衛宮邸で、赤い光が観測された翌日。その夕方。
日が沈み、空は雲が覆い辺りが暗闇に包まれる中、点々と続く街灯が道を照らす。
人の気配が全く感じられないその道を、志保は一人坂を歩いていた。
「はぁ。まさか、桜があそこまで逆上するとは・・・・・・・・・」
そう言う志保の手には、買い物袋が提げられていた。その中には人参や大根などの食材が入っている。
「まぁ・・・・・・私もあれは流石に予想外だったけど」
十数分前の情景を頭に浮かべ、志保は苦笑した。
事の始まりは十数分前。いつも通りに帰宅した志保と桜。それを出迎えたのは、前日召喚したサーヴァントだった。
その時に何が起こったのか詳しくは語らないが、概要は説明しよう。
この日の朝、出かける前に志保は、サーヴァントに留守番を言い渡した。さらに、ただ待っているだけでは暇だろうからと、現代のことを良く知るためにも家の中で自由にしていい、本などを見つければ何でも読んでいいと伝えた。サーヴァントはそれを了承し、志保と桜は学校へ向かった。
その後、サーヴァントは志保の言いつけ通り、家を荒らさない程度に物色し、本を探して読み始めた。ここまでであれば良かったのだろうが、サーヴァントは事もあろうに桜の部屋に入ったのだ。とはいえ、扉に桜の部屋と分かるプレートはなく鍵もかかっていなかったため、サーヴァントに罪は無いだろう。問題は、サーヴァントが机の上にあった、とあるノートを、"桜の日記"を手に取ったことだった。
サーヴァントはいけないと思いつつも、ついつい日記を読み耽り、それを帰宅した桜に見つかった。
その先は、まるで地獄絵図。
桜は錯乱し、サーヴァントは許しを請いながら逃げ惑う。英霊が人間に追い回される様は、どこかシュールで、打ち解けあう切欠になった、と後に志保は語っている。
ここから先は多くは語らない。が、志保が買出しに出かけることになった経緯は説明せねばなるまい。
その際、桜は大暴れし、サーヴァントに美味しい料理を食べさせようと意気込んでいた志保を見事に邪魔して、盛大に食材をぶちまけた。
そこで志保が激昂。武力で桜を制圧し、仲直りを一方的に言いつけ、足りない食材を買出しに行った。
桜にとって幸いだったのは、志保が桜の日記を見なかったことだろう。見ていれば、処罰はこれだけでは済まなかったに違いない。
「それにしても・・・・・・・・・少し、寒いかな」
志保は身体を抱きしめて軽く身震いをした。
コートは着ているし、防寒対策を怠っているつもりはない。大体、私はあまり寒いのは好きじゃない、人並み以上に防寒に気をつけている自負がある、と志保は思っていた。
それに、商店街へ行くときも、ここまでの道のりも、これほどの肌寒さを感じることはなかった。
どうしたことだろうか、と志保は思案した。
確かに、急に周囲の気温が下がったように感じる。だが、そんなことはあり得ない。
病気だろうか、とも考えたが熱が出たときの寒気とも違うし、今の自分が風邪をひくなどそれこそあり得ない、と志保は否定した。身体が安定してきたこの数年、志保は病気にかかったことは一度もなく、体調不良になったこともない。
志保が、嫌な感覚に囚われていたその時間はものの数秒程度。
その思考を遮るように、より濃密な冷気が世界を満たした。
『ふふ・・・』
突如として、響き渡る笑い声。嘲笑でも侮蔑でもなく、ただ無邪気な声。けれど、どこか冷たさを滲ませる、少女の声。
「っ・・・・・・」
志保は、思わず身を硬直させる。
(あれは・・・・・・・・・・・・・・・イ、リヤ?)
いつの間にか、坂の上に、誰かが立っていた。
優に二メートルを超えようかという巨躯。精悍な顔つきの浅黒い肌の大男。
見るだけで死を感じさせる圧倒的なソレは、もう一度目を凝らしてよく見ると何処にも、影さえも存在していなかった。
かわりにいたのは、小さな白い少女。
紫色のコートを羽織り、ルビーのように赤い輝きを放つ瞳、雪のように白い肌と透き通るような銀髪、幼さいながらも、まるで作られたかのような美しくさと可愛らしさを兼ね備えた容貌をもつ、小柄な少女。
その姿には、どこか志保の面影がある。
二人並べば、きっと姉妹に見えたことだろう。
志保に良く似た白い少女は、無邪気な笑顔で真直ぐ志保を見つめていた。
対して志保は、言葉を紡ぐことが出来ない。
志保は、少女を知っていた。いや、誰なのか一目見て分かったというべきか。
志保と少女は一度も会ったことはない。けど、分かる。
少女の容姿は、以前切嗣が教えてくれたものと同じだった。良く似ていると、切嗣はいつか笑っていた。
言いたいことがあった。会って、伝えたいことがたくさんあった。
だけど、少女を前にして、何を言っていいのか分からない。いざ前にすると、緊張して頭が真っ白になってしまう。
聖杯戦争に参加すれば、必ず少女に会うことは分かっていた。だが、こんなに早く、しかも向こうから来るとは予想だにしなかった。
まだ、心の準備は出来ていない。
少女は、薄い笑みを貼り付けたまま、ゆったりと淀みない足取りで、坂を下りてくる。
それを見て、志保は焦る。
何か言わなければ。そんな思いばかりが先行して、言葉が出てこない。
五月蝿いくらいに胸が拍動し、思考を掻き乱す。
(イリヤ、私、私は・・・・・・)
伝えたい想いがある。遺された言葉がある。
でも、志保は少女に何も言えない。頭のどこかで理解しているから。
もし、志保が想いのままに言葉を紡いでも、少女は受け入れてくれない。その後に待ち受けているのは、恐らく志保の死だ。先刻幻視したものが、真実どこかにいるのなら、志保では敵わない。少女の一声で、志保はこの世から消えるだろう。
情けなくて、悔しくて、志保は唇を噛み締めた。
そんなことを考えてしまう自分が、逢えて歓喜している自分が、怯んで何も言えない自分が、たまらなく憎い。
そんな志保の狂おしいほどの葛藤を余所に、少女は無慈悲に坂を下りてくる。
志保はそれを為す術なく見つめるしかない。
一歩一歩近づいてくるごとに、音が消えていく。風の音も少女の足音も、あれほど五月蝿かった鼓動さえも、全てが失われていく。
最早、志保の目には少女しか映っていない。無音の世界に、志保と少女だけが取り残される。
やがて、少女は志保の目前まで迫り、擦れ違いざまに唇を動かした。
その少女の言葉だけは、音の無い世界で、はっきりと聞こえた。
「はやく喚ばないと死んじゃうよ。お姉ちゃん」
酷薄な笑みに、親しみと憎しみとが混じり合った不吉な言葉を残し、少女は至極あっさりと志保の横を通り過ぎていった。
「ッ・・・イ、リヤ!!」
すぐさま志保は振り返り、掠れた声で必死に少女の名前を叫んだときには、既に少女の姿はなかった。
それに、志保は若干の安堵を覚え、同時に酷く後悔した。
やっとめぐり会えた、大切な少女。彼女こそ、志保が聖杯戦争に参加する理由の一つ。
志保は、胸に去来する罪悪感を噛み締め、次こそはと誓う。
今度こそ、想いを伝えよう。真正面から向き合って、思いの丈をぶつけ合おう。
そう己を鼓舞して、志保は少女が消え去った道を見つめる。
「イリヤ・・・・・・・・・・・・私は、貴女のことを」
暫くそうして立ち尽くしていた志保は、唐突に気配を感じ、振り返る。
「シホ、どうしたのですか?」
「ライダー・・・・・・ライダーこそどうしたの?こんな所まで」
姿を見せたのは騎兵の英霊。
長く美しい紫色の髪と美の女神に愛されたとしか思えない顔立ち、身長は高く女性らしい豊満な肉体をもち、上下共に黒い服に身を包みちょこんと眼鏡をかけたその女性こそ、昨日衛宮邸で召喚され、桜の日記を盗み見たサーヴァント、ライダーだった。
ライダーは、心配そうな視線を志保に向ける。
「桜が何か嫌な予感がする、というので見に来たのです。乙女の勘とかなんとか。その様子ですと、何かあったようですけど・・・・・・」
「はは、桜には敵わないな・・・・・・」
志保はそれを聞いて破顔した。桜がどんな勘を働かせたかはさて置き、それほど愛されているのだと実感できて、嬉しかった。ライダーも本気で心配してくれている。それが分かるから、先刻の自分が情けなくて仕方なかった。
「大丈夫だよ、ライダー。何でもないから、ね?」
志保はなるべく明るい表情を作り、優しく語り掛けるように言った。
「シホがそう言うのでしたら、いいのですが」
ライダーは何処か納得出来ないのか、渋い顔のままだったが、手を引いて先に坂を上っていく志保に苦笑しながらついていった。
「さ、帰ろう、ライダー」
「はい」
そうして、志保とライダーは家路に着いた。
少女達の最初の邂逅は、こうして幕を閉じた。
白い少女の名前は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
志保とイリヤが再び相見えるのは、これから数日後のことである。
NGシーン
最早、志保の目には少女しか映っていない。無音の世界に、志保と少女だけが取り残される。
やがて、少女は志保の目前まで迫り、擦れ違いざまに唇を動かした。
その少女の言葉だけは、音の無い世界で、はっきりと聞こえた。
「はやく喚ばないと死んじゃうよ。おねえ―――」
「姉さん!!」
「は?え、え、え?何?何なのちょっと?」
頭が真っ白になって、咄嗟に出た言葉と行動。
後はもう、勢いに任せるまま志保はイリヤに縋りつく。
ここまで来たら、止まらない、止められない。胸から溢れ出る思いを、感情の丈を体一杯で表現するだけだ。
つまりは、我武者羅に、滅茶苦茶に、赤子のように泣きじゃくる。
見苦しかろうがなんだろうが、構わない。
これが、今の志保に出来る精一杯だ。
対するイリヤは、突然の事態に対処の仕様が無い。
「え?あの、貴女あの、大丈夫?」
「・・・・・・うん。っえぐ、姉さん、わたし、わたしぃ!」
「あぁ、泣かないでよ。大丈夫、大丈夫だからね」
イリヤは何が大丈夫なのか自分でも分からなかったが、とりあえず自分の胸の中で泣き出した志保を放り出せずに、抱きしめてあやすしかなかった。
調子が狂う所の話ではない。格好良く神秘的にさり気なく警告だけして去るつもりが、何でこんな事になっているのか。
何にせよ、最早軌道修正が不可能なのは確かだ。
(私、いったい何してるんだろ・・・・・・・・・でもまぁ、いっか)
何かもう、色々どうでもよくなってきたイリヤだった。
志保に対する思いは愛憎その他諸々で複雑だったが、人生経験の少ないイリヤには目の前のイレギュラーを処理する術もない。
つまりは、一杯一杯だったのである。
暫くして志保が落ち着いてくると、事情を聞きだすためにイリヤが優しく話しかける。
「ねえ、貴女。名前は?切嗣の娘、なのよね」
「うん。志保。衛宮志保」
「エミヤシホ?変な名前ね」
「違う違う。衛宮が名字・・・あー、ファミリーネームで、志保がファーストネーム」
「そう、シホね。うん、いい名前ね」
「えへへ、ありがとう。姉さん」
志保の無邪気な笑顔を前に、イリヤは胸を鷲掴みされたかのような衝撃を受ける。
「っ!!!」
イリヤは一度頭を空っぽに近くしたせいか、余計な感情に邪魔されることなく志保を見ることが出来ていた。
憎しみの対象としてではなく、一人の少女として。ともすれば、妹であるということさえも、この時ばかりは自然に受け入れていたのかもしれない。
(うっわ!何コレ、可愛い!!可愛すぎる!!!)
「どうしたの?姉さん?」
「ええと、その。うん、大丈夫よ」
「そう?」
「うっ・・・・・・あー、その、姉さんっていうからには、切嗣から聞いてるの?私のこと」
「うん。切嗣は・・・」
それから、イリヤは志保の口から様々なことを聞いた。
切嗣がアインツベルンの森に来ていたこと、第四次聖杯戦争の結末、志保の出生、切嗣の最期などなど、その全てがイリヤにとって衝撃的で、残酷な内容だった。
暫く俯いて黙していたイリヤは、何かを思い立ったように顔を上げた。
その瞳には、決意の光が見える。
「・・・・・・・・・・・・」
「姉さん?」
「ねえ、シホ。私と一緒に来ない?・・・・・・最初は、切嗣と貴女を殺すつもりだったけど、もう、そんなこと出来ない。でも、シホが聖杯戦争に参加するっていうなら、殺すしかない。だから!!」
「・・・・・・駄目だよ、姉さん。私には・・・・・・仲間が、大切な人がいる。だから」
「シホ!!私は、貴女を殺したくないの。分かるでしょう!!!」
「姉さん。敵だからって、殺す必要はないでしょう?少なくとも、私達が殺しあう必要なんて無い。私だって、姉さんとずっと一緒にいたいから。それが、切嗣の願いでもあるから」
「なら・・・」
「うん。そう、だね・・・姉さんと協力することは出来ると思う。でも、今姉さんのところに行くことは出来ない。みんなに、説明しないといけないから」
「・・・・・・そう。じゃあ、また会いましょう。その時には、私と一緒に来て頂戴ね?約束だよ?」
「うん。約束」
「あ、そうそう。今度からは、姉さん、じゃなくてお姉ちゃんって呼んで欲しいな」
「う、うん。分かったよ・・・イリヤ。お姉、ちゃん」
「っ!!!!!・・・・・・うん、いい子ねシホ。じゃあ、バイバイ」
(ななななななななな、おおおおお、お、お姉ちゃんって、シホがお姉ちゃんって!!!きゃ〜〜〜、可愛い。何あれ、お人形なんかより全然すっごい可愛い。切嗣もいいもの残してくれたわね。ああ、あの子を殺そうとしてたなんて馬鹿みたい。もう、絶対手放すものですか。アインツベルンの宿願なんてどうでもいいわ。お爺様と敵対したってシホを守ってみせる!!!そしてシホを、うふふ、ふふふふふ・・・)
そう言って、イリヤは闇の中へ消えていった。
残された志保は、ライダーが迎えに来るまで頬を赤くして呆っと立ち尽くしていたという。
「あれ?なんだろう・・・・・・何か寒気が・・・・・・・・・しかし、お姉ちゃんは・・・・・・恥ずかしいなぁ。まぁ、姉さん、じゃなかった。お、お姉ちゃんが喜んでくれるならいいんだけど」
つづく!?