旅館の一階のロビーのソファに並んで腰かけていた高林郁夫と榊原志恵留(シエル)に大慌てで駆け寄ってきた七瀬理央。
ここまで全力疾走して来たようで、異様に呼吸が荒く着ている寝巻のジャージが汗だくの肌に張り付いている。
髪も顔も汗まみれなのに、酷く青ざめていて、こわばりきった表情で焦点の定まっていないような眼差し。
ソファに座っていた二人も七瀬の乱入に驚いて立ち上がった。
「どうしたの?何が……」
郁夫がゆっくりと近寄ると七瀬は「うっ」と喉を鳴らして顔を俯ける。
そして七瀬は顔を上げて二人の顔を交互に見る。
「あ、ゴメン……あの、二人に聞きたい事があるの」
乱れた呼吸のまま、そう言うと郁夫は首を傾げつつも頷く。
「あの……八神龍っていう奴、知ってる?覚えてる?」
「え?」
七瀬の質問に対して二人は全く同じような反応をする。
「何?急に……」
「だから、聞いてんの!知ってる?八神の事、どんな奴?」
質問を繰り返す七瀬の声は真剣そのもので、質問自体とは全く違っている。
郁夫は嫌な予感に苛まれながらも、正直に答える。
「うちのクラスのクラス委員長で、七瀬さんとは幼馴染で犬猿の仲≠ナ、よく喧嘩をしてる……」
「うぐっ」
七瀬は思いっきり顔をしかめて喉を鳴らす。
「エルちゃんは?八神の事……」
「私も高林くんと同じだけど……どうしたの?」
七瀬は再び「うう」と呻くと、ずるずるとしゃがみ込んで茶髪の髪を掻き毟る。
「七瀬さん?いったい、どうし……」
「ヤバいよ、私。不味い事に……」
志恵留の問いかけに力なく呟いて、ぶるぶると首を振る。
「不味いって……何が?」
「やっぱり、アイツじゃなかったんだ。死者≠ヘアイツじゃなくて……」
「アイツ≠チて七瀬さん?まさか……」
郁夫が手を震わせながら「冗談だろう」と言いたげに七瀬を見下ろす。
七瀬は郁夫の言葉に瞬時に顔をガバッと上げで今にも泣き喚きそうな表情で言う。
「殺しちゃった!私……八神を!」
「そんな……嘘でしょう?」
「こんな嘘つくわけないでしょ?エルちゃん」
「そうだけど……そんな」
「実はさっき、八神と三階の廊下で話してたんだ。だけど、途中から他愛のないことで喧嘩して、エスカレートしていって……掴み合いの喧嘩になって。
手元に何かが当たって、それで思わず八神を殴ったら……倒れて、動かなくなって。良く見たら、私がアイツを殴ったのは花瓶で……」
七瀬はなかば嗚咽交じりにぶるぶると首を振り続けながら言う。
「……花瓶で八神くんを殴って殺してしまったって?それで、八神くんが死者≠カゃないかって?」
「うん、もしかしたら、って思ったんだけど……やっぱり違ってたんだね。私は八神を……」
「僕たちのところに来たのはなんで?」
「二人なら頼りになるし、美緒はどうもあれで……」
そして、七瀬はしゃくりあげて泣きだす。
志恵留はそんな七瀬にゆっくりと歩み寄って、身を屈めて七瀬の肩に手を置く。
「死んでないかもよ」
「へ?」
「花瓶で人を殴っても気を失うだけかもしれない。まだ息があるかも」
「あぁ……」
「八神くんは三階の廊下でしょ?今から助けに行こう」
「あ、うん」
七瀬はよろよろと立ちあがって「廊下の一番左端」と言って郁夫と志恵留を八神がいる場所まで案内する。
階段を駆け上がっている途中、郁夫は志恵留に向かって小さく呟く。
「八神くんは違うよ*lが見た限り、たぶん」
「……そうなんだね」
郁夫の両目によれば、やはり死者≠ヘ八神ではなく、八神以外のだれか。
それなのだが、郁夫はまだその死者≠ェ誰なのかが思いだせない。
自分の目で死≠フ色を見てきて、見えすぎてて誰が誰だったか覚えていない。
三人は八神が気を失っていると思われる三階の廊下へと急いだ。
三階の廊下に差し掛かったところで、三人はまっすぐに廊下を走ったのだが、未だに全力疾走をしてはいけない郁夫は後から遅れて二人を追う。
そして三階の従業員専用の休憩室の前あたりで、ふと気配がしたのだ。
気配と言うようなもので、不穏な気配を察して郁夫は従業員専用の休憩室に歩み寄ってドアを開けて中に入ろうとする。
ドアノブに掌が触れた瞬間、郁夫の右足首を誰かが掴んだ。
「うわっ」
思わず声をあげて恐る恐る足元を見ると、そこには仄かな月の明かりに照らされて誰かがうつ伏せになって倒れている。
「な、何?誰……」
着衣は生徒の冬服で、ブレザーを羽織っていてズボンをはいているので郁夫には男子だと分かった。
倒れ伏せているので顔が見えないために誰なのか分からない。
その男子生徒は前方に投げ出された右手は郁夫の足首を掴んでいて、足首から手を離す。
背中と腹部に刺し傷があって、そこから出血している。
「ねぇ、いったいどうしたの?何でこんな……」
男子生徒は何も言わずにぶるぶると首を振ってゆっくりと顔を上げる。
暗いのとその顔が血で汚れていたのとで分かりづらかったのだが、郁夫には誰だかわかった。
「あぁ、蓬生くんか」
郁夫と同室の声を発することのできない蓬生修だったのだ。
蓬生は紅色の絨毯の敷かれた床に弱々しい手で自分の顔に浴びている血で必死に文字を書く。
「なかでだんなさんが」
「旦那さん?憲三さんがどうしたの?」
平仮名で書くだけで精一杯の蓬生に対して、郁夫は出来る限り察するとゆっくりとドアを開く。
蓬生は必死に郁夫を引き留めようとするのだが、郁夫はその時にはドアを開いていた。
中では廊下以上に暗くなっていて、窓から差し込む月明かりでようやく中の意地部が見える状態。
郁夫の眼には部屋の中央にパイプのテーブルと、パイプ椅子が並べられている。
おそらく周りには湯飲みやポットもあるのだろうが、はっきりとは見えない。
郁夫は恐ろしいのを我慢してドアの隣にある電気のスイッチをパチッとつける。
一瞬で辺りは明るくなって、郁夫はそのパイプのテーブルを見て血の気が引くような感覚を覚える。
テーブルは血まみれになっていて、その付近には血まみれで倒れている旅館の女将の菊菜の旦那の憲三が倒れている。
うつ伏せに倒れていて、昨日の出迎えで着ていた青い半被の「雪」の部分に深々とナイフが突き刺さっている。
郁夫の眼にはその憲三があの死≠フ色でしかもはっきりと重なって見えた。
先ほどの蓬生の時は重傷だったために薄らだったのだが、憲三の場合はもうすでに死んでいるようだ。
郁夫は思わずドアをバンと思いっきり閉めて倒れ伏せている蓬生に「ねぇ!」と大声を浴びせる。
「蓬生くん!大変だ。憲三さんが死んでる!」
郁夫は蓬生を放っておくわけにもいかずに蓬生に肩を貸して逃げようとした。
蓬生は幸いにも傷の数は多かったのだが、さほど深くなくて今から手当てをすれば安全。
蓬生はのろのろと郁夫の肩を借りながら一歩ずつ歩く。
「高林くん!」
廊下の先から走ってくる志恵留と七瀬、郁夫の姿が見えない事を心配して戻ってきたのだ。
志恵留はこちらに向かってくる足を止めて、蓬生の姿を青ざめた表情で見る。
「誰なの?その人……」
「刺されてるんだ。蓬生くんだよ!こっちの部屋では旦那さんが殺されてて……きっと同じ犯人が蓬生くんを……」
「ひえっ、嘘でしょ!?」
七瀬は仰天して今にもへこたれそうな様子でおろおろする。
郁夫が見た限り、二人の近くには八神の姿はなく、郁夫は不審に思った。
「あれ?八神くんは?」
「あぁ、それが……いないんだよ、八神が」
「えっ」
「倒れてたところにはいないし……けど、血痕は残ってて」
七瀬は眉をひそめて腕組みをしながら言う。
郁夫はぐったりとしている蓬生を何とか連れ出そうと再び歩く。
その時、志恵留と七瀬とは反対方向から「どうしたの?」と言う男女の声が聞こえた。
そこには福島美緒と西川博人が異変に気づいて駆けつけてきたようだ。
「三人とも……って、え!蓬生くんだよね?」
「蓬生か!?おい、どうして……」
「こっちの部屋で旦那さんが殺されてるんだ。蓬生くんも刺されてて……」
「お、おい。それって殺人犯がこの旅館をうろついてるってことか?」
「たぶん、誰かは分かんないけど、みんなを避難させないと……」
西川は大慌てで郁夫の方に駆け寄ると、連れだせそうにない蓬生を背負う。
福島は「みんなに知らせてくる」と言い残してその場を離れた。
「福島さん!一人じゃ危ない!」
郁夫が福島を引き留めようと言い放った時、次は別のところから悲鳴が飛んだ。
郁夫には聞き覚えがあって、それが誰かまでもはっきりと分かった。
「栗山さん?今のって栗山さんの声だよね?」
志恵留はそう言うと悲鳴の聞こえた場所へと駆け出す。
すると、悲鳴の場所の「ユリの間」から飛び出してくる栗山典子。
「ノリちゃん、一体どうしたの?」
「た、助けて……部屋にいたらあの人≠ェ……」
栗山の顔面は血だらけで自分の左肩と右足の太ももから出血している。
栗山が自分のいた部屋を指差して必死に何かを告げようとした時、部屋から人影が見えた。
薄暗くて誰なのかは見えないが、手元には血まみれのナイフがある。
それを見た郁夫たちは慌ててその場から走って逃げる。
西川は蓬生を背負って階段から一階へと急ぐ、七瀬は栗山に肩を貸して同じように一階へと駆け下りる。
二手に別れようと郁夫と志恵留はそこから一直線に廊下を走って逃げる。
幸いにも先ほどの人影は追ってきていないようだったが、ぐずぐずもしていられない。
今すぐにでも館内にいる生徒と従業員に知らせないと、多くの犠牲者が出る。
「高林くん、今から別々にみんなに知らせに行こう」
「うん、八神くんも探さないと……」
志恵留はそのまま三階に残って、郁夫は二階に駆け下りて二階でうろついている生徒に知らせる。
郁夫が二階に駆け下りると、まず同室の田中拓郎に遭遇した。
田中は郁夫を見るなり「どうしたんだよ」と冗談半分は感じに言う。
「田中くん大変なんだっ、蓬生くんと栗山さんが襲われて……旦那さんが殺されてるんだ。犯人はこの館内をうろついているんだ」
「えっ、嘘だろ」
「八神くんも見つからなくて……」
「八神?八神ならさっき会ったけど?」
田中は慌てたふうだが、少し平然として答える。
「嘘!どこで?」
「ここの廊下で。慌てて血相かえて……走ってどこかへ行ったんだよ。顔が血まみれで驚いたんだけどよ」
「そうか、ありがとう。田中くんは皆を連れて外へ避難して」
田中は「おう」と言って二階でうろうろしていた本庄誠也と曽輪蘭丸と川村直美に事情を説明してから階段を駆け降りる。
郁夫もその後、神崎千代里と和田理沙が会話をしているのを見つけて避難させた。
その他にも旅館にいた従業員に事情を説明すると、慌てて非常ベルを鳴らしてくれた。
一方、栗山を何とか門まで避難させた七瀬と何人かの生徒に事情を説明して避難させた福島が会った。
三階の廊下で人がいないかをうろうろしている時、担任の風見智彦を見つけた。
風見は非常ベルとみんなが大慌てで走って行くのを目撃して「何の騒ぎだ?」と言う眼で二人を見る。
「大変ですっ、館内に人殺しがうろついてて……旦那さんが殺されているんです」
「……っそうか、じゃあ、君たちも避難するように。僕も何とかする」
そう言って風見は走ってどこかへと行ってしまった。
七瀬と福島は自分たちも避難しようと階段の方へ走りだした。
その時、どこかから男の悲鳴が悲鳴が聞こえて二人は悲鳴の聞こえた部屋を覗く。
電気が消されていて、薄暗くてあたりの見えない部屋の中をドアを開いて二人は覗いた。
何があったのかを確かめようと、ドアを全開に開くと当時にピカッと雷が光った。
先ほどから雨が酷くなっていって、雷もするようになっていた。
雷の光で部屋は一瞬だけ明かりが差し込んで周りが見え、その場に立っている人物に二人は後づ去りをする。
血まみれのナイフを手に呆然と立っている人物の隣に、この部屋に泊っていた志村礼二が血まみれで倒れ伏せている。
傷の状態と出血の大量さで、志村はもう手遅れだと二人は分かった。
それよりも、志村を死に至らしめたその人物を見て二人は悲鳴を上げると飛び出す。
その人物は二人を追って同じく部屋を出ると、廊下でへたれこんでいる七瀬に向かってナイフを振りおろす。
七瀬は瞬時に横に倒れてナイフは七瀬がもたれかかっていた壁に刺さる。
その間に福島は七瀬の手を引いて全力疾走でその場から逃げだす。
その人物は全身が血で汚れていて、のたのたとした足取りで二人を追う。
「どうしようっ、早く逃げ出さないと!」
「いや、このまま玄関から飛び出したらアイツまで追ってくるから。何とか巻かないと!」
七瀬は後ろでのたのたと追ってくる人物を一瞬だけ見ると顔をしかめる。
その時、廊下の向こうから飛び出してきた従業員の女性が「ちょっと」と声を上げる。
三十代くらいの女性で、着物を着ているので仲居だと思われる。
「あなた達大丈夫?」
二人が仲居に近寄って助けを求めようとした。
「あ、あの人が……クラスメイトと旦那さんを殺して……」
七瀬が人物のいた方をもう一度見ると、そこにはその人物の姿はなかった。
二人を捕まえられないと思って別の場所へ行ったのか、もしくはもう殺しは止めようと思ったのか。
仲居は「あれ?」と首を傾げた時、仲居は「うぐっ」とうめき声をあげたかと思うと、口から血を吐いて倒れた。
七瀬と福島は驚いて仲居の背中を見ると深々とナイフが突き刺さっていた。
そして仲居の後ろにはあの人物がいて、仲居からナイフをゆっくりと引き抜く。
近距離で七瀬と福島はその人物を見て後づ去りをすると、その人物の目がぎろりと二人を見る。
その頃、郁夫は二階で行方不明の八神を探していた。
ほとんどの生徒が避難して、八神も異変に気づいて避難したのだと思っていた時だった。
郁夫の目の前に顔面が血まみれで呆然と立っている八神の姿が目に飛び込んだ。
郁夫は慌てて八神の方に駆け寄ると安心したように笑みを見せる。
「八神くん、良かった無事なんだね。さあ、早く逃げよう」
その言葉をかけた次の瞬間、郁夫の腹部に激痛が走り、そこから血が溢れだしている。
しかも、そこにはナイフのようなものが刺さっていて、八神は黙ってそのナイフを引き抜く。
そして郁夫はもう一度八神の方を見ると八神の眼は凶暴な狂ったような眼で郁夫を睨みつける。
「八神くん……どうして……」
「お前なんだろう?死者≠ヘ……」
「そんな、違う」
「今年は君が転校してきてから始まった。期せずして加わった君が死者≠ノ決まってるじゃないか」
「違う。今年は僕が転校する二日前に始まって……」
郁夫の言葉をさえぎるようにして八神はナイフを振るう。
郁夫はそれをかわすのだが、八神の双眸はもはや豹変していてどうにもできない。
「お願いだ。聞いてほしいんだ!僕が転校する二日前に、榊原さんの双子のお姉さんが……」
「そんな嘘信じるか!榊原はひとりっ子だってお前の方が知ってるはずだ!」
ナイフを振るう八神の腕を郁夫は掴み取ると、二人はもみ合いになる。
八神の力は郁夫よりもはるかに強いのだが、頭を殴られたために全身がフラフラとしている。
「違う。その人は安田野恵留って言う人で……」
「うるさい!」
八神は郁夫の言葉をさえぎると、郁夫の腹を蹴り上げて郁夫はその衝撃で後ろに倒れる。
仰向けに倒れた郁夫に馬乗りをして八神は郁夫の首を抑える。
右手にはぎらりと光るナイフがあって、そこには先ほどの郁夫に血がある。
「お前のせいで七瀬はあんな思いを……」
八神はボソボソと呟くように俯きながら言う。
「七瀬さん?」
「アイツの家族が死んでからアイツは辛い思いをした……俺を殺そうとしたときだって、アイツは怯えてるんだ理不尽な死に!」
「八神くん、七瀬さんはそんな……」
「お前に分かるはずがない。七瀬はああやってヘラヘラと笑ってるけど、腹の中ではずっと泣いてるんだ……」
「八神くん……」
「俺が守らなきゃダメなんだ。約束したんだよ……絶対守る≠チて。だから……」
八神は右手のナイフを振り上げて、郁夫を冷ややかな眼差しで見下ろす。
「死ねっ」
郁夫は絶望を感じて瞼を強く閉じる。
眼を閉じた時、死ぬんだと覚悟を決めたと当時に何かがドサッと倒れるような音がして郁夫は目を開く。
郁夫の目の前には気を失った八神が倒れていて、そばにはクラス副委員長の野々村飛鳥がいた。
「野々村さん!」
「間一髪ね、この男、こんな顔しといてどんなんだよっ」
「八神くんは……」
「ん?大丈夫、気を失っただけ。これでも私、昔は空手を習ってたんだからね」
「あぁ、そう言う……」
「この男なら私が何とかするから、高林くんも避難して。もうほとんどの人が門の前にいるから」
野々村は爽やかな笑顔でそう命じると、郁夫は走って旅館から脱出する。
門の前には何人もの生徒たちが集まっていて、振っている雨で全身が濡れている。
パジャマ姿やジャージやTシャツのものばかりで、上履きのスリッパのまま出てきた人もいる。
郁夫は避難している生徒の顔を見て不安を感じる。
避難している田中にこう言った。
「榊原さんは?」
「榊原さんはまだだよ。けど、もしかしたら別の場所にいるかも」
「そう……」
門の前には栗山が肩を庇いながら怪我をした足を立てて座っている。
蓬生も西川がそばにいて、気を失ってはいないようだった。
しかし、志恵留と七瀬と福島の姿だけは見当たらなかった。
他にも何人かいたのだが、その三人の事が郁夫は気がかりでならなかった。