柔らかな日差しが街を明るく照らし、冷涼な空気が身に凍みる早朝。
未だ多くの人間が布団の中で丸くなっているこの時間、とある武家屋敷の台所から、ことこと、という小気味良い音が響いていた。
「ん、いい感じ」
味噌汁の味見をして出来が良かったのか、機嫌よさそうに微笑むのはこの家の主、衛宮志保。
制服の上に桜色のエプロンをつけて料理をする姿は実に様になっている。
志保は、一人暮らしをしているということもあり、料理を始め家事全般を得意としている。それも全てにおいて一流以上、その上誰もが認める美少女。
実は、密かに「穂群原学園、お嫁にしたい女子第一位」だったりする。しかも、男子女子含めての集計結果なのだから、その人気振りが伺える。
欠点としては、性格的に若干男っぽさが目立ち、自身に向けられる好意に鈍い等が上げられる。ただし、一部においては、そこがいい、という意見もある。
知らぬは本人ばかりなり。
「よし。こんなものかな」
志保は味噌汁の火を止めて蓋をする。
ご飯も朝食に合わせて炊けるように設定し、他のおかずについても下拵えは完了している。あとは簡単な調理のみで朝食が出来る。
「さて・・・ん?」
お茶でも飲んで少し休もうとかと思った志保だが、ふと気配を感知し、動きを止める。
志保は表情を消し、だらんと力なく腕を下げた。
その直後、志保はそんな無防備な体勢から唐突に、無造作に、流れるように、不自然なほど自然に、振り返った。
すると・・・
「せんぱー・・・っごぅ!?」
「あら、桜。来てたんだ」
音も気配もなく志保の背後に忍び寄っていた少女の鳩尾に、吸い込まれるように、的確に、容赦なく、志保の肘が突き刺さった。
振り返る、つまりは身体を捻るという僅かな動作ではあるが、足から腰、肩に至るまでの連動した筋肉の動きは一切の無駄なく力を伝え、さらに遠心力が加わった肘打ちは、見た目以上の威力を持っていた。
その結果。
「か、っは・・・お、ぉお」
少女、間桐桜は、苦しげに嗚咽を漏らしながら蹲ることになった訳で。
間桐桜。穂群原学園一年、弓道部所属。
藤色の髪と瞳を持ち、最近胸部も豊かになり女性らしさが増してきた、志保の後輩。
桜は、数年前のある出来事を境に志保を先輩と慕うようになり、志保と同じ魔術の師の元で魔術を学んだ志保にとっての妹弟子。そういった関係もあって、桜は志保の家に入り浸り、ほぼ毎朝毎晩食事を共にしていた。
ちなみに、いつの間にか衛宮邸には桜の部屋が作られていたりする。
「おはよう、桜。大丈夫?」
そんな桜に対し、にこやかに挨拶を告げる志保。
一応、気遣うようなことは言っているが、やった犯人が爽やかな満面の笑みを浮かべていては台無しである。
「せ、んぱい・・・お、おは・・・よう、ございま、す」
桜は蹲ったまま顔を上げ、途切れ途切れになりながらも挨拶を返した。
桜が受けた肘打ちは、体格の良い成人男性でも気絶するほど危険な代物だった。意識を失わず、尚且つ話せるというのは普通なら在り得ない。が、この程度の遣り取りは今まで数え切れないほど重ねてきたのだ。いい加減、慣れもするのだろう。学習能力は無いのか、とか言ってはいけない。
「ありゃ、結構いいのが入ったと思ったのだけど、案外平気なのか」
よろよろと壁に手をついて支えにしながら立ち上がった桜に、志保は目を丸くした。
これは予想外。まさか、もう立ち上がってくるとは思わなかった。
軽く驚いている志保に、桜は確かな口調で文句を言った。
「・・・・・・ひ、酷いですよ、先輩。可愛い後輩になんてことするんですか」
「自分で可愛いとか・・・・・・というか今のは正当防衛だ。だいだい声もかけずに家にあがって、背後にこっそり忍び寄ってた奴が何を言うか」
正確には正当防衛には当たらないかもしれないが、この場合は似たようなものだ。この件に関して、桜には数え切れないほどの前科がある。
志保は溜息を吐きながら、未だに壁に手をついている桜に近づいていった。
面白くなさそうに口を尖らせる桜だったが、次の瞬間にはその表情は一変していた。
「むぅ、それはそうかもしれませんけど・・・・・・って、わぅ!?」
志保は、包み込むように桜を優しく抱きしめた。
「え、あの、先輩?これ、その、どどど、どうして」
当然の如く、桜は唐突な抱擁に頬を赤くし、ただ戸惑うばかりだった。
志保の柔らかく儚げな肉体。鼻腔をくすぐる甘い香り。全身に感じる優しい温もり。
本当はどうしようもなく嬉しくて、普段なら願ってもない状況である筈なのに、あまりに予想外な急展開に思考がついていかず、ただ疑問を投げかけることしか出来なかった。
「ごめん。今のはちょっとやり過ぎた。だから、まあ、その・・・・・・お詫びってわけじゃないけど、さ?」
志保は、桜の頭を撫で髪を梳きながら言った。
志保としては、いつもの仕返しのつもりが、思いのほか強烈な一撃を見舞ってしまい内心動揺していたのだ。要は、堪えきれないほどの罪悪感がふつふつと込み上げてきて、この様な行動を取るに至ったのである。
何だか、どの道桜の思惑通りのような気がしないでもなかったが、今ばかりは気にしないことにした。
まぁ結局、志保は桜には甘いのだ。
「せ、せんぱい・・・・・・先輩は、悪くないです。最初から、そんなこと・・・・・・」
桜は、志保の肘鉄は自分の自業自得だと理解していた。許すも許さないも、始めから怒ってなどいなかった。今桜の心に満ちるのは、一滴ほどのほんの少しの罪悪感と、流されそうなほどに大きな幸福感。
桜は、志保の優しさを全身で噛み締めていた。
「本当に大丈夫?無理してないか?」
「そんなの、忘れちゃいました・・・」
桜は顔を朱に染めて恥ずかしそうに言った。
痛みなど、当の昔に押し流されてしまっていた。
「・・・ぅ、あの、先輩」
暫く志保のされるがままになっていた桜だが、両手を志保の背中の方にまわして、あたふたと動かしていた。抱きしめてよいものか、迷っているようだ。
志保もそれに気付き、苦笑しながら言った。
「ふふ・・・いいよ。それくらいはね」
「・・・・・・はい」
志保の許しを得た桜は、恐る恐る、志保の細い腰を抱きしめた。
そこまでであれば、良かったのだが。
「せんぱい・・・」
「こら」
「あぅっ」
桜は、手をさらに下へと伸ばそうとして、志保に軽く頭を小突かれた。
結局、桜は反省していなかった。
「・・・・・・さて、朝食の下拵えは終わってるんだけど、お茶飲む?」
無言のままに抱擁を解いた志保は、何事もなかったかのように気軽に言った。
桜は、温もりが失われて名残惜しそうに表情を曇らせる。胸に去来する喪失感。
もう一度抱きつきたい衝動に駆られるが、また肘鉄を喰らってはたまらない。
桜は、渋々口を開いた。
「・・・いただきます」
「ほいじゃ、お先にいってきまーーーす!!!」
衛宮邸の玄関前。
近所中に響き渡るような大声で、一人の女性が走り去っていった。
名を、藤村大河という。
大河は、穂群原学園の英語教諭で二年C組担任、弓道部顧問。
大河は志保の義父である切嗣と知り合いで、志保が幼い頃から姉代わりとして親しくしていた。切嗣の死後もその関係は続き、桜と同じく衛宮邸に入り浸っていた。
今日は弓道部の朝練と仕事があり、志保達と朝食をとった後、一足先に学校へと向かった。
志保と桜も朝練があるが、こちらはまだ余裕がある。大河が早いのは、他にも仕事があるが故である。
「今日も元気ですね。藤村先生」
「元気すぎだよ・・・」
クスッと笑う桜と、呆れたような声の志保。
桜は玄関の鍵を閉め、ポケットに入れる。
「さ、私達も行きましょう」
「そうね。でもまだちょっと早めの時間だから、ゆっくり行こう」
「はい」
桜は微笑み、志保と並んで歩調を合わせる。
早朝ということもあり、二人の他に人の姿はほとんどない。
ひっそりとした通学路を、他愛ない会話を交わしながら歩いていく。
最初の交差点へ差し掛かった頃、ふと思い出したように桜が言った。
「そういえば、先輩。朝、どうして私が後ろにいるって分かったんですか?気配は消してた筈なんですけど」
「・・・そのことか」
気配を消す、という言葉が女子高生の口から出ることなどまずあるまい。桜は魔術師という一面をもってはいるが、気配を消す、殺すというのは武芸者や暗殺者の領分だ。
まして、戦闘者として優秀な志保に気取られない程の気配断ちなど、そうそう出来るものではない。それをやってのけるのだから、桜の志保に対する愛情と執念は底が知れない。
「前々から考えてはいたんだけどね。結界に、ある機能を追加したんだ」
「ある機能?」
桜は首を傾げる。
衛宮邸には敵意のあるモノを感知する結界を始め、様々な魔術の仕掛けが巧妙に施されている。今更追加する機能があるとは、桜には思えなかった。
「うん。ある人物を感知する機能。無論私だけに知らせるようにね」
「それって・・・・・・もしかして、私だったり?」
桜は冗談半分、怖さ半分で言ってみたが、返ってきた答えは無情なものだった。
「正解。名づけて、桜センサー」
「・・・マジですか?」
「うん。マジ!」
志保はとびきりの笑顔を桜に向ける。
逆に桜は、この世の終わりかのような表情で志保に詰め寄る。
「そ、そんな・・・・・・それじゃあ、もう先輩のお胸を後ろから揉みしだくことが出来ないってことですか!?先輩にえっちぃ悪戯することも出来ないってことですか!?お風呂も覗けないんですか!?そんな、あんまりです!!!」
「その返しがあんまりだよ・・・・・・・・・・・・いや、待って。お風呂覗いてたの?」
「いえ、それは予定です」
「反省しなさい」
志保の言葉に項垂れる桜。
それでも桜は反省しないだろう。それは志保も承知している。というよりも諦めている。
肩を落としたまま、桜は速度を落とすことなく志保の隣を歩く。
志保も苦笑しながら、隣を歩く桜を横目で眺め、次の話題を探す。
これは、魔術師の少女達の日常。その一幕である。
NGシーン
「むぅ、それはそうかもしれませんけど・・・・・・って、わぅ!?」
志保は、包み込むように桜を優しく抱きしめた・・・・・・かに見えた。
「え、あの、先輩?これ、その、どどどぉォォぉおおオおおおオオオおおぉおおお!!!???」
志保は桜に抱きつき、その腰を力一杯、全力全壊・・・かは分からないが、ともかく折れんばかりの力を込めて抱き絞めた(誤字にあらず)のだ。
「ち、チョッ、先輩!!ギブギブ!!ヤメッ、腰、砕ける!?て、いうか・・・・・・何で、こんな!?」
「ん?いやー、さっきので沈まなかったから桜もタフになったと思って。どこまで耐えられるか試してみようかなぁって思ってね!・・・・・・まあ、有り体に言えばお仕置きかな!!」
「か、かわいく言っても・・・それ、は。ぐはっ!?」
その言葉を最後に桜は完全に気を失い、ぐったりと志保に寄りかかった。
口端から涎が垂れ、あられもない姿を晒していた。
「む?桜?・・・・・・しまった。やりすぎたか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごくり」
その後、気を失った桜に何があったかは、志保しか知らない。
おわり