棚から牡丹餅、とでも言うべきなのだろうか。
滞っていた捜査に有力な情報が齎された。
一人の女子高生からのものであるが、彼女は数日前の事故を目の前で見た者であった。
その時の被害者は彼女の友人とのことで、帰宅途中、列車を利用しようとして偶々四番線に立ったのであるが、列車が駅に入ろうかという時に友人の少女が突然手を伸ばすようにしてホームから境界線を越え、線路へと飛び込んだというのだった。
目の前で友人の身体が木っ端微塵になるのを目の当たりにし、彼女はショックからその場に気を失ってしまった。
彼女が目を覚ましたのはつい昨日のことであり、話を聞くことができたのも、ちょうどその病院に居合わせたからだったようだ。
偶然ではあるが、貴重な情報だった。
現在はその情報から、犯人を成人の女性と認定し捜査を進めることになった。
事故と称した事件が今後も続く可能性もあるので、張り込みをするとともに、利用者への当時の聞き込みをすることになった。
とはいえ、新人である正義にそのような仕事が回ってくることはなく、現在は捜査室の自分の席に座って雑務をこなしていた。
その雑務もほとんど処理されようとしていた。
時間を確かめるために時計を見てみれば、すでに夜の六時を回っていた。
事件が多くの利用者で溢れる通勤時と、帰宅時に集中しているため、その時間帯に張り込みがされることから多くの人員が割かれることになっていた。
そのため捜査室には正義を含めて数人の刑事しかおらず、静まり返っていた。
「ああ、終わった、終わった」
手に持っていたペンを放り出し、椅子の背もたれに身体を預ける。
キィ、という小さな音を立てる椅子を小刻みに振りながら、疲れた目をマッサージする。
せっかく刑事になり、事件が発生したというのに雑務の処理ばかりで退屈でしょうがなかった。とはいえ、仕事をこなさなければ、新しい仕事を任されることもないので、素直に取り組むが、これではサラリーマンと同じだ。やはり刑事になったのだから、それらしいことをしたいと思うのは当然だ。
子どもの幽霊か……。
ふと、今朝方駅員から聞き出したことを思い出す。
今回のこととは関係ないことと思われているようだが、正義としては奥歯にものが引っかかるような感覚を覚えていた。
事件の調査に参加できないのなら、自分なりにやってみればいいのではないか。
ちょうど時間もあり、これ以上雑務を言い渡されることもない。
正義はそう思うと、椅子から立ち上がり、早速資料室へと向かうことにした。
――警察署の三階にあたる場所に設置されている資料室。
管理している五十代後半の男性刑事の姿があった。まるで自分の部屋のようにくつろいでいるようなのが、置かれているテレビに映っている競馬や机の上に投げ出されている競馬券、スポーツ新聞を見ればよく分かった。
「すいません。捜査のために、ここにある資料を使いたいのですが」
使用許可を貰おうと尋ねてみる。
「ああ。勝手に使ってくれ。俺は忙しいんだ」
と、まったく事件については興味がないらしく、視線はこちらを見ることなく相変わらず競馬券を握り締めたままテレビに釘付けになっている。
正義は呆れて物が言えない。
これが刑事の姿なのか、と軽い失望を感じる。
しかし自分は違うのだ、と気持ちに気合を入れる。
「ありがとうございます」と一言お礼を言ってから、資料探しを始める。
滝原警察署が建設されてから、もう五十年以上は経っている。何度も改修工事が行なわれているために他の場所に移動することはしていない。その度に資料などの整理が行われるため、しっかりと年や月日の順番が整えられた状態で並べられていた。
四番線での子どもが列車に撥ねられ、即死したという事故は、確か片手で数えられる数年前に起きたと言っていたはず。
資料が月別にファイリングされているものに指を添えながら探していく。
それに事故が起きた時期は夏だったはず。そうすれば探す月は七月から九月の間と考えられる。
それにしても約五年分の三ヶ月間で起きた事件や事故を一つ一つ確かめるというのは相当骨の折れる作業になりそうだった。
しかしこれも事件を解決するための刑事としての仕事である。
正義は「よしっ!」と威勢のいい声をあげて、必要な資料がファイリングされているものを手に取り始めた。
三階の資料室から一通り選別した資料ファイルを自分の机に持って行くだけでも一苦労だった。
これから山のように積み上げられた捜査資料目を通し、めぼしい情報をメモ帳に書き留めていくという骨が折れるような作業が待っている。
それを思うと気持ちが少し萎えるのが分かった。
こんな時に簡単に情報を入手できるような画期的な方法があればと思ってしまう。
しかし捜査は足で稼ぐものというように、地道な作業の積み重ねが最後の犯人逮捕に繋がるのだと思えば、これくらいどうということはない。
眠気対策のコーヒーとタバコを手元に置き、一番振るい資料ファイルに手を伸ばして、それを机の真ん中に置いて開いた。
疲れているのか、隙間なくびっしりと文字が詰め込まれているように見えた。
しかし少しずつページをめくり、読み進めていくとその資料を作成した者によって読みやすさが異なり、事細かく書いているために逆に読みにくく、どれが重要な情報なのか分かりづらくなっているものもあれば、逆にほとんど穴だらけで読んでも情報量が不足しているものもあった。
これは注意深く読んでいかなければ情報を見落としてしまう。
辺りを見渡し、誰か協力してくれそうな人はいないかと探してみたものの、すでに時計は通常勤務時間を過ぎており、またほとんどが調査に出ているため捜査室に残っているのは正義だけだった。
ぽつんと一人取り残されてしまった正義は少しだけ取り残されたような寂しさを感じた。
だが自分が取り組むこの地道な作業が何か役に立つのではないかと思うと、萎えそうになっていた気持ちに再び活力が生まれた。
「よぅし……いっちょやりますか」
僅かであるが、ページをめくるスピードが上がる。
資料にある文章を、丁寧に目を通していく。
無音に支配された捜査室には壁に掛けられている時計の針が動く音と正義のページをめくる音、メモ帳の上を走るボールペンの音だけが響いている。
噂になっている少年が例の四番線で事故に巻き込まれたのは一昨年の夏のことだった。
資料によると、少年の名前は矢代真央、年齢は六歳とまだ幼かった。家族構成は母親との二人暮らしだったようで、父親とは彼がまだ二、三歳の頃に離婚してしまい、彼のことは母親が引き取ったようだった。
当時は小学校の夏休み期間中ということで、母親と一緒に遠出していたようだ。そんなときに利用した交通手段が列車だった。親子が立っていたのは噂の四番線。当時はそんな不気味な噂などはなく、誰もが気軽に利用できる場所でもあった。
そんな時その少年に襲い掛かった不幸。突然ホームから境界線を飛び越え、線路へと落ちてしまったのだ。母親も慌てて手を伸ばしたが、触れることも叶わず、目の前で我が子を肉塊へと変えられてしまった。
子どもは当然のように即死、事件か事故なのか、この当時も判別が難しく、事件であったとしても犯人の姿を見ている人はおらず、結局事故死という形で処理されていた。母親も目の前で我が子を失ったという精神的ショックが大きかったためか、完全にうつ状態に陥ってしまい、会話すらできなくなっていた。
彼女が何か重要な情報を握っているかもしれないと繰り返し事情聴取に刑事が送られたようであるが、一度もそれは叶わなかったらしい。当然といえば当然だ。それにしても、なぜ彼女が精神的に不安定な状態であるのに、刺激し、悪影響を及ぼすようなことを警察はしたのだろうか。
捜査のためとはいえ、いささか強引であり、堂々と下足で人の心の中に踏み入っているようなものである。被害者のことも考えるべきではなかったのか。
その影響のためなのか、彼女、矢代真奈美は皮肉にも息子と同じ四番線で命を落としている。その時の捜査でも、彼女の精神状態があまりよろしくなかったということもあり、投身自殺の線が濃いという形で処理されていた。事件として扱うにも情報が少な過ぎたのだ。
ようやくその子どもの幽霊に関する情報を見つけることができた。
しかし彼が四番線に留まり続けている理由まではさすがに分からない。相当強い思いを残しているということくらいしか分からない。オカルトの類を信じていないわけでもないし、興味のあるジャンルである。とはいえ専門家でないので、留まり続ける少年の幽霊の思いを汲み取ることもできない。
なんとしてでも、彼のことを成仏させてあげたい。
そのためには、この事件をなんとしてでも解決させなければいけない。
それだけは、ハッキリと言えることだった。
翌日、朝の通勤時の張り込みを終えた亜梨子が刑事課の捜査室へと現れた。
朝から密集率の高い駅のホームに立っているだけの仕事は神経をとがらせる分、終わった後の疲れというのは相当なものだ。何もなければそれに越したことはないが。
ずっと立ちっぱなしで退屈な時間を過ごしていたということもあり、睡魔が寛恕のことを眠りに誘おうとしている。
とりあえず熱いコーヒーを貰おうかと、給水室へと向かおうとする。
ふと横の机を見ると、山のように積み上げられた資料で分からなかったが、新人で、自分が教育係として指導することになっていた菅原正義が突っ伏した状態で眠っている様子に気付いた。
昨日は泊り込みで何かをしていたのか、机の上に置かれている食べ終わったまま放置されているカップ麺の空や冷え切ったコーヒーの入ったカップ、これまた山のように積み上げられたタバコの吸殻の入った灰皿が目に留まった。
――一体何について調べていたのでしょうか?
そう考えながら給水室に移動し、そこにあるコーヒーメーカーから熱いコーヒーを自分のカップに注ぐ。
席に移動し、椅子に座ってから両手でカップを添えるように持ち、黒い液体を口に含む。苦味が口いっぱいに広がり、若干あった眠気が一瞬にして吹き飛んだ。
半分ほど飲み終わったところでカップを机に置く。
それから正義の机の上に積み上げられているファイルの一つを手に取り、開いてみる。
それは過去の事件や事故についてまとめられた資料だった。
一ページずつゆっくりと黙読していく。
その作業を続けながら、亜梨子はなぜ過去の資料を引っ張り出してきているのだろうかと疑問に思った。
――初日からよく頑張りますね。途中でガス欠しないか心配です。
今回の事件について関係するようなめぼしい情報はなかったので小さく息を吐きながらそのファイルを閉じる。
その音に反応してか、小さく唸り声をあげながら薄っすらと目を開けた正義が亜梨子のことを見た。
「おはようございます、正義さん。もう朝ですよ」
「あ、どうも」
ゴロゴロと猫のように喉を鳴らす。
まだ完全に起きていないためか、目は半開きの状態だ。
「まずは顔を洗って来たらどうですか? それとわたしも朝ごはんがまだなので、一緒に食べに行きませんか?」
言っていることをきちんと理解しているのかは不明だが、正義が小さく首を縦に振ったのを見る限り了承してくれたのだろうと思う。
「それじゃあ、外にある車で待っていますから」
そう言って亜梨子は洗面所へと向かった正義と別れ、自分の車を停めている駐車場へと向かった。
まさか突然朝食に誘われるとは思っていなかった。
洗面所で冷水をかぶり、顔を洗うと眠気が失せ、思考がはっきりとする。
はっきりとしたところで、亜梨子に朝食を誘われたことをようやく理解する。
確かに自分の教育係であり、先輩である彼女であるが、声をかけてくるなら仕事関係だとばかり思っていた分衝撃波大きかった。
それにこの署内でもアイドル的な存在である彼女から誘われるだなんて、同じ男性刑事たちの嫉妬を一身に浴びることになりそうだと思うと気が重かった。
しかし頷いてしまった以上は向かわなければいけない。
仕事を与えられている彼女と違って、自分は今雑務をこなすことしかできない。
個人で事件を調べてはいるが、新しい情報がほしいと思っていたところだったので好都合でもあった。
とりあえず待たせるのはよくないと思い、慌てて洗面所を後にする。
捜査室に戻り、スーツの上着手に取って羽織り、昨日の内に一通り目を通し情報をまとめたメモ帳とボールペンをそれの裏ポケットに突っ込んだ。
一応必要かもしれないと思い、現場に入る時に必要な腕章を手にして捜査質を飛び出した。
――外に出て、駐車場に向かうと、そこには白いセダンに乗った彼女の姿があった。
向こうもこちらに気付いたのか、大きく手を振ってきた。
それに対して一礼して応える。
セダンに近づき、助手席のドアを開く。
「すいません、遅くなりました」
「ううん、気にしてませんよ」
先輩でありながら、敬語で話してくる。
気にはしていないが、若干違和感があるのは否めない。
とりあえず乗り込み、シートベルトを締める。
それからエンジンをかけ、運転を開始した彼女にどこに向かうのかと尋ねた。
「この近くにある定食屋です。値段もそれほど高くないので、以前からよく利用してるんです」
安全運転をしながら、そう説明してくれる。
「そうなんですか」と少し期待を含めて言った。
「昨日は遅くまで頑張っていたようですね」
おそらく積み上げられた資料ファイルのことを言っているのだろう。
褒められているのかは分からないが、素直にその言葉を受け取る。
「まあ、ぼくも刑事ですから」
少しだけ得意げに言う。
「事件の捜査をするのは当然ですよ」
「なるほど」
納得したためか、小さく首肯しながら亜梨子は言う。
通勤や通学時間はすでに過ぎているためか、それほど道路は込み合っている様子はない。
二人を乗せた車は制限速度を守り、安全運転で走っていく。
「正義くんが見ていたのは昔の捜査資料でしたけれども、どうしてまた古いものを引っ張り出してきたのですか?」
彼女が手身近な資料を見た限りでは今回の事件に関係する情報は載っていなかったことを言ってきた。
「結構大変でしたよ。三ヶ月単位のものを五年分は骨が折れる作業でした」
苦笑いを浮かべながら正義は言う。
上着の裏ポケットから取り出したメモ帳を見せながら、
「でも結構有力な情報はありましたよ」
と、自信満々に言う。
「そうなんですか?」
と、亜梨子は一瞬こちらに期待するような視線を向けた。
「それなら捜査が進展しそうですね」
「そうですね。早く解決させたいです」
そう言いながら、正義は手の中にあるメモ帳をぎゅっと握り締めた。
朝食を摂り終えてから二人はその足で事件現場である滝原駅へと向かった。
事件が起きたとはいえ、その路線を使わなければ日常生活に支障が出る者たちも多いため、通常通り運行がされていた。
とはいえ、昨日今日であるため駅員とともに、刑事が数名監視として配置されていた。再び犯人が行為に及ぶ可能性も無きにしも非ずであるため、今日から交代ですることになっていた。もちろん正義や亜梨子もまた、その担当に入っている。二人がここに来たのはもう一度現場を見ておきたかったことと、今立っている者たちと交代するためであった。
「お疲れ様です」
先頭に立つ亜梨子がはきはきとした口調で挨拶する。
朝からずっと立っているため、眠そうに顔を上下させていた刑事がその声に慌てて反応した。
「お、おう。おはよう」
挨拶を返してきたのは正義にとっても亜梨子にとっても年上の先輩刑事だった。
後輩の二人に先輩として示しのつかない態度を見せてしまったことに気まずさを感じているようだ。
「今のところ、様子はどうなんですか?」
そんな先輩刑事の気持ちなど気にすることなく、正義は尋ねる。
その先輩刑事は一瞬戸惑いの色を見せが、気を取り直してこの時間までの様子を離してくれる。
「特に不審者は見られなかった。大きなトラブルもなく、平常通り進んでるよ」
交代だということで、力の入っていた身体を弛緩させる。
タバコを取り出すと、それを口にしてライターで火をつけた。
大きく吐き出された息とともに白い煙が漂い、そして消えた。
「退屈な役割さ。船を漕いでいた俺が言うことじゃないが、適当に気分転換をはさまねえと廊下に立っている小学生になった気分だぜ」
軽く携帯灰皿の口で先端を叩いて、灰を捨てる。
ボロボロと灰がこぼれ、それと同じように彼の口からも愚痴がこぼれる。
立ちっぱなしで、人の歩きかう様子を見ているだけなのは、確かに退屈だ。
それが捜査のためとはいえ、苦痛に思うのは当然だろう。
とはいえ、ここでの役割が終わったからといって、お役目ごめんというわけには行かない。それ以外にも聞き込み調査などといった他の仕事が残っている。
休む暇のないことに、彼はうんざりとした様子を見せる。
「と、まあ、あとはお前たちに任せるぞ」
そう言って二人の肩を軽く叩いてその場を後にした。
残された二人であるが、とりあえず持ち場につこうかと二手に分かれることにした。
亜梨子は朝方にもこの役割を担当していたが、これからその担当をする正義の教育係だということもあり、再度配置されることになっていたのだ。
不平不満を表情に出したり、言葉にしたりすることはなく、自分のやるべきことをこなそうとしている。
四番線をはさむ形で配置がされており、二人は柱を背にして利用客の列車を待つ様子や出入りする様子を注意深く監視していた。
休日ということもあり、朝から列車を利用して遠出を考えている利用客たちの姿が多く見られた。それが家族であったり、友人同士であったり、恋人同士であったりとさまざまだ。
会話の声や駅内アナウンスが混じり合い、騒然とした雰囲気が漂っている。
つい昨日この場所で殺人事件が起きたことなどなかったかのようである。
しかし、誰もが一度は事件現場である四番線へと視線を向けているのに気付いた。
それに四番線に並ぶ利用客たちは集団心理がはたらいてなのか、ホームと線路の教会線上にある黄色線から離れるようにして四番線に立っており、奇妙な空間がそこにできていた。そのためか、他の番線で並んで待つ場所には列車を待つ人々が密集しており、身体や荷物がぶつかって窮屈そうにしているのが見て取れた。
「今のところは異常なさそうですね」
と、正義はその奇妙な光景については触れずに言う。
「そうですね。でも警戒しないように」
通信は、事前に配布されていた小型の無線マイクを使って行なわれる。
離れた場所に立つ亜梨子から気を緩めないようにという言葉を受ける。
正義は「了解しました」と、一言呟き再び警戒しながら監視へと移った。
亜梨子の方も視線を再び密集状態でいる利用客たちへと向け直す。
このような状態になってしまえば、奥の方で何が起きているかを把握することが難しい。
しかし自分たちの役割はあくまでも四番線における殺人事件の犯人の発見および逮捕とその者の行為を阻止することだ。そこまで気にかけるよりも、神経をすり減らしてでも監視を続けることが最優先だった。
ただ立っているだけというのは、やはり退屈であり、時間の経過が遅く感じられる。
そこで正義は懐からライターとタバコを取り出し、一本を口にくわえて火をつけようとする。だが、喫煙室以外での行為は禁止されていることを思い出し、仕方なく口にくわえるだけにした。物足りなさがあるが、ここは我慢するしかないと自分に言い聞かせる。
そろそろ四番線に列車がやってくるということで、アナウンスで黄色線の後ろに下がるようにと告げられた。始めからその辺りには空間ができているので、利用客たちはアナウンスに従う必要はない。
ふと正義はどこからともなく香ってくる甘ったるい匂いに気づいた。
視線を足元と境界線上を行き来させていた正義はふと利用客たちの並ぶ方へと変える。
密集するように立っている利用客たちの中にいる一人の女性に目が止まった。彼女は正義のすぐ近くに降り、その甘ったるい匂いが彼女から香ってくるのが分かった。
服装は黒を基調としたもので、男物と見えなくもない。
しかし黒く艶のある長い髪やサングラス、いくつかの装飾品からして気の強そうな印象を抱く。女性にしてはバッグなどを持たずに手軽であることに気付くが、女性の持ち物についてよく知っているわけではないので気にすることはなかった。
彼女は何をするわけでもなく、ただ列車の来るのを待っているようだ。近くに立っているほかの利用客たちも彼女の甘ったるい匂いに対してさまざまな反応を表情で表しているのが見えた。
そうしていると列車の到来を告げる音楽が鳴り響いた。
騒然としていた雰囲気が若干不安で重苦しいものに一変する。
「この音楽は……」
懐かしいリズムで奏でられる音楽を耳にして、正義は思わず呟いた。
とうりゃんせ――昔田舎に住んでいる祖父母が幼い頃に聴かせてくれたものだった。記憶にあるメロディーと変わらず、駅全体に響き渡る。
その音楽に導かれるようにして、向こうから列車が走ってくる音が聞こえる。
正義は不意に密集している利用客たちからホームと線路との境界線へと視線を移した。
「えっ……」
それまで奇妙な無人の空間であった場所に小学生ほどの少年の姿が見えたのだ。
半袖、半ズボンという服装などからも、噂の子どもの幽霊の特徴と合致していた。
――まさか……、あの子が?
反射的にそう考えてしまうが、冷静に考えると幽霊ではなく、両親のもとから逸れてしまった子どもなのかもしれないとも思える。
だがその想像を打ち砕くかのように突然子どもの身体が境界線の黄色線を飛び越え、線路へと落ちていったのだ。
それはあまりにも唐突であり、まるで誰かに突き飛ばされたかのように見えた。
それを見て慌てて正義は持ち場を飛び出す。視界に僅かであるが列車の迫る様子が見えた。だが正義は足を止めることなく、ホームから線路へと飛び降りようとしたところで、突然誰かに腕を掴まれ、境界線を飛び越えることはなかった。
正義の目の前を高速で列車が走り抜け、ブレーキがかかって停止する。
あと少しで列車に轢かれるところだった。
例え線路に落ちた子どものもとに辿り着けたとしても、そのあと無事に救出できたかどうかを考えるとあまり自信がない。
もしかしたら死んでいたかもしれない――冷や汗が噴き出し、背中を伝うと怖気が走る。
「何をしようとしたのですか!?」
肩をグイッと引っ張られ、身体の向きを変えられる。
そのまま停止した列車の横に背中を押し付けられる形で亜梨子が正面からにらみつけてくる。
「な、何をって……」
女性でありながら、両肩を掴んでいる力は強く、また彼女の行為が衝撃的であったために押し返すことができなかった。
また彼女の鬼気迫るような様子に、言葉がうまく続かない。
焦りからか呼吸が乱れているが、亜梨子は正義に対して、突然の奇行について声を張り上げて咎めるように言う。
「もう少しで君が死ぬところだったんですよ!?」
周りなど気にすることなく、亜梨子は声を張り上げる。
列車に乗り込もうとしている利用客たちがこちらにチラチラと視線を向けてくる。
変な意味で注目されているので恥ずかしさを覚える。
「子どもが、子どもが飛び出したので……思わず」
飛び出してしまった理由を説明する。
「子ども、ですか?」
首を傾げ、訝しむように見てくる。
しかし亜梨子には正義の言う子どもの姿は見えなかったらしい。
だとしたらやはり、さきほどの子どもというのは、
「幽霊……」
「幽、霊……ですか?」
正義がふとその言葉を口にすると、肩を掴む亜梨子の力が抜ける。
突然の非科学的な言葉に、亜梨子はどういうことなのかと疑問を抱き、思わず尋ね返してしまう。
彼女も昨日駅員から四番線に出るという幽霊の話聞いているし、朝食時、掻い摘んでであるが、その子どもの幽霊の正体と思われる少年のことと彼が巻き込まれた事故について説明していた。
「つまり正義くんは幽霊の男の子を助けようとしたってこと?」
呆れたというように見てくる亜梨子に対して、反論の言葉もない。
事件解決のために動いているというのに、これまでの被害者たちと同じ末路を辿るところだったことに肩を落とす。
「次は気をつけてくださいね」
そう亜梨子から釘を刺すように言われる。
「はい」と気を取り直すように返事をする。
すでに列車は発車してしまっており、多くの利用客を乗せたそれはすでに小さくなってしまっており、すぐに見えなくなってしまう。
次の列車が来るまでは、またしばらく時間がある。
少しタバコを吸ってこようかと、亜梨子に断りを入れようとした。
「――んっ?」
その時正義の視界に妖しげな動きをする男性の姿が映った。
地味な私服姿で、首からはひもでカメラを提げている。年齢は容姿から見て三十代前後であろうか。整った顔立ちはモデルか芸能人として働いていても、何ら問題のないものだ。雰囲気はどこか飄々とした感じであり、全身から自信が満ち溢れているようだ。しかし地味な服装がそれらの特徴を完全に打ち消してしまっており、周りからは注目されていないようだった。正義自身もその行動が目にとまらなかったら気にすることもなかったほどだ。
その男性も正義の視線に気づいたようだ。そして何を思ったのか突然走り出したのだ。その様子は十分すぎるほどに不審なものだ。
遅れることなく、正義もその場を走りだす。
「ちょ、ちょっと正義くん!?」
再び無断で持ち場を離れたため、棘を含むような声をあげる。
背中越しに彼女の声が聞こえるが、今は返事を返していられるほど余裕はなかった。
人ごみを掻き分けながら、逃走を図る男性を追かける。
若者らしい派手めな服装であったなら、周りよりも目立っていただろうが、逃げている男性の服装は回りに溶け込んでしまうほど地味なもので、うっかりしていると見失いかねなかった。懐から警察手帳を取り出し、頭上に翳すようにして利用客たちに道を空けてもらうようにしながら逃走を図る男性のことを追かける。
階段を駆け下り、二階のホームから一階へと降りたところで男性は向こうからこちらに向って来ていた通行人と正面からぶつかってしまう。勢い余ってか二人はもんどりうってその場に倒れてしまう。通行人とぶつかってしまった男性は慌てて立ち上がり、逃げようとしたが、倒された通行人が猛然と掴みかかって壁に貼り付けにする形で拘束した。
「テメエ、何俺にぶつかってるんだよ……」
詰め寄るように顔を近づける。
サングラスをかけているが、年齢的には二十代から三十代あたりの若い男性だ。黒を基調とした私服姿で、どことなく印象は気性の荒い若者という感じだった。
ぶつかられて謝罪もなしに逃げ出そうとする相手に怒りを覚えるのは致し方ないと思うが、まるで不良が恐喝か何かで迫っているようにしか見えない。詰め寄られている男性はすっかり怯えてしまっていて、端正な顔がみっともなく崩れてしまっていた。
「おい、何とか言えよ、オラァ!」
男性はすっかり縮こまってしまい、謝罪はおろか、まともに言葉を話すこともできない状態だった。その様子に我慢の限界がきたのか、気性の荒い男性はこぶしを振り上げ、殴りかかろうとした。
だがその構えた腕を後ろから掴む手があった。
「誰だテメエは!?」
邪魔されたことに声を荒げる。自分の腕を掴む手を振り払うようにしながら、振り返る。そこに立っていたのは、正義のことを追かけてきた亜梨子だった。
亜梨子は物怖じすることなく冷静に警察手帳を見せる。
気性の荒い男性は彼女が刑事であることを知り、徐々に怒りを鎮めていく。
「公然での暴力行為ですか? ぶつかられたことが頭にくるのは当然だと思いますが、さすがに暴力はよくないと思いますよ?」
「うるせえ……」
警察手帳をしまいながらそう諌めるように言う亜梨子であるが、男性は苛立ちを隠そうともせず不貞腐れた態度を取る。
すでに掴んでいた男性からは手を離しており、彼は壁をズルズルと滑って地面に腰を抜かしたように座り込んでいた。
「正義くんはこの人を追かけていたのでしょう?」
そう言いながら座り込んでいる男性に視線を向けながら言う。
正義はしゃがみ込み、怯えきったその男性の手に手錠をかける。
「とにかくこのカメラは預からせてもらうよ? それと同行お願いね」
その男性の首から提げられているカメラを取り、手のひらの上で弄ぶ。
すると、慌てたように男性は弁解ように言ってくる。
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺は何も悪いことはしてないんです!」
「はいはい、分かってる、分かってる」
ポンポンと軽く男性の肩を叩きながら落ち着かせる。
分かってくれたのかと思ったのか、男性はホッとした表情を浮かべる。
「犯人っていうのは決まってそう言い訳をするんだよ」
「ちょ、刑事さん違いますよ」
やれやれというように正義は頭を振る。
刑事になる前もなってからも、いつも刑事モノのドラマは欠かさず見てきた。大抵の犯人は指摘された時に犯人ではないと言い訳をするものであると、その場面を何度も見ていたために覚えていた。
手錠をされた男性はまったく理解してもらえていなかったことに動揺する。
何とかして分かってもらおうと色々なことを言ってくるが、正義の耳には言い訳のようにしか聞こえてこなかった。
脇から腕を出して引っ張り上げることで、男性を立ち上がらせた。
立ち上がりながらもまだ何かを言ってくるが、正義は適当に聞き流している。
「篠原さん、一旦署の方に戻りませんか?」
駅の入り口のある方向から同じ滝原署の刑事課の者と思われる二人がやって来る。
正義は手錠を男性の左手と自分の右手につなげているのを見せながらここであったことを説明する。
やって来た二人の刑事はここで何が起きたのかさっぱりという様子であったが、正義の説明を聞いて納得したようだった。
「お二方、私たちはこのまま二人を署の方に連れて行きますので、こちらでのことはよろしくお願いします」
亜梨子は一礼してこの場を後にしようとする。
「ああ、任せておけ」
「何も起きなければいいけどな」
胸をドンと叩いて安心させるように言う。
軽口ではあるが、事件が起きないことを祈るようにしている。
確かにそうだと同意しながら、不審者の男性を連れて行こうとしている正義に目を細めて視線を向ける。ついさっき新たな被害者となっていたかもしれない人物が目の前にいるのだからと、このことは後で報告書にまとめておかなければと思いながら、小さくため息をつく。
「何で俺も連れて行かれなきゃいけないんだよ」
態度も悪ければ、口も悪い。
彼の両手には一応ではあるが手錠がされており、逃げられない状態にあった。
「あなたは必要以上の抵抗、つまり暴力を振るおうとしました。だからです」
「めんどくせえ……」
納得させるために説明した亜梨子であったが、彼にとっては逆効果であったようだ。
さらに態度を悪化させ、一緒にいた二人の刑事は眉を寄せていた。
これ以上彼のことをこの場にとどめておくのはまずいと判断し、背中を押して歩くことを促すようにする。
男性はサングラスの奥からにらみつけるような視線を向けてくるが、彼女が刑事であることや手錠をされていることから抵抗する気配は見せなかった。
数秒無言でそうしていたが、小さく舌打ちをしてからようやく渋々というように歩き出した。
すでに入り口の辺りで待っていた正義と合流し、滝原署へと移動することにした。
滝原署の刑事課捜査室へと戻っていた正義と亜梨子はそれぞれの取調室で二人の調書をとることになった。
新人ということで口調や態度の悪い相手をするのは酷だろうということから、その男性については亜梨子ともう一人の男性刑事の二人が担当することになった。
向こうの方も気になるところであるが、自分も刑事として最初の調書の仕事であるからしっかりしなければと気合を入れ、用紙とペンを取り出す。
「それじゃ、調書とるから」
「だから俺は……」
――またこれだ……。
駅から滝原署に向っている間から何度も聞かされたセリフだった。まさか立った刑事生活一日目で聞き飽きるほど耳にするとは思ってもみなかった。顔にもうんざりとした表情が浮かんでいる。
顔立ちならモデルか芸能人でもやっていけそうなものであるが、彼に抱いた第一印象とここまでの言動との間には大きなギャップがあった。完全に宝の持ち腐れだと思った。
「とりあえず、名前は?」
投げやりな口調で尋ねる。
男性の方も、正義がまともに取り合ってくれないというのを理解したのか、とうとう諦めたように素直に答える。
「須藤明憲……です」
「須藤、明憲さんね」
サラサラと用紙の名前蘭に記入していく。途中名前はどんな漢字を書くのかを尋ね、教えてもらう。
「それじゃあ年齢と職業は?」
「歳は、二十八歳。職業は雑誌記者をしています」
ふーん、とあまり興味なさげに呟きながら、記入していく。
机の上には彼が持っていたカメラのフィルムを現像した何枚かの写真が入っている茶色のファイルが置かれていた。
正義はいったん用紙を挟んでいるクリップボードとペンを置き、そのファイルを手に取る。それを空けて中身を取り出し、現像された写真がどのようなものなのかを確かめる。
それには十数枚ほどの写真が入っていた。
しかしどの写真を見ても、首を傾げないわけにはいかなかった。
「君さ、本当に雑誌記者?」
「え、ええ……まあ」
手に持っていた写真から視線を外し、身を乗り出すようにして男性に尋ねる。
突然迫られたことに及び腰になりながらも、男性は大きく首を上下させて肯定する。
しかし正義には彼が写真を取り扱う雑誌記者だとは到底思えなかった。
なぜなら彼の手にある現像された写真はどれもひどい歪みのある、いわゆるピンボケの写真であったからだ。どの写真もなぜか滝原駅を写したものばかりだ。
「どうして滝原駅の写真ばかり撮ったの? もしかしなくても……盗撮?」
「ち、違いますよ!?」
正義の問い掛けに、慌てて否定する。
写真はピンボケでさらっと見ただけでは何を被写体にしたのか分からないが、目を凝らしてよく見てみれば女性を盗撮していたのではないというのが分かる。
何というのか、駅の様子を写しているだけのようで、不審者を見るような様子である利用客はそれほど写っていない。
「なら、一体何を撮ろうとしていたのさ?」
正義は重ねられた写真を男性の前に置きながら尋ねる。
「ええっと、刑事さんは『週間ホラー』という雑誌を知っていますか?」
するとその男性は逆に質問で返してきた。
彼の出版社で取り扱っている雑誌名であり、彼も記事を投稿しているものであろうか。
あまりオカルト類の雑誌などは読まない方であるが、仲の良い友だちがその雑誌を定期購読しているのを思い出した。
内容はその友だちから相当前に聞いただけであるが、実際に怪奇現象や噂のあるいわゆるホラースポットという場所に実際に調査に行き、その結果などを報告しているというものだったはずだ。
彼が仕事として滝原駅に来ていたとすれば、確かに滝原駅には正義自身も今日目の当たりにした子どもの幽霊が現れるという噂があるので納得がいく。
そうすれば彼がカメラで写真を撮っていたというのは、その怪奇現象などを納めようとしていたからなのだろうか。
そのことを尋ねみると、男性はようやく分かってくれたのかというようにほっと安堵した表情を浮かべながら頷いた。
「君、何年その仕事をしてるの?」
「えっと……そこの編集長が親父の知り合いで、そのコネを使って就職したので今年で六年目ですかね」
そうなると六年以上はカメラを扱っていることになる。
しかしこの写真写りのひどさはとてもじゃないが、雑誌に載せられるようなものではないだろう。
「まあ、普通はそうでしょうね」
「何当たり前のことを言ってるんだよ、君は」
あっけらかんと言う男性に、正義は呆れる。
すると男性はおもむろに現像された自分のピンボケ写真を手に取り、一枚一枚食い入るように見ていく。
調書をとっているというのに雰囲気に慣れてきたのか余裕を出し始めたのだろうかと正義は思う。
男性が写真を確認するという作業を始めて数分。すべての写真を見終わって、その中の一枚をすっと正義の手元に差し出してきた。
納得のいくような写真なのかな?
少しの期待を抱きながらその写真に目を通す。
やはりその写真は一度見たピンボケ写真で、どこが彼を納得させるものなのかは分からなかった。
「ここです。ここを見てください」
そう言いながらある一点を指差す。
「この写真は事件が起きた四番線の辺りを撮ったものなんです」
そう言われて今度はじっくりと見てみる。
すると言われてみれば線路の方に飛び出そうとしている人影が写っている。おそらくこの人影は自分だろうと確信する。
そしてその自分が写っている僅かな箇所であるが、他のピンボケとは違い、しっかりと写されているという奇妙なことに気付いた。
「分かりましたか?」
そう楽しそうに聞いてくる。
正義はその問いに対して答えることができなかった。
「俺、普通の写真はまったく撮れないんですけど、こういう心霊写真を撮るのは得意なんですよね」
と、胸を張りながら言ってくる。
確かにその類が趣味な者たちからすれば羨ましがられる技能かもしれない。
とりあえず正義は苦笑いを浮かべつつ、「こりゃ、すごい……」と言っておいた。
もう一度その写真に視線を写す。
そこに映し出されていたのは子どもとその後ろに立つ女性の姿だった。
しかし、ふと正義は四番戦での噂のことを思い出し、思わず首を傾げる。
――確か四番線に出るっていうのは子どもの幽霊だけじゃなかったのか?
さらに一緒に写りこんでいる女性の幽霊を見て、記憶に妙な引っ掛かりを覚える。それは彼女のことをどこかで見ている、もしくは何か彼女が該当するような容姿といった特徴などの情報をもっていることからくるものだった。
写真に写る女性を見つめながら手を額に当てて考え込むようにする。
「どうかしましたか?」
「この女性、見たのか、知っているのか……何か引っかかりを覚えるんだよな」
「この子どもの母親じゃないですかね?」
とりあえず言ってみたという男性だが、正義はその言葉で自分が調べた情報の中に子どもの母親も同じ四番線で亡くなっていることを思い出す。
愛する息子を失ったことによる投身自殺と片付けられていた事故の被害者とされていたはずだ。
「幽霊って強い思いがあれば、自縛霊のようにその場にとどまってしまうことがあるんですよね」
その発言に興味を抱き、正義は彼に協力を求めてみようと思った。
「それじゃあ、この子どもがこの場所にとどまっているのはどうしてなんだと思う?」
「多分、ずっと助けを求めてるんじゃないですかね」
オカルト的な話になると途端に表情が明るくなり、話し方も硬さの抜けたものになっていた。
「それか、なにかに気づいてほしい……というものなのかも」
男性は手を口元にあてがいながら考えを口にする。
「ならこの女性はどうして?」
「この子どもの母親だとしたら、助けようという思いが彼女をとどまらせているの
かも」
しかしそうだとしたら助けを求める子どもを彼女は助けることができず、子どもは何度も列車に轢かれるという地獄での拷問のようなことが繰り返されていることになる。
正義はそんな二人の霊があまりにも不憫でならなかった。
しかし霊的な力を持たない彼がしてあげられることは何もなかった。
それに今回の事件の犯人は成人女性とされて捜査がされているが、それは間違った半人、それもこの世に存在していない人物を追かけている無駄なものでしかないだろう。
追かけている女性がもうこの世には存在しないと進言したところで、誰が信じてくれるだろうか。
正義はやりきれない思いから疲れた心身を休めるため、いったん休憩を挟むことにする。
「もう帰っていいですか?」
そう言いながら手元に置かれていた写真をひとまとめにして鞄に入れる。
そういえばまだカメラのことを返していないことに気付く。
それに彼には公衆の前で冤罪ではあったが連行してしまったことを謝らなければいけない。何かお詫びも必要だろうと思う。
「誤認だったからさ、コーヒーおごるよ」
申し訳なさそうに言いながら、正義はいったん部屋を出ることにした。
部屋を出て扉を閉めると、すでに亜梨子は自分の机におり、報告書か何かをまとめている様子だった。
コップを二つ手にとって、給水室にあるコーヒーメーカーからその中に熱いコーヒーをそそぎ込む。ミルクや砂糖は必要なのかどうかを聞いていなかったので、とりあえず置き皿に一つずつ置いておくことにした。
それを両手に持ちながら亜梨子のもとへと向う。
同じく同行してもらっていたあの気性の荒い男性についてはどうなったのだろうかとたずねるつもりでいた。
正義がやって来たのに気付いた亜梨子は走らせていたペンの動きを止め、椅子を回してこちらに視線を向けてきた。
どことなく疲れているように見える。やはりあの手の人を相手にするというのは相当疲れるものなのだろう。
「篠原さん、さっきの人はどうなったの?」
「うん? どうしたもこうしたも、厳重注意で帰ってもらいましたよ」
直接暴力を振ったわけではないので、それぐらいで済むのだろう。
「調書をとっている間は?」
「相変わらずですよ」
亜梨子はため息をつきつつ、肩をすくませながら答える。
そして調書で記録したものと思われる用紙を取り出し、正義に手渡す。
持っていたコーヒーを机に置き、それを受け取って目を通してみる。
【名前:馬場敏彦
年齢:二十五才
性別:男性
職業:フリーター
持ち物:携帯電話、タバコ、ライター、サングラス、滝原駅のコインロッカーのカギ”25”、香水
その他:家族構成は両親二人の三人家族であるが、現在はアパートで一人暮らしをしている。フリーターとして特定の職業には就かずに、転々としている。その日も現在滝原市内でのパートを終えて帰宅する途中だったところ、菅原正義刑事から逃走した須藤明憲に衝突されたことに腹を立てて暴力を振るおうとした。】
「ねえ、篠原さん。このコインロッカーには何が入ってると?」
「荷物だと適当に言うだけでした。どんなものなのかまではちょっと」
困ったように言うが、厳重注意で済むくらいなのだからそれほど気にする必要はないだろうと思った。
「ところでこの香水は?」
「多分色気づきたい年頃だからだと思うけれど、それ、女物だったんですよね」
調書をとる際に一緒にいた男性刑事は気付いていなかったようだが、刑事とはいえ女性である亜梨子はそれが女物の香水であることに気付いていた。
「確かに男性が女物の香水を使ってもおかしくはないんですけどね」
あまりその手のことには興味もとい知識を持ち合わせていない正義には分からない。
「でも相当強いのか、それとも過剰に使用しているのか強烈でしたね、匂いが」
亜梨子はわざとらしく鼻を摘んでみせる。
どんな匂いだったのかと尋ねると、甘ったるい感じのものだったと亜梨子は答える。
甘ったるい匂いということに、正義はそういえば自分も滝原駅でそのような匂いを嗅いだことを思い出した。
その匂いの元は一人の女性だったはずだ。長い黒髪に、黒を基調としたどちらかというと男性風の服装をしていた。あまり異性の服装などを気にする方ではないが、その服装がすでにここを立ち去っている男性の服装と酷似していたようだと考える。
思い過ごしかもしれないが、彼が口を割らなかったコインロッカーの中身についても気になるところだ。
「彼がここを出て行ってどれくらい経ちますか?」
「まだ五分も経ってないんじゃないですかね?」
亜梨子が左手にしている腕時計を確認しながら言う。
ここから滝原駅までは車でも十分はかかる。徒歩ならその倍だ。
馬場が滝原駅に着く前にその中身を確認しておきたいと思う。
「なら、滝原駅に電話してみたらどうですか?」
そう言う亜梨子が滝原駅の電話番号が書かれた紙を手渡してくる。
それを受け取って正義は自分の席に座り、携帯電話を取り出してその紙に書かれている番号を打ち込む。
数回コールが流れてからようやく担当者が電話に出た。
『はい、もしもし。こちら滝原駅ですが』
「どうも、私滝原警察署刑事課の菅原と申します」
『え、け、警察の方ですか!?』
こちらが丁寧に名乗りを上げると、向こうは警察だからということで驚いた声をあげる。
少しして『取り乱して申し訳ありません』と言うのに対して、気にしていないことを伝える。
『それで、警察の方がどういったご用件で?』
電話を対応している男性も連続して起きている事件に関することであろうとは分かっているだろう。
「悪いんですけどね、液にあるコインロッカーの中身って確認できますかね?」
『コインロッカー、ですか? できなくはないですが……』
対応している男性の声にはやや申し訳なさそうな感じがあった。
利用してもらっている客の持ち物を勝手に漁るというのは、やはり抵抗のあるものなのだろう。分からないことではないが、ここは少し無理を言ってでも確認してもらいたいことだった。そこで今回を含めたこれまでの事件を解決することのできる手懸かりがあるかもしれないということを伝えながら説得を試みる。
しばらく無言を決め込んでいた男性であるが『少々お待ちください』と言って電話を保留の状態にした。
もしかすると上司に確認をとりに行ったのかもしれない。
緊張感が漂っている空間には場違いな明るい音楽が流れている。
そして五分経つか経たないかのところで音楽が途切れ、保留が解除された。
『大変お待たせいたしました。上のものと相談したところ、捜査のためならばとのことです』
「本当ですか。それじゃあ、さっそくですが中の方の確認をお願いします」
思わず心の中でガッツポーズをしてしまう。
電話が再び保留状態になる。
それほど時間はかからずに向こうが電話に出た。
『お待たせしました。さきほど確認したところ、【25】のコインロッカーには黒い長髪のカツラが入っていました』
中に入っていたのがカツラであることを聞いて、正義は頭にピンとくるような不思議な感覚を覚える。
「ならもう一つ。その髪はどんな匂いがします?」
『匂いですか? ええっと……甘ったるい、そんな匂いですね』
男性は正義の質問に疑問を抱きつつも、そのカツラの匂いを答えてくれた。
はっきりと写真に写りこんでいた子どもと女性。
男性から香ってきた甘ったるい香水の匂い。
彼の利用しているコインロッカーから出てきた、香水の匂いのついた長髪のカツラ。
「分かりました。ご協力ありがとうございます」
そう言って正義は通話を切る。
「何か分かったのですか?」
やり取りを見守っていた亜梨子が尋ねる。
正義は大きく頷き、亜梨子と男性の待つ取調室に向いながら説明を始める。
「さきほど誤認で同行してもらったホラー雑誌の新聞記者の男性が撮った写真に子どもと女性の幽霊が写りこんでいました。彼の写す写真は、心霊写真以外はピンボケになってしまうというので、ぼくは始めその女性も幽霊なのだと思い込んでいました」
突然扉が開けられ、中で待っていた男性は大きく肩を震わせた。
正義はそのことを気にすることなく、ファイルにしまわれていた写真をもう一度取り出し、その一枚を亜梨子の前に差し出す。
亜梨子がその写真に目を通し、確かにそこにはぼんやりとしている周りと比べてはっきりと写し出されている二人の姿があった。
さらに線路へと飛び込もうとしている子どもを追かけるようにして正義が飛び出しているのも分かる。正義のことを挟み込む形で二人の姿は写りこんでいた。
「でもよく見ればこの女性の着ている服、見覚えないですか?」
そう言われて食い入るようにして写真にある女性を見る。
その女性が着ていたのは黒を基調とした男物に近いものだった。サングラスをかけ、黒い長い髪をしている。
「でも彼の写す写真は心霊写真以外はぼやけるんじゃなかったのですか?」
二人のやり取りを緊張の面持ちで聞いていた男性は、亜梨子の言葉に挙動不審になりながらも大きく頷いて答える。
「明憲さん、幽霊は人に憑りつくことってありますか?」
正義が尋ねると、須藤は説明口調で、何かしらその人物に対して強い思いをもっていればありえるかもしれないと言う。
「そこで出てくるのが、この子どもの母親です」
「確か息子さんが亡くなられた翌年に同じ場所で亡くなったのですよね?」
亜梨子の質問に正義は頷きつつ説明を続ける。
「ぼくの憶測に過ぎないですけど、その写真に写っている女性は女装をした馬場敏彦で、彼にその母親の霊が憑りついているのではっきりと写っているのではないかと思うんです」
「つまり、馬場がこれまでの犯人ということですか? 確かに彼はこれまでの犯行歴には痴漢や暴力沙汰で何度も補導されていることがありますが……」
亜梨子は考え込むように腕組みをする。
「なら動機は? 一体何なのでしょうか?」
それはいくら考えても本人以外は導き出すことはできない。
だがこれまでの犯行歴からすれば、ただの自分の欲求を満たすためではないかと思う。
痴漢や暴力沙汰における対象は分からないが、今回の列車事件について、対象となっているのは女性や子どもといった身体能力的に弱い立場にいる者たちだ。
自分の目の前でテレビや映画などの映像でしか見られないスプラッタな光景を見てみたかったのかもしれない。
むしゃくしゃしていて感情的にやってしまったことが麻薬のような大きな刺激となってしまい、中毒症状と同じように繰り返しやるようになってしまったのかもしれない。
考えてしまえばさまざまな理由があげられる。
だが本当のことは彼自身に聞いてみなければ分からないことだ。
正義は次の列車、おそらく四番線にはいつ来るのかを尋ねる。
すると二人のやり取りを聞いていた須藤が「十二時、十分……羽場舞駅行きの列車があります」と言う。羽場舞市は滝原市に隣接しており、馬場のアパートのある市でもある。彼が帰宅するのか、再び犯行に及ぶのかは予想もつかないが、とにかく急ぐ必要がある。現在の時刻は十一時五十分頃。今から車を飛ばせば十分間に合う時間帯だった。
「正義くん、急ぎますよ!」
「了解!」
すでに取調室のドアに手をかけていた亜梨子が振り向きざまに言う。
正義はすぐさま答え、置いてけぼりにされている須藤に対して、あとは他の刑事に任せることを伝える。
ちょうど出たところで先輩刑事を捕まえることができ、これから現場に急行するという旨を伝えつつ、須藤のことをよろしく頼むことにした。
先輩刑事は早口でまくしたてられるのに気圧されたのか、「わ、分かった」と言うことしかできなかった。
正義は亜梨子の待つ駐車場に向うべく、捜査室を飛び出していった。
車に乗り込み、すぐさま滝原駅へと向う。
休日であったが、運よくこの時間帯も混雑していることはなく、列車が来る前に駅に到着することができた。
亜梨子は車を置いてくるということで、途中で下車し、正義はまっすぐに駅へと向う。
駅内は今朝ほど人で混雑している様子はなく、足早に一階から二階のプラットホームへと向うことにする。
四番線の列車が来るまでには間に合ったようだ。
すると正義がプラットホームに足を踏み入れた瞬間、あの音楽が流れ出した。
そう、とうりゃんせだった。
そしてその後には黄色い線まで下がるようにというアナウンスが聞こえてくる。
やはり朝と同じように利用客たちは始めからその線から大きく下がった場所に立っており、動く必要はなかった。
四番線の利用客たちはまばらに並んでいるようだったが、ある一箇所だけ偶然にも密集する形で並んでいる場所があった。そこはやはり以前子どもやその母親、そして何人もの人が犠牲になったちょうど四両目がくるところだった。まるで人が引き寄せられるように密集している。
誰も動こうとしないのに疑問を抱きながら、馬場のことを探す。
まばらに並んでいる他の場所には彼の姿は見当たらなかった。
もしかするとさきほどの推理通り、この密集している利用客の中にいるのかもしれないと考えた。
女装しているかは分からないが、とりあえず前の方を見たいと思い、無理やりであるが並んでいる利用客の中に入っていった。
時間通りだった。
いつものようにこの音楽が流れ、四番線に立っていれば自然と人が集まってくる。
始めはただの偶然だった。
痴漢行為がばれて逮捕されたことからそれまで付き合っていた女性から突然別れ話を切り出され、さらに働いていた会社も首にされてしまった。とにかくむしゃくしゃとした怒りの感情を発散させようと思い娯楽に浸ってみたがすべて空回りし、逆にその感情を増幅させるだけだった。
仕方なくぶつける矛先のないまま列車を使い、無人となったアパートに帰宅することにした。四番線で待っていると母親と一緒に楽しそうに話をしている子どもの声が聞こえてきた。ほしいもの買ってもらったようで、その手には自分もかつてはあこがれた真っ赤な姿をした正義の巨人の人形が握られていた。
しかしその時の楽しそうな会話はすべてが空回りしていた自分にとっては火に油を注ぐようなものだった。苛立ちは募るばかりで、その時の形相は子どもに対して向けるようなものではなかっただろう。
向こうからは列車が音を立てて走ってくるのが見えた。
ちょうど夕方頃だったので明かりを点灯させている。
轟音を立てながらやって来る列車はまるで胴体の長い龍のようで、その正面は大きな顎のように見えた。
つながれていた手がほどける。
それを見てホームと線路の境界線上にある線の真後ろに立つ少年のもとへとそっと近づく。
今もこうしてあの時と同じようにホームに入ってくる列車を横目で見ながら目の前に立つ女性の後ろにさりげなく近づく。
彼女はまったく気がついていない。
あの時の純粋無垢な少年もそうだった。
自らの危機にまったく気付かない。
死ぬ時も一瞬だ。
あの時見た、鮮血と肉塊でできた一輪の花はまさに最後の命の輝きのようで、思わず見とれてしまうほどだった。
列車が近づく。
後は彼女の背中をあの時と同じように押すだけだ。
それに女性の姿をしていれば、突き飛ばせるほどの力はないことやこの四番線の噂を利用すれば自分が疑われることはない。
馬場はこのあとの光景に心躍らせながら目の前の女性に向けて手を伸ばす。
あと少し――彼女の背中に触れ、軽く押し出してやればそれですべてが整う――そう思っていた。
突然伸ばした手が横から伸びる手に掴まれ、そのまま捻りあげられる。
あまりの痛みに、思わず声をもらしてしまう。
それと同時にホームに入ってくる列車。ゆっくりと減速していき、そして停車した。
「な、何しやがる!?」
自分が女装をしていることも忘れ、馬場は抗議の声をあげる。
そしてようやく周りの様子に気付く。
いつの間にか馬場の周りから人が離れていた。
何が起きているのかとザワザワとした喧騒が聞こえてくる。
馬場は自分の腕を掴んでいるのが今朝方殺し損ねた男性刑事である正義であることに気付いた。
被害者となっていたかもしれない女性は、正義の後からやって来ていた亜梨子のそばに怯えながら立っている。
正義は黒い長髪のカツラをむんずと掴むとそれを投げ捨てる。
そこには捻りあげられているためか痛みに顔をゆがめている馬場の姿があった。
「君だよね、ここで人を殺していたのは?」
「な、何だよてめえ……、離しやがれ!」
激しく抵抗する馬場であるが、がっちりと拘束されているために逆に痛みが増すだけだ。
「一昨年の夏、君はここで一人の少年を殺した。彼女と同じように、列車の入ってくる線路に突き落として」
「な、何言ってやがる!?」
「その翌年、同じ時期に少年の母親を殺した。当時は自殺と考えられていたけど、それも君がやったのだろう?」
「し、知らねえよ!? 誰だよそいつら!?」
どこまでも白を切らないつもりか……。
正義はとうとう馬場のことをホームの地面に組み倒す。
地面に頬をつけた状態で、正義のことをにらみつけてくる。
「てめえ……、何しやがる!?」
「そして女子高生と女性会社員を立て続けに殺した。そしてぼくのことを今朝方押し出したのは君だろう」
「しょ、証拠はあるっていうのかよ!?」
組みつきを続行しつつ、正義は持ってきていたあの一枚の写真を馬場の前に差し出す。
「そこに写っている女性、それはさきほどのように女装をした君だろう?」
「こ、こんな写真一枚で……」
「それだけじゃない。なぜ君は女装をしていた? まさかそれが趣味なんて言わないだろう? それに君の香水、何を思ってか女性ものを使っているようだけど、過剰に使ってるようだから結構匂いが強いんだ。ぼくも襲われる前にその匂いを感じていたしね」
馬場は否定しようにもここまで証拠を突きつけられては反論のしようがなかった。
激しくもがくようにして抵抗していたが、それも徐々に弱くなり、最後には無抵抗になった。
仰け反るようにして正義をにらみつけていたが、ぐったりと地面に顔を沈ませる。
「馬場敏彦、子女連続殺害の容疑で逮捕する」
そして腰にある手錠を手にして彼の両手を拘束した。
脱力したようになかなか立ち上がらない馬場のことを無理やりに立ち上がらせる。
「篠原さん、このまま署の方に連れて――」
突然ぐったりと俯いていた馬場が激しく抵抗し、正義の拘束から抜け出した。
両手を前で手錠によって拘束されているが、必死の形相を浮かべて逃走を図る。
「ま、待て!」
怒声をあげながら走る馬場に気圧されてか利用客たちは悲鳴をあげて道を開けてしまう。彼を追かけるために、すぐさま正義は走り出す。
馬場は外れない手錠に腹を立てながらも、逃げるために足を急がせる。
二階のホームから一階に降りる階段にさしかかる。
足を踏み出し、一段目を降りようとした。
その時初めて視界に一階が映りこむ。下に視線を向けた馬場の目に移りこんだのは一回に続く階段と、すぐ目の前に下から見上げるようにして立っている子どもの姿だった。
思わず馬場は足を止めそうになる。
そこに突然現れた子どもが、一昨年自分が線路に突き落として殺したはずの子どもであり、あの時と変わらぬ姿で自分の退路を阻むかのように立ちふさがっていたからだ。
青白い顔をした子どもが無表情で馬場のことを見つめてくる。
馬場は突然のことに思考がうまく働かない。
だが背筋を走り抜ける寒気、そして全身を縛り付けるような恐怖があることを感じていた。
突然馬場は無重力を感じることになる。
ハッとして気づいた時にはすでに段差を踏み外し、身体を宙に放り出しているところだった。
ぐるりと身体が回転する。その時階段の頂上に立つ子どもと追かけてきた正義の姿が一瞬だけ映りこんだ。しかしすぐに背中は段差に叩きつけられ、腕が手錠で拘束されているために抵抗することもできない。そのまま間全身を強打しながら一階に転落する。
背中を強打した時、同時に後頭部を強く打ち付けてしまっており、そこからは赤黒いぬめりとした血が流れ出ていた。それがとめどなく流れ出て、虫の息である馬場のことを包み込むようにして水たまりを形成していく。
意識が遠のく馬場は、すでに命を刈り取るのに十分な傷を負ったことによる痛みを感じることはなかった。ただ掠れつつある視界に突然映りこんできた人物の姿に衝撃を受ける。
馬場によって子どもを殺された母親が、あの時と同じ姿のまま現れたのだ。
彼女の隣にはいつの間にかやって来ていた子どもの姿もある。
ただ二人から向けられる視線はあまりにも冷たく、まるでしに行く自分のことを嘲笑っているかのようにも感じられた。
しかしその視線に覚えがあった。
今度こそ意識が闇に沈む中――“ああ、そういえば……”――馬場はその視線について思い出していた。
二人を殺した時に自分自身が向けていた視線そのものだったということに。