少女は広間に一人ひっそりと座していた。
季節は冬。
ましてや底冷えのする帝都の一画にたたずむ邸宅。
辛くないはずはない。
しかし少女は目をつむり、ひっそりとそこに座っていた。その有り様こそが自分の意義だと言わんばかりに。
「冥夜さん、お風邪を引きますよ。」
「いえ、約束がありますので」
少女、御剣冥夜の母が声をかけるが、冥夜は瞳を開くことなく、一言の元に拒絶した。
「でもね、先ほど言ったように、先方の都合で今回の件はなしに」
「母上!」
冥夜の声が広間に響き渡る。普段大声を出さない彼女の声に、母親びくり、と震える。
「わたしが待っていたいのです。せめて、せめて気が済むまで…」
哀切とでもいうのだろうか。ひどく儚げで、そして切実な声。
「わかりました。ですが、くれぐれも風邪を引かないように気をつけるのですよ」
観念したように、母親が襖を閉じ、その場を後にした。
それ故に知ることがなかった。気丈な冥夜がこぼした悲しげな言葉を。
「どうして、どうしてたった一度会うことすらかなわないのですか」
「さて、警備は厳重、といっても一般家庭に比べればだがな」
隆也の言葉に、まりもが頷く。
「守衛が2人。他に一般人らしい反応が3人、おそらく使用人ね。あとは本邸に2人。おそらく反応が小さいのが目的の冥夜ちゃんね」
「ああ、その見立てであっている。だがまりもん、あまいな。使用人に見せかけているが、そのうち1人は密偵かなんかだ。おそらく冥夜ちゃんの監視役といったところだろう」
2人の会話を聞きながら、少女は今更ながらに後悔していた。
なぜ自分はあのとき、この人達に助けを求めたのだろうかと。
隆也、まりも、と呼ばれている2人はまだいい。
彼らは純粋な善意で自分を助けてくれた。
問題は、夕呼とよばれている人物だった。
協力させるからには、代償をよこせ、と言って、自分の知りうる冥夜との関わりを洗いざらい喋らされてしまったのだ。
もっとも、その話を聞いた反応は、
「ふーん、さすが武家。くだらない因習に拘っているのね。ま、いいわ、情報としては問題なしよ。アタシが力を貸すには十分だわ」
とえらく淡泊なものだった。
自分としてはもっとも大切な秘事を打ち明けたのに、あまりにあっけらかんとした反応だった。
その後の彼女は、なにをどうやったのかあっさりと御剣邸の場所を突き止め、2人に教えると自分の仕事は終わったとばかりに宿舎に戻っていった。
去り際に、
「あと、なんか面白いことがあったら教えてちょうだいね」
というのを忘れずに。
「よ、どうした?不安か?」
「え?いえ、そのようなことはありません。お二人には助けていただいた上に、わたくしのわがままにまで付き合わせてしまい、申し訳なく思っています」
「ん〜、堅いなあ、そこは、ありがとう、の一言でいいんじゃないか?な、まりもん」
「ええ、わたしもそう思うわ。悠陽ちゃんは、すこしよそよそし過ぎるのが難点ね」
「だ、そうだ。もちっと、肩の力を抜いていいんだぜ」
「申し訳ありません。このような言葉遣いしか学んでいませんもので」
本当にすまなそうに頭を下げる悠陽に、隆也、まりもは顔を合わせて苦笑いを交わす。
「そういうことなら、しょうがないさ。気にするな」
「そうね。でもさすがに五摂政家のお姫様となると違うのね」
まりもが感嘆の声を漏らす。隆也は反対に苦い顔だ。
「さて、おれはこれから屋敷に潜り込んで冥夜ちゃんとやらをかっ攫ってくる。その間の悠陽ちゃんの護衛を頼む」
「え?攫うって、二人を会わせるのが目的じゃないの?」
思わぬ答えにびっくりしたのか、まりもが抗議するかのように口を開く。
「そんだけじゃ、おれが納得いかん。下手すりゃ、くだらん武家のしきたりとかで二度と会えないかもしれないんだぞ。たくさん思い出作りしなきゃ嘘だろ?」
「でも、それって、かなりまずいんじゃ」
「ああ、まずいな。だからまりもん、おまえはおれが戻ってきたら、さっさと宿舎に戻るんだ。今なら夕呼りんがごまかしているはずだから、不在はばれないだろう」
まりもと夕呼は、所属する中等部の帝都見学で今日この場にいたのである。下手に身元がばれるとかなりまずいことになる。
「そんな、それじゃ、隆也くんは?」
「おれのほうはどうにかなる。一応、まりもんたちとは違って、今日帝都にはいないことになっているし、アリバイのごまかしをするくらいは何とでもなるしな」
すました顔で応える隆也に、まりもは不安を隠そうとしない。
「なあまりもん」
「え?」
「約束する、そのときを迎え、それを打ち破るまで、おれはおまえの側にいる。だから心配するな、とはいわない。ただ、おれを信じてくれないか?」
真摯な瞳。そう、時々隆也はこんな目をする。そして自分にわからない、理解できないことを言う。
まりもの心がざわつく。いつからかはわからないが、この目は自分の心をざわつかせるようになっていた。そわそわとどこか落ち着かなくさせる。
「わかった。信じる」
もともとまりもには選択肢などなかったのだ。なぜなら、隆也を信じない、そんな選択は存在しないのだから。
「よし。それじゃ行ってくる」
その場を素早く後にする隆也の背をまりもはいつまでも見続けていた。
「不思議なお方ですね、立花様は」
「え?」
幼い少女の声に、まりもの視線は身近に引き戻された。
「わたくしは立場上、いろいろな人とお会いすることがあるのですが、あのような方は初めてです。言葉にするのは難しいのですが、とにかく不思議な方だということはわかります」
「うん、そうね。そして、誰よりも信じられる人よ」
まりもの声は、冬の京の都の風に流されていった。
「おくつろぎのところ、失礼」
「っ!?」
突如として現れた見知らぬ少年に、御剣家の現当主の妻である女は素早く身構えた。武家の嫁として最低限の護身術は身につけている。
「そう警戒しないでいただけないでしょうか。一応、私はこの方の意志により動いています」
女を刺激しないように、少年はゆっくりとした仕草で、懐からかんざしを差し出した。
「これは?」
「よく見ていただければおわかりになるかと」
差し出されたかんざしをみた女の目が大きく見開かれる。
「これは、煌武院家の?」
「はい、そちらの冥夜嬢と是非お会いしたいと」
「ですが、それは取り止めになったと」
「先ほど言いましたが、私は自分にこのかんざしを預けた方の意志により動いています。それ以上でもなければ、それ以下でもありません」
「っ!?」
暗に少年は、事情など知らぬ、と告げていた。自分たちの事情をとるのか、それともこのかんざしを預けた個人の思いを汲むのか、それを迫っていた。
一瞬瞑目する女、それを待つ少年。
緊迫した空気が部屋に満ちる。
「わかりました、このかんざしの持ち主であるお方のご意志にしたがいます。ですが、お願いがございます。くれぐれも冥夜を傷つけるようなことは」
「ご安心を、そのために私がいます。それではご息女をしばしお預かりいたします」
思わず見ほれるほどの安心感を抱かせる微笑みを浮かべたのち、少年は現れたときと同様突如として姿を消した。
「冥夜、かわいい我が娘。せめてわずかな時だけでも、全てのしがらみを忘れて、思う存分楽しみなさい」
静まりかえった部屋に、母親の哀切にも似た言葉が響いた。
「よっ、初めましてだな」
「!?なにやつっ!」
気がつけば眼前に少年が立っていた。いわずとしれた隆也だが、当然冥夜はそんなことは知るはずもない。
慌てて臨戦態勢に入ろうとするが、肝心の獲物がない。しまった、とばかりに内心で舌打ちする冥夜の焦る様子をどこ吹く風と、隆也はマイペースにことを進める。
「まあまあ、おちついてくれよ、子猫ちゃん。とりあえず身分証明書代わりだ、見てくれないか?」
懐から取り出したかんざしを冥夜に向かって滑らせる。
「なんだ、かんざしではないか?」
怪訝な目をかんざしに向けること数瞬、冥夜の目がかっと見開かれた。
「こ、これは、煌武院家の!?」
「そ、ちなみに持ち主は悠陽ちゃんね」
「ゆ、悠陽さまだと!?」
驚きを隠せない冥夜に、しれっと追撃を加える隆也。
「そうそう、煌武院悠陽ちゃん。実は君と一緒に遊びたいって、お誘いがあってね。おれはその案内人ってわけ。あ、ところで御剣冥夜ちゃんであってるよ…な!?」
隆也のひょうひょうとした雰囲気が、一瞬にして変わった。浮ついた空気など微塵もない、研ぎ澄まされた一振りの刀。冥夜の抱いた感想はそれだった。
「悠陽ちゃんの関係者だからひょっとしてとは思っていたが、まさか…」
一瞬自分の考えに没頭した隆也だったが、顔を上げた際には先ほどと同様のどこか人をくったような雰囲気を身に纏っていた。
「う、うむ、いかにもわたしは御剣冥夜だ、間違いない」
隆也の豹変具合に腰を引きながらも答える冥夜。
「そか、ならどうする?遊びの誘い、一緒にくるか?それともいやか?」
「い、いや」
「えー、いやなのかよ。悠陽ちゃん悲しむぜ」
「いや、そうではなくて」
大慌てで訂正する冥夜を、にやにやしながら隆也が眺める。
「いやよいやよも好きのうちってか?」
「む、なにをいっておるのだ、そなたは?」
「え?いやじゃないの?」
「あたりまえだ、わたしが、あね、いや、悠陽さまの申し出を断ることなどないに決まっておろうが」
「そんじゃ、誘いにのるっていうことでいいか?」
「うむ、もんだいない」
「よし、それじゃ出発だ」
「え?えええええええ!?」
有無を言わせずに冥夜を背負うと、一瞬にしてその場から隆也は姿を消した。
後にはしん、と静まりかえった部屋が残るだけだった。
「よっ、と。おまたせ」
「隆也くん」
「立花さま」
行ったときと同様の気軽さで隆也が戻ってきた瞬間、先ほどまでの場を覆っていた沈黙は一気に破られた。
まりもと悠陽の安堵のため息を無視して、隆也は背負っていた荷物をどっこいしょと下ろした。
「しまったな、さすがに幼女に全力移動はきつかったか?」
「うーん」
下ろされた荷物は、目を回してうなり声を上げているのは冥夜だった。
それにいち早く気づいた悠陽が声を上げ、慌てて彼女の元へと駆け寄る。
「美しきかな、姉妹愛」
「もう、なに呑気なこと言ってるのよ、隆也くん。さっきから巡回の人の数が増えてきているのよ」
まりもが隆也に注意を促すが、隆也は気にしたようすもなく、二人の邂逅を眺めている。
そこには妹をいたわる姉の姿あった。
そう、それだけだった。
武家の因習に囚われることのない、ただ純粋なるその姉妹の姿。
ただそれだけの姿が、なぜこうも掛け替えのないものになってしまうのか。
なぜ、姉妹が慈しみあうことが許されないのか。
隆也の中に燃える理不尽に対する怒りに、側にいたまりもだけが気づいていた。