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アサミ 第十一話「儚い」
作者:ひいらぎ 由衣   2012/05/08(火) 17:13公開   ID:LQ8Pd4ylDqI
六月も終わり頃になり、杏里町の自宅で高林郁夫は一階の縁側にいた。

縁側の廊下を跨いだところに障子で仕切られた八畳間の和室に義妹の梨恵がいる。

梨恵は小ぶりの可愛らしいクマのぬいぐるみを抱えて縁側に座っている郁夫を見ていた。

郁夫の脳裡にはこの間、美術教師の見崎鳴から聞いた話が回想される。

ようやく朝見南での奇妙な生活が慣れた頃だったので、そろそろあの人≠ノ話を聞き出そうと考えているところだった。

それでも郁夫にはどうしても聞き出してしまえば、気を悪くしてしまうかもしれないと内心気がかりだった。

そんな郁夫の心を悟ったように、梨恵がぬいぐるみを抱えたまま郁夫のそばに寄る。


「トッチャン、なんで?カーザセンシェー、なんで?」

「梨恵……また、そんな事言って、そんな言葉覚えなくてもいいのに」

「なんで?トッチャン、カーザセンシェー、なんで?」


郁夫は梨恵に向かってため息をつくとのっそりと立ち上がって梨恵を放置して縁側を離れた。

リビングを覗いてみると、ソファの前のテレビが付いていてバライティ番組を見ている義母の智恵。

しかし、智恵はソファに身を沈めた智恵は両目を閉じて寝ている。

よく見れば、ソファの前のテーブルには缶ビールの缶が四本無造作に置かれている。

珍しく智恵はビールを飲んだようで、寝顔は何か苦しそう。

郁夫は黙って缶ビールの缶をダイニングの流し台に置くと「郁夫くん?」と智恵が薄らと目を開いている。

郁夫も智恵とは違うシングルのソファに腰を下ろすと「大丈夫ですか?」と首を傾げる。

智恵は起き上がるとやはり気分が悪そうに前髪を掻きあげて眉根を寄せる。


「珍しいですね、智恵さんがお酒を飲むなんて……」

「ちょっとね、あぁ……ヤダ、飲みすぎたかな?」

「飲めないのに飲むからですよ……」


郁夫は苦笑しながら言うと、智恵は頭を拳でコツコツと叩きながらテーブルの上に放り出された荒川ルキア(志恵留)の「バッドメモリー」に目をやる。

こちらは郁夫の読んでいる本なのだが、今は三分の一を読めた程度。

智恵は何かおかしそうに微笑みながら腕組みをする。


「ほうほう、郁夫くんは読んでるんだねぇ、この本」

「え、あぁ、はい」

「私もちょっと前に友達から借りて読んだことあるんだよ。面白いよね、荒川ルキアって」

「えぇ、はい。あの、これはあまり人には言ってないんですけど、実は僕、小説家とかそういう関係の仕事をしたいな、って思うんですけど……」

「へえぇ、そうなんだ」

「はい、やっぱり無謀でしょうか?」


智恵は幾分か考えるそぶりを見せると眉をピクッと動かして再び微笑みの表情を浮かべる。


「まぁ、小説家とか漫画家とかって言うのは親に反対されがちだけどね、私はいいと思うよ。郁夫くんがやりたいと思ってるんなら」

「そう、ですか?」

「うん、敏夫さんはともかく、私は大賛成よ」


智恵の言葉に郁夫は嬉しくなると、満面の笑みで「ありがとうございます」と言う。

そして智恵は大きく伸びをするとソファの背もたれにもたれかかる。

すると、縁側からぬいぐるみを抱えた梨恵がリビングに入ってきて智恵はソファから立ち上がると梨恵を抱える。

郁夫は時と場所を考えず、雰囲気が悪くなるのを分かっていながら智恵に言う。


「朝見桜子」


そう言った瞬間、抱えている梨恵の背中をポンポンと叩いていた智恵の手が止まる。

智恵は郁夫に背を向けたまま、凍りついたように固まってしまった。


「知ってますよね?二十八年前に校内のプールに溺死体で発見された、朝見桜子」

「……もちろんよ」

「あの、彼女がクラスの災厄≠ノ関わってるんですよね?それで、その……学校でクラスメイトが二人と、親戚が二人、死んでしまって」

「合計で四人、ね。もうそんなに……」


智恵は身震いをすると、ソファにすとんと梨恵を膝の乗せて腰を下ろす。

表情は青ざめていて、どこかビクビクと怯えている。


「朝見が殺されたって事は知ってるんですよね?だから、その……その後にクラスで死人が出始めたとか?」

「そう。朝見さんはいじめられたうえにいじめっ子に殺されて……けど、最初はみんな事故か自殺だって思ってたの」

「いつから殺されたって分かったんですか?」

「三年に上がって、朝見さんが死んだ後、クラスメイトや親族が次々に死に初めて、卒業式あの後、やっと朝見さんが殺されたって事に気付いたの」


怯えの見える表情で、心なしか淡々とした口ぶりで語る。


「クラスメイトが死に始める前、クラスの人数が一人多かったのね。しかも、それが朝見さんで、朝見さんが死んだ事を誰も覚えていなかったの。

卒業式の後、みんなで記念に集合写真を撮ろうって事で教室に集まったの。それでみんなで先生も入れて写真を撮った後だったの。

写真を撮り終えて教室の黒板を見たの。そしたらね、黒板に白いチョークで『私はこいつらに殺された』って、その文字の下に朝見さんを殺した生徒の顔写真が張られていたの」

「そこで、分かったと?」

「そう、それまでは朝見さんも私達と一緒に写真を撮ったんだけど、その後突然消えちゃって。後日出来上がった写真をもらったの。

そしたらそこにね、その文字が黒板に書かれた状態で、黒板を背に向けてみんなで分かっている中で、一人だけ青白い顔をして不気味に笑ってる朝見さんがいたの」

「ええっと、じゃあ、その写真は今はどこに?」

「捨てた。気味が悪かったし、こんなものがあるから呪いが起こるんだって思って、二十年前に燃やしたの」


智恵は郁夫に衝撃の告白をすると、目をゆっくり閉じてそして開く。

青ざめた智恵の顔が見る見るうちに悲しそうな悔しそうな表情へと変わっていく。


「ごめんね、郁夫くん」


かすれた声で智恵はボソッと言うと郁夫の方を見て下唇を噛みしめる。


「ごめんね、私のせいで……私が朝見さんを助けれ上げられなかったばっかりに……」

「そんな、智恵さんのせいじゃ……」


郁夫はソファから立ち上がると小刻みに震えている智恵の肩に手を置く。

すると智恵は郁夫の腕を掴んで、今にも泣き出しそうな表情で同じ言葉を繰り返す。


「ごめんね、郁夫くん、ごめんね、私のせいで」


そんな智恵の声に重なって梨恵の「なんで?なんで?」と言う声が智恵のすぐそばでする。

智恵の膝の上で何の悪びれもないふうに言う梨恵、郁夫には梨恵のこの言葉が痛々しく胸に突き刺さる。


「ごめんね、私どうしようもなくて……」








榊町の「闇夜の訪問者」と言う変わった名前のギャラリーを郁夫が訪れたのは、七月に入った頃だった。

この日は、榊原志恵留(シエル)が学校を休んでいて、郁夫も二時間目まで授業に参加するとそれ以降は学校を途中で早退した。

帰り際に他の普通の生徒と勘違いした生徒指導の野坂が「こら!」と郁夫を叱りつけた。


「まだ授業中だぞっ、今からどこへ……」


ここまで言った野坂が郁夫の顔を見て「おや?」と首を傾げて叱りつけようとした言葉を呑みこむ。

郁夫が無言で頭を下げると、野坂はきまりが悪そうにあらぬ方向に目をやる。


「大変だな、お前も。もう一人の子は?」


ため息交じりにそう言うと、いつも郁夫のそばにいる志恵留がいない事に不思議そうに首を傾げる。


「今日は休みで、えっと、心配なので……すみません」

「構わないよ。君が教室にいたら、他の生徒が大変だしな、いい判断だ。しかし、明日はちゃんと授業に参加をするように、もうすぐ夏休みだしな」

「はい」

「二学期は、ちゃんと勉強をして良い成績を取るんだぞ。まぁ、榊原は心配なさそうだが……」


野坂は少々の本音を漏らすと郁夫は苦笑する。


「しかしまぁ、欠席や早退はほどほどにな。風見先生も梅原先生もお前らの事は心配してるようだしな」

「はい。気をつけます」


そんな感じに学校を早退すると、郁夫は迷わず志恵留の自宅のギャラリーを訪れた。

一応館内に入って最初のカウンターの貯金箱に入館料を払うと志恵留を探した。

決して志恵留がここにいるとは保証はできないが、郁夫の勝手な想像でここだと思われる。

館内の仄暗さは相変わらずで、館内にはイタリア語の歌声が響きわたる。

「カンツォーネ」と呼ばれる題名は「サンタ ルネア」と言う歌。

歌っているテノール歌手の名前は郁夫にはさっぱりだが、歌の題名は何となくわかった。

一階を彷徨っていると、志恵留が三十代くらいの男二人と会話をしている。

志恵留は郁夫に気付いて郁夫に微笑みを浮かべると、男の一人が郁夫に「おうっ」とからりとした笑顔で言う。

郁夫には見覚えがあり、男の名は勅使河原直哉。

もう一人の小柄で美少女めいた顔立ちの男は望月優矢。

今は二人とも夜見山に住んでいて、夜見北の三年三組と朝見南の三組のOBだ。

二人と会うのは久々で、十五年前にはクラスメイトだったことからかなり神妙に覚えていた。


「高林くん、だよね?」


望月の方が頬を赤らめて恥ずかしそうに言う。


「うん」

「久しぶりだね。二年ぶりくらいかな?」

「榊原と風見から聞いたぞ。二人が朝見南の三組だって?こりゃ俺らと同じルートを通ったな」


勅使河原の言葉がどこまでが本気でどこまでが冗談なのかはかりあぐねる郁夫は返す言葉に迷う。


「二人がOBって事は知ってますよ。見崎先生からも一応」

「あー、知ってんのか。朝見南のほうが夜見北よりもヤバいってのは分かったろ?」


勅使河原は本気交じりの表情で腕組みをして郁夫に言う。

勅使河原と望月は現に親族を失っていて、そう言うところは分かっている。


「二人の親族が亡くなった事も知ってます。ええっと……」

「慰めならご無用、俺らはあの時の事はあんまり覚えてないしさ、途中で止まったことが幸いだよな」

「僕もそう思うよ。あれ以上続いてたら、僕らも危なかったし」

「運が良かったんだよ、二度も途中で止まってさ、本当良かったよ」


勅使河原はコクコクと頷きながら心境を語る。

志恵留は黙ったまま、二人の話を親密そうに聞く。

郁夫は思い切ったような質問を二人に投げかける。


「あの、二人の年が止まった時死者が死に還った≠フと非在者の判明≠フどちらで止まったか、覚えてますか?」


勅使河原と望月は眉根を寄せて真剣な表情で考え込む。

志恵留もこの質問の二人の答えがどんなものかと、気になった様子。


「俺は死者≠フほうかな?記憶はないんだが、俺の意見として一つ」

「僕も勅使河原くんと同意かな?けど、自信はない」


二人は曖昧な言い方で返事をしたのだが、これも貴重な証言の一つとしてとらえられる。

しかし、これが本当なら鳴の証言とは食い違う。

鳴は非在者の判明≠ナ止まったと言っていた。

―――死者が死に還った≠フが四月。

―――九月以降は死人が出ていない。

鳴の記憶違いか、もしくはこの二人が間違った記憶なのか全く分からない。

しかし、今ここでとやかく言おうと、今は新しい対策が重視される。

七月に誰も死人が出なかったらこの対策は成功、死人が一人でも出たら失敗。

出来る事なら郁夫と志恵留は成功をしていほしいと願っている。


「じゃあ災厄≠ェ及ぶ範囲って、朝見山の外に出たら範囲外ですか?」

「あぁ、範囲外って言うか死ににくいな。これは夜見北と一緒だ」


最後の質問にしてはシンプルな質問だが、郁夫にはそれなりに知っておこうと言う気持ちだった。

今、朝見山に住んでいない郁夫の親族は母方の郁子やその他の親戚。

及ぶ範囲の外に出来る限り、多くの人を出しておきたいと言う郁夫のささやかな望み。


「まあさ、心配する必要もないって。この対策がどうなるかは微妙なところだが、気楽にやれ」

「うん、頑張ってね。僕らはあんまりこっちには来られないけど、何かあったら来るよ」

「はい」


勅使河原と望月は二人の無事を祈るように言う。

郁夫と志恵留はこの時、どうかこのまま二人だけの孤独と自由を得て三年の卒業を迎えようと思っていた。

新しい対策がどうなるのか、不安と期待が積もる。

いないもの≠二人にする対策は十五年前の夜見北で勅使河原たちの年で決行されたが、むなしくも失敗に終わった。

けれども、少しでも可能性があるのなら、それに託そうとクラスの誰もがそう思っていた。

六月十一日の雪村理奈の急死から一ヶ月余り、かろうじて保たれていた平穏は、脆くも崩れ去ってしまう事となった。







『二〇十三年七月十四日』

郁夫がいないもの≠ノなって以来、朝のホームルームにはほとんど出ていない。

一時間目が始まるぎりぎり前に滑り込む場合がほとんど、志恵留も一緒だった。

しかし、この日はどちらとも示し合わせたわけでもないのに二人とも朝早くから教室にいた。

もちろんクラスの誰とも口を利かずに、目を合わすことさえなかった。

郁夫は久々に気が向いたので読みかけの荒川ルキア(志恵留)の「バッドメモリー」を読み始める。

やはりこちらも人間心理が中心だが、女の怖さを知らされるホラー。

気に入らない過去を理想の過去に書き換えて生きる主人公、そこに現れた過去を知る男が現れ、主人公の運命やいかに―――

そうやって読んでいると、隣の席の志恵留は同じように本を開いている。

郁夫はチラッと表紙の題名を見ると「呪われた町」と書かれている。

スティーヴン・キングの本で、郁夫は父の敏夫の書斎で見かけた事があった。

ホームルームが始まる時間になっても一向に現れそうにもない担任の風見智彦と副担任の梅原香織。

いつもならこの時間になると風見が教壇の上に立って、梅原が教室の出入り口でそんなみんなを見守る。

なのに、今日は何かあったのか二人ともまだ来ていない。

何だか妙な事がいくつも重なりあい、郁夫はどうも違和感を抱いて仕方がない。

しかし、教室内は席に座って前や後ろの生徒と話をしている。

それがノイズめいたような音に聞こえてくる。

すると、窓際の三番目の席からガタッと言う椅子を引く音がして、郁夫はそちらを見る。

席を立ったのは、クラス副委員長の常本夏帆だった。

野々村飛鳥と高橋直子といない£ゥ見桜子をいるもの≠ニして扱う一人でもある。

常本が椅子を引いた瞬間、教室中が静まり返り全員の体が凍りついた。

常本は静かに教壇に立つと、風見のような立ち振る舞いで教卓の上に両手を置く。

いつもと変わりのない頼れる副委員長、だったがいくつか違う点が見受けられる。

いつもは整ってサラサラの髪が今日は異様に乱れていて、表情を何だか暗い。

教壇の上に常本が立つと、教室にいた全員が常本の方に注目する。


「みなさん、おはようございます」


虚ろな眼差しで目の前のものを何も見ていないようなそんな印象の目。

郁夫の席は教壇の常本から見て右の二番目の席で、常本の表情ははっきりと分かる。


「今日は私、みなさんに謝ろうと思います」


震えるような口調で常本は教室にいる生徒たち全員を見渡すと、視線を下に戻す。

若干のざわめきは生まれたものの、すぐにフェイドアウトされた。


「私はこのクラスの副委員長として、委員長の八神くんと精一杯頑張ってきたつもりです。五月の青崎くんの事故、六月の栗山さんの親族と雪村さんの病死。

悲しい事ばかりが次々とやってきますが、みなさんで力を合わせればきっと大丈夫だろうと信じてました。今からでも何とか……と」


すると、常本の左眉がぴりぴり……と痙攣し始める。

口元もかすかに震え始めると、常本の言葉が一瞬だけ止まった。


「私は新しい対策が功を成せば、きっと残されたみんなで卒業をできる。そんな甘い考えをしていましたが、やはり、そんな甘い世界ではありませんでした。

副委員長としての無能の指図を受けても仕方ありません。本当に申し訳ありません」


常本は深々と頭を下げると、教室中の生徒たちがお互いの顔を見合わせる。


「青崎くんはとても明るくて、バスケ部のエースだと部活仲間の志村くんや瀬和くん、そしてマネージャーの栗山さんからも聞いています」


志村礼二と瀬和隆登の二人はバスケ部所属で、栗山典子はバスケ部のマネージャーで四人は結構仲が良かった。

青崎が死んで、一番悲しんだのはこの三人。


「戸倉さんは他のクラスではありましたが、明るく元気な活発な人で、テニス部の瀬野さんや谷川さんから聞いています」


テニス部所属だった戸倉佳乃、そして同じくテニス部の瀬和薫と谷川綾香。


「雪村さんは本当に優しい人で、新しいいないもの≠フ事で、とても悩んでいたそうで。決まった後も、高林くんに事情を話そうとして亡くなりました。

雪村さんと友人関係だった、福島さんや神崎さん、そして椎名さん、申し訳ありません」


雪村と仲の良かった福島美緒、神崎千代里、椎名ふれあの三人は困惑したように辺りを見渡す。

これまでに死んだ生徒のひとりひとりについて、親密そうに話す常本。

それ以前に、郁夫の名前を出した時点で教室中は嫌な予感を余儀なくされた。


「私は、もうこのクラスの副委員長である資格はありません。これからは、もっと良い人に八神くんと一緒に頑張ってほしいです」


常本の唇の震えが止まれなくなると、おもむろに俯いたままでいる。

するとスカートのポケットに右手を入れて、引っ張り出す。

すると、その手には少し大きめのカッターナイフがあった。

起こっている事の意味を、それでも郁夫と志恵留は分からず手が震え始めた。


「始まった以上、どうあがいても無駄なのか、それとも何か解決するすべがあるのか、この後は私には分からない。分からない……と、言うかもうどうでもいい」


常本はそう話しながら教壇の上に突き出したカッターの刃を十五、六センチほど出す。

クラスの誰もがあんなものを出して、いったいどうするつもりか?と思った。

けれどもほんの二、三秒後には、全員がいやでもその答えを思い知らされることになった。


「それではみなさん、私は先に行って待っています」


常本はカッターを握りしめたまま、肘を内側に曲げた。

刃の側を自分自身に向けて、少しだけためらった後、自分の左胸に刃を突き刺した。

突き刺さった瞬間、常本の口から叫び声が飛び出した。

常本はそれでもカッターをもっと深々と刺して、口からは大量の血が噴き出した。

教壇のすぐ目の前にいた辻原龍馬と奥村千穂はその血を浴びるはめになっても凍りついたように身動きが出来ないようだ。

郁夫と志恵留は二番目だったのでもちろん、その血を辻原たちと同じくらいに浴びた。

そのすぐ後ろの西川博人と椎名ふれあも顔面全体に浴びる事となった。

常本から見て右側の列の和田理沙も同じ、その隣は青崎の席で机の上の花瓶に入ったチューリップの花に血がかかった。

左側の本庄誠也と青木美穂も同じで、全員が席に座ったままガタガタと震えている。

郁夫は顔面と上半身に浴びた血を気にするはずもなく、常本の行動を「悪い冗談」だと思いたかった。

常本は血まみれの顔面と上半身、虚ろに見開かれた双眸。

常本は再び右手を持ち上げて血まみれたカッターを自らの左胸から引き離す。

その瞬間、カッターについていた血と左胸から血が溢れだしてクラス全員の顔か上半身に最低でも数滴の血がついた。

そして常本はのたのたと身を動かし続けていたが……やがて、倒れた。

後ろに黒板にもたれかかる形でしゃがみ込んだように床に座り込んだ姿で動かなくなった。

野々村は自ら頬に浴びた血を指で取って自分の目で確かめると頭を抱えて、悲鳴を上げる。


「い、いやぁぁぁああああ!」


その声が合図だったように各々に生徒たちが席から立ち上がって教室から飛び出す。

奥村は自分の椅子から座っていられなくなって、床にへたり込んでしまっている。

自分の目の前で起きた状況に理解が出来ていない様子だった。

黒板から見て左側の二番目に座っていた蓬生修は席に座ったまま呆然としている。

郁夫もやっと我に返ると席を立って常本が座り込んでしまった場所を覗き込む。

虚ろに開いたままの目で壁にもたれかかって座り込んだような常本。

出入り口では、顔に血を浴びた風見が床にへたり込んでガタガタと震えている。

常本がカッターを引き抜いた時、丁度その時に遅れて風見がやってきたのだ。

後ろには梅原が呆気にとられた感じで、すぐに常本のそばに駆け寄る。


「みんな外へ出なさい!」


大声で教室に取り残された生徒たちに命じると、常本は手遅れだと判断したようだ。


「風見先生!至急、警察と救急車をお願いします」

「あ、は、はいっ」


風見は大慌てで立ち上がるとのたのたともつれる足で職員室へ向かう。

梅原は教室で呆然としている蓬生や川村直美泣きだしている栗山典子や野々村や青木美穂。

郁夫が自分の締め付けられるように痛い左胸を抑えていると胸のあたりを抑えている志恵留が近寄る。


「高林くん、行こう。私は、一応保健室に行くけど……」

「僕も、行くよ」


二人が話し合って教室を出ると廊下では啜り泣きをしている者や呆然と座り込んでいる者がいる。

その中にガタガタと震えの止まらないクラス委員長の八神龍。

そのそばには八神の背中をさする七瀬理央の姿があった。


「エルちゃん、高林くん」


七瀬は二人を見るなり、心配そうに呼びとめる。


「ダメだったんだね、やっぱり……美緒、保健室にいるよ。気胸が心配だから」


自然気胸と言う持病持ちの福島と志恵留。そして喘息持ちの栗山と松本蓮、心臓の持病も血の郁夫。

この五人は、その後すぐに学校側の判断で病院行きを余儀なくされた。

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■作者からのメッセージ
まさに地獄ですよね。

常本さんに何があったかは次回と言う事で。

目の前で自殺は嫌ですよね。

原作の久保寺先生もそうでしたけど……。
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