『12月16日 アーク』
広がっているのは際限ない赤茶色、手にも足にも顔にもそれらは乾燥しこびり付いていた。
それが固まっていて指が動かなかったのか、それとも指を動かす気にならなかったのはよくわからない。血で元の色が分からない刃が彷徨っている。
「待て!! 殺さないでくれ!! 頼む―― ガハッ!!」
大きなブロック肉を切り出すときにとてもよく似た感触、刃が筋肉繊維の間をズタズタ切り裂いて、奥のコリコリとした肉とも骨とも違う感触が切っ先から伝わる、脈打つたびにかすかな振動が手に伝わってくる。
その感触は徐々に小さくなり、やがてどこかに消えてしまった。
「シャワーに浴びたい、温かくて気持ちいい、シャワーに浴びたいよ、いっつも使ってるあの広いお風呂使わせて、みんな死んじゃったから僕だけでいい。あ、あの荷物持ちは生きてるから二人だね、貸してよお風呂」
物言わぬ肉の塊が、黒いドロドロとした生臭い液体を出しいるそれに語りかけている。
月の光が、窓枠からやや鋭角に差し込む。月明りに照らされている彼は、黒い髪に黒い瞳、痩せこけて今にも餓死してしまいそうなほどだった。
瞳孔は開いており、落ちつているように見えるが、今にも人を襲ってもおかしくは無かった。
彼は肉の塊が持っていた紙切れを拾いあげる、血が滲んでところどころ読めなかったが、それが懐かしき母国の文字だということは認識することが出来た。
難しい漢字を省き、最初に読めた文字が『アーク』意味は分からなかった。
「今日から名前を変えないと、昔の名前を使ったらこいつらみたいなのにまた捕まっちゃう」
幼い少年はにっこりと明日を笑った。
「さっきから、なにぶつぶつ言ってんだ? アークとかなんとか?」
奥から、自分の身長とは相反した、斧を担ぎながら軽々歩いている少年、静かに窓の外を眺めながら呟いた。
「新しい名前だよ、昔の名前使ったら、バレちゃうよ?」
「それも、そうだな、じゃあオレにも名前、付けてくれよ」
「う〜ん、『ガス』とかどう?」
「ガスだなわかった、アーク」
ガス改名した少年は右手を差し出した。これが彼らの奇妙な出会いだった。
「うん、ガスよろしくね」
「アーク、起きてるかな? 寝てるスキに唇奪っちゃおうかな〜」
目を開こうとしたが、やめたい、絶対に目の前に奴がいるからだ。
「とりあえず、離れろ、レイラ」
「あら、起きてたの、随分うなされていたみたいだけど?」
アークは携帯端末の時刻を見る、設定時刻の一時間前だったが、二度寝する気分にもなれない。
レイラの言葉を軽く相槌を入れ、テーブルに置いた、ハンドガンのUSPを手に取り、銃身をバラバラにして整備し始める。
慣れた手つきで、銃を解体しゴミなどを掃除してゆく、何千回も生きるためにやってきたためか物の一分もかからず掃除が終わる、もともとそこまで汚れていなかったというのもあったためだろう。
マガジンの残弾を確認し、銃身にセットしセーフティーをかける。
物静かに静寂に包まれた、中で漆黒の髪と瞳が彼女を捕らえる。
「これから、ここを脱出してドイツの空港に向かう、多少荒々しいが我慢しろ」
「ええ、わかったわ」
そっと立ち上がり、テーブルにあった軽機関銃M60を肩にかけ、椅子に座りこんだ。
「一応、聞くが銃は使えるか?」
レイラは軽く頷く。
USPを右手で差し出す。
「持っていろ、ここからはどうなるかわからねえ」
それを一瞬戸惑いながら、受け取る。
携帯端末の時刻を確認する、七時五十五分を指し示す、ほとんど夜明けだろう。
「(そろそろ大丈夫だろう……)」
アークはM60のセーフティーを外す。
「いくぞ、レイラここからは自分の命は自分で守れ――」
鉄の扉を引き、ギギッと音を立てながら空気が抜けてゆく。
アークが初めに通路に飛び出し、周りの状態を確認する。
「クリア」
短く言葉を切ると、駆け足で階段を上る。
図書室に出ると、銃を構える。
「ウオォォッ!!」
ゾンビが三体ほどがアークに向かって飛びかかる。
ダンッダンッダンッ!!
三発の銃声が木霊し、ゾンビの頭蓋を弾き飛ばした。
「クリア」
二度目の沈黙化宣言、アークは玄関付近に立ち、レイラの準備を待つ。
「GO!」
レイラがUSPを握り、言い放つ。 ドアを蹴り、ゾンビの確認をする。
「レイラ、トラックに乗り込め!」
アークは腰を低くさせ、ストックを右肩に当てた。レイラはアークを抜きトラックに一直線に走り出す。
幾多のゾンビがレイラに飛び掛かるが、一体もレイラに触れることはできなかった。
「走れレイラ!!」
トラックのエンジンが掛かり、タイヤが徐々に回転を始める。
徐々に走りだし始めるトラックを追いかける。
M60をまき散らし牽制をかけ、トラックに飛び込む。
「グルルルワンッワンッ!!」
左を見るとウイルスに感染した犬が今まさにアークの喉元に飛びついてくる寸前だった。
『ザ・ワールド』
視界に入るものすべてがスローになる。
M60を構え、トリガーを引く。
ダンダンダンッ!!
焦ったせいか必要以上に弾を消費してしまった。そのまま、転がるように荷台に乗っかる。
「大丈夫!?」
「問題ない、前見てろよ」
何匹かトラックにしがみ付いてるゾンビを撃ち抜き、荷台のビニールをおろし、入ってこられないようにする。一息入れ、助手席の方に座る。
「運転代わるか?」
「うん、大丈夫、ちょっと休んでてもいいわよ」
「いや、むしろお前の運転が不安だ」
「大丈夫よ、車の運転なんて造作もないわ」
レイラはこう見えて大統領令嬢、それ相応のことは完璧に出来るのだろう。
「(いや待て、トラックの運転なんて普通やるか?)」
「まぁ、トラックの運転は普通やらないけどね」
「そ、そうなのか」
アークは心の声を一瞬読まれたと思い、言葉を詰まらせた。
「私はバイオ科学分野の人種よ、機械を使う事に慣れておかないと色々不便なのよ」
「初耳だ、オレは学歴というか、そもそも戸籍がないからな」
「戸籍が欲しいなら私の旦n――」
頬を緩ませ、よだれが垂れている。
「それ以上言うな、運転に集中しろ」
「ご心配なく、この先は車もあまり通らない道よ」
「地の利はお前の方がある、素直に従う」
「OK、じゃあ婚姻届にサインして」
「どうしてそっちに引っ張りたいんだな、のらねえよ」
「チッ、だめか……」
「おーい、素が出てんぞー、フェイスブックとかで拡散すんぞ」
冗談交じりにアークは鼻で笑う。
「やめて、お願い、やめて、フェイスブックとかちょっとやめて」
「オレはアカウント持ってないから、できねえけどな」
「そうよね、人殺しなんだから」
「傭兵だから仕方ねえよ、人が人を殺すことで平和を保てんだからな」
アークは軽口で言うが、人殺しという点で思うところがあった。
「今回のバイオテロもそうよ、私を助けるのに何人もの人が死んでる……私はそこまでされて生きるほど価値のある人間なの?」
隣を見ると、ハンドルを握る手が、震えている。アークが救助する前に、十七歳の少女にはあまりに酷なものを見たのだろう。
「まぁ、死んだ奴らは助ける価値があると思ってんじゃねえの?」
「アーク、それ慰めになってない」
ジト目になるレイラを裏目に、アークは携帯端末で近辺の情報を集め始める。
「まさか、グーグルアースとか?」
冗談交じりで運転手は言った。
「グーグルアースには感激だな、オレたちがどこにいるかまで分かる」
「なんか、一流の傭兵がグーグルアースを使うなんて意外ね……」
ほのぼのした空間が広がるが、窓の外はゾンビたちがうごめいている。日光のせいか先ほどより活動や反応が鈍い、横をすれ違っても大丈夫だろう。
「ゾンビ増えてきたな……」
「え?私と結婚してくれるの?」
「はぁ!? どこをどう聞いたらそうなる!?」
「冗談よ、九割本気の冗談よ」
「一割は冗談なんだな……」
「残りの一割は、妊娠願望よ」「結局十割一緒じゃねえか!」
「もうすでにお腹には新しい命が……」
「顔無駄に赤くするなよ、なんでそこだけ無駄に演技力あるんだよ!」
会話のドッヂボールをしながら、アークはこの先を考える。
「ドイツの空港までいくのはいいけど、どこかで食料を手に入れた方がいいわね」
「同感だ、昨日から胃袋がすっからかんだ、なんか喰いてえ――」
「だったら、わたs――」
「私を食べてとかいうつもりだがそうはさせねえ」
一歩先をとったアークがドヤ顔を披露する。
「ざ・ん・ね・ん」
一文字ずつ区切りながらレイラは言った。
ため息を吐きだし、窓の外を見る、市街地の風景は殺伐としている、ゾンビたちは日陰に避難している。
夜中にテロがあったためか車の置き捨ても少ない。元々大都市ではないためというのもあるだろう。
本当なら市街地を避け危険の無いようにドイツまで行くはずが、食糧危機によりルートを変更、食糧を求め市街地を駆け巡ることにした。
流れゆく景色を眺めていてもどうしようもない、アークはM60を座席に置き、荷台に移ることにした。
「適当にモールにでもついたら教えてくれ」
「ええ、わかったわ」
転がり込んだときは目にも入らなかった荷台にはアタッシュケースがいくつか詰まれているのと、大きな茶色い段ボールが三つほど鎮座していた。
銀色のアタッシュケースを開けると、長い銃身に大きなスコープ、スナイパーライフルのPSG1が収まれていた。
昨日のうちに簡単な整備は出来ているが、念には念を入れることにした。
バレル、ストック、ハンドガード、エジェクションボード、マガジン、マガジンリリースボタン、ピストルグリップ、フロントサイト、リアサイト、とチェックする項目は銃一丁でも多大にある。
アークはPSG1の整備を終えると、マガジンを取り出し、一番上のダンボールを開ける。ダンボールの中には弾薬があり、7.62x51mm NATO弾が大量に収められていた。
7.62x51mm NATO弾はM60でも使用可能弾丸であり、複数の弾丸を持たなくても済む。
マガジンに弾を詰め込む、地味な作業を黙々とやる。
カチャッカチャッカチャッカチャッ
バネが圧迫され軋む音とトラックの揺れる音が耳に刻まれる。
アタッシュケースの中には予備のマガジンがあと五つほど残っている。それらにも全て弾丸を詰め込む。
「整備中失礼するけど」
「お、おい運転大丈夫かよ?」
アークは荷台に乗ってきたレイラを見て驚いた。
「ついたわよ、近所のモールに」
それを聞いて静かに頷き、詰め込み途中のマガジンをレイラに渡し、ダンボールに視線を向ける。
レイラは素直に受け取り、真剣な面持ちで先ほどまでやっていた詰め込みを代わりに始める。
もうひとつのアタッシュケースを開け、中の銃を取り出す。
SV−98、PSG1同様スナイパーライフルでアタッチメントにこちらは銃声を小さくするサプレッサーに加え、スコープは両サイドに四角く飛び出した形状になっている。
このスコープは最新の技術が組み込まれており、自動的に風向き地面までの距離、を把握し、目標を的確に当てることができる。夜間においても問題なく運用するために暗視モードもある。それの点検をいつもの倍くらい入念にし、八つのマガジンに弾を詰め込む。
「ボルトアクションの使用経験は?」
「ええ、あるわ父に誘われてハンティングをしたときに」
「そうか、じゃあ教えなくていいな」
弾丸を詰めたマガジンを銃身に押し込みリロードする。セーフティーをかけえレイラに手渡す。
「こっちでいいの?」
アークは首を縦に振り頷く。
「ああ、こっちの方がゾンビに狙われにくい」
レイラは自分が大切にされているというのに喜んでいたのか。
「これで、大量虐殺よ!」
とか恐ろしいこと口走っている。アークはそれを鼻で笑い、最後のアタッシュケースを開ける。
「え、これ着るの?」
「ゾンビの噛みつき程度ならこれで防げる、変異種は分からないが致命傷は避けられる」
そう言って、警備員の防弾制服をレイラにわたす。むすっとした表情を見せるが諦めてアークの死角で着替えを始める。
「(流石に恥じらいくらいはあるか……)」
内心で呟き、弾丸をマガジンに納める。
「女の子が生着替えしてるのに、振り向いたってばちは当たらないわよ?」
「作業に忙しい、日没までにはこの町を出るぞ」
アークは弾を詰めたマガジンを詰め込み、綺麗にそろえてトラックを下りる。
「お前はここに居ろ、オレ一人で行く、一時間おきに連絡する、もしなかったらお前はここから脱出しろ」
そう言って、アークはトラックをおりショッピングモールの中に飛び込む。
「(実際買い物ローラーつきのかごに缶詰や倉庫にあるレイラの好きなお菓子、パスタの乾麺や水、あと医薬品を調達するだけからな)」
バイオテロが夜中起きたせいか、中にはだれも居ない、警戒して凄まじく損した気分にアークはなった。念押しでかごのなかのものは大量の消毒液で殺菌してある。乾麺をゆでる方法を考えたがそれはすぐに解決した。あの大学の警備員の趣味なのか、トラックの荷台の床下にガスコンロと調理器具がいくつかあったからだった。
レイラを呼ぼうか迷ったが、嫌な予感を感じ、アークはため息を吐いた。
携帯端末でレイラに連絡する。
「定時連絡、異常なし」
『了解、こちらも異常なし』
通話を切断しポケットに端末を入れる。
「帰るか……」
五話終わり