの戸倉さん親子も範囲内ではあるんですね」
「そうよ」
「でも、何で非在者≠ェ出るんですか?」
「それはアサミ≠ェ生前に空気のような扱いを受けていたから、って言うのが一つね。死者≠ェ蘇るのはアサミ≠ェ蘇ったのが引き金」
いろいろな二十八年前の出来事が引き金になってしまい、こんな結果を招いてしまった。
これも夜見北と同じで、死に近づいて死に引き込まれてしまったから。
だから青崎竜輝も乗っていた自転車のブレーキが運悪く壊れて、たまたま通りかかったトラックに引かれた。
戸倉もあんなふうに不運な偶然が重なってあんなむごい死に方をした。
雪村も余命は宣告されていたものの、体調が良かったのに突然に死に至る発作を起こして死んだ。
全てが悪夢のような偶然が重なりあい、事故や病気で死んでいった。
「あの、先生。そのアサミ≠フ本名は知っていますか?」
「ええ、知っているわ。これはあなたのお父様の教頭先生から聞いたんだけど……アサミ≠ヘ苗字で女子生徒だったの」
あっさりとそう答えが返ってきた。
当時の担任教師だった郁夫の父の敏夫が鳴に最近になって教えたそうだ。
「漢字はこの都市と同じ朝見って書くのよ」
「名前は?」
「サクラコ。花の桜と子供の子で桜子。朝見桜子って言うのが彼女のフルネーム」
郁夫は鳴の隣でアイスティーの入ったグラスを両手で持っている志恵留のほうを見た。
志恵留は郁夫の方を見て小さく首を振って「私も知らなかった」と言う意味に捉えられる。
「朝見さんは首を吊って自殺したんですか?」
確認のつもりで聞くと鳴はピリッと眉をひそめて言いづらそうに答える。
「殺されたの」
郁夫と志恵留はその答えに驚いて体が硬直したように固まる。
殺された≠ニ言うニュアンスが鳴が言いづらかった原因。
「しかも犯人は朝見さんをいじめていた生徒、学校のプールに面白半分で朝見さんの顔を押しつけていたら溺死でね。
その生徒は全員で三人で、三人とも朝見さんが死んだのが分かると慌てて遺体をプールに落として、自殺か事故にしたの。きっとこれが原因ね」
「それで、朝見さんの怨念が強くなったと?」
「そうね、噂の首吊りって言うのは人から人へ伝わっていくごとに変化したり尾ひれがついたりでね。自殺は学校側が守るための狂言。
そしてその生徒三人は真っ先に同じ月に事故で亡くなったの。その後もいじめを見て見ぬふりをしていた生徒や親族をね」
これが朝見桜子の死を巡る真実、郁夫には何となく朝見がクラスを呪う理由が分かった気がする。
鳴は伸ばしていた背筋を背もたれにもたれかかってため息をつく。
「あの……非在者≠チて言うのは何かクラスの成員の他に何か条件はあるんですか?」
「さあ、たぶんランダムね。非在者≠ヘクラスの成員としての事実がなくなるだけだし、その人は高校には通っていないって事になるらしい」
「じゃあ、僕たちの目の前に非在者≠ェ現れる事も?」
「もちろん、けど、その人が非在者≠セと言うの事は本人も誰も分からないけどね」
郁夫はストローでアイスティーを飲むと眉間にしわを寄せてストローを噛む。
「あの、もしかして朝見さんをいるもの≠ノするのって対策の一つですか?」
「そう。朝見さんの怨念を和らげようと言う対策、これは十五年前に考えられた事で成功率は半々ね。いないもの≠同時期にでやはりこれも半々の効果」
「災厄≠ェあるのって決まってるんですか?」
「三年に一度あるかないか、あるクラスが卒業した後に入学した三組のクラスがあるかないか。でも、そのクラスがなくても、その翌年に入学した三組がある事も」
「じゃあ、うちのクラスの皆が入学する前に卒業した先輩の三組があったんですか?」
「そう、だったらしいけど」
鳴は小首を傾げて曖昧な言い方をする。
その次を黙ってアイスティーを飲んでいた志恵留が引き受ける。
「これも夜見北と同じだけど、当事者たちの記憶は長く維持できないの。最も死者≠ニ非在者≠ノ関する事は」
「じゃあ死者≠フ記憶と非在者≠ェいなかったって言う記憶がなくなるの?」
「そう、そのクラスで非在者≠セった本人も、次第にクラスに存在したっていう記憶に組み替えられるの」
「卒業式の後非在者≠ェ判明した時は?死者≠ヘ消えても非在者≠ヘ……」
「本人が本当はクラスの成員だと気づいて、その時はまだクラスに存在したっていう記憶はなくて、徐々に後になってから」
志恵留は空になったグラスをコースターの上に置く。
鳴は志恵留の話に頷くと冷ややかな目で郁夫の方を見る。
郁夫はずっと気になっていた事が判明してそれなりにすっきりしたような気持ちになる。
かなり難しい現象のようだが、何となく分かった。
すると、部屋のドアが開いて入ってたのは半袖の無地の黄緑色のシャツと黒のズーン姿の恒一だった。
二階で作業をしていたようで、山吹色のバンダナを頭に巻いていた。
恒一はバンダナを取りながらソファの三人を見ると、郁夫を見て「おや?」と言うふうに首を傾げる。
「友達の高林くん。中学の時に会ったでしょ?それに、十五年前にも……」
「いらっしゃい。元気だった?」
恒一は少し微笑むと取ったバンダナを畳んで大きく伸びをする。
「恒一兄ちゃんは、この件については一応鳴さんから聞いているの」
「同じクラスなんだってね、大変だろうけど、頑張ってね。風見くんにもよろしくね」
フレンドリーな笑顔になって、担任の風見智彦の事を言う。
十五年前の三年三組で同級生だったので、そう言う意味も込めて言ったのだ。
志恵留は部屋の壁に掛けられたアンティークな時計を見てスッとソファから立ち上がる。
「もう、遅いし、そろそろ帰ろうか高林くん」
郁夫が時計を見ると時間はもう夜の八時だった。
郁夫は慌ててソファから立ち上がるとカバンを肩にかける。
「じゃあ、そこまで送っていくよ」
すっかり暗くなった夜道を志恵留と肩を並べて歩く郁夫。右が志恵留で左が郁夫。
暗くなった夜道にポツポツと街灯の明かりで何とか道は分かる。
郁夫の住む杏里町と榊町は隣同士で、志恵留は杏里町と榊町の境目の辺りまで送っていくと言った。
いかにも梅雨時っぽい生ぬるい風が吹いていて、じっとりと湿り気を含んで少しうっとうしい。
「榊原さん、別に送ってくれなくてもよかったのに」
「心配だからね、この間由岐井橋で通り魔事件が遭ったばかりだし」
「通り魔事件」と言うのは清水の「強盗殺人事件」の事だ。
財布から現金が抜き取られているので「強盗殺人」のほうが良いが、ほぼ「通り魔」だと思われる。
すると志恵留は離れて行き、郁夫は慌てて姿を追うと右手前方の道沿いに小さな児童公園がある。
志恵留は誰もいない公園に入ると、砂場の隣にあるブランコの左の右側に座る。
郁夫は後か志恵留の隣の左側に座ると、志恵留はブランコをこぎ始める。
黒いスカートのシルエットがひらひらと踊るように見える。
「そう言えば、高林くんに言ってなかったね」
「って?」
「ほら、今日から高林くんもいないもの≠ノなる事」
「ああ……」
今日、学校での出来事を考えると郁夫にもおおよその想像はつく。
志恵留はブランコをこぎながら郁夫はそれを目で追って話を聞く。
「戸倉さんとお母さんが死んで、今度は雪村さんでしょう?だから、始まったって考えて……十五年前に夜見北で行われた対策を決行したの」
「そっか、それって七瀬さんたちが言ったのかな?」
「どうかな?きっとそうだと思う。けど、あの三人には実行するって言う思いはなかったと思うよ。ただ、提案の一つとして言っただけね」
「けど、普通ならそこで終わるよね?」
「今年はクラスの数が減っただけで、高林くんが転校してきてから、あとになっていないもの≠セった人が転校しちゃったから増えてはいない≠ナしょ?
いつもとは違う、現象が起きて。新しい対策が必要とされたんだろうね」
志恵留はそう言い終えるとブランコから飛び降りる。
それを見て郁夫はブランコから立ち上がると志恵留のもとに寄る。
「じゃあ、明日学校でね」
「うん」
志恵留は郁夫と握手をすると、手を振って小走りで帰って行った。
郁夫はその背中をぼんやりと眺めていた。