「郁夫くん?」
「高林くん!」
遠くから聞こえる呼びかけに高林郁夫はゆっくりと目を開いて辺りを見渡す。
郁夫はベッドがどこかに横たわっていて、周りには義母の智恵と榊原志恵留(シエル)、七瀬理央などがいる。
しかし、智恵以外はほとんどがパジャマ姿で、身体のどこかに包帯を巻いている。
郁夫は重たい自分の身体を起き上げて、自分のいる室内を見渡す。
白い壁に白い床、ベッドの形から周りにパイプ椅子が折りたたんで置いてある事でここが病院の病室だと郁夫は分かった。
智恵はホッとしたような表情で泣きそうな顔で微笑む。
「良かったぁ、一週間以上も目覚めなかったから心配したよ」
「え……一週間?」
「うん、エルちゃんと二人で裏庭で倒れてたから……エルちゃんは一昨日ようやく目覚めてね」
郁夫は志恵留の方を見ると、志恵留はコクリと頷く。
そして、郁夫は気になっていた事をふと思い出して七瀬たちに問う。
「あの、修学旅行で死んだのって誰?」
「あぁ、クラスでは志村と和田さんと岸本ね。あとは雪村さんの両親の女将さんと旦那さん、もう一人は仲居で青崎の叔母さんの青崎さんね」
「……他には?」
「え?」
「他にはいなかったの?その……死んだ人って」
「……これで全員だけど」
七瀬は何の悪ぶれもないふうに小首を傾げながら言う。
郁夫は「そうか」と安心したようで、そうではなくどことなく悲しさが残ったような表情をする。
一方、志恵留も郁夫と同じように悲しみが残ったような表情で見守る。
「今年の担任の先生って誰だっけ?」
志恵留は七瀬に向かってはたから見ればふざけているような質問をする。
「今年って、去年と同じ木崎先生だよ?社会の」
「あぁ、そっか……」
二年三組の本来の担任教師で社会担当の木崎晴彦、一年生の時に転勤されたと思われていたが、本当はそうではなかった。
その後も、会話の中で風見智彦という人物の名前は一度も出なかった。
郁夫は死者≠ェ消えたと言う事を知らせようと七瀬にそれとなく言う。
「だったら死者≠ヘもういないよ……」
「え?」
「いないんだ。もう……」
何も知らないと言うか覚えていない七瀬はキョトンとした面持ちで不思議そうに郁夫の言葉を聞く。
一方、志恵留は風見の死に関わった者として風見の事は覚えている。
そんな重苦しい空気の中、相部屋の病室のドアがガラッと開いた。
全員がドアの方を注目すると、そこには松葉杖をついて頭に包帯を巻いた八神龍と腕と足に包帯を巻いている福島美緒、そして本来の担任の木嶋。
少しボサッとした黒髪に白い長袖のYシャツに白いズボン、温厚そうだが少し抜けているような、年は三十すぎくらい。
そんな木嶋に勧められて八神は郁夫の前に立たされる。
八神はあらぬ方向に視線を流して「えーと」と繰り返して口をもごらせながら何かを考える。
「えーあー、ゴメン。いろいろと……」
「え?何が?」
「いや、君が死者≠セと勘違いして襲ったりして……」
「あぁ、大丈夫だよ。それに死者≠ネらもう……」
「風見先生でしょ?」
二人の会話に口を挟んできたのは福島だった。
「見崎先生から聞いた。風見先生が死者≠セって、担任の先生で。あってるよね?」
「え、うん。けど、どうして見崎先生が……」
「私が教えたの。先生なら教えておいた方がいいでしょ?」
美術教師の見崎鳴に教えたのは志恵留だった。
この場にいたほとんどがその事実は初耳だったようで、かなり驚いているう様子。
「そうなんだ、エルちゃんは美緒にしか教えなかったんだぁ……」
「ゴメン。けど、風見先生、姪っ子さんが一昨年の卒業生にいて、それで亡くなったらしいよ」
「ふうん、あの風見先生が……」
死者≠ェ風見だった事はほとんどが覚えていなかったのだが、風見が通り魔に殺された事は覚えている様子。
しかし、それがこの災厄≠ナ死んだと言う事は誰も知らなかった。
「けどさ、七瀬、お前だって俺の事殺そうとしただろう?」
「うう、ゴメンって、あれはいろいろと……」
「傷ついたんだぞぅ、まさかお前なんかに殺されるなんてまっぴらだ」
「うるさいなぁ、謝ってんじゃん!」
七瀬と八神はしばしばのいつも通りの口喧嘩をし始める。
しかし、郁夫には八神の心のうちが分かっているので、とても微笑ましいと思える。
その後、しばらくの間は二人の口喧嘩が続いたのだ。
義母の智恵が帰った後、郁夫は改めて病室の説明を木嶋から受けた。
病室は六人部屋で、郁夫、志恵留、七瀬、福島、八神、蓬生修の六人。
この中で一番重傷を負った蓬生は修学旅行の事件の後、何とか一命を取り留めて今では元気にしている。
六人とも怪我は重傷だった事で、入院は一ヶ月間となっている。
他にも入院している人は多々いて、栗山典子、椎名ふれあ、井川隆二、西川博人、本庄誠也がいた。
そして、全員が女将の雪村菊菜に襲われての怪我だったようだ。
見舞いには軽傷で済んだ生徒や不参加者だった生徒がきていた。
全員が心配していたようで、郁夫は見舞いに来てくれた事には素直に嬉しかった。
郁夫はこの日の見舞客が帰った後、自販機で缶ジュースを買いに行く。
郁夫は自販機の中でオレンジジュースを選ぶと小銭を入れてガタッと音がすると、缶ジュースを取り出す。
その時、郁夫は自販機の隣でぼんやりと天井を見上げながら立っている人物に気が付く。
「あ、松本くん」
肺の方に病気を抱えた学校も休みがちの修学旅行には不参加だった松本蓮。
見舞客にもいなくて郁夫が一番気になっていた生徒の一人。
郁夫は缶ジュースを両手で持って松本の方に歩み寄ると松本の方も郁夫の方を向く。
松本は少し顔色が悪く、気分も悪そうな感じ。
「松本くん、今日はどうしたの?」
「じ、実は、ちょっと最近体調を崩して……昨日から入院する事になったんだ。けど、すぐに治るってお医者さんも言ってたから大丈夫だよ」
「そうなんだ……お大事にね」
松本は「うん」と微笑んで言うと胸のあたりを抑えながら壁の手すりにつかまりながら歩いて行く。
郁夫はそんな松本の様子を窺いながら、少し胸騒ぎがするのを感じる。
そして、手元の缶ジュースに目を落として缶の表面についている水滴が握っている手につく。
缶ジュースのプルトップを開けてからジュースを一口飲む。
甘酸っぱいオレンジの味が口の中に染みついて、後から甘い砂糖のような味もする。
ひんやりと冷たいジュースを喉に流して、ふぅと息をつく。
「なんか浮かない表情だね」
「え……」
急に声を掛けられて郁夫は声の方を見ると、自販機の前に小銭を手に持った志恵留がいる。
「あ、うん、ちょっとね」
郁夫が曖昧な言い方をすると志恵留は自販機に小銭を入れてボタンを押す。
そして志恵留は出てきた缶入りのアイスティーを取り出す。
プルトップを開けながら郁夫のいる壁の方に寄り掛かって手すりの部分を腰にあててもたれる。
アイスティーを一口飲んで喉を潤した志恵留は郁夫に視線を投げかける。
「どうして?」
「非在者≠ェ分かってないから……」
「やっぱり、そうか」
「君も?」
「うん、何だか胸騒ぎがするの。見崎先生も非在者≠ェ分かってやっと災厄≠ェ止まったって言ってたし」
「もしかして、これからも人が死ぬとか?」
「どうだろう?けど、三日後には十二月よ。十二月中に何もなかったら……止まったって言えるけど」
そこまで言い終えた志恵留は一口アイスティーを飲む。
郁夫もそれに応じてか、オレンジジュースを一口飲むと松本の事を考える。
もしも、松本が病死すればやはり止まっていないと言う事になる。
だとすれば存在しない生徒=∞非在者≠突き止めて災厄≠ェ止まると言う事。
郁夫にとっては今すぐにでも止まる事が一番いい。
それは志恵留も同じような事を思っている。
これ以上の死人が出ない事が一番良いに決まっているが、それを決めるのは誰でもない。
この現象がどう動くかが一番の重要な点。
「死者≠ェ死んでも……何も変わらないってことかな?」
「うーん?どうだろう?けど……何かが変わったり≠サう言う事も?」
「変わる……何かが変わる」
死者≠フ風見がいなくなって、残るは非在者≠フ誰かが残っている。
今の状況で、現象の一部が変わったりすることもあると言う事もあり得る。
それよりも、もっと他に何かがあったりもするかもしれない。
だけど、それは今この業況では知りたくもなかった。
『二〇十三年十二月五日』
午後八時を回った時、郁夫は夜間の病院の一階の待合室のベンチに腰を下ろす。
そしてベンチに座ると自販機で買ってきた缶入りのホットココアのプルトップを開ける。
外来受付の明かりが消されてしまった待合ホールは薄暗い蛍光灯の中、ベンチが並んでいる。
昼間はここで百人以上の人々が順番待ちをしていたとは思えないほど狭い。
人々が消えて夜間の待合ホールにはベンチとカラフルなペンキで床に示された各病棟への矢印だけが残っている。
ピンク色の矢印は産婦人科へ、黄色い矢印は小児科へ、水色の矢印は脳外科へ。
薄暗い蛍光灯の下、カラフルな矢印だけが華やいで見え、場違いにも見えたりもする。
郁夫がベンチに座っていると、入院患者が時々ホールを足早に横切って、たばこを吸いに外へ出て行く。
九時になれば正面玄関は閉じられ、喫煙所へ出られなくなるからだ。
点滴のポールを押しながら出て行く人、尿パックを片手に出て行く人、松葉杖や車椅子の人もいる。
車椅子の女性が携帯電話で家族と話をしながら出て行ったり、松葉杖で歩いて行くスポーツ刈りの少年。
それを見ながら郁夫は温かい缶入りのココアを飲み続ける。
その時、正面玄関からスマートフォンを片手に戻ってくる志恵留と目が合った。
志恵留はパジャマの上に着ている薄ピンクのトレーナーのポケットにスマートフォンを忍ばせながら、郁夫の隣に腰を下ろす。
寒風の吹く屋外から戻ってきた志恵留は身震いをさせながら郁夫に向かって微笑む。
鼻先は少し赤くなっていて、トレーナーの袖から出ている指先も同じだった。
「ずっと病院にいるから分かんなかったけど、十二月だからもう寒いや」
「そうだね。電話してなの?」
「うん、お父さんに……その、体調の事を言っておこうと思って」
「ふうん、僕は消灯時間まで眠れそうになくて……息抜きにって」
郁夫は温かいココアの缶を両手で持ちながら言う。
志恵留は温かそうな缶に視線を落として冷えた両手をこすり合わせながら、摩擦で温かくしようとしている。
そんな志恵留を見て郁夫は何だが申し訳なくなって、缶を志恵留に差し出す。
「暖かいよ」
「うん、ありがとう」
志恵留は笑顔で缶を受け取るとココアを一口飲んでホッと一息つく。
郁夫は志恵留がココアを飲んでから気づいたのだが、これだと関節キスでは?と思った。
郁夫は急に頬を赤らめながら「ゴメン」と呟く。
「何で謝るの?」
「いや、それ……僕が飲んだ後だったし」
「別にいーよ。高林くんなら=v
「あ、そ、そうですか……」
僕なら≠チてどういう意味だろう?
郁夫は志恵留の事を直視できずに視線をあらぬ方向に向けたまま話す。
しかし、志恵留はそんなのをお構いなしにココアを飲む。
「さっき病室に戻ったら、七瀬さんと八神くんがまた喧嘩してたよ」
「だろうね、一緒の病室になって嬉しいんだよ。きっと」
志恵留も二人の心の内は分かっているようで、茶化すような笑顔で語る。
「福島さんと蓬生くんは?」
「仲良さそうに話してた、蓬生くんは家では手話らしくて、福島さんも手話を覚えたらしくて……手話で話してたよ」
「ふうん、青春だねぇ」
志恵留はわざと中年のオヤジっぽい発言をして郁夫は笑う。
そんな会話をしていると、正面玄関から腰を曲げて歩く白髪の老婆はやって来た。
老婆は二人が仲良さ気なところを見て、二人に話しかける。
「おや、まぁ、高校生かい?」
「あ、はい」
「そうかいそうかい、若いっていいねぇ」
老婆はそう言ってニコニコとしながら歩いて行く。
郁夫は老婆の言いたい事が分からなかったのだが、志恵留には分かったようで頬を赤らめている。
「あ、そろそろ病室に戻ろうよ」
「うん、分かった」
志恵留は空になった缶をゴミ箱に捨てると、そそくさとロビーを横切ってエレベーターホールに向かう。
志恵留はコントロールパネルから上へ行きのボタンを押す。
エレベーターはすぐに開き、二人はそのエレベーターに乗り込む。
二人が乗り込んだエレベーターには先客がいた。
郁夫は「あ、すみません」と軽く詫びると、そうして相手の姿に目をしたとたん、思わず「えっ」と声を上げる。
志恵留もその先客を見て、目を丸くさせる。
先客は制服姿の少女、しかも朝見南の制服で華奢で小柄な体格。
黒髪はお下げ頭で、肌は色白で線の細い中性的な顔立ちの少女。
二人にはその人物を見かけた事が、いやその少女と瓜二つの少女と何度も会話を交わした。
その少女の名前は、雪村理奈だった。
六月に郁夫に事情を説明しようとして心臓発作で病死した雪村。
この少女とは瓜二つと言うよりかは雪村そのものだ。
郁夫は身が凍るような感じを覚えて「何で……」と言った。
雪村は二人の方をゆっくりと視線を向けてニッコリと微笑む。
「久しぶり、榊原さん、高林くん……私の事覚えているでしょ?」
「雪村さん……どうして」
「あなた達のせいよ、私達が死んだのは……」
「どうして、そんな……君は……」
「じゃあね」
エレベーターは郁夫たちの病室のある七階で止まり、そこから雪村は降りた。
郁夫と志恵留も慌てて雪村の後を追ったのだが、そこには薄暗い廊下だけで雪村の姿はなかった。
しかし、その薄暗い廊下を慌ただしく走って行く看護師たちが目につく。
二人は不審に思ってその看護師に後を追うと、とある病室に看護師が消えて行く。
病室を二人は覗くと、そこには機械に繋がれて心拍図がピッピッと鳴っている。
白衣を着た医師と看護師が周りにいて、患者のそばには患者の両親の思われる男女が泣きそうな顔で見守っている。
郁夫はその患者が誰なのかはすぐに分かった。松本だ。
慌ただしい病室の中、松本は目を閉じてマスクをつけている。
松本の母親は今にも泣き叫びそうな表情で松本のだらんと垂れている手を握っている。
郁夫と志恵留は何とも言い表せない胸騒ぎを覚える。
今にも止まりそうな松本の心拍数、それを何とか止めるのを食い止めようと頑張っている医師たち。
しかし、決着は着こうとしていたのだ。
松本の動いていた心拍数が、止まった。
静まり返った病室には弾けて聞こえていた心拍数が一直線に伸びて響く。
医師は松本からマスクを取ると、顔を俯かせる。
「残念ながら……」
両親にそう告げると、母親は大声で泣き叫び出す。
「そんな……じゃあ、やっぱり」
「非在者≠突き止めなきゃ止まらない……」
「けど、雪村さんは……いったい」
郁夫は志恵留に向かって先ほどの異常な現象に疑問を投げかける。
「死者≠フ風見先生がいなくなって、死に通ずる道が塞がれていたのに、それが開いてしまった。だから、死者が行き来するようになったとか」
「そういう……この現象で今年に死んだ人が?」
「可能性としては……もしかしたら」
十二月の死者の一人は、こうして松本となったのだった。